プロローグ






 ここ数日晴天続きで、春の陽射しが気持ち良い日が続いていたのに、休日の今日は生憎のどんよりとした灰色の雲が空を覆っていた。こういう日は少しばかり気持ちが暗くなる。逆にこれで雨でも降ってくれれば気持ちも切り替えられるのだが、この判然としない天気ではどうしようもない。ましてや今の俺では、たとえ真っ青な空が広がっていたとしても気分が晴れでいられるかどうか。
「はぁ…」
 溜息のひとつもしたくなる。
 俺は28歳の極普通のサラリーマン、印刷会社のオペレーターをやっている。いや、溜息をついたのは何も仕事について不満が有るわけじゃない。もう今の職場に3年いて、印刷のマシンのことならほとんど知ってるし、上司からもそれなりの信頼を得ているつもりだ。給料だってそんなに悪くない。違う。溜息をつくほどやるせないのは、なんとも煮え切らない自分のせいだ。原因はわかっているのに単にそれを解決しようとしていない自分にイライラしているのだ。
 今日は日曜日、2週間ぶりのTRPGのセッションの日だ。TRPGというのはテーブル・トーク・ロールプレイング・ゲームの略で、まぁわかりやすく言えば「ごっこ遊び」のことだ。空想の世界で、空想の人物を演じ、空想の冒険を楽しむ。普通は5,6人で、決められたルールを使って遊ぶゲームで、主にやり取りは会話で行う。RPGというとTVゲームのそれを連想する人も多いが、TRPGはもっと柔軟で、しゃべり方ひとつでストーリーが変わったり、あるいは楽しくなったり逆につまらなくなったりして、なんて言うか人間くさいゲームなのだ。俺はもうかれこれ10年、このゲームを楽しんできたが、最近はもうほとんど惰性でプレイしている感じだった。余り変わらない面子、無難なルール、お決まりのシナリオ。それでもプレイしているときは楽しいものだ。仲間とのやり取りや、キャラクター作り、そしてゲーム全体を操作するゲームマスターなんかはTRPG独特であって、ほかでは得られないものだからだ。また時にはシナリオそっちのけでゲーム談義に夢中になったりもする。しかしいざゲームが終わって冷静になってみると、なんとも言えないむなしさが沸き起こる。以前はこんなではなかった。学生時代には仲間と1日に何度プレイしたって飽きることなんてなかった。俺はもっと楽しくやりたい、もっと沢山やりたい、もっと上手くなりたい、そういう欲求は自覚している。でもいざ現状を打破しようとすると、自分の中のもう一人の自分が頑なにそれを拒む。先が見えないのが恐いのだ。

 今回のセッションは、横浜の仲間の家でやることになっていた。メンバーは俺を入れて6人、男ばかりで(TRPG人口は圧倒的多数が男だ)もう半年同じ顔ぶれだった。昨日は急ぎの仕事が入ってしまって、帰宅したのは夜中の2時。すぐに寝たのだが、休みの朝に早起きできるわけも無く寝坊してしまって、集合時間の午前10時には間に合いそうもない。慌てて電車に飛び乗ったのは良いが、車内ではケータイを使えないので連絡もすぐには出来ない。もう半分あきらめ気分になっていた。10時を15分ほど回ったところで、ようやく電車が横浜駅に到着した。遅刻のお詫びに何か差入れでも買っていこうと売店を探しながらホームを歩いていると、足に何かがぶつかる衝撃があった。余り硬いものではなく痛くは無かったものの、少しよろめいた。
「なんだ?」
 無意識にそうつぶやくと視線を下に落とし、ぶつかったものの正体を探した。一番最初に目に入ったもの(そしてどうやらそれ以外に考えられないもの)はなんと小さな女の子だった。小学生の低学年ぐらいだろうか、俺の足にぶつかった拍子に尻餅をついたようで、少し顔を歪めていた。
「ごめん、大丈夫か?」
 俺は慌ててしゃがみこみ、彼女を助け起こす。ぱっと見た感じでは怪我はしていないようだった。
「ケガは無いかい?」
 スカートのほこりを払ってやりながら一応聞いてみる。
「うん、大丈夫。でもごめんなさい、ちょっと急いでたから」
 少女はお尻をさすりながら少し頭を下げて謝った。なかなか礼儀正しい子だ。近くに落ちていた大きなスポーツバックをとって、手渡してやった。
「キミのだろ?」
「ありがとう。…あっ!」
 彼女は慌ててバックを抱きかかえると、一目散に改札口へ続く階段のほうへ走り始めた。どうやら俺と同じで何かに遅刻しそうなんだろう。小さな体に長い髪がなびいていて、その後姿は純粋にかわいく思えてくる。
「さて、俺も急がなくちゃな」
 だが、異変はそのとき突然現れた。立ち上がろうとした瞬間、今まで経験したことの無いほど強烈な耳鳴りが襲ってきた。慌てて耳を押さえたがそんなことで治まるはずも無く、余りの突然のことにその場で動くことが出来なくなった。しばらくこうしてじっとしていればすぐに直ると思ったが、やがて自分の心臓の鼓動がはっきり感じ取れるようになると事態が悪い方向へと進んでいることに気付き、冷や汗がどっと吹き出した。ここに至ってようやく助けを求めて声を出そうとした。だが、遅かった。コンクリートでできた冷たい駅のホームがグルグルと回り始める。もうしゃがんでいることも苦しかった。まして声が出るはずも無い。ものの数秒で俺の意識はぷつんと切れた。


 俺の寝起きはいつも最悪だ。意識がはっきりしてまともな活動が出来るようになるまで、たっぷり1時間はかかる。TRPGの仲間曰く「おまえは絶対冒険者にはなれないぜ」。まぁ確かにそうだ。いつ何に襲われるか知れない空想の世界(ファンタジーの世界)はいわば弱肉強食の世界。無防備な時間は出来る限り少ないほうが良いに決まっている。だが現実の俺はそんな世界に住んでるわけじゃあない。寝起きが悪いからといって税金が増えたり、警察に捕まったりはしない。多少は不都合だが、今では体質だからと割り切ってすごしている。ところが俺のそんな寝起きの悪さは今日に限って無かった。

 目が覚めた場所は柔らかい、陽のあたる草原だった。意識はすぐにはっきりして布団の中でないことに気付いたが、草原であることについてはすぐに合点がいかなかった。もしかしてどこかに旅をしに来て昼寝をしていたのか? いや、旅に出た記憶は無い。俺は横浜で電車を下りて、ホームで、そうだ、女の子とぶつかったんだ。そして突然耳鳴りがして…それが最後の記憶だ。にもかかわらず何故草原で目を覚ますんだろうか? 改めて周囲を見渡してみた。見たことも無いほど広い草原がうねりを伴って広がっており、他にめぼしいものは見当たらなかった。遠くには頂が白くなった高そうな山々の稜線がくっきりと見える。今俺のいるところは、草原の中でも周りよりも少し高い丘のようなところらしく、まぶしいほどの緑の草木がほんの少し傾斜のついた地面を蔽っている。何か辻褄が合わない。もう一度辺りを見まわしてみる。何もないことに改めて驚くだけだ。
 そうだ、俺は集合に遅刻してるんだ、とりあえず連絡をしないと…。そう思って近くに有った自分の肩掛けかばんからケータイを取り出す。しかし電源を入れようとボタンを押しても電源は入らなかった。こんなときにバッテリー切れとは。今度は時間を確かめようと腕時計を見る。
「あれ?」
 ここで初めて自分があせり始めていることに気付いた。腕時計も止まっていたのだ。これはわずか3日前に電池交換したばかりだった。電池の初期不良か? はっとして空を見上げた。太陽は眩しく、雲は一欠片もなく、空は澄んだブルーに輝いて無限大に広がっている。おかしい、今朝見上げた空は、灰色の分厚い雲に覆われていたはずだ。 ケータイ、そうだケータイも昨日の夜充電したばかりだった…。
 ふと、これと似た話を以前に小説で読んだことを思い出す。平凡な日常生活を送っていた主人公がある日突然異世界へ飛ばされて数々の冒険をするという、良くあるファンタジー小説だ。確かその小説の中では、異世界に飛ばされたとき電子機器の類はすべて使えなくなってたはずだ。
「まさかな」
 その考えに至って思わず呟いた。あれは架空のはなし、フィクションだ。続けざまに浮かぶあの小説の場面を振り払おうと、自問する。そうだ、とりあえずセッションの仲間に連絡するには電話が必要だ、どこか電話のあるところを探そう。俺は急かされるように立ち上がった。
見える範囲にはこれといったものは無かった。だだっ広い草原にはぽつんぽつんと気まぐれに花が密生していたり、小さな木の雑木林が飛び出していて、そういったものを見れば見るほど、俺の不安は増していくばかりだった。人が住んでいない世界だったらどうしたものか。食料も、住む家も、話し相手もいないところで一体どうやって生きて行けばいいのか。そこではたと立ち止まり、慌てて肩掛けかばんをひっくり返して中身を辺りにぶちまけた。顔から血の気が失せるのが自分でも判った。
 かばんの中にあったのは、TRPGのルールブック、サイコロ、メモ用紙、筆記用具、小さな国語辞典、「ファンタジーワールド」という架空世界を解説した本、それにまだ封を切っていない水のペットボトルと、大袋の喉飴、最後に折り畳み傘だった。それを見て俺はその場にへたり込んだ。役に立ちそうなのは、水くらいなものだったがそれも量が限られている。財布とケータイ、時計は身につけていたが、いくら金があってもものが無ければまったく意味が無い。とりあえず、気を落ち着かせるためにペットボトルの水を一口飲んだ。これから先貴重な品になるかもしれなかったが、今はどうしても必要だと思ったからだ。さらにのどあめを一個口に放り込む。余り美味いものではなかったが、あめを舐める事に気が行くことで次第に心が落ち着いてくる。しばらく一心不乱に飴をなめ続け、最後に小さくなったあめを砕いて飲み込むと、改めてひとつ深呼吸をした。都会の排気ガスや生ごみのすえたにおいは一切感じられない。少しは余裕が出てきた感じだ。
下手に歩き回るのは危険だと判断して、もう一度辺りを良く観察してみることにした。今いる小高い丘は見通しが良く、かなり遠方まで見渡せる。家や牧場、道など人が住んでいる証拠である人工物を探した。俺の目はいい。生まれてこの方神様に祈ったことなど無かったが、今はどんな神様でもいいから祈りたい気分だ。
 ここでは何も目安になるものが無いせいかあまり距離感が働かないが、目を見開き呼吸を殺すようにして自分の周り360度を観察した結果、少し遠い草原の盛り上がった場所に不自然に棒のようなものが刺さっているのがほとんど唯一の収穫であった。俺ははやる心を押さえつつ、誰も見てないのに落ち着き払った態度をとってそこへ向かう。最初に予想したよりも距離はあったが、そんなことはどうでも良かった。そこに刺さっていたのは紛れも無く「棒」だったのだ。木が自然と生えているのではない、誰かが木の枝から作り出した1メートル程度のまっすぐな棒なのだ。しかしそのすぐそばにあったものにはさらに衝撃的なものだった。
 それは靴跡だ。
 草原に僅かに覗いた土の地面に、スポーツシューズのような凹凸の多い模様ではなく革靴のようなのっぺりとした西洋梨型の跡がはっきりと見て取れた。もっと良く観察すると、その靴跡の前後方向の草が僅かながら低くなっており、俺はすぐさま獣道を連想した。
 この棒を目印にたびたび草原を歩く人間がいるんだ!
 俺の中ではもうその西洋梨型の跡は、人間の靴跡以外の何ものでも無くなっていた。いったん人間がいるんだと思ってしまうともう後には引けなかった。その喜びの勢いのまま、どこかにいるはずの人間を想像しながら、踏みしめられた草原の道をたどり始めた。それは一筋の希望の光だった。

