私のジャズ歴書 (パートV)

   July 2,1999 Up Dated

13.二階誠クィンテット

JUNクラブでのわれわれのレパートリーはというと、リーダーの二階さんがトランペットということで、自然とマイルス・バンドのレパートリーが多かった。ドラムの高橋さんが右手のシンバル・レガートを素晴らしくブッ早く叩けるのが特徴だったので、超アップテンポの「オレオ」とか「マイルストーン」が売り物となった。その他には、コルトレーンの「オレ」のような曲もやったりしていた。マイルスの「FOUR & MORE」とかが参考になったが、その頃流行りだした、ハンコック物なんかも研究した。私も新主流派系が好きだったので、二階さんとはウマが合ったのかも知れない。二人でマイルスでハンコックの「MADEN VOYAGE」なんかをああでもない、こうでもないとか言いながら良く研究したものだ。その頃、新宿のジャズコーナーが同じ場所で「タロー」と言う屋号に変り、毎日ライブをやるようになっていた。松本英彦グループから独立したジョージ大塚が新進のピアニスト市川秀男、ベースに寺川正興という新生トリオで毎週日曜日に出演していて、これが凄いテンポとテクニックでマイルスやハンコックの曲をやっていた。これにはド肝を抜かれ毎週のように二階さんと聞きにいった。そのうち市川さんとも、なんとなく喋るようになり、我々が普段疑問に思っていることとか教えてもらうようになった。でも企業秘密的なところもあったらしく、事、詳細にいたっては、教えてくれないことも多かったが。ある日、私たちがJUNクラブへ出演していた時、市川さんがプラリと遊びに来てくれた。是非一緒にやってくださいという事で共演してもらったのは鮮明に覚えている。曲はハンコックの「CANTALOPE ISLAND」と猛烈にブッ早いテンポの「枯葉」であった。その時の市川さんは強烈であった。その日、市川さんは「なんだお前たちのバンドは二階で『誠』という新撰組かなんかがやっているバンド名かと思ったよ」とか冗談を言っていたのを思い出す。

JUNクラブにはそのうちいろいろなバンドが出演するようになった。先出の東京理科大学のジャズ研も木曜日のレギュラーを獲得し、当然ベースの中山憲一とピアノの佐藤修弘はうちのバンドとダブルで出演することとなった。後はトランペットの小林悟さんとドラムの志村徹さんでふたりとも2年生であった。このバンドはスパイラルステップスと銘打って、後にTBSラジオ主催の全国大学対抗バンド合戦で優勝することになる。他には、当時日大に在学中であったギターの川崎遼のグループ、ここのバンドにはドラムで私より一級下、高校2年の角田博民(現、つのだ☆ひろ)がいた。川崎遼さんは抜群に上手くて、当時、早稲田大学にいた増尾好秋、青山学院大の直井隆雄と学生ギター三羽ガラスと言われていて3人とも学生中にプロデビューをしたことは周知の事実だろう。角田はお互い高校生ということもあって、すぐに仲良くなった。当時、彼は高校に通いながら、富樫雅彦さんのバンドボーイをやっていて、ドラムの修業をしていた。後に彼が渡辺貞夫クァルテットを経て、徐々にロックの分野に進んでいくのには、私も若干関与することになった。後はプロ組で、アルトの唐木洋介さん(現 原信夫とシャープス・アンド・フラッツのテナー奏者)のグループ、ドラムには小原哲次郎さんがいた。唐木さんも小原さんもこの頃は中央大在学中だったか、卒業して間近だったと思う。すぐこの後に唐木さんがジョー・ヘンダーソンに弟子入りのためアメリカに留学することになり、この後がまにはまだ十代だった峰厚介さんがアルト・サックスで加わった。峰さんの登場にもショックを受けたので、とある日、峰さんたちが仕事をしているバンドが凄いというので、その仕事場である池袋西口のキャバレーの楽屋を覗きにいった事がある。キャバレーであるのにも関わらずすごくハードな演奏をしていて、そのバンドのリーダーが峰さんの師匠の加藤久鎮さんというテナー奏者であった。加藤久鎮さんは、とある風の吹き回しで、その25年後、私の師匠となるはめになる。 しばらく後にはトランペットの日野晧正さんのグループもJUNクラブに出演するようになった。

