私のジャズ歴書  (パートVI)

   July 25, 1999 Up Dated

17.ジョン・コルトレーン

高校時代のひとつの話題を忘れていた。高三の秋に話しを戻そう。この年の秋(1966)、私の崇拝神ジョン・コルトレーンが新生バンドを引き連れて初来日することとなった。東京公演は大手町産経ホール、新宿厚生年金ホールを中心に5回程行われたと思うが、そのうちの3回を見に行った。その時の来日メンバーはコルトーレーンを筆頭にサックス、ファラオ・サンダース、ピアノにアリス・コルトレーン、ベース ジミー・ギャリソン、ドラムスにラッシッド・アリという顔触れで、この来日直前には日本でもライブ・アット・ヴィッレッジ・ヴァンガード・アゲインというアルバムが発売されており、おおむねの演奏内容は予測できたのだが、はたして、だいたいその通りの演奏内容となった。しかし曲目の題材は、あの黄金クァルテット時代の物が多く取り上げられ、マイ・フェヴァリット・シングズナイーマアフロ・ブルー等を新生バンド流にアレンジされて演奏した。生で見る神の存在感はスゴかった。ホール全体を覆うオーラを感じた。しかし正直言って、音楽に関しては、も少し以前のコルトレーン・ミュージックを聴きたかったというのが本音であった。フリーアプローチも決して嫌いなわけではないが、1960年から64年頃までの黄金クァルテットが残した演奏が余りにも素晴らし過ぎたと言えるのではないだろうか。私が素直に受け入れられたのはアセンションくらいまでであった。その後の演奏には、至上の物を作り上げてしまった人が更なる物を求めて苦悩する痛みが感じられるような気がしてしまうのである。コルトレーンの音楽、演奏、生涯についは沢山の意見、資料や文献があり、ここで私ごときがとやかくいうものではないが、翌年(1967)に早くもこの世を他界してしまうにあたっては、その辺の精神的重圧が身体自身をも蝕んでいったのではないかと自分なりに想像している。 そういう点ではソニー・ロリンズにも同じような感じを持っていて、1958年位にある程度、それまでのジャズの概念での範囲内では究極の演奏、アドリブも完成してしまった。さらにそれ以上を模索し悩んだ結果があの2年間の失踪となったのではないだろうか。折しもその頃はオーネット・コールマンや新しいジャンルが台頭し始め、そしてジョン・コルトレーンは既成概念を突破する努力に終始し、その成果が実りつつあった時でもあったから。その後1960年に復帰したロリンズは試行錯誤を繰り返し、いろいろな実験をしてみたがコルトレーンが完成したような一種独自の音楽世界というような物は創造できなかった。その時代の一部がこのページの最初の部分で書いた1963年初来日の時の演奏だったであろう。近年のロリンズの演奏をビデオ等で見る機会があるが、今のロリンズはそのテナーから発するオーラでもってシンプルなフレーズを繰り返し吹きながら聴衆を自分の世界に引きずり込んでいく、一種黒人協会で行われるゴスペルミサのような宗教的な要素を感じてしまうのである。もしコルトレーンが生きていたとしたらどのような音楽をやっているのだろうか。もしかしたら行き着くところロリンズと同じようなことをしているのかも知れないなどど考えてしまうこともある。 しかし信奉していた神を肉眼で見られた私は幸せものだった。あるコンサートの後、明大前マイルス一派が、公演後のラシッド・アリをマイルスまで連れていってしまった。あいにくその日は私は彼らとは別行動だったので、直接ラシッド・アリとは接触できなかったのだが。 後で聞いた話しによると、彼は大変紳士で、皆言葉の問題もあって、突っ込みたくても突っ込んだ話はできず、和気あいあいと楽しんで帰ったということだった。私が行った最後のコルトレーンの公演で彼がヤマハから提供されたというアルト・サックスを吹いたのが印象的に覚えている。

