私のジャズ歴書  (パ−トVIII)

  August 8, 1999 Last Up Dated

24.香港その後/日本の夏

前の章で書いたように香港では、昼間はちゃんと働き、夜は遊び狂うワンパタ−ン的生活だったのだが、まえの章以外にも小さな事件はあった。イェロ−・サブマリンのリッキ−達の取り巻きグル−プのひとりのインド人の女の子に騙される、という話しや、英国人との混血の美女に淡い恋をするとか、でもジャズ歴とは無縁の話題、ここでは避けることにしよう。7月の暑いさ中、一度日本へ帰国した。これは夏休みというものではなくて、いろいろ個人的事情があり(留守中に彼女にふられてしまったのだ)勝手に帰国してしまったのである。日本滞在期間中、代々木の「ナル」に立ち寄ったら、そこでは照沼豪さんが働きだしていた。彼はその前、渋谷、百軒店の「スウイング」でバイトしていて、オスカ−に出演していた私を知っていたので驚いた覚えがある。結局、香港に戻らねばならない私は香港へ立つ前の晩、悪友Tと酒を飲みかわしていたが結局金もなかったのでナルに行った。照沼さんがじゃあ送別会として今晩はここで飲み明かそうということになった。勿論店のタダ酒である。他に、誰であったか覚えていないが、総勢5,6人が付きあってくれた。夜中の2時、3時、宴も佳境の最中、上で店のシャッタ−が開く音がする、皆一瞬、沈黙した。こんな時間に誰だろう。するとナルのオ−ナ−が不機嫌そうな顔をして、毛布を抱えて登場した。夫婦喧嘩をして家から出てきたらしい。楽しい宴はそこで解散となった。照沼さんの後日談によると、その晩の酒代は給料からさっぴかれたらしい。

かくして香港に戻った私は前と同じ生活になったが、イエロ−・サブマリンはその後しばらくしてあまり行かなくなった。というのは、リッキ−たちのバンドがそのままよその店へ移動してしまったのである。移動した店にも行ったが、あまり居心地の良い店ではなかったように思う。香港の会社の社長が私の父親に私が香港では余り良い行状をしてない旨の報告もしていた為、少しは真面目に生活しようという意志もあるにはあったのだが、遊ぶ店が変わった位で生活はさ程変わらなかった。 年の暮れも近いある日、私は社長に呼び出された。すぐ日本へ帰国するようにというのである。私は面食らったが、私の父が事業に失敗して倒産したのでという事であった。私の父は私が10歳位の時独立して、衣料品の輸出会社をやっていたが、丁度この頃の石油ショック、経済構造の変革のあおりを受けて倒産に追い込まれたのである。急きょ日本に戻った私はひとり京王線の下高井戸にアパ−トを借りた。家にあった家具や備品を隠匿させるためである。直に実家も差し押さえられることとなり、父親は雲隠れした。母親は自分の郷里にしばらく身を寄せていた。何もすることがなくなった私も一時は途方にくれたが、一念発起して、大学を受験することにした。母方の叔母たちが学費は貸してくれるということになった。かくして翌年2月かろうじて合格した学校が中央大学商学部であった。 私が香港に行っている間にお茶の水に「ナル」2号店が開店していた。そして照沼さんがそこの店長になっていた。当時中央大学は工学部を除く全学部が駿河台にあったので、お茶の水「ナル」は絶好の学校サボリ場所になった。