 最初から期待してはいなかったが、やはり陽が沈むまでに人里に辿りつくことはおろか、1人の人間とも会えなかった。けれども、あの確かに人が通った草原の道がいまだ続いていて、目印と思われる棒や盛り土もこれまでに十以上見つけている。確信は揺るがないまま最初の一日が過ぎ去っていった。
 苦労してつけた焚き火を一晩中絶やさないようにと徹夜のつもりでいたが、結局暖かくまぶしい朝日で起こされてから初めて自分が眠っていたことに気づいた。焚き火は炭となりくすぶって消えかけていたが、どうやら何物にも襲われずに済んだようだ。
 草原の道を辿るのは結構な集中力を要する仕事だということに気づいたのは、太陽が(俺の知ってる太陽と何も変わらない)一番高いところに昇った頃だった。それまでに幾度か転びそうになってはいたが、立て続けに四度も足をもつれさせて豪快に転んだのだ。食事という食事も口にしておらず、焦りからか少しの休憩も取らずに朝からぶっ続けで歩きつづけていたのだから無理も無い。それからは少しづつ休憩を取るようにして道を辿ったが、おかげで進む速度は極端に遅くなっているのが自分でもわかった。一歩足を踏み出すごとに体力が逃げてゆき、陽が徐々に傾くにつれ焦りがそれをますます増幅させる。空が少しだけオレンジ色になる頃には、ひたすら歩を進めることだけを機械的にこなし、考えることはやめていた。靴が鉄で出来たように重く感じられる。
 時間の感覚も麻痺してきたそのとき、視界に気になるものが映った。それまで見える範囲の地面は、濃淡はあるものの緑一面の草原だった。ところが今、その緑の中に白い点が散在しているのが見えたのだ。その数20ほど…。
「羊か牛だ!」
 思わず言葉にして、さらに詳しく観察した。期待は確信に変わった。
 人間が見えたのだ。
 家畜と思われる白い点とは明らかに違って動くもの。放牧をしている人間に違いなかった。
 俺はさっきの体の重さが嘘だったように、猛然と走り始めた。冷静に考えればまだかなりの距離があって、今の体力では走りつづけることなど出来ないと解っていたのに、体が勝手に動いていた。案の定、すぐに息があがり足は以前にも増して重くなり思考もまとまら無くなっていく。だが俺は走りつづけた。
 その人間は、予想通り牧童だった。姿も以前何かの写真で見た事のある羊飼いのそれに似ていて、家畜も羊のようだった。さらに近づこうとしたが、肺は焼けるように痛み、心臓の鼓動がやけに大きく聞こえ、脚の筋肉は思うように動かない。最後にその人間が俺と同じ様に、二本の足で立ち二本の腕を持ち一個の頭がある、いわゆる“人間”の姿をしていることに安堵すると、それ以上は丸っきり思考が働かなくなり、とうとう腕を出すことも出来ず頭から草原に倒れこんでしまった。その衝撃で俺の意識は、まるでTVのスイッチを切ったときのように消えた。

 
「つまり、この国の軍隊は鎧を着て剣を持ち、貴族に率いられて戦うってことだな?」
「そう、まぁ農民も命令で参加することもあるけど」
「電気って知ってるか?」
「なに?天気?」
「違うよ、こう、触るとビリってきたり、うーん、火花が飛んだりするんだ」
「わかんないなぁ。でも火を作って投げる人は見たことあるよ。それが不思議でさ、何も無いところから火の玉が出来るんだ。雑貨屋のロバートさんがやってた」
「…それは魔法だ」
「なんだ、知ってるんじゃん」
 俺はもう驚くばかりだった。もちろん、俺の使う日本語が普通に使えることもそうだが、それよりも聞けば聞くほど、この世界が良くゲームでプレイしたTRPGの世界にそっくりなことの方が衝撃が大きかった。もちろん人の名前や地名、動物などは聞いたことも無いものだったが、あの架空の世界がそっくりそのまま現実となって俺の前にあるのだ。予想していなくは無かったが、実際にそうだと言われると愕然としてしまう。だって、あの小説のようなことがこの俺に降りかかるなんて、普通想像できるだろうか?
 ありがたいことに、この牧童は目の前で気絶した俺を、わざわざ自分の家まで連れて帰り介抱してくれていた。その上、今、食事までご馳走になっている。彼の名前はアル、もうすぐ13歳になるようで、両親は戦争で亡くなり今は一人で生活しているという。そんなリアルな話をこの少年から直接聞くと、自分が空想の世界に入りこんでいることを改めて思い起こさせる。良くわからない具の入った少し辛いスープを飲みながら、俺はなんとなく溜息をついた。
「さっきからあんたが聞くばっかで、俺はちっとも訳がわかんないよ。あんた一体どこから来たんだ?」
 アルは不満を隠そうともせず、口を尖らせてそう言った。俺は目が覚めてから彼を質問攻めにしてきた。そういえば、助けてくれたお礼も言ってない。
「すまない。助けてくれてありがとう、ホント感謝してる。正直もうダメかと思ってたんだ」
「別にいいよ、目の前で倒れたのにほっとけないだろ」
 彼は少しうつむいて小声で言葉を返す。
「俺はその、ずいぶん遠いところから不思議な力で飛ばされてきたんだ。突然のことで目が覚めたらあの草原にいた。実際のところはどうなってるんだか良くわからないんだけど」
「タイキって言ったっけ? 一目見てあんたはここいらの人間じゃないなと思ったよ。髪の毛が黒いのは初めて見るし、その服だってへんてこりんだしね」
 アルは俺の着ている長袖を指差して言った。どうやら小さなボタンが珍しいようで、じっと見つめている。俺も彼の服装を観察してみた。大別して上下に分かれているのはわかるが、チャックはもちろんボタンなんかも見当たらず、かといって前あわせで帯を使っているのでもなかった。どうやら貫頭衣のようだった。
 そう、彼に聞いたこの世界の様子を証明するかのように、服装もまた中世ヨーロッパを手本にしたTRPGのそれなのだ。だが草原で目を覚ましてからというもの非日常の連続で、もうこんな服装のことではいちいち驚かなくなっていた。都会にあふれる奇怪な女の子の服装より、こっちの方が俺には身近に感じられるからかもしれない。
「俺にとっても、何もかも目新しいものばっかりだよ。人のこと言えないけど、その君の服とか、このちょっと辛いスープとか。もちろん美味いんだけどね」
 知識や空想上では知っていたが、実際に見て触れてみるとやはり知らないことだらけで、また異世界に来ていることを感じさせる。一方で、自分と何も変わらない人間、しかも言葉が通じるこの子と話していると、まるで近所でちょっとした仮装大会かなんかをやっているんじゃないかという錯覚も覚える。よく見るまでも無くアルはまんま人間の子供だ。身長は俺の胸くらいまでで年齢相応でまだ体は細い。髪の毛はきれいな栗色をしていて、顔つきは白人というよりは俺と同じ黄色人種に近く、成長過程のために顎や頬のあたりは頼りない。ただ大きな瞳は見慣れない朱色で、きらきらと輝いていた。俺が知ってる人間の瞳はこんなにきれいなものだったろうか。こっちの人間特有なものなのか、それとも子供ゆえのきらめきなのか、アルの瞳を見ていると不思議に自分の心が洗われる感じがした。
「…? なに?」
 俺がボゥと瞳を見つめたいたのでアルが何事かと聞いてくる。
「…いや、何でも無い」
 俺は慌てて視線を逸らし、話題を変える。
「それより助けてもらったうえに悪いんだけど、この村の村長さんか教会の牧師さんか誰かに会わせてくれないかな」
「良いけど、どうして?」
「ああ、まず家に帰る方法を探さなくちゃならない。知識の有る人に聞けば何かわかると思うんだ」
「あんたさっき倒れたばっかなんだぞ。そんなに急がなくても…」
 アルは心底俺のことを心配してくれているようで、そのきれいな瞳を曇らせて言った。
「大丈夫、もう何とも無いよ。それにこれ以上君に迷惑かけたくないんだ」
「ぜんぜん、迷惑なんかじゃない…」
 言葉の最後の方は消え入りそうに小さく、今度は彼の方が俺から視線を逸らした。何だろう?俺には独り言のようにも聞こえた。今までくるくると表情が変わって元気の良い子だと思っていたが、今突然、暗い過去を回想するような中年女性のような顔を見せた。
「ごめん、なんか悪いこと言っちゃったかな」
 俺の悪い癖で、こういう言葉で問題を解決しようとする。
 だが、アルの表情はまたあの元気なものに戻り、明るい声が返ってくる。
「ううん、ちょっと急に言い出すから驚いちゃっただけ。よし、行こう。村長さんはとっても親切な人だからきっとタイキの力になってくれるよ」
 彼のあの表情が気になった。けれど俺としてもどうにかこれから先のことを決めなければ、不安で仕方ないのだ。彼とはまた後でゆっくり話す時間もあるだろうから、今はとりあえず状況を見極めたい。俺は元気なアルの後ろについて彼の家を出た。

