私のジャズ歴書  (パートVII)

July 30,1999 Up Dated

21. あるアメリカ人

ある晩、代々木ナルでライブが行われていた。その時のメンバーは日野晧正菊池雅章稲葉国光富樫雅彦という豪華キャストであった。ワンセットが終わった頃、背の高い外人が店に入って来て次のセットを聴いていた。その後の休憩時間に彼はメンバーに話しかけている、私が通訳もどきをすることになった。彼はピアノを弾かしてくれと言っているのだった。日野さんと菊池さんは快くOKしたようだが、富樫さんはちょっと渋っていたようだ。ところが飛び入りで演奏した彼のピアノは素晴らしい、しかし富樫さんの太鼓がコレデモかというほどにそのピアノを3拍乗りなどで煽るのだ。しかし、それにもメゲず彼は見事に2曲ほど弾き終えた。私の隣で見ていた菊池さんがナルさんに、「ガシトもあそこまでやらなくてもいいのに、上手いピアノなのに」とつぶやいていたものだ。演奏終了後、私はその外人と話しをした。何でも彼はアメリカの兵隊で沖縄に駐留しており、日本へ来て初めての休暇が1週間もらえたので東京に遊びに来たということであった。私は翌日にジュン・クラブの出演を控えていたので、彼に遊びに来ないかと誘った。彼は勿論行くよということで、私はジュンの道順と電話番号をメモして彼に渡した。 翌日はたして彼はジュンに登場した。私は二階さんと佐藤さんに頼んでワンセット彼にピアノを弾いてもらうことにした。 彼のピアノはマッコイ・タイナーとビル・エヴァンスの中間のようなハーモニーサウンドで、その独特のドライブ感はすごい乗りで、私はいっぺんに彼のピアノが気にいってしまった。彼の名前はスティーブ・ラブソン、その時23歳でニューヨーク大学卒業後、出版社に勤めだしたのだが、折しもベトナム戦争真っ最中、徴兵にとられ、沖縄に赴任したという事だった。もともとマサチューセッツ出身なので、高校時代からジャズはやっており、ベースのセシル・マクビー等は友達だと言っていた。 彼は東京は初めてだったので、西も東もわからず、言葉が通じ、しかもジャズを知っている私に巡りあえたのは嬉しかったらしい。私は翌日、自分の家に遊びに来るよう彼を招待した。そして翌日、ベースの中山さん、サボり仲間のTも一緒に我が家でスキヤキ・パーティーとなった。 意気投合した私は彼の残りの休暇2,3日を東京下町案内やジャズ・クラブ巡りのお相手をした。新宿の「タロー」にギターの杉本喜代志さんが出演していた折り、私が頼んでスティーブに飛び入りさせてもらった。スタンダードを2曲程演奏させてもらったが、後で聞いたらその2曲とも、通常のキーではないとんでもないキーで演奏されたものだった。でも彼は見事に弾きこなし、杉本さんにも、「彼ならいつでも飛び入りしていいよ」、とお墨付きをもらえることができた。 明日沖縄へ帰らねばいけないという最後の夜、私は彼が滞在していた六本木のビジネスホテルまで送って行った。ちょっと部屋へ寄っていけというので、彼の部屋でビールを飲んでいると、彼はマッチ箱大の小さな包みを取出し、そこから取り出した粉状のものを、煙草の紙に巻きだした。それに火をつけておもむろに吸い込むと、その煙草を私に差し出した。息を止めている彼はそれを一服した私にジェスチャーで我慢できるまで煙を吐き出すなと合図した。その煙草1本を吸い終わると私たちはお互いの今後の連絡先とかを確認し、2年の兵役が終わる前にはもう一度再会しようと約束して私はホテルを後にした。帰りの地下鉄の中で異変が起こりだした。何十分たっても乗っている地下鉄が次の駅に着かないのである。でも確かに電車は動いている。だんだん耳鳴り現象のようなものが起こりだし、人の話し声や電車のレールがカタコトいう音が戦慄に響きだした。どうやって乗り換えたか覚えがないが確かに明大前には到着した。家路を歩く途中、車のクラクションの音が耳の間近、トラックの大クラクションのように響く。道はいつまでたっても同じ所を歩いている。脳みそが破壊されるのではないかと怖くなった私はほうほうの体で家に着くと自室に入るなりベッドに倒れ込み毛布を被って寝ようと努力した。

