阿 部 順 夫 ・ 資 料 集 (2)

 

1997年(平成12年)

苦 労 は 思 い 出・・・

                    阿部順夫

 昭和41年夏の全国大会に初めて参加した私は、そこでの地区協議会(なるものがあった!)で、東北にまだ地区組織がなく、全国に登録されている団体は、福島県演劇協議会、宮城県協議会、秋田県北連盟、秋田中央連盟のみだと知った。ほかは個人的な参加だった。この中でも福島県は、早くから全国とつながり、福島県代表が、東北ブロック代表として出場していた。福島の中心は阿部敬三さんと今井徳年さんだった。
 翌42年夏の全国大会は、阿部敬三さんのいる、いわき市で開催された。それへの代表は県コンクールを実施している福島と宮城から一校ずつ、それに開催県から一校、合計3校出場した。東北大会がないための異例の措置だった。
 私の学校が宮城県の最優秀校として出場したわけだが、県の事務局でもあった私は東北大会の開催を主張し、いわき大会の際の地区協議会で満場一致で福島県に東北コンクール開催を要請することとなった。組織も古く、全国大会を開いた力量に期待したのだったが、阿部敬三さんは演劇を離れ、全国大会の直後でもあり、結局その年は開かれず、福島と宮城の話し合いで福島を代表と決定した。
 私の東北大会開催への思いは止みがたく、翌年の全国大会の折りにも今井さんに迫り、ようやく実施の運びとなった。しかし、予算はゼロ、県大会すらアマチュアや職場演劇と一緒の大会だった福島県。(他県は推して知るべし、これが当時の演劇状況だった。!)結局、県大会ら他県代表を入れて一緒に審査するようなことになり、当然の結果として起こった宮城との日程重複も解決できぬまま実施せざいるをえなかった。青森の事務局だった安保博文さんと知り合ったのはこの頃であった。青森も不本意ながら代表一校を送り、これが第一回東北大会となったのである。今井さんの胸の苦衷を思うと今も切ない。
 やはり自分でやるしかない、と私は宮城の仲間と話し合い、翌44年夏の札幌での全国大会で地区組織の話しを進め、仙台での独立大会開催を約束した。
 独立大会の実現はきびしかった。県大会の二十日後、五万円の広告代と一枚百円の入場券が収入源の全て。加盟校七校のうち三校が上演参加で手が回らず、売り上げ四百二十枚で十万の赤字。二百名の生徒と顧問がカンパして穴埋めするという苦しい船出だった。
 しかし、見知らぬ友だった東北の仲間たちが初めて交流し作品を見せ合って、自分たちの手で代表を選んだという喜びは大きかったと思う。その後も苦労しながら青森、福島、宮城と大会は続き、山形、秋田、岩手の順で加わった。
 多くのすてきな仲間たちと出会ったことが、演劇にたずさわったことの大きな喜びです。安保さんと私はこの3月で退職する。東北大会そのままの29年のおつきあいだった。ありがとう、みなさん !

    宮城県高等学校文化連盟十周年記念誌演劇専門部資料
         東北高校演劇第七号

   

1992年(平成7年)

合同公演のノウハウを教えてください              

                      阿部順夫
 阪神大震災で被災された仲間たちにまずお見舞いを申し上げます。
 一刻も早い立ち直りをお祈りします。
 十七年前の昭和五十三年六月十二日。午後五時、宮城県沖地震が起こったときのことを思い出します。ちょうど演劇顧問会議の真っ最中、生徒達は合同公演の練習中でした。練習会場の壁は崩れ、校門は倒れ、校庭に避難した女子生徒たちは地面に腰をおろしたまま立ち上がれなかったのです。幸い一人の怪我人もなく帰宅できました。
 仙台市の高校演劇合同公演は地震にもめげず、むしろいつそう熱っぽく行われたのでした。
 その後二年して、残念ながら合同公演は絶えてしまいました。
 今回書きたかったのはその合同公演のことです。
 近年、合同公演を復活させようとの動きが出ています。今年は仙台空襲五十周年を記念するイベントとしての計画もあり、実現性は高いのです。
 しかし、現実には多くのエネルギーと指導力、しっかりした組織が必要です。十数年のブランクは大きく、ほとんどの顧問にとっては初体験になるのです。練習会場の確保や生徒指導、そのための準備・連絡会など、考えはじめると不可能に近いことのように思われてしまいます。
 合同公演の意義はいまさらいうまでもありませんが、その労苦を補って余りあるものがあります。
 私たち宮城の高校演劇もかつて十数年にわたってこれを実現し続けました。それによって組織の基盤を揺るがぬものにし、レヴェルアップができたのだといえます。
 とくに弟三回昭和四十四年の合同公演は画期的な成功を収め、組織固めに役立ったうえ、十万をこえる収益金で札幌の全国大会に六十数名を派遣しました。これが以後の合同公演の基準ともなり、約10年間継続したのです。
 再び札幌大会を迎えようとしている今、仙台の合同公演も再現したいものとがんばっているところです。
 そこでお願いですが、状況も変化し、人も変わっていますので、北海道をはじめ全国各地゛て現在実施している仲間たちからノウハウをご教示いただきたいのです。本誌に掲載いただければ、きっと多くの役に立つに違いありません。
 よろしくお願いします。
 本誌がさらなる交流と情報交換の場となることを願いつつ。