 村長は俺が想像していたよりずっと若い人で、40歳そこそこといた感じの頭の良さそうな人だった。アルが大雑把に事情を説明すると、俺にいくつか質問してから部屋に通してくれた。とりわけ豪華な家ではないが、相応に広く小奇麗な屋敷だった。俺のゲーム的経験で言えば、こういう家に住む人に悪い人はいない。まぁ、この世界ではどうかわからないが…。
「で、君はどうしたいんだね? 聞いた限りでは国に帰るのはかなり難しそうだが」
「ええ。でも魔術師の方なら何とかしてくれるのではないかと思うのです」
 村長の顔が一瞬曇った。まるで俺が呪いの言葉を口にしたようだった。
「ロバートのことか? 彼は正式には魔術師ではなくて、その見習だよ」
「え? そうなんですか?」
「ああ。2年前だったか、都からやってきて、この村に住まわせてくれないかと言うんで、許可したんだ。なんでも、先生と喧嘩別れして飛び出したらしくてね。結局正式には魔術師に成れなかったらしい」
「でもアルは、ファイヤーボールを見たと言ってましたが」
 俺は何とはなしに、いつもゲームで使ってる魔術の名前を出した。村長は今度は派手に眉を動かして、目を見開いた。
「おどろいたね、ずいぶん詳しいじゃないか。この村は…いや、やめておこう。関係の無い君に話すことじゃないからな。でもなんで魔術師なら何とかできると思うのかね?」
 村長は何事も無かったようにさらっとひとりごちし、話を続ける。
「いや、そのう、もしかしたら俺が国に帰れるような魔術があるかもしれないと思いまして」
「うむ、なるほど、わかった。アル、ロバートを呼んできなさい」
 アルは考え事をしていたのかちょっと戸惑った様子で返事をし、慌てて立ちあがって外へ出ていった。
 村長はアルの動きを目で追っていたが、彼の姿がドアの向こうに消えると唐突に俺に話を振ってきた。
「ところでタイキ君、君は歳はいくつだ?」
「あ、28歳、ですが」
「国ではどんな仕事をしていたのだね?」
「えーと、機械を動かす仕事をしていました」
「すると君は職人なのか」
「はぁ、こちらではそうなのかもしれません」
「……」
 村長は、今度は一転して黙ってしまった。無表情に俺を見つめつづけるばかりで、俺にはすごく重苦しい空気に思えた。それに耐え切れず、俺から口を割った。
「あの、村長、こんないかにも怪しげな男を信用して良いんですか?」
 俺は緊張していたとはいえ、とんでもない言葉を口にしてしまった。これでは暗に俺は怪しいんだと言っているのと同じようなものだ。後悔先に立たずとはよく言ったものだ。俺が悪人に見えなければよいが。
「君は自分のことをどう思ってるんだ? 私にはとても悪人には見えないがな」
「自分は悪人です、なんて言う人はいませんよ」
「私の経験から言えば、そう言う人間は大抵善人だよ。いや、君を信用する理由はもうひとつ有る」
「?」
 村長はまた俺をじっと品定めするように見つめ、続けた。
「アルが信用してしているからだよ。アルのひとを見る目が間違いの無いことは村人なら誰でも知ってる」
 彼はそう言うと満足したのか、一度奥に引っ込んだが、またすぐに戻ってきた。手には器を持っていて、中に入っていたのは野菜の浅漬けのようだった。俺は村長に勧められるまま、それをかじった。また俺と村長の間で沈黙が流れ、話しづらくなった。
 アルはロバートという人を連れ、すぐに帰ってきた。ロバートは背の高い細身の男で、歳は俺と同じ位に見えた。魔術師(見習い)というからにはてっきり青白い病弱な感じを抱いていたのだが、実際の彼は細身とはいえかなり体を鍛え上げているようだった。肌の色も日に焼け浅黒く、俺のほうが白いくらいだった。
 結局そのロバートという魔術師見習の男が言うには、どこだが正確にわからない遠くの場所へ移動するような魔法は知らないとのことだった。ただ、古代の伝承では、長距離を一瞬で移動する魔法があったとも口にした。
 予想していなくは無かったが、現実を突きつけられるとやはり心が萎えるのがはっきりとわかった。まずひとつ、元の世界へ帰れる可能性が消えた。希望によってかろうじて押さえ込んでいた恐怖が、今にも飛び出しそうだった。
「大丈夫?」
 取り止めの無い思考が乱れ飛び混乱していた俺の耳に入ってきたのは、アルの心配そうな声だった。まるで自身が苦しいかのように絞り出す声で、俺は我に返った。
「ああ、大丈夫」
 俺の顔をのぞきこむアルの顔が今にも泣き出しそうで、そんなにひどい落ちこみ様なのかと思う半面、俺を真剣に気遣ってくれるこんないい子に心配をかけてしまったと後悔した。俺はこの子の二倍生きてるんだぞ。
 ロバートは興味深げに半分俺を観察しているようだった。村長はその深遠な瞳でじっと俺を見つめていて、俺が落ち着きを取り戻すと軽くうなずいた。
「何もまったく故郷へ帰れなくなったわけではないはずだ。何かきっと方法があるに違いない。ここは少し心を落ちつかせるのが先決だろう。しばらくこの村で休んでいったらどうかね?」
 村長はまるでこうなることがわかっていたように淀み無くそう言った。
「そうだよ、そうしなよ。きっとまだ体が本調子じゃないんだよ」
 アルは今度は懇願するようにまくし立てる。
 正直なところ、俺も心と体の休息が必要だと思った。こっちの世界には昨日来たばかりで、おまけに元の世界に帰れる方法が見つからないときていては、とても平常心ではいられない。体を休ませると同時に気持ちの整理をつけないと、何をするにしても上手くいかないように思えてきたのだ。
「とりあえず、そうするしかなさそうですね」
 この日から俺はこの村にやっかいになることになった。

 その日から三日間は村長の家にお世話になった。そのあいだに村人全員に紹介されたり、村の規則を教えてもらったり、あるいは農作業を手伝ったりした。村の人口はおよそ200人、そのうち半分の100人20家族くらいは、村の中心部の集落にかたまって住んでいるが、残りの世帯は畑や牧場の都合で周辺に散らばって暮らしている。村長はもちろん集落の屋敷に住んでいる。集落のほかに目立つものといえば、ロバートのやっている雑貨屋と、小さな教会くらいだった。その教会には誰も居らず、何でも前の牧師さんが病気で亡くなって以来、都の教会本部から忘れられているということらしい。時々この村を通る旅の一行や冒険者達が宿に使っていくという。教えは忘れられても教会そのものは有効に使われているとは、なんとも皮肉なものだ。
 ロバートとはすぐに馬が合うことがわかった。最初はとっつきづらかったが、やがて魔法のことや学問のことについて話し始めるとなかなか自分達で切り上げるのは困難なほど仲良くなった。アルとも毎日会っていた。村人を手伝うといったら必ずアルのところだったからだ。それというのも、彼が住んでいるのが村の最も外れで、羊の世話をするには羊が多すぎ、畑を耕すには広すぎる土地を持っていたからだった。村人達が、もっと村の近くで自分が暮らせる程度の牧畜と農業をやればいいと勧めたのだが、彼は両親が残してくれたものだからとそれを拒んだらしい。村人は誰一人として彼の悪口を言わなかったし、それどころか俺が来るまでは交代で手伝いに行っていたと言うのだ。確かにアルは働き者で正直で、良い子だった。でも俺には、そんな村人達の行動が少し奇異に思えた。なぜ彼ばかりに気を使うのだろうか? 同じ年齢の子なら村に何人も居るし、働き者だって同じだ。何か俺の知らない理由がありそうだった。
そんなわけで俺は四日目からアルの家でしばらく暮らすことになった。アルの家は集落から大分離れていたし、以前からアル一人ではとてもすべての畑とすべての家畜の世話は出来ていなかったので、合理的に考えた結果だった(もっとも、俺が役に立つかどうかは疑問だったが)。それに俺は彼に助けてもらった恩が有る。村長の提案には一も二も無く乗ったのはそういう訳だ。だがもっと正直に言えば、弟が出来たみたいで嬉しかったのだ。俺には、兄弟といっても歳の離れた姉しかいなかったからほとんど一人っ子状態、友人に弟がいることが何度うらやましいと思ったことか。それがひょんなことからこんなかわいい弟が出来るなんて、夢にも思っていなかった。今の俺には仕事はきついけど、これはささやかな喜びだった。アルのほうもひどいはしゃぎ様で、端から見ると思わず笑ってしまいそうなくらいだった。彼も話し相手が出来て嬉しいんだと思う。両親が死んでからもう一年が経つと聞いた。そのあいだ彼はどんな気持ちだったろうか。一人ぼっちでもう誰も頼れず、無償で抱きしめてくれる人がいなくなる。しかもそれが戦争が原因では、怒りをどこへぶつけたら良いのか俺には想像もつかない。だからせめて俺ぐらいは、近くに居てなんとは無い話をして、怒ったり悲しんだり笑ったりして、少なくとも兄らしいことをしてやろうと思ったのだ。いささか偽善ぽいのは自分でもわかってる。まるで出来の悪いファンタジー小説の一説のようだということも。でもそれは、アルが笑いかけてくれたり頼りにしてくれたりしてくれることで、意味の無い独り言に変わる。何気無いやり取りが俺の心を和ませる。もしかしたら救われてるのは俺のほうかもしれない。いや、たぶんそうだ。

 俺がこちらの人間の基本的生活を知らないことを差し引いても、「働き者」とはアルのような人間のために有る言葉だと思った。朝、陽が顔を出してから夕方沈むまで、そして夜も、一生懸命に働いていた。まず朝起きると、その日使う分の水を川からくみ上げる。釜に火をつけ朝食をきちんと取ると、すぐさま畑へと向かう。作物の出来具合や土の様子を見て肥料や水をやったり、土を掘り返したり、雑草を取り除いたりする。その畑の面積は思っていたよりずっと広くて、まるで北海道の農場を想像させるほどだった。だから畑を見るだけでも午前中を目一杯使ってしまう。それが終わると今度は、羊の放牧へ行く。牧草地は家から少し離れているものの、とても広く、飼っているおよそ40頭の羊が食い尽くすことはなさそうだった。羊に付き合って丘や谷を回り陽が傾き始めると、家路につく。夕食を食べ終わってようやく一休みするのかと思えば、今度は農機具の手入れをする。ランプの光の元でもう慣れたものらしく、手際がいい。それが終わればすぐに就寝だ。また翌朝も早く起きなければならないからだ。
 俺は最初の一週間、アルに付いてどんな仕事をするのか見ていたのだが、一日彼の後を付いて回るだけで、もうヘトヘトになり、夕食を食べ終わるとそれこそバタンキューと音を立ててすぐに寝てしまう有様だった。これでも会社で結構な仕事量をこなしていて、体力には自信が有ったのに、アルはそれ以上に働いているのだ。だがしばらくすると俺も慣れて来て、何とか彼についていけるようになり、ようやく役に立ってるという実感が出てきた。畑はいくつか作物の担当を任されるようになったし、放牧も時々一人で行くようになった。この頃は食事もアルと一日交代で作るようにしている。この間はこれでようやく一人前ね、とアルが笑って認めてくれたばかりだった。
 そうなった今、この世界にきて俺は恐らく初めて冷静に自分を、そして周りを見ることが出来る余裕が生まれていた。そう認識したのはおとといの夕方だった。オレンジ色のこの上ない夕焼けと、その中に影を作るアルを見たとき突然気づいたのだ。だがそれは俺にとってあまり喜ばしいことではない。というのも、まず最初に考えたのが自分はこのままどうなるのかということだ。もう成る様にしか成らないと解っていても、いつまでもウダウダと考え込んでしまう悪い癖があって、結局翌日まで俺は心ここにあらずという感じだった。アルがひどく心配してくれてようやく、自分が答えの無い思考の迷路にはまり込んでいたことに気づいたのだ。それからはもう考え込むことはしなくなった。良く考えてみれば、今の俺の置かれている状況は少し前俺が生きていた世界とはまったく違うわけで、とりあえず仕事をやってみることが大事だと気づいたからだ。今のところ生命に危険が及ぶような目にはあってないが、いつかその時が来るかもしれないし、だいいち、今現在の生活そのものがまったく新鮮で、もう何事にも自分の判断が必要になるのだ。そういったことが俺の行動に変化を起こしたのかもしれない。時々自分が別の自分になった気さえするのだ。