18.フーテン時代

高校3年からジュン・クラブ、オスカーへの出演は続いていたが、メンバーに佐藤さん、中山さんの理科大組が居たことにより、ジュンクラブで理科大の人たちと接触することも自然と多くなっていた。その理科大バンドが出演する時、ちょくちょく飛び入りしてアルト・サックスを吹く高校生がいた。彼は私と同学年で井野川耕治という名前であった。やはり当時は高校生でジャズをやる人は少なかったから彼とも仲良くなり、彼はその当時から夜、キャバレーのバンド等でアルバイトをしていたから当然顔も広く、いろいろなミュージシャンを紹介してもらった。彼は高校を卒業すると多摩美大へと進学することになった。彼については後にもう一度触れることにしよう。

高校も卒業したての頃、ジャズ以外に何もすることのない日々が少し続いた。ちょうどその頃、新宿にはフーテン族というのが目立ってきて、彼等の住まいは新宿の公園だったり、駅前の広場だったりした。要するにヒッピーの日本版である。彼等は新宿中央口通りの「風月堂」という喫茶店を根城とし、その分派は我々の「汀」にも進駐してきた。夜は当時流行りだしたばかりのデスコティックにタムロした。3丁目にあった「ジ・アザー」という店が一番流行っていたと思う。その中で歌舞伎町に「オビ」という店が出来、最初は「汀」でウエイトレスのバイトをしていたフーテンに属するたぐいの女の子に連れていかれたのだが、何故かこの店にハマってしまい、ここで夜を明かすようになってしまった。ここはジャズとは全然関係のない世界で大音量でソウルミュージックがかかっていたが、同世代のえたいの知れない連中の中で何か安堵感を覚えるものがあったのだ。多分落ちこぼれの私が自然と溶け込むような雰囲気があったのだろう。夜があければ、この連中と公園で寝たり、知らない奴のアパートに4,5人でもぐり込んで寝たりとかいう生活で、当然のごとく、しばらくお休みしていたあの、スリクも登場してきた。家には風呂と着替えに帰るぐらいでほとんど居ることはなかった。3月終わりから1ケ月位そんな暮らしをしたが、これは長くは続かない、金の充足もつかなくなり(本を売ったりしてお金を得ていた)、自分でもこんな生活をしていたら身の破滅になる不安を感じて家にもどることにした。

4月からは、某予備校に一応籍を置くことになった。この予備校には高三の時のサボ履り仲間の作家志望の同級生Iと一緒に通うことになった。学校は四谷にあったが、高校時代と変わることなく、ふたりで「汀」や「びざーる」でサボったり、金も無いので、というより飲む金欲しさに電車賃を節約して、四谷まで歩きがてに公園で子供たちと遊んだりとか、勉強に身が入る生活とはほど遠かった。四谷には同じサボり仲間のTが現役で上智大学へ進学していた。私たちはTが学校を終わるころを見計らって合流し、叉夕方の新宿へと舞い戻るのであった。新宿では立ち飲み酒場とか酒屋店頭の立ち飲み、小便横丁などを利用したがもっと安い所へということでTの実家があった吉祥寺あたりまで良く足を運んだ。「ファンキー」で時間を潰してから駅前ヤミ市跡の安酒場で飲む、当時は500円もあれば、かなり飲むことが出来たのだが、3人の資金源は相変わらず古本屋に愛蔵書を交代で手放すことによって成り立っていた。この当時ついに私は愛蔵していたLPレコードをも徐々に手放すクセがつきだした。この時期を持って、レコードをコレクションしようという野望は消えあせていったのだ。仕上げは毎回誰かが井の頭公園でろ〜げをして潰れるというパターンで1日、1日が終わっていったのだ。