宮城県高等学校文化連盟十周年記念誌演劇専門部資料
         演劇創造第29巻第3号

 

1991年(平成6年)

 七年目のリーダー研修会

                       阿部順夫
 宮城県の高校演劇コンクールは三十二回を終えるに至りました。全県の組織をつくるのに苦労した当初の数年間を割り引いても、歳に不足はない他県並みの歴史を持つことになります。充実発展の時期として大いに気勢を上げたいところですが、いまいち盛り上がりに欠ける気がします。いや、コンクールは異常なほど盛り上がるのですが、それを支える日常の地道な活動がなかなか充実しない悩みがあるのです。その原因と考えられるものには、
1、部の中で伝統や技術の授受ができにくくなった。
2、男子の部員が減少し、活動や上演作品が限定される。
3、形だけこしらえた安易な芝居作りが横行している。
4、活動は2年までで、あとは進路の準備に追われる。
5、観客動員への努力ができなくなった。
6、悪しきコンクール主義に陥っている。
などがあります。
 私たちはこの状況に活路を見出すべく、6年前にちょっと変わったリーダー研修会を始めました。今回はそれについてご報告したいと思います。
 これは隣県福島の先例に学んだことなのですが、県下のリーダー達を一堂に集めて合宿をしながらプロの方々の直接の指導で一つの芝居をつくりあげる経験をさせるというものです。
 指導は劇団東京演劇アンサンブルにお願いすることになり、広渡常敏氏の数時間にわたる話し合いからそれは始まりました。
 いわゆるノーハウの伝授ではないこと。劇団にとっても多くを学ぶ機会となるものであること。顧問教師もともに学ぶこと。などの合意をもとに2泊3日の日程が組まれ、夏休み中約100名の生徒と30名近い顧問教師が、劇団からの10名ほどの講師陣と侵食を共にしました。作品はワイルダーの「ハッピージャーニー」。
 無謀ともいえる試みでした。実質2日程度の時間内でどこまでやれるのか疑問でしたが、生徒達の緊張やこだわりが解放されて変わっていく姿を見て、学校の教室では見られない教育のみごとさに目をみはる思いでした。
 台詞を入れるだけでもたいへんな日程ですから、生徒にとっても指導者にとってもきわめて過酷なものでしたが、プロの俳優さんから直接指導を受けるよろこびにも励まされて、3日目には4班がそれぞれに発表上演に漕ぎつけたのでした。これは地元のマスコミも関心を持って取り上げ、テレビニュースなどで放映されたりもしました。
 顧問教師にとっても、心とからだの解放から創造に至るプロセスともに体験する何よりの研修の機会だったわけで、以後、この生徒リーダー研修会は、実質顧問教師のためのものとも考えられるようになりました。
 スリルと緊張に満ちた3日間は大好評で、生徒の参加希望も強く、毎年選抜するのに苦労しながら7年目を迎えようとしています。今や組織活動の重要な柱となりました。もちろん問題がないわけではありません。
 生徒を四つのグループに分け、それぞれ劇団指導者のもとで別の作品を演じたり、大きな脚本を四つに区切って交替で演じ一つの作品を完成させる、という形態の問題があります。また、わずか3日間の中での演技指導の限界の問題もあります。そして、「劇づくり」の方法が固定化されてしまう危険性などです。
 しかし、それにまさる大きな教育的効果を否定することはできません。演劇への広い視野を持ち、反省と吟味を重ねつつ継続していきたいと考えています。
 いままでに取り上げた作品は、「ハッピージャーニー」(昭和63年)、「黄色いトマト」・「朝についての童話的意図」・注文の多い料理店(平成元年)、「ふしぎなふしぎなカード」(平成2年)、コーカサスの白墨の輪」(平成三年・5年)、ぼくの鳥あげる」(平成4年)です。今年は「銀河鉄道の夜」を予定しています。

宮城県高等学校文化連盟十周年記念誌演劇専門部資料
         演劇創造第29巻第3号

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