 今日も俺のほうがアルよりも早くに目を覚ました。少し前まではどちらともなく起きてきたのだが、もう四日前から俺のほうが明らかに朝早く起きている。無理もない、まだ13歳の彼があれだけの仕事量をこなせば、いい加減疲れも溜まってくる。もうそろそろ、仕事や生活について、きちんと話し合ったほうが良いかもしれない。ここはやはり、幾らかでも人生経験の有る俺が助けてやるべきだろう。そんなことを考えながら、朝食の準備に取り掛かった。まずお湯を沸かすためにかまどに火を入れる。もう幾度となくやってきたから慣れたもので、あっという間に炎は燃え盛り始める。薪を少し強引に詰め込むと、かまどにかけてある鉄瓶に水を足して、今度はお茶の準備をする。どうやらこの世界ではお茶は重要なビタミン源らしく、たくさん飲まれているようで、それほど高価ではないらしい。茶器と湯のみをテーブルに並べ、皿にまるで保存食のような恐ろしく固いパンを置く。最初このパンを食べたときは、しばらく顎の筋肉がぎりぎりと音を立てて使い物にならなかったくらい、本当に固いパンなのだ 。そして鍋のシチューを見る。良し、まだ有る。お湯が沸いたらこれを温めよう。普段ならこうやって朝食の準備をしていれば、その音にアルが目覚めて起きてくるのだが、今日はまだった。まぁ、良い。ぎりぎりまで寝かせてやろう。何気なく外を見た。気をつけて見ないと判らないような霧雨が降っている。聞いたところだと、今は暖かい季節で雨もよく降るらしい。そのため雨自体は冷たいものではなかったが、まるで雲の中にいるように視界が悪くなる。場合によっては今日の放牧は止めておいて方が無難かもしれない。自然を甘く見るなということはこの世界にきて肝に命じたうちのひとつだった。今まではこんな霧雨ひとつ気にしたことはなかったが、それは街中で暮らしてきたからであって、例えば何もない野原でこんなに視界が悪かったら、迷ってしまうのは確実だ。羊を連れて延々さまよい歩くなんて考えただけでも恐ろしい。もう気分はすっかりこっちの人間だった。
 すぐにお湯が沸いた。かまどから鉄瓶をどけ、代わりにシチューの入った鍋をかけて、火の加減を弱めにする。よし。アルを起こそうと彼の部屋に向かった。

「アル、起きろ。朝飯できるぞ」
 俺はてっきりアルは目が覚めていて少しのんびりしているだけだと思っていたので、ドアの前で声をあげるだけで、入ろうとは考えていなかった。だが予想した返事がない。それどころか中から物音ひとつ聞こえない。もしかしてまだ寝入ってるんだろうか。
「おい、まだ寝てるのか。起きろー」
 今度はドアをどんどんと叩きながら声を張り上げた。これならいい加減起きると思ったが、やはり返事がない。何度かやってみたが反応は相変わらず感じられない。さすがに俺も変だなと気づいた。少なくとも今までのアルならこれだけ騒げば必ず起きてきたものだ。いや、待てよ。すでに俺より先に起きていて、その辺に散歩に出かけているのか? 以前にそんなことが何度か有ったな。部屋に居なければ返事も物音も無いのはうなずける。俺は中へ入ってみようと思い、ドアの取っ手をつかんだ。だが開かない。ドアは内側に閂の有る構造で、それが鍵の役割をしている。もしアルが外へ出かけているなら、閂はかかってないはずなのに、ドアは開かない。いやな感じだ.俺は自分でしかめっ面するのがわかった。アルはどうしたんだ。もう一度取っ手を握り押したり引いたりしてみたが、やはり開かなかった。そしてまた拳でドアを叩いて、大声を張り上げた。最後に思い出したようにドアに耳をあて、中の物音を注意深く聞いてみる。もしかして、返事が小さくて聞こえないだけかも…。
 その時聞こえたのは、重いものが床に落ちる鈍い音だった。アルがいるのは間違い無い。俺はもうドアを開けることしか考えていなかった。かんぬきは木製のはずだから力をかければ何とか壊せる。そう思って全体重をかけ体当たりをした。何度目かでかんぬきが壊れる音と共に、俺は勢い余って室内に倒れこんだ。アルが目の前にうずくまっている。部屋は広くない。どうやらベッドから落ちた様子だった。
「アル、どうした!?」
 俺は転がるようにアルに取り付き、彼の顔を見た。信じられないことに、顔に色が無かった。血の気がまったく無く、石膏でできた像のようで、一瞬困惑した。
「アル…?」
 俺は正気に戻ったものの、彼に下手に触るとどうにかなってしまいそうに思えたので、じっと観察して呼びかけてみた。呼吸は浅く短かったが確かに息はしている。顔は前述のとおり血の気が無く、苦しそうにゆがんでいた。薄目を開けて俺と認めたようだった。意識も有る。
「痛いのか? 苦しいのか? どこだ、どの辺が痛い?」
 口はわずかに動くが声は聞こえず、体も少しでも動かせば酷い痛みに襲われるらしく、ピクリとも動かなかった。
「胸か、心臓が苦しいのか」
 アルはひざを抱えるようにして横になっていて、右手で左胸を押さえていた。ここで俺は初めて、彼の額に手を当てた。脂汗をかいて体温が下がっているようで、ひどく冷たい。ベッドの布団を引っ張って彼にかけた。本当はベッドに戻してやりたいところだが、今は動かさないほうが良いと思ったのだ。空いている左手を握ってやったが、その手も異常に冷たく俺自身も冷や汗をかくのが判った。
「どこかにぶつけたのか? それとも―」
 この状況がどんなかわかりきっているのに、黙ってしまうのが怖くて思わず聞いてしまう。同時に傷口があるかもしれないと、アルの胸を触ってみる。
 出血はしていないが、これは…
 アルが体を触られた事にビクッと反応して俺を見た。そしてわずかに口を動かして何か言っているようなので、俺は耳を口元に寄せた。声はかろうじて聞き取れるほどの大きさしかなかった。
「…棚、の……薬…、を…」
 俺はすぐに部屋の中を見まわす。部屋は狭く、棚らしいのはベッド脇の小さなタンスの上ぐらいにしかない。だがそこにはぽつんと陶器の何の模様も色も無い栓の付いた小瓶があった。栓を開けて中身を手のひらに出してみると、それは赤っぽい小さな丸薬だった。
「いくつだ?」
「みっ、つ…」
 また耳を近づけて聞いて、手のひらから丸薬を三つつまみ、アルの口に持っていった。彼は何とか小さいながらも口を開き、首を動かしてそれを口に入れようとするので、俺は少し強引だったが、無理やり指を口に突っ込む形で薬を放り込んだ。丸薬を飲み込みと、アルはまた痛みに耐えるようにうずくまる。まぶたをぎゅっと閉じているのがひどく痛々しかった。
「持病なのか? 村から医者を呼んでくる」
 俺はとにかくアルのために何かしないと、湧きあがった不安を抑えられそうに無かった。でも村に医者なんかいただろうか。薬をもらっているんだ、村長に訊けば分かるはずだ。
 俺がそっと立ち上がろうとすると、アルは俺と握り合っていた左手を弱々しく握り返して意思を伝えてくる。そしてまた目が合った。赤色の瞳が訴える。
(行かないで―――)
 結局俺はそれ以上アルから離れることが出来ず、手をさすったり頭をなでたりしながら痛みが和らぐまでそばにいた。10分もすると顔も緩み傍で見ても痛みが薄らいできたのが分かった。そしてアルはそのまま眠りに入ってしまった。肉体的に疲労しているのは確かだが、こういったときは精神的な疲労のほうがずっと大きいはずだ。眠りが一番効果的だ。俺は彼を起こさないように慎重に離れると、村長に家へ向かった。
 アルが次に目を覚ましたのは、昼を大分過ぎてからだった。やはり村には医者は居らず(この世界にはあまり居ないらしい)以前アルを診たという老齢で村唯一の薬師を連れてきたものの、よく寝ているのに起こすのは良くないということで、目を覚ますまで待つことになった。しかし俺は何もせずに待つのは不安で仕方が無かったので、霧雨の中、いつも通り畑を見て回った。アルには薬師のほかに村長もついていてくれるので、その点については心配は要らなかった。午後の羊の放牧は相変わらず霧雨が収まらないので、やはり止めにした。
 アルはもうなんとも無い様で、顔色もよく痛みを訴えることも無かった。しかしあまり表情は優れない。あの激痛の恐怖がまだ強く残っているようだった。彼はまるでそれを振り払うかのように、体が動くようになると早速何か仕事を始めようとした。気持ちは分かるがいくらなんでもそれは無茶なので、俺は半ば強制的にアルをベッドに寝かしつけ、見張りと称して長い間彼と話をした。そんなことでいくらかでも彼を助けられるのなら、少しでも気が紛れるなら、いつまでだって彼に付き添ってもよかった。
 アルがベッドで冷静になったところで、顔のしわの深い薬師は改めて診察をした(そのとき俺と村長は部屋を追い出された)。そしてその場で調合した新しい丸薬を飲ませると、アルはまた再び眠りに落ちていった。
「アルはどんな病気なんですか 治るんですか?」
 老薬師と村長を集落まで送る道すがら、さすがに黙っていられずに質問を口にした。これまで何の説明もしてくれなかったのは、アルの状態があまりよくないからだと俺は思っていた。
 村長は、俺が始めて彼と顔をあわせた時と同じように、俺をじっと見つめていた。その瞳には何の感情も見出せない。村長を見つめる薬師の瞳にはいくらかの戸惑いのようなものが見える。
「あの子は心臓が悪い。今すぐどうこうって程ではないが、ああやって時々発作を起こすんだ。あの姿は正直見るに耐えないよ」
 村長は俺を見つめたまま、静かにそう言った。
「治らないんですか? ほら、神の奇跡を起こせる僧侶がいると聞きましたけど」
「実は以前に見てもらったんだが、だめだった。症状をいくらか軽くは出来たが、それ以上はもっと高位の神官で無いと無理で、それには莫大な金が要るのだよ」
「金? この世界はそういうものなのですか?」
「いや、私は違うと思っているよ。だが実際はそうではない。莫大な金だ。普通の農民には想像も出来ないほどの額だ」
 村長はまだ俺をじっと見つめている。俺は自然と歯を食いしばっていた。どうして莫大な金がないと神に仕える神官が診てくれないんだ? 何であんな明るくて正直で働き者の子が神のご加護を受けられないんだ!
「しばらくは安静にしてあげなさい。 発作が起こらない限りは大丈夫だよ」
 薬師が押しつぶした声でそういうと、村長もうなずいてようやく俺から目を離した。それ以降、集落に辿り着くまで言葉は交わさなかった。
「そうそう、これはアルとは関係ないんだが、冒険者が村にきているよ。わかるかな、戦いで名をあげるためにあるいは古代の財宝を掘り当てるために世界中を旅する人々のことなんだが。彼らなら博識だから、もしかしたら君が故郷へ帰れる手段を知っているかもしれない」
 村長の自宅での別れ際、暗い雰囲気を変えるように村長は話してくれた。
「帰りに教会に寄ってみるといい。今晩はそこに泊まるそうだ」
「ありがとうございます。考えておきます」
 本音はそれどころじゃなかった。
「アルのことはそんなに悲観的になるな。無理をしなければ大丈夫なんだから」
 結局俺は村長と別れたあと、冒険者が泊まっているという教会には行かなかった。なによりアルのそばについていてやりたかったからだった。