ここでもうひとり高校の同期生を登場させよう、彼は名前を横井雅久といった。私とは中学1年で同級生となり、高校も同じ学校に進んだ。彼は中学時代に父親を亡くし、弟とふたり母親に育てられていたので苦労したことと思うがそのような様子は見せなかった。高校ではラグビー部に所属し、私たちジャズ不良たちとは、たまに喫茶店で授業を一緒にサボったくらいで余り接触することはなかった。が高校を卒業し、浪人する頃から新宿でタムロするようになり、私たちと「汀」で遊んだりするようになっていた。その横井がある日、新宿でナンパしたらしきちょっと年上の女性を「汀」に連れてきた。彼等はしばらく付き合っていたのだろう。しばらく時がたったある日の夕方、私がひとりで「汀」に行くと、その女性がひとりでションボリした面持ちで座っていた。何ということもなく同席し、夜まで時間を潰した。 「どうするの?」と聞くと「別にあてはない」という答え、私は彼女を明大前「マイルス」に誘った。 「マイルス」に入るとやはり彼女は最初その異様な雰囲気に気後れしたようだが、酒等飲むうちに段々と慣れていったようだ。「マイルス」のオヤジも彼女に興味があったようで、私たちの所に座りなんだかんだと喋っていた。 それからしばらくして、私が「マイルス」に行くと彼女がいつもマイルスに居た。それからどれくらいたったであろうか、何日、いや数ヶ月、良く覚えてはいないのだが、ある日「マイルス」へ立ち寄ったらオヤジが居なくて、オヤジの奥さんのモコさんが店をやっていた。顔は知っていたが、子供もまだ小さかったので、店に出ることはなかったママさんだ。オヤジはどうしたのか尋ねると、消えてしまったという。それから今日まで二度とオヤジは帰って来ない。あの女性と駆け落ちしてしまったのだ。私は「マイルス」に対しては何となく、今でも後ろめたい気持ちが残っているのである。

横井を何故実名で登場させたかというと、彼は一浪後、慶応大学へ進学する。苦学せねばならないので、当然アルバイトをしなければならなかった。それがよりによって彼は新宿の「ピットイン」でバイトを始めたのだ。もともとラグビーでガタイも良く、話し好きで押し出しの利く男であった。後に彼は日野晧正氏からスカウトされ、日野晧正、第一次黄金時代の日野晧バンドのマネージャーを勤めるのである。 その日野バンド時代の横井は相等ハデにたち振る舞っており、羽振りも良かった。あまり一緒に飲むことはなかったが、何回かおごってもらったことがある。当時の彼には歌舞伎町、コマの近くにあった「ジャックと豆の木」というスナックに連れていかれた。そこにはTVで顔を知っている関西の若手落語家がいたが、その店は山下洋輔筒井康隆赤塚不二雄らがタムロしタモリを芸能人に仕立てあげたというので名高い店である。日野氏がアメリカへ移住後、彼はプロモーターとして会社を起こし、日比谷野外ジャズフェスティバル等を主催する。しかし若い時の不摂生がたたり重度の糖尿病を患い、1996年の正月に他界することとなった。死ぬ直前の暮れ、私たち高三グループは一緒に飲む機会を得たが、インシュリンを腹などに注射しながら飲む姿が何故か痛々しかった。私は彼に菊池雅章氏のマネジャーを斡旋していたのだが、菊池氏は了解していたが、横井の方が避けていた。多分自分の体力を察知していたのであろう。「俺がこの世界に入ったのはお前のせいだ」と私は最後まで言われ続けた。 私たちの高校の同期生に最近良く売れているエッセイイスト、リンボー先生とニックネームされる林望という大学の先生がいる。彼の著書に「帰らぬ日遠い昔」なるものがあり、その中に高校時代、ピットイン時代の横井が描かれている。ちなみに私は林望とは高校時代に接触する機会は全然なかった。彼は真面目で大人しい目立たない少年であったから。

