私のジャズ歴書 (パートIII)

(June 11,1999 Last Up Dated)

8.高一後半

かれこれ高一も秋も深まり、(この年の10月には東京オリンピックが開催された。)我が高校ブラスバンド部は文化祭をむかえることになった。おかたかった我がブラバンもどういう風のふきまわしか、ジャズを取り上げようという事になった。もちろん顧問の音楽教師は反対だったが、上級生が押し切った。そして小熊達也編曲によるグレン・ミラーの「ムーンライト・セレナーデ」とわが高一クインテットによる「枯葉」が採用され、上演されたのであった。これはこの高校史上初で結構反響を呼んだ。(今我が母校のこのブラバンは部員80名を擁する大クラブになっていて、全国大会でも健闘する有名バンドに成長している。私の同級生の娘が現在所属しており、コンサートを見に行く機会があったが、総勢80名が鳴らすサウンドは圧巻なものがある。今では、そのレパートリーの半分以上が、ジャズ、ポップス系なのは時代を考えさせられるものがある。)

年も明けると、我が高一クインテットはだんだん練習をしなくなってきた。ひとつは受験校だったので、私を除いたメンバーは勉強しなくてはいけないと思いだしたらしい。私は相変わらず勉強なぞどこ吹く風で、担任からは『お前の成績は急降下低空飛行だ』といわれ続けた。入った時の成績は良かったが、急降下してから、上昇することは、残りの高校生活では遂になかったのだ。その代わりジャズに関する書物は結構読みあさったし、それから派生してアメリカのビート・ジェネレーションの詩人や作家たち(アレン・ギンズバーグジャック・ケラワックウィリアム・バローズなど)に始まり、ゆくゆくはアメリカ現代文学ノーマン・メイラージェームズ・ボールドウィンヘンリー・ミラー等にハマっていくのであった。もうひとつバンドが練習をしなくなった理由はピアノの小熊がだんだんとエレクトーンの世界にハマっていった事だ。彼の家には次々と最新のエレクトーンが運びこまれてくる。どうしたのかと尋ねると、ヤマハが無料で試供用にと貸してくれるとの事。もともと機械好きの彼はエレクトーンのメカニックさに凝ってしまったらしい。数年後、彼はヤマハの全国エレクトーン・コンテストで優勝することになるのである。

9.ジャズ・ギャラリー8とライブ、ジャズ喫茶

この頃銀座の松屋の裏、昭和通りの方面に入った所のビルの地下にプロの若手ミュージシャンがライブ演奏をする「ジャズ・ギャラリー8」なる店が出来た。小熊を除く我が高一バンドメンバーは放課後、新宿駅の荷物預かり所(コインロッカーなるものは当時はまだなかった)に鞄を預け、銀座にあしげく通うようになるのである。昼の部、夜の部とあったようだが、我々は昼の部の後半を見に行くことが多かった。出演者で印象に残っているのは、(今、思い出せる人たち)当時まだ無名だった日野晧正元彦兄弟、サックスの村岡建、ピアノの山下洋輔大野雄二、ドラムの石井剛小津昌彦、ギターの鈴木充、ベースの稲葉国光滝本国郎、すでに有名だったところでは、宇山恭平高柳昌行沢田俊吾などのギター勢、ベースの金井英人などの面々が熱いジャズを繰り広げていたのだ。それをコーヒー一杯300円位で見られたのである。これにはハマってしまって、私自身は週2回ぐらいは行ったと思われる。もちろんジャズの勉強になったことは言うまでもない。特に印象的だったのは山下洋輔のトリオで、全然アヴァンギャルドな演奏ではなかったが、時々モンク的なサウンドを取り入れるのと、弾きながら彼の足が宙を舞うのが斬新であった。この頃にはやはり銀座にあるシャンソンの店「銀巴里」が金曜日をジャズに開放していて、銀巴里セッションが行われていた。高柳さんが出演しているのを見た記憶がある。ジャズ・ギャラリー8はどれくらい続いたのであろうか、渡辺貞夫が日本人として初めて奨学金をもらってアメリカのバークレー音楽院へ留学し、その帰国のライブをここで見たのは1967年であっただろうか? その時のクァルテット(前田憲男ピアノ、富樫雅彦ドラム)の演奏も熱気があってとても凄かった。このライブは今でもミュージシャンの間では、伝説的になっているらしい。まあこのギャラリー8は2,3年で閉店となってしまったのだと思う。時を同じくしたころ、新宿の歌舞伎町、ミラノ座の手前の小さなビルの4階にも「ジャズ・コーナー」という名(後のタローの前進)のライブハウスが登場した。ここにもジャズ・ギャラリー8に出演していたミュージシャンを始め若手が出演していた。そんなこんなで学校帰りは早稲田の「MOZZ」から新宿へ、時には銀座へと移行していった。当時の新宿はジャズ喫茶の宝庫であった。「木馬」、「き〜よ」、「」、「DIG」, 「ジャズ・ビレッジ」、「ビレッジ・ゲイト」、「ポニー」まだまだ思い出せない位の店があった。ひと通りは全部顔は出したが、結局、居座りやすくて、しかも20代前半の若くてきれいなバイトのお姉さんたちがいる「」がわれわれのたまり場となった。三越裏と場外馬券場の間、ポルノ映画館の前で決していい環境とはいえない場所にあったが、高校時代ここで過ごした膨大な時間を考えると空恐ろしい思いをする。しかしここで聞き覚えた曲の数々が今の私の血になっているのであろう。