 家に帰り、アルの寝顔を見ると、とても穏やかで今朝の苦痛に歪む顔が嘘のようだった。ただ髪の毛だけはボサボサで、それが発作の唯一の痕跡だった。俺は椅子を持ってきて、アルの寝顔をしばらく眺めていた。薬師や村長は大丈夫だといっていたが、アルが薬をすでに持っていたということは、以前にも何度も発作が有ったことになる。あんなのが何度も有ったら、彼の小さな体ではとても耐えられそうに無い。ましてや―――
「あ」
 そこで俺は突然、今朝のもう一つの驚きのことを思い出した。アルの胸に触ったときのことだ。服の上からだったが、そこには筋肉とはまったく違うやわらかいかたまりがあったのだ。あれはどう考えても女性の乳房だ…。結論から言えば、アルは女の子であるということだ。
 改めてアルを見た。14歳の男の子なら、大人ほどではないがそれなりに体の各部が逞しくなり全体的に見れば明らかに同じ年の女の子と違うことが分かるものだ。だがアルはどうだ。背が小さいことは別に男だからといって珍しいわけではないが、問題は全身が華奢なことだ。首をはじめ、上腕、腰、足首などは明らかに細い。にもかかわらず胸とお尻周りだけは肉付きがいい。それは服を着ていてもなんとなく分かるものだ。
 俺は今まで、アルのことを男の子だと思い込んでいたが、改めて別の視点から見てみると、男の子というよりは女の子に思えてくる。そういえば、湯浴みをするときもいつも別々だし、トイレもそうだ。いつだったかは腹痛で苦しそうだったのに、大丈夫だと強引に俺を納得させたこともあった…。思い返せば思い返すほど、アルが女の子であるという証拠が後から後から出てくる。ふと彼の寝顔を見る。もう俺の頭の中ではそれはかわいい女の子の寝顔だった。だめだ、二度とアルのことを男の子だと思えなくなってきている。
 何てことだ。俺は”彼女”と2ヶ月も同じ屋根の下で暮らしてきたのか!
 想像力が猛烈なスピードで加速をはじめ、思考があらぬ方向へ飛ばされそうになった。俺は慌てて椅子から立ち上がり、そっとアルの部屋を出て自分の部屋へと戻った。
 俺はアルのことをかわいい弟だと思ってきた。素直で働き者で、どこの人間とも知れない俺を慕ってくれる。まさに絵に描いたような弟だと思っていた。だが実は妹だった?
 そりゃあまあどちらかといえば、かわいい弟よりもかわいい妹のほうがうれしいといえばうれしいが、俺は良くても彼女のほうはどうなんだ? あの無邪気な笑顔は作り物とは思えない。俺と一緒に暮らすことを喜んでくれているのは確かだと思う。
 それに、アルは自分が女の子であるような素振りは一度たりとも見せたことは無い。服は男物だし、言葉使いだってそうだ。どうして男の子のふりをする必要が彼女にあるのか? 一番最初に草原で見たときはすでに男の子の格好だったということは、俺が来る以前に何か原因があったのだろうか。村人のアルに接する態度が少し変であることも、そのあたりに何か関係があるのかもしれない。さらに疑問なのは、たとえ男の子に変装しているとはいえ年頃の女の子が見知らぬ男と一緒に暮らしたいなどと思うものなのか、という点だ。もうこうなると想像力は世にも恐ろしげな方向か、またはご都合主義のマンガの世界か、どちらかへ暴走しそうだった。
「だめだ。考え込むだけで何の解決にもならないぞ。今大切のなのはそんなことじゃないはずだ」
 俺は変な思考の連鎖を断ち切るために、あえて考えていることをしゃべった。よし、いいぞ。まだアルが女の子だと確かめてもいないのに、あれこれ考え込んでも仕方が無いじゃないか。今はまた発作が起こらないように、アルに充分休んでもらうことが大切なことだろ? うん、夕食を作ろう。アルも一日何も食べていないから、きっと腹が減っているはずだ。
 窓から差し込む光は、いつのまにか眩しいオレンジ色になっていて、雨はすっかり止んでいた。

 こちらの生活が始まってすぐにわかったのだが、この世界の主要な農作物に米がある。というよりも、なるべく天候に左右されないよう、農民たちが育てる数多くの農作物の中に、名前は違うものの粒の長い米そっくりのものがあるのだ。しかも育てるのにあまり多くの水を必要としないらしく、この辺り一帯ではごく普通に作られているとアルは言っていた。夕食にはこれを使うことにした。それと言うのも消化が良く栄養たっぷりのお粥を作ろうと思ったからだ。
 入れる具は、やはり定番の卵と(ニワトリに似た割と大きな鳥が産んでくれる)、体の温まるネギにする(正確にはこれもネギに似たものだが)。なるべく具の味を引き出すためには、余計なものは入れないに限る。
 もうすっかり陽が暮れてランプをつける頃になると、食欲の沸く甘い米の匂いが家中に広がっていた。不器用な俺にしては上出来だ。だが、もう少し弱火で煮ることにする。
 アルの様子を見てこようと、台所のドアを開け振り返って見ると、なんとそこに彼(彼女?)が立っていた。寝巻きのまま恥ずかしげにドアに体半分隠して、ドラマのワンシーンのようにそこにいた。うん、顔色も良くてしっかり立ってるし、大丈夫そうだ。でも、うーん、女の子に見えてしょうがないぞ。
「あ、あのぅ」
『ぐぅ〜』
 その腹のなる音は、絶妙なタイミングだった。もちろん鳴ったのはアルのおなか。主人に逆らうように、やけに大きな音だった。それで更にアルの顔が真っ赤になった。
「腹減ってるんだろ? 特製のお粥を作ってみたよ」
「オカユ?」
「ほら、なんて言ったけ? あの俺がコメみたいだって言った穀物。あれを煮たものだよ」
 アルは俺が鍋からお粥をよそるのをみて、そろそろと椅子に座った。まだ顔を赤らめて恥ずかしそうだったが、どうやら食欲には勝てないらしく、目がなんだか血走って見えた。
「熱いからな、気をつけろよ」
 木製のスプーンをつけて差し出すと、しばらく眺めた後、俺の言葉で慎重になったのか、スプーンにすくったお粥にフーフーと何度も入念に息を吹きかけた。それからようやく口に入れる。それでもまだ熱かったらしく、驚いたようだった。
「おいしい!」
 そう一言俺に感想を言った後は、熱さと格闘しつつもお粥をがっついた。そのうちに額に汗が見え始めたので少し心配になったくらいだ。また心臓に負担がかかるんじゃないかと…。
 しかしそんな心配をよそに、アルは器いっぱいのお粥を平らげてしまった。それから、まだ食べたいなという表情をした後、一瞬考え込んでスプーンを置いた。
「ごちそうさまでした」
 俺はハッとした。俺ににこっと微笑みかけてくれたその笑顔は、紛れもなく女の子のものだったからだ。今までこんなに可愛い笑顔は見たことがない。それに声もなんとなく今までのアルの声とは違って聞こえた。
「あ、ああ。いや、おかわりならまだあるぞ」
 俺は動揺していた。自分でも良くわからない言葉や映像が、頭の中をデタラメに飛び交っていて、まともな思考が形成されない。彼女の名前は? あれはこの前の… 俺はまだ… ???
「うん、いいの。あんまりいっぺんに食べると胃腸に悪いからね」
「…」
「えぇと、後片付けあたしがするね」
「待ってくれ、話がある」
 台所に行こうとするアルの腕をとった。やはり思っていたより細い。それで決心がついた。
 アルは、俺の突発的な行動と思いつめた表情に過敏に反応したんだと思う、一瞬体を震わせて俺の腕を振り解いた。そして俺をじっと見つめた後、黙って椅子に座りなおした。
「アル、きみは本当は女の子なんじゃないか?」
 もう今更遠まわしに迫っても意味がなかったから、俺はずばっと単刀直入にそう言った。アルも俺が勘付いていることを知っているはずだから、驚くことはないだろうと思っていた。そう、驚きはしなかった。だが、彼女(彼)の表情は明らかに安堵したときのものだった。なんだ、どういういことだ?
「違うのか?」
「ううん、間違ってないよ。なんだか騙してたみたいでごめんなさい」
 もう、彼女(彼)は男の子を装ったりはしなかった。明らかに女の子だった。まるで変身の魔法が解けたみたいだった。
「本当の名前はアリエル。14歳っていうのは本当。あと心臓のことも、本当なんだ…」
「何だって男の子なんかに? そうだ、心臓のほうは大丈夫なのか」
「平気。あの薬師さんの作ってくれる薬、良く効くんだ」
 彼女は別に不安そうでもなく、自分の胸に手をやって心臓の鼓動を聞くように目をつぶった。だがすぐに頬が紅潮しはじめた。
「朝のこと思い出したら、恥ずかしくなっちゃった。いきなり胸触るんだもん」
「ごめん。倒れてたもんだから慌てちゃって…」
「謝らなくてもいいよ。あたしが悪いんだし」
 俺も恥ずかしくて頬が火照っていた。混乱はおさまったが、逆にアルの、いやアリエルのことを意識し始めていた。目の前にいるのは14歳の可愛い女の子なんだ。しかも寝巻き姿の。
「別にね、男の子になろうと思ってたわけじゃないの」
 アリエルはじっと、暖炉の上に飾ってある古い剣を見つめていた。前に、その剣は父さんの形見だと話してくれたことがあった。一年前に両親を亡くしたことについては、ほとんど話してくれない中、独り言のようにぽつんと言ったのを覚えている。もしかして彼女の父親は名の有る剣士だったのだろうか。
「一年前に父さんと母さんがいっぺんに死んじゃって、それで一人で暮らすことになったんだけど、最初はね、男の子のほうが何かと都合がいいかなと思ってそういう格好をしてたんだ」
 彼女は自分の短い髪の毛を見つめて言った。
「男の子ならチヤホヤされないし、その、変なことされることもないから。でもね、ほんとはそうじゃない。ほんとは、悲しみや苦しみから逃げるために、別の人間になりたかっただけ。強くて頭が良くて何でもできる男の子なら、きっと大丈夫だと思ったから」
 俺はじっと聞いていた。聞くことしかできなかった。アリエルは少し笑っていたが、こんな話をするのは、生半可なことではないはずで、無理しているのが手に取るようにわかる。少しずつだったが、声が小さくなり、表情もこわばっていく。俺も無意識に歯を噛締めていた。
「それもこれも、今まで自分一人でなんでも全部やろうとしてたからだと思う。村の人たちは優しくしてくれたけど、結局自分は自分だし、それにもう、あたしには…」
「お、俺はっ」
 深くうつむいて涙を隠す彼女の姿がぐっと胸にきて、俺は口を開かずにはいられなかった。
「別にアルが女の子だろうと、関係ないんだ。だってアルは俺の命の恩人だし、俺のことを兄貴みたいに思ってくれてるんだから。こんな優しくて働き者で可愛い子が妹だなんて最高だよ! 今朝はちょっと驚いちゃっただけなんだ」
「ありがとう……」
 俺の気持ちは通じただろうか。今の彼女のありがとうは本心だろうか。必死に涙をこらえて顔をくしゃくしゃにするアリエルが愛しく見えるのは、俺の錯覚じゃないはずだ。
 近づいて彼女を抱きしめてやった。それは自然な感じで、俺の本当の気持ちを表そうと思ったからこそとれた行動だったのかもしれない。アリエルも最後の自制が切れたように俺にしがみついて、初めて声を出して泣いた。華奢なその体が小さく震えていた。
 どのくらい抱き合っていたか良く覚えていない。その間何を考えていたかも思い出せなかった。いや、いいんだ。何も考える必要はなかったんだ。アリエルを想っていれば、それで良かったんだから。
 やがて彼女の身体の力が抜け、寝息が聞こえてきた。彼女の背丈は俺の胸辺りまでしかないから、俺は寄りかかる彼女を難なく抱き上げベッドに運んでやり、そっと布団をかけた。昼間はかなり暖かいが、夜は意外に冷えるのだ。
 今日一日でいろいろなことが起こった…。アリエルはいきなり倒れるし、それが心臓が悪いからだと聞かされるし、その上男の子だと思っていたアルが実はアリエルという女の子だったなんて…。大人の俺がいい加減ヘトヘトになるんだから、女の子のアリエルには発作も有ったし疲れて寝入ってしまうのも無理もない。だが、寝顔は安らかだった。こっちの世界にきて何度思ったか知れないが、まるで夢のような光景だった。特にこの彼女の寝顔は。
「ぐっすりおやすみ」
 俺は小さくつぶやくと、静かに部屋を出た。いくら心配とはいえ、とりあえず落ち着いた彼女の部屋で寝るのは気が引けたのだ。
 俺も自分の布団に入ると、すぐに眠りに引き込まれた。