その後、スティーブとの連絡は続き、いろいろな経過を経て、何年後かには彼は東京そして名古屋に住むことになる。その東京滞在中は彼はトリオを組んでライブ活動も行なっていた。現在彼は、アメリカ東部の名門、ブラウン大学の日本文学教授である。そして、ひとり息子の賢治君(宮沢賢治から名前をとった)はニューヨークでプロとして活躍するジャズ・ベーシストに育っている。スティーブのその後の人生は大変興味深いものがあるので、折りがあれば追記したいと思っている。

22.島流し 

浪人生活をなん年も繰り返していた私はやがて父親の逆鱗に触れることとなった。というより、それまで我慢していた父親ももう限界に来たという事であろう。二階バンドが無くなってからは、昼間はナルでプラプラ時間を過ごし、夜はたまのライブの他は、高三グループや理科大ジャズ研のひとたち、ナルで知りあった人たちと毎日、酒を飲んだくれる日々を過ごしていた。ここに登場すべき人たちは大勢いて、今でも関連している人が沢山いる。その人たちのプライベート保護の為に、いや自分の過去のなりわいがバレてしまうのを防ぐために、あえてその登場人物には出番を控えて頂いたほうが良いだろうという判断をくだすことにする。そして日下部さんや、笹沼さんたちには麻雀を教わりそれにのめり込む日々も続いた。たまにやるバイトはバンドのトラの仕事だけであった。そんな生活に怒った父はもういっさい生活の面倒はみないから自分で働けといいだした。何ヶ月かはバンドの箱の仕事についた。 理科大のジャズ研でアルトを吹いていた青木寛さんが、私と同じ年であったのだが、彼はその当時から夜バンドの箱の仕事をよくしていた。譜面に強かった彼にはいろいろなバンドの仕事の話しがきていた。彼の紹介で、常磐線沿線、松戸の先の北小金という駅前のグランドキャバレーで仕事することになった。北小金は今では千代田線沿線の住宅街となっているらしいが、当時は駅前に数軒の店がある以外周りは全部畑で、その畑の中に鉄筋5階建てくらいのそのキャバレーがそそりたっていて一種異様な感じがしたものだ。中に入るとそこは東京ではなく、東北の一地方という感じであった。ホステスには20代に見える人はいなっかった。店内には割と大きなスペースの託児所もあり、かなりの数の幼児が遊んでいた。楽屋裏に通じる裏通路はホステスはじめ従業員、東北訛りの言葉が飛び交っていた。吹き抜けの大きな店で、私は4管編成位のオクテットでテナーを吹くこととなった。バンマスはアルトサックスの人だったと思う。レパートリーはほとんど譜面による、ラテンやダンス音楽、そして毎日2ステージ、名も知らぬ演歌歌手が日替わりで出演するショーがあった。このショーの伴奏が大変で、譜面に弱い私としては、恐怖の時間でもあった。もうひとつチェンジのコンボが入っていて、夕方の6時頃から45分ステージを4,5回だったろうか、帰りは常磐線登り最終電車に一目散である、走らねば間に合わない。そして日暮里駅で山手線へ階段をダッシュ、新宿駅で京王線最終にダッシュというキツ〜イ生活となった。チェンジのコンボバンドが出て居る間は休憩時間なのだが、この北小金、店も何もない、キャバレー前に張りだしている屋台の焼き鳥屋かおでん屋しかないのである。夕飯を喰うところもないので、食事は仕事へ出かける前にすますことにしたのだが、休憩する場所がない。仕方なく私は仕事に行きすがら、サントリーレッドのポケット瓶を毎日酒屋で購入、休憩時間はキャバレー前の畑に座り込んでウイスキーをチビチビ舐めるという悲惨な状態であった。こんな中で京王線明大前から家に帰り歩く傍らにあった古くさいスナックがあり、終電後も営業していた。そこはおばさんというより、もうおばあさんの域にはいっている女の人ひとりでやっていて、毎日手入れをしているというぬか床から出してくれる漬物がとても美味く、1本のビールとそのオシンコがその日の労働の慰めであった。