私たちがJUNクラブへ出演する時には法政大学のジャズ研連中が毎回客として来てくれていた。これでライブがはねた後には毎回メンバーと学生たちは新宿に繰り出し、歌舞伎町にあった「庄助」という立ち飲みやでウダをあげることが習慣になってしまった。ビレッジゲートのほぼ隣にあった店で、日本酒のベンダーがずらりと並び、50円をいれるとその自販機から燗酒がコップ1杯出てくるのである。つまみは冷や奴とかおひたしとか20〜30円位でセルフサービス、老夫婦だけでやっていたと思う。店は割と広かったが、椅子はなく、造作なく作った止まり木のようなカウンターテーブルで、労働者がただひたすら飲むだけという雰囲気の店だった。その頃ほとんど酒を飲めなかった私は、毎回ここで先輩たちから強引に飲まされるハメとなった。そして毎回お世辞にもキレイとはいえないトイレでロ〜ゲする苦しみを味わった。これが半年もやっているうちに段々と酒が飲めるようになってきたのだ。例のスリクの方はそれまで、ともすれば1箱全部いっぺんに飲むようにもなっていたのだが、ある日マイルスから夜中帰宅する道すがら意識を失い、朝まで路上で倒れてしまったことがあった。それと、捨て場に困って自室の押し入れのスキーブーツ入れに隠していた膨大な量の空箱を母親に見つかったことがある。その時の母親は半狂乱だった。そのような訳でだんだん酒が飲めるようになった私は自然と薬から遠ざかりだし、マイルスへ行っても、ハイボール頂戴というようになっていた。ちょうど高校の不良文学仲間とも吉祥寺などへ行って安酒を一緒に飲むようになっていった。それでほとんどスリクの誘惑からは解除されたのだが、この後の人生ず〜っとアルコールのお世話になることになるのである。

14.渋谷「オスカー」

池袋JUNクラブをはじめてからしばらくたった頃、渋谷道玄坂にあった「オスカー」でライブを始める事になった。事の経緯はよくわからないが、各大学のジャズバンドを中心にライブを行なうことになったらしい。場所は百軒店の当時ジャズ喫茶がたてこむ一角の手前カレーの「ムルギ」の角を右に曲がった所にあって、ジャズ喫茶としてはかなり広いスペースだった。各大学のレギュラーバンドが順次出演するというシステムになって、我が二階誠クィンテットも一応、法政大学の正規バンドという建前で出演することになった。出番としては月1回出演するペースであっただろうか。初期のオスカーでの印象は、自分たちの出番でない日の他校の大学のスーパー・スター達であった。土曜日の晩のライブが多かったと思うが、そこで見聞きした学生ミュージシャンには素晴らしい人たちがいた。先出の東大の藤田さん、春日井さんしかり、青学の直井さん、青学にはもうひとり、ドラマーに岸田恵二さんという凄い人がいた。そして凄かったのは早稲田で、彼らは2バンドをエントリーしていた。イーストコースト・グループとウエストコースト・グループというバンド名で、イースト・コースト・グループはギターとアルト・サックスによるクィンテットでギターが増尾好秋さん、そしてアルトが現在新宿「J」のオーナーである幸田稔さんであった。ウエスト・グループは確か2管編成だったと思うが、今のベースのチンさんこと鈴木良雄さんが素晴らしいピアノを弾いていたのである。この年の暮れ、全部のバンドが会してライブが行われた。その時はどうしても敗けじ、とガムシャラに頑張った記憶があるが、内容はどうだったのだろうか。その時には「つのだ」も高校の詰め襟を着たまま出演していた。増尾さんと鈴木良雄さんはその年が明けてすぐに渡辺貞夫さんに抜擢され鈴木さんはベースとして学生のままプロに転向してナベサダ・カルテットのメンバーとなってしまった。このオスカーには二階誠クィンテットでその後1年以上出演することになったと思う。私たちが演奏しているとある日、自分がソロを取っていて突然、バックのドラムのサウンドが変わったことがある。凄い馬力になったのだ。ソロを終えて後ろを振り返って見ると、その人は故、白木秀雄さんだったというエピソードもある。 このオスカーは後に渋谷西口の東急プラザ横を入った奥まった所に移転することになるが、後に二階バンドが解散する後も私は後々までお世話になることとなった。