 翌朝、またいつもと同じように、俺はごく自然に目を覚まし布団を出た。特に夢を見ることはなかったものの、良く眠れたようで気分は上々だ。ふと、昨日のことがすべて夢なのかもしれないと不安になって、アリエルの部屋をそっと覗いてみた。だが彼女はいなかった。慌てて台所へ飛んでいった。昨日の今日なんだ、無理しないでくれよ!
「アル!」
 案の定、彼女は朝食の支度をしていた。
「おはよう」
「何がおはようだ、昨日倒れたばかりなんだぞっ。そんなことは俺がやるから、もう少し休んでろ」
 俺はいつもの調子で少し大げさなアクションをして、アル(アリエル)に食いつかんばかりの距離まで近づいて言った。今まで兄弟のように思っていたから、自分でもずいぶん兄貴らしくなっていると変に納得するときもあった。だが続いてアルの額を軽くこずこうと思って、息を呑んだ。昨日からアルは14歳の女の子だったのだ。同じ人間だというのに、この間までの弟とはまるで違って見えた。短いけれどサラサラの髪(どうやら櫛がかけてある)、少し大きくて不思議な輝きを放つ紅い瞳、つるつるで柔らかそうな唇と肌。
 何てことだ! 今まで気づかなかったが、こりゃ“美少女”じゃないか!
「大丈夫だよ、朝起きたときも何ともなかったし、それどころかかなり気分がいいんだから」
 この教え諭すような言い方は何だ? アルはもっと鋭い反応だったはずだ。それにこの微笑が加わって、なんか彼女が姉で俺が弟みたいに思えてくる。アリエルはそれを見透かしたように、いつもとは反対に俺の額を人差し指で軽くこずいた。
 慌てて俺は彼女から離れた。
「あー…」
  いかん、いかんぞ。自分でもどきまぎしているのが良くわかる。きっと顔も赤いに違いない。彼女の顔を直視できないし…。
「今日は良い天気だから、早く畑に行かないともったいないよ。一日サボると結構痛い目見るんだから」
 服装はアルのときとまったく変わらないが、俺にはもう女の子の姿にしか見えなかった。小さな頭に細い首、肩幅も小さいし腕も足首も細い。まだ14歳のこんな娘が、両親を亡くしてから一年も一人で暮らしてきたとは。俺がこの位の歳にはやりたいほうだいやって何も考えてなかった。
 昨晩彼女を抱きしめた感覚がよみがえる。そうだよ、俺はアリエルの役に立ちたい、彼女を守りたいんだ。昨日倒れてあんなに苦しんだんだ、平気なわけがない。
「だめだ、畑仕事はもちろん放牧も家事も水くみも全部俺がやるから、アルはおとなしく休むんだ。薬師のじいさんも無理はいけないって言ってたよ。だからしばらく、薬を飲んでゆっくりと身体を休ませなくちゃだめだ」
 俺の語気の強さに少しびっくりして彼女は振り向いた。目が合った。微妙だったが嬉しそうな表情になり、と思ったらすぐに当惑気味な顔になる。俺は彼女に念を送るようにじっと見つめつづけた。俺の気持ちよ届いてくれ。
「ありがとう。お兄ちゃんの言う通りにするよ」
「ほんとか?」
「うん。もう一人ぼっちじゃないんだとあたしが思ってるって言ったら、信じてくれる?」
「信じるも何も、あるは一人ぼっちじゃないだろ。どっちかっていうと、俺のほうが一人ぼっちって感じだと思うし」
「あー、ひっどい。こんな近くにあたしがいるのに、一人ぼっちだなんて! 一緒に住んでもう二ヶ月も経つのに、お兄ちゃんてそんな風に思ってたんだ」
「そりゃお互いさまだろ? 俺は男の子だと思って一緒に暮らしてきたんだぜ?」
「あたしが女の子だと見抜けない方がどうかしてるよな〜」
「無理だ。あの時胸を触らなかったら、きっと今でもわからないよ」
 一瞬また目が合った。アルが倒れていたとき、混乱して彼女の胸を触ったときのことを思い出し、思わず目をそらした。彼女も同じように思い出したようだった。この恥ずかしいけど心地よい感じは何だろうか。何とはなしに笑いたくなる。
「よし、とにかく無理はだめだぞ。こういう時はお互い様さ。アルが俺を助けてくれたように、今度は俺がアルを助ける番だろ」
「うん……」
 結局その日は俺の言葉を受け入れてくれたのか、アルは一日中おとなしくベッドに横になっていた。強がってはいたもののやはり身体は無理をしていたようで、何度か顔を見に行ったときにはぐっすりと眠っていた。寝顔も穏やかで、特に症状が悪化してるようには見えない。俺はといえば、昨日一日分の遅れを取り戻すべくせっせと畑を見て周った。羊の放牧は、アルからあまり離れたくなかったのでやめにした。
 もう今となっては一日働きづめでもほとんど身体にこたえなくなっていて、余裕で夕食を作り農機具の手入れもした。ついでに明日の朝食の準備まで。
 そこでもう後は寝るだけというときになって、ふとアルが居間の一点を見つめていることに気が付いた。視線の先に有ったのは、使い込まれた中型の剣だった。刃の幅の広いいわゆるブロードソードで、無造作に壁に掛かっている。派手な装飾はないものの、刃こぼれ一つない剣身が輝いて見えて、存在を誇示していた。またその横にはその用途とは裏腹にとても質素な創りの首飾りが、壁に掛かっている。これもやはり少しばかり光を放っているような感じだが、剣と同様この居間には不釣合いだった。この二つはアルの両親の形見だった。そのことについてはあまり話してくれないし俺も深くは訊いていなかった。

 俺はなんと声をかけたらいいのかわからず、彼女と彼女の両親の形見を交互に見るしかなかった。やはり不安でさみしいのだろう。この世界では何歳で成人と認められるのかはわからないが、たとえ歳を重ねた大人であっても肉親や愛する人が死んだら普通ではいられないだろう。もう一年になるとはいえアルはまだ子供だ、どれほどの心の傷を残したか正直俺にはわからなかった。
 でも形見を見る彼女の瞳は悲しみを湛えているというよりは、過去の記憶を思い出しているといった感じだった。いや、悲しみを湛えていないわけではなく、その姿は確かに俺の無力さを思い知らされるものだったが、何と言うか、もっと穏やかな表情をしているのだ。まるで何かに満足しているかのように。
「アル、もう寝よう。まだ昨日の今日だ、無理はだめだぞ」
 彼女は、はっと夢から覚めたときのような顔をして俺を見た。そしてすぐに目をそらした。
「うん…」
 俺は最初ぼぅとしていたのを恥ずかしく思って目をそらしたのだと思っていた。ところがそのあと、再び俺をチラッと見たのに気が付いた。あの表情はなんだろう? 恥ずかしいではなくごめんなさいという顔をしていた…一瞬だけれど。別に何も悪いことをしたわけでもないのに何故……。
「おやすみ、お兄ちゃん」
「ああ、おやすみ」
 彼女の顔は、いつもの、というよりは女の子だと告白してからのあの妖精のような笑顔に戻っており、俺はまたそれにドキッとした。さっきの疑問は取るに足らないことに思え、どこかに消え去った。きっと俺の気のせいなんだろう。
 疲れていたのか、俺も布団に入るなり眠りへ引き込まれた。