しかしこんな生活も父親を納得させることができないのは当然で、ある日父親から仕事上つきあいがあるという彼の知人を紹介された。しかももう、親父がその人に私を仕事で預かるようにお願いしてあるというのである。しかもその人の会社は香港に在るというのである。渋々受け入れた私は、香港に島流しされることになったのである。これならジャズ浸けの生活とも縁が切れるとオヤジもふんだのにちがいない。斯くして香港に飛び立った私は一変してサラリーマン生活に入ることとあいなった。ジャズとはしばしのお別れである。

23.ズートルビー(番外編)

香港での生活は下宿が見つかるまでの最初の1週間はホテル住まい、とはいってもビジネスホテルとも呼べる代物ではなくて、ゴキブリがさまよう悲惨な所だったが、場所だけは一番の繁華街、九龍半島の先端、尖沙咀(ツィムシャツィ)の彌敦道(ネーザン通り)に面した今でも残る重慶飯店というビルで、遊ぶにはもってこいの場所だった。仕事は朝9時から6時まで、事務所は彌敦道を更に北に3,4キロ北上した旺角という地域にあったのだが、仕事時間を終えるとこの時ばかりと尖沙咀エリアをさまよい歩いた。しかし当時はヴェトナム戦争まっただ中、このあたりは米兵相手のGIバーと観光客相手のボッタクリバーの密集地、下手な店には入れない。まづ私のホテルの隣に当時は一流とされたアンバサダーというホテルがあり、そこの地下のバーで生ビールでのどを潤す。(このホテルは今では二流となってしまって、このバーももう存在してない)英国調の良いバーで私のお気に入りだった。そしてひとりで入れる飯屋で軽く飯を済ませ、夜の街を徘徊するのだった。当時の香港にはジャズなるもの存在する余地もなかった。2,3日徘徊した後に行き着いたのが「イェロー・サブマリン」なる店、当時の言葉でデイスコと称していたが、ライブ・バンドの入っているダンス・フロアー付きラージ・バーとでもいう代物である。幸いここのオーナーは英国人のおっさんで、奥さんのママは中国人だったが流暢な英語を喋り、気軽に話せるので気に入ってしまった。後は若い中国人娘が常時2,3人ホステスとしてではなく、ウエイトレスのような形で働いていた。残り2,3日のホテル住まいを、毎晩この店で過ごすことになった。そして香港へ着いてから1週間後、最初の下宿、事務所より更に北の地区の金持ち中国人宅に移ることとなった。

