私のジャズ歴書  (パートII)

4. アルト・サックス

中二の時だったか、神田神保町の質屋兼古道具屋みたいな店で中古のアルト・サックスを見つける。これは2万円位の代物で、これも今は亡きプリマ社製、当時としても破格な値段であったと思う。これをどう金策したか覚えがないのだが、多分親に無理矢理たかったのであろう、手に入れた。 サックスの方はトランペット程苦労する事なく割と早くから音が出るようになった。 入手後4,5日でワークソングのリフが吹けていた。 それからは遮二無二アルト三昧の毎日となっていった。 スウイングジャーナル誌の存在も知る事となり、毎月の購読はおろか、高田馬場の古本屋でバックナンバーも集めることとなり、内外のジャズの知識もだいぶ蓄積されてきていた。すぐ家の近所に住んでいたIという同窓生が当時デビューしたばっかりのビートルズにハマりだしていたのだが、だんだん私に感化されジャズに傾倒しだしていた。彼が新宿三光町にあったマルミ・レコード(ジャズの輸入盤専門店)で購入してきたマイルスの「セブン・ステップス・トゥ・ヘブン」という輸入盤の新譜はこれまでハードバップばかり聞いてきた私にはまたある種の衝撃でもあった。ハンコック、トニー・ウィリアムスという新人たちが(後に解るのだが)、新主流派の時代到来を告げていたのだ。

学校では当時ジャズなど聞く生徒はほぼ皆無で、Tという同窓生が私に興味を寄せてきた。彼は楽器が好きでトランペットをやりたいと言う。彼にクリフォード・ブラウンとかを聞かせると、彼もだんだんとジャズに傾倒していくようになった。 当時の区立中学にはブラスバンドなど存在しなかったが、たまたまF先生という音大出の音楽教師が、授業ではハチャメチャ頑固な人だったが、自分も学生時代はトミー・ドシーなんかを良く聴いたもんだと理解を示してくれ、放課後、音楽室を使わせてくれる恩恵にあずかることとなった。 そこで先出のI,Tとともに、サックス、トランペット、ドラム(学校のスネアを借りた)でブンチャカはじまったのである。そのうちその音を聴いて有象無象が集まりだしたのだが、ピアノやギターを弾くなんていうシャレ者はいなかった。 エレキブームはその2,3年後に起こるのである。

中三の時ソニー・ロリンズが初来日した。新宿厚生年金会館で、私が初めて行ったジャズコンサートであった。 ソニー・ロリンズがモヒカン・カットで登場したあの伝説的なコンサートであったが、当時は私はすでに、ソニー・ロリンズからジョン・コルトレーンに気持ちが移っていたので、余り興奮することなく冷静に鑑賞していたのを良く覚えている。 ロリンズも前衛を意識した演奏で、メンバーもポール・ブレイ、ヘンリー・グライムス、ラシッド・アリ(トランペット)という、そういう演奏を意識しての編成だったのであろう。私はロリンズに関しては1958年までの演奏が好きである。

5. 怒濤の高校時代幕開け

そのうち都立高校に進学することとなった。 期せずして、先出のIとTも同じ高校に進むことになった。当然高校にはマイナーながらブラスバンドも存在したので3人ともこのブラスバンドに所属することとなった。この高校は男子校ではないが、男女比3対1,どちらかというと大変堅い校風の進学校である。 私は卒業時、某有名私大付属高校にも合格していて、自分ではそちらへの進学を希望していたのである。でも中学の担任と親が勉強すればT大への進学率が高いからと、半強制的にこの都立高校に入学したのであった。しかし自分には勉強しない予感が見えていたのである。ブラスバンドも当然堅い雰囲気で、マーチやクラシックの練習に明け暮れていた。そうこうして一ヶ月位たったある日、ひとりの1年生がブラバンにサックスをやりたいと入部してきたのである。 私は音楽教師の目を盗んでは、よく音楽室でアルトでジャズの練習をしていた。その時その入部志望の1年生が私の傍らピアノに座るなりいきなり私の伴奏を始めたのだ。 それが、何とスゴイ。ハーモニーもばっちりジャズ、指もパラパラと軽快に動くのだ。 その人物が今、日本のエレクトーン界の権威である小熊達也だったのあである。 すぐにバンドが結成された。 やはり同じ一年生でマセガキだったIIという生徒(現明治大学仏文学教授)がどこからかコントラバスを持ち込んで来てTP,AS,P,B,Dという格好だけはそれなりの五重奏団が作られた。練習場はピアノがあった小熊の家、試行錯誤の練習が始まった。 この頃から小熊と私の練習でブルースのコードはこうやとか、循環コードはこうやという事が実践的に理解されていく事になったのである。