25.プロのお仕事

大学へ進学はしたものの生活費は自分で稼がなければならないハメに陥っていた。昼間は学校というめいもくがあるので、一応夜の仕事ということになると、これはもうバンドマンをやるしかないという判断となった。大学のサ−クルは、中大には当時 正式なモダンジャズ研究会のようなものはなかったので、一応スイング・クリスタル・オ−ケストラに入部したが、ついぞ一度も練習に参加しなかった。夏休みの合宿に参加するよう催促が来たが、結局参加しなかったので、しばらくして除名通知が届いた。そこでふたたび理科大関連で青木さんや井野川に協力願うこととなり、箱の仕事につくことになる。フルバンドの話しはよく持ちかけられたが経験上、余り良い思いでがないのでなるべくコンボの仕事を選っていった。場所は当時そこら中の街中にあったグランド・キャバレ−と称するやつである。大学へ入って最初の箱は東十条にあったキャバレ−でギタリストがリ−ダ−のバンドであった。そこはストリップを毎日ショ−に取り入れていて、珍しく箱のストリッパ−が4人程いた。私たちは楽屋を彼女たちと共有した。悲惨であった。彼女達は若くはない、多分20代後半から30代後半のひとたちだっただろう。休憩時間に楽屋は彼女たちのおフザケの場で私はオモチャにされっぱなしだった。彼女たちの膝の上をタライ廻しにされたり、下腹部攻撃を受けるなど日常茶飯事だったのだ。そこには3ヶ月ほど勤めただろうか。バンドが上がる(その店を辞める、ないし他の店に移ること)最後の晩、バンマスとストリッパ−の一番年長のおばさんひとりとが休憩時間に店を出て行った。最後のステ−ジに二人で戻ってきたので、何してたのか聞くと、タクシ−に乗っていたという。タクシ−にそこいら辺グルグルまわっといてと言って、後部座席でイチャツイテいたというのである。バンマスに次の店を一緒にやらないかと誘われたが辞退することにした。箱の仕事は2,3ヶ月やったらひと月お休みみたいなペ−スでやっていた。当時の大卒の初任給が4万円位だったろうか、箱の仕事は月5,6万の収入になったように思う。現在に比べれば、バンドマンにとっては恵まれた時代ではあったが、かといってジャズができるとか、いいメンバ−に当たるとかいうチャンスには全然恵まれなかった。

ナルの照沼さんの明治大学時代の友人にプロのテナ−吹きになった人がいて、私はたびたび彼のトラを請け負った。お店は浅草の国際という国際劇場のグランドキャバレ−でかなり大きな店で品も良かった。そこへ初めて行った時驚いたのは、そのバンドのリ−ダ−が私が高二の時に所属した学生バンドのリ−ダ−、さんだったのである。あの時はギタ−を弾いていたが、ピアニストに変身していた。このバンドにはもうひとり凄いテナ−吹きがいた。小田切一巳さんだった。「君ってショ−タ−が好きなの?、そういう吹き方してるよ。僕もショ−タ−が好きなんだよね。」というのが最初にかけられた言葉だった。彼は読譜力も凄くて、ショ−の伴奏などはみな彼に助けられた。口数少なく穏やかな人だったが、よくジャズの話をしてくれた。休憩時間にはいつもスケ−ルの練習とかしていて真面目な人だった。後年ライブハウスで活躍するようになり、名前が知れ渡りだしたころ難病にかかり他界してしまうことになる。本当に惜しい人だったと思う。このような恵まれたバンドで仕事できるのは本当にまれな例だった。その後はあちらこちらのグランドキャバレ−で仕事をするようになる。