会社での仕事は貿易書類を見様見まねで作成することから始まった。この会社はワイシャツや紳士服等を香港で作らせたり、日本から輸入してアメリカに輸出する仕事を第一のなりわいとしていた。その他日本の服飾メーカー等の商社代行などをやる会社だった。同僚に同じ年の中国人ジョニーという男がいたが、彼から仕事の手ほどきを教わった。彼とは昼食は毎日一緒にしたが、夜は真面目な中国人、まっすぐ家に帰る。私は自然と夜の街にひとり繰り出す格好となるのであった。下宿ではアマさんが毎晩夕食を作ってくれるという条件だったが、ほとんどまっすぐに帰ることはなかった。尖沙咀のアンバサーダーのバーへ直行である。そこでまづ生ビールを2杯。香港では現在でもそうであるが、どこのバーでも夕方5時から7時まではハッピーアワーといって何の酒でも1杯分の料金で2杯飲めるのである。但し1杯だけ飲んでも、同料金、違う種類のものはダメ。したがって皆、同じものを2杯づつ飲むこととなる。それから屋台や小さな料理屋でワンタン面や、チャーシュー丼などをかけ込む。たまに余裕があるときは料理屋に入りデイッシュを1品とって、あとはご飯とスープ。当時から何軒かあった日本料理屋は高くてとても自前で入れるものではなかった。後に知ったのだが、ひとりでお得は、韓国料理屋で、ブルゴギ(成吉思汗鍋のようなもので焼く焼き肉)で、一人前結構な量があるが、肉は柔らかく旨くて、これにナムルやキムチ、その他小皿が5,6点付いて、スープに丼1杯のご飯、これでいまの相場でいうと500円位のものだった。これを知った時には感激した。その後は一路「イェロー・サブマリン」へと向かった。

「イエロー・サブマリン」では、もうそこの中国姐さん(おねえさんを女姐と書いてシューチェーと呼ぶ)たちと出勤前や後に一緒に食事に行ったりするようになった。これは店のママも公認であって、あちらの店ではそういう習慣が当たり前のような所がある。けれども奢らされるのはどこも同じだ。店に通いだして何日もしないうちに、ママが出演しているバンドのメンバーを紹介してくれた。5名いたバンドは全員フィリピン人でリーダーはリッキーといった。バリバリの超リーゼントスタイルである。店の名どおり、彼等の得意はビートルズだったが、その頃ちょうど世界的にリリースされたばかりの「ヘイ・ジュード」は毎晩2回位聞かされた。 香港では何処のこういう店でもバンドがはいっていて、その大半はフィリピーノだった。リッキーたちは中でも上手い方のバンドで土曜の夜には彼等の取り巻きの若者たちが集合してきた。私はリッキーたちメンバーと親しくなり、音楽に飢えていた私はたまにギターを借りてブルース、ロックを一緒にやらしてもらい、ビートルズの「ロール・オバー・ベートーベン」やプレスリーの「ハウンド・ドッグ」「監獄ロック」なぞを弾かしてもらった。彼等は出稼ぎに来たたぐいのフィリピンミュージシャンではなく子供の頃から香港で育っていると言っていた。なので英語、広東語、タガログ語を自由自在に使い分けていた。リーダーのリッキーとはとりわけ仲が良くなり、土曜日など店に出る前に一緒に飯を誘ってくれたりした。彼等にはひとりで食える洋食屋やインド料理屋などを教わり、後々大変役立った。YMCAの食堂などでは、700円位で旨いステーキのフルコースが食えるなんていうこと、但しセルフサビースであるが。 ある土曜日、店がはねたら一緒に香港サイド(香港島側)にみんなで遊びに行こうと誘われた。向こうで食事してからディスコにでも行こうということだった。イェローサブマリンには閉店近くには10人以上のリッキーたちの取り巻きが集まった。皆若いが、男女、人種もさまざまである。当時香港の若者たちはサタディ・ナイト・フィーバー(この言葉はもっと後に出来る)、でウサをはらす習慣で、それぞれいろんな職についていたり、金持ちのボンボンだったり様々だったが、所詮、繁華街のディスコで遊ぶ子たち、それぞれにツパッているし、真面目な学生とはタイプが全然違う遊び人たちである。総勢20人位で香港島にむかうフェリーに乗った。最初は飯だということで灣仔(ワンチャイ)地区(映画スージーウォンの世界の舞台となったエリアでバー、レストラン、劇場、がひしめく香港島側の繁華街)のレストランへ入った。ちゃんとしたしょうしゃなレストランだったが、そこは若者数十名、結構ドンチャン騒ぎとなった。そのうちバンドメンバーのひとりと背中合わせに座っていた白人グループのひとりが小競り合いに成りだした。背中がさわったの、なんのというささいな事だったのだが、なんだこのフィリ公、とか言葉の人種差別的やりとりから喧嘩に発展した。それが周りに飛び火し、グループ同士の壮絶な喧嘩に発展してしまったのである。レストランはメチャクチャになりだしまるで映画の1シーンのようになってしまった。われわれ側の女の子たちも白人のおばさんやお姉ちゃんたちとハンドバッグで顔を殴り合っている。そのうちパトカーのサイレンが近づいて来るのが解った。その時、リーダーのリッキーがその騒動から私の腕をつかんで引っ張り出し、お前は外国人だし、カタギなんだから、ここから逃げろと言って、喧騒のさ中、私を外に連れ出し、自分は叉店の中に戻っていった。私は慌ててフェリー乗り場むけて逃げ出した。何台ものパトカーがこちらに向かってくるのとすれ違った。しかしフェリー乗り場はもうとっくに最終船は終わっている。 今でこそ香港島と九龍側はいくつもの海底トンネルが開通し、地下鉄も海底トンネルでつながっていて、24時間往来することができるが、その時代はフェリーが唯一の交通手段だったのである。仕方なく相乗りのジャンク(白タクのような小舟)に高い金を払って数人の中国人の酔っ払い客とともに九龍側に渡り家に帰ることとなった。 翌日は日曜日、月曜どうにも気になって会社が終わると一目散にイェローサブマリンに向かった。まだリッキー達は来ていなっかたが、7時頃、何喰わぬ顔で店に来た。どうだったのか尋ねると、現場で喧嘩した全員、灣仔の警察に連れていかれ朝まで事情聴衆を受けたということであった。どちらも告訴はしなかったので事件にはならないだろうが、壊した店の損害賠償だけはいずれどんな形か請求が来るだろうということだった。