高校に入学したての頃、Iから早稲田のグランド坂上交差点のところにある、MOZZというジャズ喫茶の存在を教わる。ここは私たちの高校からも、戸山町という所に住んでいた私の家からもさほど遠くないという事もあって、最初は恐る恐る二人で入って、肩をすぼめてコーヒーをそそっていたのだが、慣れるにつれ一人でも出入りするようになったし、当然、我々バンドのメンバーの放課後のたまり場ともなっていった。そこは早稲田大学ジャズ研のたまり場でもあったらしく、コーヒー一杯80円位で何時間でも粘ることが出来た。 年のころ20代なかば位に思っていたのだが、きれいなお姉さまがひとりで切り盛りしていて、私は密かにアコがれていた。 そのお姉さまにリクエストを頼む時、胸がときめいたものだった。 そのMOZZで印象に残ったレコードはマッコイ・タイナーの「インセプション」。 その頃にはもうすでにコルトレーンフリークになっていた私はコルトレーンのインパルス盤は「アフリカ」から「ヴィレッジ・ヴァンガード」まで手にしていたのだが、この「インセプション」によって改めてピアノの新しいサウンドの確認をするとともに、その響きが自分にとって気持ち良く、また興奮するものとなったのである。 一般にマッコイに関してはビル・エヴァンスからの影響という事を評論家先生方は言うが、私は違うと思っている。 マッコイのサウンドはビル・エヴァンスのハーモナイズとは違う独自の形で形成されてきたもので、モンクの影響の方が濃く見られるし、それにコルトレーンの音楽観に触発されて生み出されたまた違うハーモニーができ上がったと思っている。 そのような訳で自分がだんだんと新主流派と言われた音楽に傾倒していくのが自覚出来た頃でもあった。ジャズ・メッセンジャーズでも、リー・モーガンよりフレディ・ハバードベニー・ゴルソンよりショーターを好きになって行く自分がわかったのである。

6. テナーサックス & 初仕事

高一の夏休み沖縄出身だった母親が戦後はじめて実家に帰郷するので私も同行することになった。 当時の沖縄はまだ復帰前で外国である。それなりの専用パスポートと疫病予防注射とか手続きも大変な時代であった。 ここでは語らないが、はじめて乗った行きの飛行機がエンジン・トラブルをおこし、悲惨な初飛行となった。 なので今でも飛行機は大嫌いである。 そして、私が沖縄滞在中にヴェトナム戦争が勃発したのであった。これも人生のひとつの大きな体験かも知れない。 私の母の家系は女性は皆、教師出身であって、母の長姉も長い間教職についていた。 その叔母が私に高校進学祝いにと、なんとテナー・サックスを買ってくれたのである。 教え子が米軍のPXにいるからと、そして叉、違う教え子がサックス奏者だからといって、私に尋ねることなしに新品のテナー・サックスが届けられた。それが私の初めて手にするコーン社製(今ならばオールド・コーン)テナーだったのである。 私が狂喜乱舞したのは言うまでもない。 でも本当はフランス・セルマー社のテナーが当時から欲しかったのだが。そしてある晩、その楽器を選んでくれたらしい、サックス奏者の叔母の教え子が仕事場に連れって行ってくれるというので紹介されることとなった。連れて行かれたのは普天間の米軍基地内の将校クラブであった。そこは今まで見たこともない別天地であった。基地のゲートをくぐったとたん、そこはアメリカであった。クラブは大きな体育館位のスペースに大きなステージ、ダンスフロアー、豪華な客席と映画で見るようなシャンデリア、照明、ホステスさんたちはきらびやかなドレスを身にまとっている。 まるで夢を見ているような光景であった。 そこの楽屋に入るなりいきなり真っ赤なジャケットと蝶ネクタイを手渡せられた。 何ですかと聞くと、「今日はバリトン・サックス奏者がいないのでKちゃん立ちんぼやってくれ」という話になった。 「なんですかそれ?」と問えば、「いいからだまってバリトン・サックス持ってバンド・スタンドに座ってくれていればいいの」という答え。 何が何だか解らないまま大きなバリトン・サックスを抱えてフルバンドのバンドスタンドに座ることとなった。 いざステージ開始、バンマスは50歳くらいに見えたが、白のタキシードに身を包んだドラマーで、彼の号令1発、「次はBの152番、次はCの85番」てな調子でどんどん曲が進行していく。 譜面台の下には電話帳大の譜面帳が4,5冊、それにA,B,Cと番号がつけられていた。目の前のダンスフロアでは背の高いかっこが良いアメリカ人たちが背中丸だしのホステスたちを抱きかかえながらダンスに興じている。 こちらは譜面を取り出すのもやっとで隣に座っているテナーのおっさんが割と親切に教えてくれる、でもこのおっさん 「少しは音だせよ!」。 恐々4分音符と2分音符だけを音を出す。(バリトンは低音部ハーモニーを請け負う事が多いので4部、2分音符が割と多い。) 「おう、お前吹けるじゃないか、全部吹けよ」何とかゴマかしゴマかしやっていると、突然後頭部にゴツン、痛て〜!、「音が違うよ〜!」後ろの列のトロンボーンのお兄さんがスライドで私の頭をコズいたのであった。 やがて歌手のお姉さんが登場。そのあでやかな後ろ姿を眺める余裕もなく譜面台に目が点。 なにやら譜面の途中に英文字が "Goody Goody" すると歌に合わせてまわりからオジさんたちの声 "Goody Goody" 「オイ、歌うんだョ!」。 休憩をはさんで叉ステージに、何曲かやった後、遠くの方からバンマスの声、「Bの98番、バリトンいくよ〜!」譜面出す間も無く曲は始まる、メディアム スローの曲が始まるが重厚なフルバンドのハーモニーが流れる中、なかなかメロディーらしき音が出て来ない、「オーイ 何やってんだヨ〜、この野郎!!」いきなり私の身体めがけてドラムのスティックが飛んできた。 エリントンの曲だったように思う、バリトン フューチャーのアレンジだったのだ。そんなこんなで仕事は深夜まで続いた。 終わった時には身も心もバラバラ状態、その後の記憶がない。 この日の初ギャラは休憩時間に出された分厚いビフテキ、こんなデカいのは生まれて初めてだった。それは美味かった。