26.自分のバンド

大学に入ってからしばらくして、「オスカ−へ行った。その頃オスカ−は渋谷駅の西口、東急プラザの脇をづうっと入った所に移転していて、もう各大学のバンドに演奏させる形態ではなくなり、若手ミュ−ジシャン個人個人を出演させる形式になっていた。私はマネ−ジャ−に以前の縁もあったので出演を依頼したところ快く受け入れてもらうことが出来た。その頃は顔の広い井野川の紹介で理科大のみならず、いろいろな学校のメンバ−やプロミュ−ジシャンを知ることが出来た。早稲田大学には増尾さん、鈴木さんたちの代を受けた人たちで優秀な後輩が沢山いた。なかでも私より一級上のピアノの数江良一、同年の中富雅之、ベ−スの望月英明、ドラムの市原康たちと親しくなった。オスカ−で知りあった、駒沢大のギタ−で同じく同年の幾見雅弘(後にシャ−プスアンドフラッツに加入)、等々。こういうメンバ−でバンドを組んで月1回ペ−スだったと思うが、オスカ−に自分のバンドとして出演させてもらうようになった。幾見のバンドには私がサイドマンとして参加した。幾見は顔が広くて色々な仕事が廻ってきた。テレビ出演の仕事もあったし、大学の学園祭廻りの仕事とか、イヴェント等々、そして彼を通じてまた多くのプレイヤ−と知りあうことができた。しかし箱の仕事をしている時にライブ活動するのは大変である。箱のバンドにトラをいれなければならない。トラとなってくれる人を探すのも大変だし、金銭的にもつらいものがある。当時のオスカ−ではギャラはひとり頭500円くらいだったと思う。しかしトラには一晩5000円位払わなければならなかった。それでも、ジャズのライブが出来るという喜びには替えがたいものがあったのだ。オスカ−以外でも渋谷の百軒店にある「BYG」という店に出演させてもらうようになった。ここは、今でも店は存在しているようだが、昼間はロックをやっていて、夜はジャズという、店自体も風変わりな店だったが、なんと昼間のハウス・バンドはまだ無名だったであろう忌野清志郎が率いるRCサクセションで毎日出演していた。

前に紹介したアメリカ人スティ−ブ・ラブソンもその頃東京へ移住してきた。彼は2年間の兵役を終へ帰米したが、日本がとても気に入ってしまったらしい。ことのほか駐留していた沖縄の文化がきにいったようだった。帰米後は再就職せずに、帰還兵は国から奨学金が出るのでニュ−メキシコ大学で日本語と音楽の学位を取り直した。そして上智大学で修士課程を取るため日本へやって来たのである。そして生活費を稼ぐために英語学校の教師をすることになった。彼も音楽をやることにはウズウズしていたので早速、私が代々木「ナル」で演奏する時には彼にピアノを担当してもらった。その傍ら、彼にメンバ−を紹介し、ベ−スには私と二階バンドで一緒だった理科大の中山さん、ドラムには早稲田の市原康でトリオを組んで独自の活動もした。渋谷のBYGも出演先として紹介し、しばらくトリオで出演していた。その一年後位に彼は英語学校の関係で名古屋に移り住むことになり、名古屋は名古屋でギタ−の和田直さんたちと活動したらしいが、そこで知りあった日本人女性と結婚することとなった。

そのしばらく以前、代々木の「ナル」には、また驚くべき才人が出現した。当時慶応大学の学生だった山口真文さんである。ナルのオ−ナ−成田さんに、親しかった吉祥寺ファンキ−のオ−ナ−野口伊織さんが後輩だということで紹介したそうだ。ほとんど完璧なまでにアルト・サックスを吹きこなし、私は峰さん、植松さんに次いで、この山口さんでKOされてしまった。山口さんは、急きょバンドを結成し、定期的にナルに出演するようになった。理科大のベ−スの村山秀樹さんや平塚敏夫さんたちが参加していた。村山さんには、幾度か私のオスカ−バンドに参加してもらったり、彼が仕事していた渋谷の宮益坂裏にあった「エヴァンス」というジャズクラブにたびたびトラの仕事に行き、そこで国吉良一という同年の優れたピアニストと知りあった。国吉にはその店で当時自分でコピ−出来なかったハンコックのドルフィンダンスのコ−ドとスケ−ルの分解を教わり、その後レパ−トリ−に加えた思い出がある。その後、国吉にもオスカ−バンドに幾度か出演してもらったが、今どうしているか、最近の消息は聞かない。