 翌朝、いつものように陽が昇るとともに目を覚まし、服を着替えて台所へ向かった。実のところ半ばあきらめ気味でやはりとは思っていたが、案の定、台所ではアルが朝食の用意をしていた。迷惑をかけたくないのはわかるが、あの娘はたぶん根っからそういう性格なのかもしれない。どうしても無意識に他人に気を使ってしまうのだ。この頃はアルが心配なだけに俺の小言が多く、余計に彼女に気を使わせてしまっているのかもしれない。
 彼女は、そんな俺の最初の一声を計ったように、先に声をあげた。
「おはよ。今日からまた仕事始めるからね。まずは腹ごしらえだね」
 元気いっぱいとはいかないが、明るく芯の有る声だった。どうやら体力の方は大分回復しているようだった。振り向いた笑顔も今では完全に女の子だったが、以前のアルのものだった。
 朝食を終えると、その日も畑仕事から始めた。なにぶん畑の面積は広く、ヘタにひとつの作物にかまけていると、他の作物に目が届かなくなるといった具合だったから、バランス良く様子を見て世話をしなければならない。毎日みっちり仕事をしても、どうしても追いつかないこともある。とりあえず、にんじんに似た「センリ」という名の野菜の間引きから始めた。きれいな緑の葉がもったいないと思うものの、こうしないとこれ以上大きく育ってくれないというのだ。もちろんまだ実のならない間引いた葉は、食材として使われる。畑で出来るもので無駄になるものなど何ひとつない、アルはそう教えてくれた。
 そのアルだが、近くの木陰で横になりこっちを眺めている。今日も俺が無理するんじゃないとベッドにとどめようとしたが、彼女が休んでいるからせめて外に出たいとかなり強情にせまるので、しぶしぶ許したのだ。最初はあれこれ俺の作業に口を出してははしゃいでいたもの、今はじっとして声もあげないでいる。やはりまだ身体は完全じゃなく、疲れて眠ってしまってるんだろう。天気も良く日差しがあり、さわやかな微風がほほをなでる。絶好の昼寝日和ってやつだ。これならほっといても大丈夫だろう。
 俺もそろそろ一休みすることにした。長時間連続で仕事をしても効率が悪いことに気づいた最近では、必ず一時間に一回の休憩を取るようにしている。ただがむしゃらに動くのではなく、マイペースでコツコツやる方が仕事がはかどるし、何より気持ちがいい。だがこのコツコツが非常に難しいのだ。畑仕事は天気に大きく影響されるので、例えば朝から雨が降る日などは、もういらいらしてしょうがない。だから常に意識の片隅に休憩を取ることを置いておくことで、ペースを保てるようにしているのだ。もちろん水の補給も重要である。
 アルの様子を見ようと、彼女を起こさないようにそっと木陰に近寄った。やはり眠っているらしい。水筒を取り水を一杯飲もうと思って、ちらっと彼女の寝顔を見て俺は凍りついた。アルは額に玉粒の汗を浮かべ、眉間にしわを寄せて目をつぶり、苦しそうな呼吸をしていたのだ! 何てことだ、発作に気づかないなんて!
「おい、しっかりしろ、アルっ」
 彼女の口は半ば開いているものの、それは浅く小刻みな呼吸に使われていて、何も声を発しなかった。おととい発作が起きたばかりで、身体が完全じゃないからか、以前にもまして苦しそうだった。俺はアルを抱き上げ、出来るだけ揺らさないように走って彼女を家のベッドに運んだ。そして例の薬師の作った丸薬をアルに飲ませる。あせる心を押さえつけて、何とか冷静さを保たせるのは大変だった。
「大丈夫、薬を飲んだんだ。すぐに良くなるよ」
 まだ喋れないアルに向かって、元気づけるように言う。でもそれは自分に言い聞かせるために言ったのだ。大丈夫、アルはきっと良くなる、大丈夫だ、大丈夫。彼女の手を握り、その暖かさを何度も何度も確かめ、じっとその苦しそうな顔を見守った。時々汗を拭いてやり、念仏のように、大丈夫、大丈夫と声をかけ続けた。
 やがて薬が効いてきたのか、青白くしわの寄っていた顔が徐々に緩み始め、薄目を開け俺を見ることが出来るようになった。小さいけれど声も出るようだった。
「良かった、薬が効いてるんだな。ほんと良かった……」
「ごめん…、また、迷惑、かけちゃって…」
 まだ残る胸の痛みに、口元を引きつらせながら、申し訳なさそうに言う。その姿はホントに痛々しかった。俺の胃もキリキリと痛んだ。
「迷惑なもんか。それに謝らなきゃいけないのは俺のほうだよ。あんなところにアルをほっぽらかして、苦しんでるのに気づかなかった…」
 そうだ、俺は彼女を守るんだと誓ったのに、この有様だ。まったく自分に腹が立つ。
 汗で髪の毛が額に張り付き、弱々しく口を動かして出た彼女の言葉は「ごめん」だ。そんなけなげな彼女に、俺は何も出来ないじゃないか! 年上だからなんだ、男だからなんだ、「今度は俺が助ける番」だと? くそっ。俺は自分の爪で血が出るくらい拳を白くなるまで握り、自分の頭を殴りたいのを必死にこらえた。
「私は、大丈夫だから… そんなに自分を、責めない、で」
「俺は…」
 そんなにつらそうにして声をやっと出しているのに、大丈夫なわけはないのに、それでもアルは俺の自責の形相を見て、自分より俺の心配をしてくれているのだ。そうだ、自分を罵るのは後でも出来る。今は彼女の身体のことが最優先だろ?
「うん、俺も大丈夫。ちょっと動揺しただけさ。俺のことはいいから、黙って体を休めるんだ。今は体力が弱ってるから、休息が一番効果的なんだからな」
 わずかな微笑が、アルからの返事だった。俺はその愛しい姿の彼女を抱きしめたいのをぐっとこらえ、代わりに手をしっかりと握った。少しかさついた小さな手が弱々しく握り返してくる。
「大丈夫、俺がついてる、すぐに良くなるよ」
 アルはこくりと小さくうなずき、目を閉じた。するといくらも経たないうちに規則的な寝息を立て始めた。やはりかなり体が弱っているようだ。もしかしたら、このままだと…。
 何を馬鹿なことを考えてるんだ! 俺が弱気でどうするんだ。確かに俺じゃ彼女の病気の役には立たないかもしれないけど、こんな苦しげなアルを少しでも支えてやらないでどうする。今一番大変なのは彼女なんだ、俺のことなんてどうなってもいい。何としてでも彼女を助けるんだ。

 しばらくアルの寝顔を見つめ穏やかに眠っているのを確かめると、握っていた手をそっと離した。
 まずは村長と薬師に会う。たとえどんなに小さくても、治る可能性のあることなら何でもやってやる。俺は気合を入れ家を出るため玄関の扉を開けようとしたとき、その扉がノックされた。あまりにいいタイミングなので少し驚いたが、すぐに扉を開けると、そこには多くの村人が集まっていた。小さな子供や年老いた老人もいて、村人全員がいるように思える。そしてその一番前に村長が立っていた。村人は皆無言で俺と村長を見ていた。
「これは何ですか、村長」
 俺は純粋に疑問に思ったことを口にした。村長は村人たちの方を一瞥して言った。
「アリエル…、アルはどうしているかね?」
「あ、その、今さっきまた発作を起こして、薬を飲んで眠ったところです」
「そうか。彼女のことで君に話さなければならないことが有る」
 村長は俺をじっと見つめていた。以前にも何度かあったがその顔には表情がない。人がたくさん集まっているのに物音一つせず、村人の緊張が肌にピリピリ伝わってくる。
「少し出ようじゃないか」
 村長は俺だけを伴って、畑の見渡せる場所まで歩いた。