高校2年になった頃には我が高一クインテットは自然消滅状態になっていたし、ブラバンの部活にもほとんど参加しなくなった。自分でもジャズのスキルをもっとアップグレードしたかったのであろう、スウイング・ジャーナル誌の交換欄にバンドメンバー(管楽器)募集の広告が目に入った。場所も高田馬場であったので学校のそば、これは好都合という事で早速電話しオーディションのようなものを受けることになった。高田馬場の駅の近く個人の大きな家がその場所で、そのバンドは当時法政大学の学生だった(りゅう)さんという人がギターであり、リーダーであった。(その竜さんには後に偶然に再会することになるのだが。)竜さんの父君は洋画家であったらしく、その大きなアトリエの一角が練習場であった。他のメンバーも皆現役の大学生で慶応のピアノとベース、もうひとり法政のドラムという編成であった。そのオーディションもどきに一発で合格(?)し、その場でそのバンドのメンバーとなった。レパートリーはスタンダード中心で、あとはダンス用のラテン物などであった。このラテンの曲たちは後年キャバレーとかで仕事をするのに多いに役立つ結果となったのだが。週一回ペースの練習で、時には当時はやりであった大学生のダンスパーティーなるものの仕事をした。このパーティー用に中野のマルイで初めての1万円のスーツを買わなければならないハメにおちいった。このバンドには私が高二の秋、新宿の戸山町から世田谷の松原に転居するまでの約半年位の間在籍することとなった。この年の夏休み前に私はつまらぬ事情で1回目の1週間の停学を喰らうのである。しかしこれはジャズには関連しないので、ここでは記さない。しかし学校では校史始まって以来の不良というレッテルを貼られることとあいなった。

10.明大前 マイルス

高二の秋、家の事情で世田谷に移り住んだ。家は京王線の明大前と小田急線の豪徳寺を結んだ通りの丁度真ん中位に位置し、明大前までは徒歩12,3分だった。明大前北口商店街の奥まった所に「マイルス」というジャズ喫茶があった。当時は知る人ぞ知るというような店だったが、以前に一度高一バンドの連中と訪れた事があった。4坪位の古い小さな店で、トイレは大穴直下型、入口のドアを開けるとトイレ臭がただようちょっと異様な感じがする店だったので、あまり良い印象はもっていなかった。しかし、学校帰り、新宿の「汀」で仲間とすごした後、夕方ちょくちょくこの店に寄るようになっていった。勿論、学生服に鞄を抱えたままである。これが私の人生を狂わせる第一歩なぞとは予測だにしなかったのだが。 そこはマスターひとりで店をやっていた。そのマスターは当時30代半ばか後半だったように思う。物の本(ジャズ誌)などによると、トラックの運転手をやっていたとか、ダンサーをやっていたとか、相等、風変わりで頑固もののように書いてあった。勿論見た目にも背はわりと小柄だが、頭は五部刈りのように短く、いろ浅黒く、するどい目つきで、それでいてどこか敏捷そうで、喧嘩も強そう、とっつきがたい、得体のしれないオヤジに見えたものだ。だが何回か通ううちにそのマスターと自然と会話するようになった。「君、どこの高校生? ジャズ好きなの? どんなのが好きなの? ふ〜ん。」こんな会話から始まったように思う。別に喋れば普通じゃないか、とか思った記憶がある。そのうち、だんだんと「マイルス」へ立ち寄って家に帰るというパターンが増えてきた。オヤジとも結構ジャズの話しとか文学論をしたりするようになり、「お前はまだヤワだとか、甘い」とか言われるようになった。このオヤジは文学関係も結構読み込んでいて、なかなかの見識を持っている、というよりこちらが未熟だったのだが、現代日本文学などについては相等な知識だった。そんなこんなで、アメリカ物ばかり読んでいて偏見がある私には、かなりの影響をほどこされることになった。店の書庫にあった安部公房の『砂漠の思想』というエッセイは、その後、私の青春のバイブルとなった。そのオヤジの影響で私も現代日本文学のみならず、古典(といっても明治以降)の文学も読むようになっていくのである。すぐ後にわかるのだが、その店には当時、谷川俊太郎白石かず子寺山修司などの詩人や文学者なども時折出入りしていたのだ。このオヤジは既成概念に束縛されることない全くユニークな人物だったと思う。スィング・ジャーナル誌のジャズ批評など屁の河童で、自分で聴いていいものはいい、悪いものは悪いとはっきり言える人だった。当時前衛ジャズが台頭し出したころだったが、アルバート・アイラーオーネット・コールマンにはいち早く着目していて、「マイルス」は前衛がよくかかる店というイメージも着きだしてはいたのだが、決してメインストリームもないがしろにされていたわけではなかった。オヤジのお気に入りはソニー・ロリンズソニー・スティットの「ソニーサイドアップ」だったりして、客が居ないときなどよく一人で聴いていた。その1年くらいあとだったろうが、森進一がデビューしたときは、これは凄い奴が出たと喜んでいたり、高倉健番外地シリーズなどには土曜の深夜映画に通っていた。そうこうしているうち、私は学校帰りに「マイルスに寄るのではなくして、一度家に帰ってから夕食後「マイルス」に出向くようになっていった。夜の「マイルス」は高校生の私にとっては新たな体験のはじまりの店だった。オヤジはほとんど酒は飲まなかった。というより飲めないたちだった。私も煙草は吸い出してはいたが、酒はほとんど飲まなかった、というより余り飲める方ではなかったので、飲もうとは思わなかったという方があったっているかもしれない。ある夜オヤジが一錠の錠剤を差し出した。「いぐち、黙ってこれ飲んでみなよ。」言われるまま私はその錠剤を飲み込んだ。15分位たっただろうか、いとも変な感覚に身体が覆われるのを感じた。それが生まれて初めて飲んだハイミナールだったのだ。


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