箱の仕事が無いときは、相変わらず飲んだくれていた。テレトリ−は代々木に変わっていた。ナルで時間つぶしした後はナルで知りあった人たち、高校の不良仲間、ナルの従業員、ジャズの仲間たち、etc.,etc.入り乱れて駅前パチンコ屋地下に当時流行ったパブの形式コンパなるものがあって、毎晩のように呑みふけっていた。当初予備校生としてナルに通っていた笹沼さん、日下部さんはそれぞれ進学して、ナルでバイトをしていた。この頃知りあった人に私と同じく中央大学に通っていたさんが居た。彼は新潟高校の出身でその系列でナルに通いだしたらしいのだが、そのIさんの新潟高校の先輩にという東京芸大の打楽器科に通っている人がナルにも良く顔をだしていた。俳優の陣内孝則似の風ぼうでいつもサングラスをしており彼はいつもオ−ケストラ風のスコアを書いていた。私が浪人時代には新宿の「びざ〜る」でよく見かけた顔だった。知りあってしばらくして彼に私のバンドでドラムを叩いてもらったことがあった。彼はしばらく後に、彼の友人たちと「ジャックス」という、当時の言葉でいうグル−プサウンズのバンドを結成する。桂はドラムを叩くことより、曲を作ったり、編曲したりするほうが好きだったようだ。後にドラマ−を探していた桂につのだひろを紹介し、つのだはジャックスに入ることになった。この辺りからつのだはジャズの世界とは違う自分の道をも自覚し始めたのであろう。しかしつのだはジャックス退団後、世界の渡辺貞夫クァルテットに大抜擢されることになった。桂もジャックス解散後に木田高介という芸名に変えてソングライタ−として有名になっていく。FMのパ−ソナリティ−としてラジオにも登場していたが、その後、不慮の交通事故で他界してしまうのである。

27.タロ−/土曜深夜

明大前「マイルス」の常連だった頃、同じ常連に日大の芸術学部に通う岡田さんなる結構ヒップな人がいた。その弟の岡田謙という少年がギタ−を弾いていて、彼とはマイルスのセッションで一度共演したことがあった。彼は中央大学の付属高校から中大に進学しており、学校でコンボを結成するかたわら、ジャズの世界でもあちらこちらに顔を出すようになっていて、私に一緒にやらないかと言ってきた。それで時折、幡ヶ谷にあったライブハウスで一緒に仕事をするようになった。彼の紹介で箱の仕事を引き受けることになった。結構ジャズが自由に出来るオイシイ仕事という触れ込みであったのでOKした。場所は六本木、麻布十番近くにあるクラブだった。この店はあの弘田美枝子が経営する店だというのである。バンドメンバ−を紹介しあい演奏に入った。するとピアノが凄い、なかば口を開けたまま聞き惚れてしまった。ピアニストは当時、成蹊大学に籍を置く、私と同年の大徳俊幸だった。何か生のハンコックと一緒にやっているような気持ちにさせられてしまったような感じだった。他のメンバ−もプロながら皆同世代、私はこの仕事に来るのが楽しみになってしまった。そして私がやりたい曲を用意して持って行き仕事用の曲の合間をみては大徳に弾いてもらった。勿論仕事が終わった後は毎晩メンバ−全員で呑みに繰り出した。全員が酒飲みで、音楽の話しというより、バカな冗談を言い合って遊んでいたが結構楽しかった。大徳はいつもニコニコしていて穏やかだったので、メンバ−から、からかわれる標的にされていた。しかしこのバンドは後1ヶ月位でこの店から上がることになっていた。大徳が当時ピットインの朝か昼の部に出演していたので、誘われて参加したこともあった。そんな折り、ギタ−の岡田謙が新宿「タロ−」の出演交渉をまとめて来た。早速バンド結成が始まり、私がとりあえずリ−ダ−役となり、ギタ−岡田謙、ピアノ大徳俊幸、ドラムに岡田の友人でピットインでデビュ−していた山川君、そしてベ−スにはもうその頃は社会人になっていたか、私のレパ−トリ−を知ってくれていた中山さんにお願いすることになり、タロ−への出演が始まった。ただし出演時間は毎週土曜日の深夜オ−ルナイト版だったのである。このバンドで半年余り活動を続けることとなった。そのすぐ後に大徳俊幸はジョ−ジ大塚クィンテットに抜擢されるのである。


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