私のジャズ歴書 (パート氈j

1. 幼少期

そもそも私と音楽との関わりあいは小学校1年の時にヴァイオリンを習いだした事に始まる。どういういきさつでヴァイオリンなぞを始めたかは記憶にないが、母親に言わせれば、親戚の子が習っていたのを見て自分から習いたいと言い出したそうである。 そこが音楽人生最初の誤りで、今でも私はあの時どうしてピアノを習わなっかたのだろうか、と後悔している。そのヴァイオリン教室が鈴木慎一先生の才能教育プログラムに属す教室で結構スパルタ的な指導をするところだった。練習は1日に2,3時間はあたりまえで、それくらい練習しないと週1回のレッスンについていけないのである。 当然教育ママゴンのはしりのような母親の監視下、練習を強いられるハメになる。 当時私は野球少年で外で野球したり、遊び廻るのが好きな子だったので、この練習が大嫌いだった。 家の外の窓の下に靴とグラブとバットを置いておき、窓を壊して脱走することもたびたびであった。 そんな頃、1957年位だったか母親がジャズの事は何も知らずに秋吉敏子さんが初めてのアメリカよりの帰国公演ということで当時の夫君のチャーリー・マリアーノとクゥアルテットでNHKテレビに出演しているのを見ていた事がある。 それを横で見ていた私はジャズって何かよくわからないし、つまらない音楽だなと感じた記憶が鮮明にある。これがジャズとの最初の出会いだった。

その後マセガキだった私は小学3,4年生になるにしたがってラジオでポップス番組をよく聞くようになる。夜の勉強時間には、友達と作ったトランジスターラジオのイヤホーンが放せないようになっていった。当時よく聞いていた番組は今でいうヒットテン的な番組と湯川れいこさんの司会によるS盤アワーであった。S盤アワーはビクターのレコードばかりをかける番組なのでエルヴィス・プレスリーがよくかかっていた。そして私はだんだんとプレスリーにはまっていくのである。 もうひとつのヒットチャート番組は当時は、ポール・アンカニール・セダカが中心的なスターでヒットを飛ばしていたが(この頃プレスリーは兵役中だった。)、ロックやポップスばかりでなく、当時のヒット映画の主題歌、アランドロンの名作「太陽がいっぱい」やリオブラボーの「皆殺しの歌」、ジャン・ギャバンの「墓につばをかけろ」の主題歌「グリスビーのブルース」なんていう曲もベストワンに選ばれていたし、ペレス・プラド楽団のマンボやシナトラキングコールのポップ的な曲「ブラジル」「国境の南」「プリテンド」「キサス・キサス・キサス」「カチート」等の曲がベストテン入りしていたのである。その中でエルヴィスに傾倒していった私は月の小遣いを全額エルヴィスのシングル盤購入に費やすのである。当時シングルEPが確か330円くらいだったので毎月1枚づつ300円の小遣いがエルヴィス化されていったのである。小学5,6年の頃には、当時発売されていたシングル盤はすべてコレクションされ、LP盤も正月、クリスマスなどの臨時収入でほぼ集まっていた。 しかし過酷なヴァイオリン修業はレッスンを勉強と称してサボル回数は増えたもののこの時代まで続くのである。

2. ジャズからのお誘い

そんな折りプレスリーのアルバムにはいっていて歌の間奏に出てくるテナー・サックスの響きにとても興味を持ちはじめた。後に解るのだがそのサックスはテキサス・テナーのブーツ・ランドルフという人でヤキティ・サックスと言われたリズムアンドブルースやカントリーロックの名テナーであった。 その当時はキング・カーティスなんて人やサム・ザ・マン・テーラーなんて人も「ハーレム・ノクターン」なんていう曲をひっさげてヒットパレードに登場していた。 そのヒットパレードに或るとき「危険な関係のブルース」という曲が登場したのである。 それはその年フランスの小説家ラクロの「危険な関係」を現代版映画化した映画のテーマ曲で演奏はアートブレイキーとジャズ・メッセンジャーズであった。 これにはブッタマげたのである。全身に衝撃が走った。強烈なビートにリー・モーガンの突き刺さるようなトランペット、ヴァルネ・ウィランの躍動するサックス・フレーズ、その場でレコード屋へ走ることとなった。 これは確かパリのオランピア劇場のジャズ・メッセンジャーズのライブからシングル・カットされた物で、後に買うサンジェルマンのアート・ブレイキー・シリーズとともに私の最初のバイブルとなるのである。

3. エルヴィスとの別れ

小学校を卒業する頃、受験にかこつけてヴァイオリンの方はやっと卒業させてもらうことができた。でもバッハやモーツァルトのコンチェルト位は弾けるようにはなってはいたのだ。 エルヴィスはやはり続いていたのだが、段々とジャズの方向に向いていく傾向が強くなってきた。エルヴィスは当時もう復帰していてGIブルースとかやっていたが、もうコレクションは揃っていたし、たまにでる新譜を買うだけでよかったので、徐々にジャズ盤の収集に移行していった。 でもジャズはほとんどがLP盤で当時の私にはなかなか集められるものではない。 そこで見つけたのが新宿西口の中古レコード屋さんトガワレコードであった。(青梅街道、今のT−ZONEのあたり)各レコード会社から無料で月づき配付されるパンフレットでMJQだとかセロニアス・モンクキャノンボールソニー・ロリンズなどの名前を知ることとなる。それをたよりにトガワへ行っては知っている名前を物色するのである。 当時は300円位で中古の(B品)LP盤が買えることもあったのだ。 そうして手にいれたものに、リー・モーガンのデビュー盤やハンク・モブレーコルトレーンの2テナー、エルモ・ホープ・トリオ等いま思い出せば懐かしいレコードが数々あった。

そんな中、中学生となった私はどんどんとジャズにハマッテいった。折りも折り1960年(この時は小六)にはアート・ブレイキー・ジャズ・メッセンジャーズが初来日する事となり、コンサートには行けなかったがテレビ中継で鑑賞する事になる。これは私のジャズ入門の決定打となったのである。 私は特にサックスとピアノの音色が好きで、サックスはとても高くて買えないが、トランペットなら今はない日管というメーカーから1万1千円で新品の一番安いモデルがある事を知るのである。リー・モーガンも良かったがその頃ブルー・ミッチェルブルームードというレコードにもはまっていた。プレスリーのレコードを買い集めていた中野の鍋屋横丁のオカメヤというレコード屋兼楽器屋に頼みこんで、そのトランペットを月々千円の月賦にしてもらう事にし手に入れることになった。 中学生になって小遣いは月丁度千円に昇給した時でもあった。 その後は学校から帰ると近所の国立病院の裏空き地へおもむいて、ヘースカ、ブースカの毎日となった。 時折通りかかる看護婦さんからウルサイとおこられながら。

プレスリーのコレクションも続いてはいたが、もう惰性のようなものだった。 「ブルーハワイ」位までは良かった。 でも「アカプルコ万歳」くらいから、だんだんとプレスリーに愛想を尽かしていき、中3位でプレスリーとはお別れする事になったのだ。 時を同じくしてプレスリー自体もその頃からスランプに陥る事となったらしい。 それ以上にジャズの醍醐味に没頭していったのだった。 中二位には我がペット君もそれなりの音を出してくれるようになり、モーニンブルースマーチワークソング、クール・ストゥラティン等がレパートリーとなった。でも音楽理論はメチャクチャでただワンコード一発で吹いているようなものだった。


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