19.代々木「ナル」

ジャズの方はこの年はほとんど二階誠クィンテットに終始し、あとは東京理科大のメンバーと酒を酌み交わす位、あまり進展はなかった。練習もさほど真面目にやった記憶もない、ただ日々を過ごしていたにすぎない。でも金曜のジュン・クラブとオスカーが生活パターンの第一の部分であった。 ある日、代々木の「ナル」に降りていったらそこにアップライト・ピアノが設置してあった。何でも「ナル」でもライブを始めるとのことであった。そのピアノは我がバンド・メンバー佐藤修弘さんのピアノというではないか。そんなかんなで話しをしてみると代々木「ナル」のオーナーはこの店の前に飯田橋で喫茶店をやっていたらしく、東京歯科大学や理科大の人たちとの関連が強いと聞く。そのうち私も予備校の帰り、代々木に寄って、「ナル」へ寄ることが増えだした。最初は夜に行くことが多かった。というのは「マイルス」であんなことがあったため段々と夜の「マイルス」から足が遠のきだしたのだ。自然と夜ひとりで過ごす代替えの店が必要となってくる。「ナル」からは小田急線の南新宿駅から自宅へ帰ることができた。店のスタッフも開店当初の「びざ〜る」組はほとんど姿を消していて、東海大学の学生グループなどが働いていた。店のオーナーとも顔見知りになった。彼はほとんど店で働いていることはなかった。ちょっとヤクザチックな雰囲気で遊び人風、革ジャンをはおり、アイススケート靴など抱え、女の子を連れて店を出入りしていた。でも年はまだ20代前半だという。しばらくしてライブをやらしてもらえることになり初めて自分でインスタントバンドを結成した。この時のメンバーはハッキリとは覚えていないのだが、ピアノに佐藤修弘さんの妹のミワ子さん、彼女はもうプロミュージシャンとして仕事をしていた。ベースには理科大2年生、新進気鋭の村山秀樹さん(お友達コラムに掲載)、ドラムはつのだひろに頼んだ。そのライブでどういう演奏をしたかは残念ながら全く記憶にない。とある日この店のオーナーが人が足りないので、しばらく朝この店で働かないかと言う。予備校もあまり真面目には行っていなかったし、何よりも金が欲しかった私としてはふたつ返事で承諾し、しばらく昼間のナルでバイトをすることとなった。 朝のナルは近所の代々木ゼミナールや代々木学院などの予備校に通う人たちが常連の客だった。当時はコーヒーは一杯130円位に相場は値上がりしていた。それで昼間一日ネバるのである。家から直接代々木のナルに通う毎日が始まった。朝11時の店オープン前10時半頃、店を開けに行くのだが、その時すでに店の前で待っている人たちがいる。それが日下部さん(元スタンダーズ・オーナー)や笹沼さん(現、小淵沢、月下草舎オーナー)たちだった。同じく予備校生だった彼等も予備校で過ごす時間より、ナルで過ごした時間の方が圧倒的に多かったであろう。この年の夏頃から3ヶ月位、ここで朝から夕方までアルバイトのカウンター暮らしとなった。この頃、このナルのライブに登場したひとりのテナー・サックス奏者がいた。植松孝夫さんであった。初めて見た彼のライブで彼は「FORE & MORE」時代のマイルス・バンドのジョージ・コールマン張りのソロを吹きまくり、私は度肝を抜かれた。高校時代から演奏していて有頂天になっていた私はジュン・クラブでの峰さん、この植松さんの出現によって、鼻っ柱をしこたま折られることになった。植松さんともモードのスケールの話しや、彼が渋谷毅から仕入れた理論など、面白い話を聞かせてもらった。その頃、私はテナーのジョー・ヘンダーソンの演奏に大変興味を持っていて、植松さんもそうだということで意気投合したものだった。ナルのバイト時、お客が少ない時や、リクエストが混でいない時にはジョー・ヘンダーソンを聴きあさった。しばらくすると、先出の井野川や他の人たちから、キャバレーやクラブのバンドのトラ(エキストラ、臨時メンバーのこと)の仕事の話しが舞い込みだした。毎日ではなくとも、少しはお金が入ってくるそちらの仕事の方に、生活がシフト換えされて行くようになっていった。

20.二階バンドの解散

このようにしてあっという間に1年が過ぎ去ろうとしていた。二階誠クィンテットは三人のメンバーが大学卒業を控えていた。二階さん自身と佐藤修弘さんとドラムの高橋さんである。これを期に2年間続いたこのバンドは解散することになった。二階さんは、そのままプロの道に進みフルバンドの箱(常に籍を置いて活動すること)に入った。佐藤さんは一度は商社に就職するという話しもあったが、結局彼もミュージシャンとして生活していくこととなった。高橋さんは横浜市か川崎市の公務員になった。3年生だったベースの中山さんは理科大のスパイラルステップスに専念することとなり、残された私だけが、相変わらずのフーテン状態、こんな状態で大学など受かるはずもなく、幾つかの私立大学を受験するにはしたが、見事の全部不合格であった。


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