15.新宿「ポニー」、新宿「ピットイン」、代々木「ナル」

その頃若手のジャズ・ミュージシャンは毎週土曜、歌舞伎町のポニーに集まりオールナイトで朝まで過ごすという話しで、法政のメンバーや二階さんたちも日曜の朝はポニーで迎えるという習慣がついたらしい。いかんせん高校生だった私は内心ウズウズしていたが行くことはできなかった。富樫雅彦さんはじめ、いろいろなミュージシャンが仕事後にタムロしていたらしいのである。ある日二階さんたちからたまにはお前も来いというので、夜中、家の者が寝静まった後、そっと家を抜け出しポニーまで行ったことがある。当然、終電も終わっているので、甲州街道を延々1時間以上かけて歩くことになる。しかし1回行ってみると、こちらは顔を知っているミュージシャンが4,5人は居て、話しをするわけではないが、何となく場を共有しているような感覚にとらわれ、あたかも自分も一戦級のミュージシャンのような錯覚にとらわれるのである。後にそのミュージシャンたちに聞いたら、あの頃は金もないから、皆あそこで時間つぶしにラリっていたんだよ、ということだったらしい。 とある晩、もう1回このポニー行きに挑戦した。甲州街道をウィスキーのポケット瓶片手にトコトコ歩いていて代田橋くらいにさしかかった頃だったろうか、私に平行してスローダウンして走行している車に気がついた。しばらくしてそのドライバーが私に手招きする、怪訝に近づいてみると中年のオヤジがどこまで行くのかと尋ねるので、新宿までと答えると、じゃー乗っかっていけというので渡りに船とばかり助手席に乗った。するとこのオヤジ車を走らせながらやたらと卑猥な話しをする、しばらくすると私の太もものあたりを撫でだした。とっさの危機を察した私は何とか話しをハグらかしながら新宿駅南口までたどり着いた。当時の夜中の新宿駅南口なぞは人っ子ひとり居ないワビれた場所であった。礼を言って車を降りようとすると、そのオヤジはいきなりドアをロックするなり私を浴びせ倒しにかかった。そこからは修羅場である、車の中で猛烈な殴り合いとなると無理矢理ドアを蹴りあけて、新宿の街中を走り出した。当時の私にはそのたぐいの人種がこの世の中に現存するなど考えたこともなかったのだ。その後の人生では2,3回似たような経験をするが今のところ無事で通している。

やはりこの年、新宿紀伊国屋の路地裏に「ピットイン」が誕生した。この時銀座の「ジャズギャラリー8」はまだ営業していたか、もうクローズしていたかは覚えていない。しかし新たなジャズのライブスペースの誕生で、ここでもいろいろな若手ミュージシャンをジカに見聞きすることができたのでジャズシーンにとっては朗報だったであろう。最初の頃はテナーの故、武田和命さんとピアノの本田竹彦さんをよく聞いた。しばらく後、新生、山下洋輔トリオがここをベースに凄い演奏を繰り広げることは有名であろう。山下洋輔トリオに加わるテナーの中村誠一さんは、まだJUNクラブで川崎遼さんたちとオーソドックスな演奏をしているのを聞いていたので、この山下洋輔トリオの誕生には驚いたものだった。ピットインは一種日本のフリージャズの原点ともなる場所となり、高木元輝さんや吉沢元治さんを生みだしたし、後に私の師匠となる加藤久鎮も佐藤充彦さんと組んでここでフリーをやっていた時期がある。

とある日、代々木で代ゼミの講習を受けての帰り道(少しは受験勉強もしたことがある)、今まで普通の喫茶店だった所にジャズの看板が出ていた。興味を持ってその階段を降りてみると、ジャズ喫茶になっている。するとカウンターには新宿の「びざ〜る」というジャズ喫茶で働いていた連中が働いていて(「びざ〜る」にも高校仲間と放課後よく行った)、ここは新規にオープンした店でここに移ったと言う。時折り代々木に行った帰りにこの店にたち寄ったが当初は後にこの店にこんなに関連するとは思いもしなかった。それが代々木「ナル」の誕生であった。