とある日、仕事が終わりいつものようにアンバサダーのバーに行った。いつもよりは結構遅い時刻だったのだろうと思う。 その日は空母か大型軍艦が入港したのであろう、白いセーラー服姿のままの米軍水兵たちでバーは一杯になっていた。しばらくひとりで飲んでいると水兵たちの間で飲んでいた190センチ以上はあろうかという赤ら顔の大男が私のところに来て一緒に飲んでも良いかというので、ああ構わないよということで男は私の隣りに陣取った。テキサスから商売で来たと言っていたが、言葉が口の中でモグモグいうテキサス訛りというやつで、本当に分かりにくい。ビールを一杯おごるというので、ありがたくいただくことにした。そのうちそのビールもなくなると、今度は私がおごり返した。何を話したかほとんど覚えていないが、たいした話しはしていない。が、何杯かビールを酌み交わしているうちにその大男かなり酔ってきたらしい。私も結構つられて酔っていた。しばらくするとその男は私の耳元で "ガール・ミー" "ガール・ミー"と呟きだした。何だか解らなくてしばらくほって別の話しをしていると、また "ガールミー" "ガールミー"とささやくのである。私はふと気がついた。これはヤバイ!。ふと正面のカウンターを見るとまだ残って飲んでいた水兵たちが興味ありげにじっとこっちを見ている。その中のひとりが片手を上げて私に意味あり気なウインクをした。私は即座にバーテンに勘定を頼むと、その大男に『今日はお会いできて楽しかった。これから約束があるから失礼する』旨を告げて立ち去ろうとしたら、その大男は悪態をつきだした。私が外に出るとその男も追ってくる。人通りの多いネーザン通り、その大男に腕を捕まれたわたしは、衆目の中、必至に腕を振りほどくと、足早に、いや、ほぼ駆け足でその場を逃げ出したが、その男はしばらく私を追ってきた。私は自分がスリでもして追われているのではないか、群衆に取り押さえられてしまうのではないかという恐怖心に抱かれながら、一応ことなきを得るにいたった。これで2度目の経験である。HOMOは怖い。


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