7.衝撃のマイルス

この年、東京でおおがかりなインターナショナル・ジャズ・フェスティヴァルが開かれた。出演バンドはマイルス・デイビス・クィンテットカーメン・マクレーウィントン・ケリー・トリオ プラス ソニー・スティットJ.J.ジョンソンクラーク・テリー オールスターズ、日本から新生の松本英彦クァルテット等、超豪華なコンサートであった。 新宿厚生年金会館大ホール、私の高一クィンテットは全員で見物に行くことになった。 いきなり、いそのてるヲ氏の呼び声で マイルス・デイビス・クゥィンテット 会場は一瞬の静寂に包まれた。 細身のダークスーツに身を包んだマイルスが登場、会場に一礼した。いっせいに怒濤のような歓声がわき起こった。皆マイルスは観客などには挨拶なぞしないと信じきっていたのだ。 1曲目の"if I were a bell" から始まった。 ミュートをしていたトランペットにもかかわらず、その生のマイルスの音色はレコードだけで聴いていた音をはるかに越える透き通ったような鮮烈な響きがした。 また周りのピンク系のストライプのジャケットにダークグレイのパンツ姿のユニフォームに身を包んだサイドメンたちがメチャ、カッコイイ。当時一斉風靡していたアイビールックである。テナー・サックスには皆ジョージ・コールマンが来るものと思っていた。でもステージで吹いている人はどこか違う。頭のてっぺんだけ禿げていて、そのまわりはモジャモジャのヘアースタイルをした人は演奏も何か風変わりで、オーソドックスな音色でオーソドックスなフレーズを奏でていたかと思えば急にアヴァンギャルドなフレーズが飛び出してくる。いその氏の冒頭のMCでサム・リヴァースと紹介されていたのだが、皆、はじめての名前だし、良く聞き取れなかったのだ。マイルスは自分のソロパートが終わると舞台の袖にひっこんでしまう、そうするとそのサイドメンたちが何故か音楽だけでなく、その身体まで躍動しだすのだ。アンソニーのドラムはいきなり音がデカくなり、複雑なビートを叩きだす、それにハンコックが身体ごとみをゆだねるという感じになる、そして演奏は頭でコード進行なんぞおっかけていられない複雑で、でもカッコいいものになる。"My funny Valentine", "So What", "Wakin' ", "All of you" でこの日のマイルスバンドはステージを終えた。 それは衝撃的な1時間であった。(この日の演奏は MILES IN TOKYO というアルバムタイトルで発売されている。)そのステージの後にカーメン・マクレーの弾き語りトリオ、ウイントン・ケリー・トリオポール・チェンバース、ジミー・コブ)の演奏新生松本英彦クァルテット(菅野邦彦、鈴木勲、ジョージ大塚)となり、最後に先のウイントン・ケリートリオにクラーク・テリーJ.J.ジョンソンソニー・スティットが加わる豪華セッションとなるのだが、マイルスバンドのインパクトがあまりに強すぎて、印象が薄れてしまった感がある。別の日にやってもらいたかったものだ。このコンサートの前にも、前出のソニーロリンズを始め、セロニアス・モンク4デーブ・ブルーベック4ベニー・グッドマン等、生のコンサートはいくつか見ていたのだが、やはりこの日のマイルスの記憶が鮮烈だ。


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