「俺も訊きたいことがあるんです」
 畑を眺める村長に俺は言った。彼は軽く目を閉じた。
「アルの心臓を治す方法です。金があれば高位の神官に見てもらえるって言ってましたよね? それはどれくらいなんですか? 高いのはわかってます。でも一生懸命働けば何とかなるかもしれないでしょう? 何なら金を借りたっていい。俺が一生働いてでも必ず返します。教えてください、アルを助けたいんです」
 俺は言葉を出すのがもどかしく、派手な手振りで激しくまくしたて、村長に迫った。にもかかわらず、村長は慌てないばかりか、今だ無表情だった。それが少し気に入らない。何でそんな冷めた顔が出来るんだ。
「無理だよ。貴族が財産をすべて売り払っても足らないほどの額だ。身体ひとつしかない君ではどうにも出来るもんじゃない」
「そんなにするんですか…」
「その上、仮に高位の神官に見てもらったとしても、アルは治らないだろう」
「どうしてです? 死人を生き返らせて欲しいと言っているわけじゃないんですよ?」
 少なくとも俺の知識(といってもゲームの設定としてのそれだが)では、神の加護を受けられればどんな病でも必ず治るはずだった。ただし、死んでしまった者を生き返らせることは尋常なことではなく、神の奇跡を起こす神官自身の命を投げ出さなければならないといわれている。この世界でも、死は絶対的なものらしい。しかしだ。アルの場合は心臓が悪いだけだ。手を完全に失っても高位の神官にもなれば完璧に再生させることが出来る聞いている。莫大な金が必要なのはわかるが、病が治らないとはどういうことだ。
「君には黙っていたが、彼女は、アルは病気ではない」
 何だって?
「なに言ってるんです? 俺はアルが苦しむのをこの目で見てるんですよ。彼女だって心臓が悪いんだって自分でも言ってたし」
 俺はわけもわからず村長に食って掛かった。ふざけているようにしか思えなかった。
「あれは彼女にかけられた呪いのせいなのだ」
「呪い? なんであんな女の子に呪いがかけられてるんです? それに呪いなら解除できるでしょ?」
 言葉使いは穏便だったが、俺の語気は激しかった。
「だめなんだ。彼女の両親が自らの命をかけても解けなかったほどの強力な呪いなのだよ」
「くそっ、なにがどうなってるんですか、説明してくださいよ」
「君が知らないのは当然だが、1年前に戦争があった。西のガラントと東のカールナスがたびたび奪い合ってきた鉱山を巡って、また戦になった。鉱山はこの村のずっと南にあってガラント領内だった。この村も一応ガラント領内だ。だがあの戦のとき、カールナスの別働隊が鉱山を守るガラント軍の背後を突くため、越境してこの村を通ろうとした」
「いったいアルと何の関係が有るんだ!」
 そんな俺の癇癪にも村長は動じなかった。
「もちろん国境に近いこの村に警備隊が居たのだが、越境するカールナス軍はかなりの規模で、予想もしていなかった大軍にあっという間に壊滅した。問題はその後だった。軍というものは大抵そうだが、占領したこの村から食料、燃料、女、子供など根こそぎすべて奪おうとした。だがそれを見かねて立ち上がった人間たちがいた。それがアルの両親たちだ」
 ここに至ってもまだ村長は無表情だった。まるでヘタな歴史家の講義みたいだった。
「アルの父親はカイ、母親はマリスといった。二人は他の仲間3人とカールナス軍に抵抗を始めた。その5人は、かつては「流星」といえば知らぬものはいないといわれた、腕のたつ冒険者たちだったのだ。富と名声を得て引退しこの村に住み始めてから長いことたっていたが、その腕はまったく衰えていなかった。たった5人で1000はいたといわれるカールナス軍を二晩でほとんど壊滅状態にし、村を救った。しかし最後の最後にカイとマリスに悲劇が起こった」
「…」
「カールナス軍で最後まで生き残ったのは高位の魔術師だった。彼らは騎士のように厳格な戦い方をせずに最も効率的な戦術を取る。だから、追い詰められたこのときはカイたちの呼びかけに素直に投降してきた。村を助けるために立ち上がった彼らだったから、投降してきたその魔術師に慈悲をかけ、首をはねることはしなかった。だがそれが甘かった。魔術師は自らの命と引き換えに、カイたち5人とその家族に死の呪いをかけたのだ」
「アルの両親が死んだのはそのせいなのか」
「いや。幸いにも彼らには、過去の様々な冒険で得た古代の強力な魔除けを身につけていたために、その呪いは効かなかった。だが家族は違う。カイ、マリス以外の3人、アイバーン、ウィルバー、レトには幸いにも家族はなかった。そう、最終的に魔術師の邪悪な呪いを受けたのは、カイとマリスの一人娘アリエルただ一人。マリスは娘の呪いをすぐさま解こうとした。彼女はかつて死者をも蘇らせるといわれた神官だったのだ」
「そんな…」
「カイとマリスの二人にはわかっていたんだ。死をもってかけられた呪いを解くには、自らの命が必要なことに。またそうしても呪いを解くのが確実でないことも。だが、彼らは迷いはしなかった。他の3人も止めはしなかった。カイとマリスがアリエルをどれだけ愛しているか知っていたからだ」
 いつのまにか村長の拳は白く握り締められ、わずかに震えていた。
「そして、予想は的中してしまった。カイとマリスの二人が命をかけて試みた解呪の法はあの魔術師の呪いには完全に勝てず、わずか1年だけ呪いが発動するのを伸ばしたに過ぎなかった。それでアリエルの両親は死んだのだ。そして」
「うそだ、そんなことが…」
「そして、死の呪いが発動するのが今日。一年前カイとマリスが死んだ今日だ。呪いは強力でその発動が一年伸ばされたとはいえ、アルの身体に異変が起きていた。それがあの心臓の病だ。呪いがどうなったか調べるのに、神官が一人死んだくらい想像を絶する呪いだ。私たちにはどうすることも出来なかった」
 俺はもう何も言葉に出来なかった。ただ村長の白く握り締められた拳を眺めながら、今聞かされた一部始終を頭の中で何度も繰り返して事実を飲み込もうとしていたが、うまくいかなかった。
 アルの病気が呪い? 両親はその呪いを立った一年延ばすために死んだだと? そんな話があっていいのかよ。
「今の話、アルは知ってるんですか?」
「すべて知っている。さすがカイとマリスの娘だけあって、理解するのに時間は要らなかったよ。あの時彼女は13歳で―――」
 俺は今までこらえていた右の拳で、村長の顎を力いっぱい殴った。彼のその物言いに無性に腹が立ったからだ。右の拳がしびれた。俺のほうが声をあげそうなくらい痛かったのに、村長は何事もなかったかのように立っていた。
「何がさすがだ! 理解しただと!? ふざけるなよ!」
「どんな冒険でも死ぬことなんて考えられなかったあの二人が死んでいくのに、我々は何も出来なかった。13歳のアリエルがそれを見ていたのに、何も……」
 初めて彼の声に悲しみがこもった。表情は何とかこらえているといった感じだった。
「もしかして、村長は…」
「恐らく、呪いが発動するのは正午だ。また我々にはどうにも出来ないんだ」
 俺は空を見上げた。太陽がほぼ真南に位置している。なんてことだ。
「くそっ」
 俺は駆け出した。アルの無邪気な笑顔や飛び跳ねる姿、交わした言葉。それらが脳裏に浮かんでは消えていく。そしてただただ、アルが生きていることを祈りながら、飛ぶように畑を横切り家に向かった。
 玄関前に人だかりが見えた。まさかな…。
「おい、どうした? アルはまだ―――」
 村人の波をかき分けて人だかりの中心に入ろうとすると、それがすっと道を空け家の中から人が出てきた。
「アル!」
 それはあろうことかアル本人だった。寝巻きで裸足のままゆっくりとこちらに歩いてくる。顔色が良くないのははっきり見て取れたが、足取りは意外にしっかりしていてふらつくこともなく、背中をしゃんと伸ばしてまるで王宮の廊下を歩く王女ののような歩みで俺の目の前まで来た。
「黙っててごめんなさい」
 彼女は少し頭を下げ、静かにそう言った。俺はアルが今にも倒れるんじゃないかと心配してその細い身体を支えるために腕を伸ばそうと思ったが、出来なかった。一瞬、アルがアルに見えなかったからだ。
「寝てないとだめじゃないか」
 そんなことしか言えなかった。
「大丈夫、今は大分気分が良いから。私の口からお兄ちゃんにたくさん話したいことがあるしね」
 彼女は微笑んでいた。あの、気持ちが落ち着き心が穏やかになる魅力的な微笑が彼女の顔にあった。俺はどうしたら良いのかわからずにその場に立ち尽くしていた。
「実を言うとね、呪いがかかっているっていう実感はあんまりないの。時々心臓が苦しくなるけどすぐに元に戻るし、それ以外には前兆がほとんどないんだもん。だから、お兄ちゃんが考えてるような気が狂いそうになる生活をしてきたわけじゃないんだ。ううん、その逆。村の人達には良くしてもらったし、いろいろ自分一人で出来るようになったんだから、毎日とっても楽しかった」
 周りにいる村人のあいだから、今にも泣き出しそうな声で何か呟くのが聞こえた。
「でもね、ホントのホントのこというと、ちょっと寂しかった。村の人たちが優しくしてくれるのはすごく嬉しかったんだけど、みんなあたしが不幸な運命を背負ってるって知ってたからなんかぎこちなかった。あたしが普通に暮らしたいって思ってたからかもしれないけど」
 再び村人のあいだからざわめきが起こる。アルは少し眉間にしわを寄せ、何とか自分の気持ちを言葉にしようともどかしげに考えていた。
「そんな時、突然お兄ちゃんがやってきたんだ。お兄ちゃんはあたしのこと男の子だと思い込んでたし、呪いのことも全然知らなかったから、何ていうか、その、変な気遣いがなくてあたしとっても嬉しかった。それにとっても礼儀正しいし、優しいし、それからとっても頼もしかった。だって知り合いなんか誰もいない全然知らない世界に来たのに、なんでも一生懸命で、寂しいとか辛いとか一言も言わないんだもん。ずっと前から兄弟って良いなぁって思ってたから、こんな最高のお兄ちゃんが出来てほんとにね嬉しかったんだ」
「アル…」
 彼女が一歩、俺に近づいた。少し興奮気味で声には意外に張りが有ったものの、相変わらず顔色は悪くいつ倒れてもおかしくないように思えた。2本の足で立っているのもかなりきついはずだ。にもかかわらず、彼女は今までに無く澄んだその瞳で俺をじっと見つめ話しつづける。
「あたしが女の子だってことはずっと黙っているつもりだった。もし言ったら、きっとお兄ちゃんの態度が変わっちゃうと思ったから。あたしだって男の子の服着て髪の毛ボサボサで、実は女の子なんです、なんて言えないもん。それにね、それに、あ、あたしが――」
 案の定だった。とうとうアルは立っていられなくなり、うつむいて自分からしゃがみこむように前に倒れた。体に力が入らないのが明白だ。俺は慌てて彼女を抱き起こしそのまま家の中へ運ぼうと思ったが、腕に抱かれた彼女は俺の服のすそ握り締めて俺を見つめ、
「このまま……」
と消え入るような小さな声で訴えた。俺は目がジンとなり顎の筋肉がちりちりと痛み、胸が締め付けられるようだった。その場から動くことは出来そうに無かった。
「あたしね、あんまり良く分からないんだけど、お兄ちゃんを見るとドキドキするの。最初は呪いのせいかなって思ってたんだけど、手をつないだり体が触れただけでもドキドキするし、お兄ちゃんがちょっと見えなくなるとすごく寂しくなる…。これって、その、あの、あたしがお兄ちゃんのこと、好きってこと、なのかな?……」
 アルは俺の腕の中、動くのもままならない状態で、恥ずかしげに俺を横目で見ながらつぶやくようにそう言った。俺の涙腺はもちそうに無かった。
「そうか。俺も、俺もさ、アルのこと好きだよ。なんて説明すればいいのか、こう、抱きしめたいくらい大好きっていうことで……。その、あー、俺も今ドキドキしてるし―――」
「ホントに? お兄、ちゃん…、も…」
 俺の服の裾を握るアルの手の力が不意に強くなった。心臓がまた悲鳴をあげているに違いない。額には珠の汗が浮き、瞳は辛そうに閉じられている。俺は今何が出来る? アルに何をしてやれるだろう? くそっ!
「アル、アル? 俺がついてるんだ、また体休めて元気になろう」
「知ってるんでしょ、あたしは今日で、最後だってこと……」
 少し痛みが和らいだのか、目をうっすらと開け俺に微笑もうとしてる。
「いいの、誰のせいでもないんだから。それよりお兄ちゃんのことが心配だよ。あたしにはもう家族なんて一人もいないけど、お兄ちゃんには遠くだけど大事な家族がいるんでしょ? あたしが長い間引き止めちゃったから―――」
 アルは俺に完全に体を預け、手を握ってくる。
「きっと、心配してるよ…… だから必ず、必ず、帰る方法を見つけて、家族のところへ、戻ってあげて…」
「俺のことなんて心配しなくていいんだ。今は―――」
「約束、してくれる?」
「…ああ、する、約束するよ」
「……うん、…ありがとう……」
 彼女はいつものように俺に微笑んでくれた。彼女は、心臓がえぐられるように痛み体の自由はきかず自分が死ぬことを知っているはずなのに、俺のことを心配してくれている。何でこんな良い娘が、呪いなんかで死ななきゃならないんだ。神様ってやつが本当にいるのなら、どうしてこの娘を助けてくれないんだ。俺は、俺にはどうして彼女を助けられる力が無いんだ!
 涙が両目からどうしようもなくあふれてきて、アルのけなげでいとおしい微笑がかすんで見えた。 
「アル?」
 ふと俺は彼女の体重が軽くなった気がして呼びかけた。握り合っている彼女の手の力も弱まっている気がした。
「もう…最後、みたい……」
 アルの体から光の粒が飛散し始めた。同時に体そのものが徐々に透明になり、俺の腕にかかっていた彼女の重さも握り合っていた手の力も希薄になっていった。眩しく輝く沢山の光の粒は、俺の腕から、手から、体から離れ、天に向かって昇っていく。
「アル、おい、行くな…、行かないでくれ!」
 俺の呼びかけも虚しく、いくらも経たないうちに、彼女の体のほとんどが光の粒となっていた。彼女の重さも手の力も感じられなくなった。
「アル!」
「じゃあね、お兄ちゃん……」
 アルはまた最後に微笑んでくれたみたいだった。透明になりながら残っていた彼女の姿はすべて完全に光の粒となり、その光の粒もやがて天空へと消えていった。
 ついさっきまでここにいたアルがいなくなった。
 最後まで俺の心配をしてくれたアル…
 俺のことを好きだといってくれたアル…
 けなげに微笑んでくれたアル…
 俺は光の粒が消えた空を見上げ、声をあげて泣いていた。