16.高校も終わり

高三時代の夜はほとんど二階バンドで過ごす生活となったが、学校のほうはというと、相変わらず勉強しない生活が続いていた。サボル時間も増える一方で、ある日、学校から歩いて200メートル位の明治道り沿いに新宿からジャズ喫茶の「き〜よ」が引っ越して来て、朝から普通の喫茶店として営業を開始した。もちろんBGMにはジャズがかかっていたのでこれには好都合とばかり、授業をサボル時はこの「き〜よ」を利用した。この店には昼夜を問わず、キレイなお姉さまがたが2,3人づつバイトしていた。われわれサボリ仲間はそれぞれにお目当てを見つけ、そのお姉さまにカマってもらうのが楽しみになった。店のマスターはここの店に顔を出すことはほとんどなかったが、ここだけの話し、伝え聞いた所によるとなかなかの好き者だったらしい。なのでそれだけ綺麗なお姉さまがたが集まっていたのだということらしかった。しかし向こうは20代前半から後半の妙齢、こちらは詰め襟を着た高校生、「あら、僕たちまたサボッてるの?」みたいにあしらわれてはいたが。

高三の夏休み学校では3年生全員の補習が2週間位続いた。そのある日、午後の放課後、高一クィンテットのメンバー何人かが早稲田の喫茶店で時間を潰していた。その日は早稲田高校の生徒も制服のままその喫茶店に沢山タムロしていたらしい。近くの戸塚警察にタレ込みがあったらしく、私服警官がその店を調べに来た。そして我らがメンバーのテーブルにも不審尋問が行われ、皆は予備校生だと言って、難を逃れた(夏休みなので制服は着ていなかった)のだが、目黒のボンボンであったベース君がその尋問にしどろもどろになってしまい、喫煙のかどで彼ひとりだけ補導されてしまった。あわてた残されたメンバーは学校に報告したのだが、彼らは懲戒処分のみ、数日後、親とともに校長室に出頭を言い渡されたのは、その事件現場に居合わせていなかった私であった。学校の風紀担当の教師は物理の頭の堅い先生で、皆からのキラワレ物であった。その風紀先生から露骨に毛嫌いされていたのが、2年の事件以来の私であったので、3年になってからはその教師の授業には一度も出席しなかった。朝の一時限目ということもそれを手伝った。私が音楽をやっていることは噂で学校にはバレてはいたようだ、今度の補導事件の原因はリーダー格である私の存在がいけないという訳のわからぬ理由によりわたしは再び一週間の停学を命じられた。これには私も当然不服で、異議が通らなければ学校を辞めると言い張ったのだが、高一バンドのメンバーと3年のサボリ仲間、それと3年の担任(この先生は当時芥川賞の毎回エントリーされていた作家でもあって、私は彼を尊敬していたので)の説得により退学は思いとどまることになり、一週間の停学の刑を甘んじて受けることとあいなった。これはつい数年前、冤罪であるということを久しぶりに参加した同窓会で当時の関係者たちにはらしてもらうことになったが。

そうこうしているうちに時もたち、春の受験シーズンも迎えたが、担任からお前は物理の出席日数がないのだから、兎に角、物理の最後の試験だけは受けてくれと言われ、受けるには受けた。しかし案の定、風紀委員長の物理教師は私に単位はあげられないということで、私の卒業問題は卒業式直前の最後の最後まで職員会議の話題となってしまったらしい。しかし最終的には前例がない3年の物理の単位未取得のまま卒業が認められるという結果になった。学校に残しても他の迷惑になるだけということだったのであろう。しかしその結果をもらった時には、私立も公立の大学も入試時期を終えており、国立二期校しか残っていなかった。とりあえずとある国立二期校を受験したが、何も勉強していない私にとってはしょせん蛙に小便であった。やっと高校は卒業するにはしたが、何も決まらないまま自然と浪人生活に入り、夜は相変わらずジャズ三昧、二階誠クィンテットの活動もそのまま引き続き2年目を迎えていた。


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