自然との触れ合い、森林浴、頂上へ登り着いた時の達成感が好きで、ときどき山歩きをします。

山歩き

 坂戸山(634m):JR上越線六日町駅から徒歩20分で登山口に在る鳥坂神社に着く。急登ではあるものの良く整備されている登山道の薬師尾根コースを歩き1時間10分で坂戸城の本丸の在る坂戸山山頂に着く。坂戸城は、新潟県南魚沼市に存在した大規模な山城で、山頂に本丸、麓に平時の住居跡の遺構が見られ、魚野川を挟んで、三国街道を見下ろす交通上の要地に位置する。上田長尾氏ゆかりの城として知られており、長尾政景や上杉景勝の居城として名高い。上杉謙信の姉・仙桃院の嫁ぎ先でもある。また上杉景勝が会津へ移され替わって堀氏が越後に入ると、堀直寄が坂戸城主を務めたことで知られる。山上尾根の要所には大規模な堀切があり、「本丸」東方斜面には石垣が遺存する。山頂から南西に延びる尾根付近には「西の丸」跡があり、「西の丸」から尾根先端、寺ヶ鼻の「出丸」跡までの間に100基以上の畝状竪堀が築かれている。(2019年6月2日)
 角埋山(576m):JR久大本線「豊後森」駅からタクシーに乗り15 分で三の丸駐車場に着き下車、そこから徒歩15分で角牟礼城の搦手門跡、大手門跡、二ノ丸跡を経て山頂に在る本丸跡に着く。角牟礼城は、1585年(天正14年)から1586年(天正15年)に起きた、島津氏と大友氏の豊薩戦争の際に落城しなかった要害堅固の城として知られています。天然の要害と呼ぶに相応しく、三方を切り立った険しい岩壁で囲まれています。1593年(文禄2年)に大友義統に替わって毛利高政が入封した際に城を大幅に改修しました。現在残されている遺構は、この時代のものと思われます。江戸時代に来島康親が伊予より入封し森藩が立藩されましたが、来島氏は1万4千石の小大名で城を持つことは許されなかったため山麓に久島陣屋を築き、角牟礼城は廃城とされました。現在、城址には高さ約7m、長さ約100mに及ぶ穴太積みの石垣が残っています。また久島陣屋跡は三島公園として整備されています。(2019年5月17日)
 鴻ノ峰(338m):JR山口線山口駅からレンタサイクルに乗り15分で登城口の木戸神社に着く。そこから頂上部の主郭まで徒歩50分。高嶺城は、大内氏館の詰の城として整えられた鴻ノ峰にある山城で、主郭を中心に四方に延びる尾根へ郭を配しており、石垣が使用され礎石や瓦等も発見されている。周防国・長門国を本拠とした戦国大名大内氏最後の当主、大内義長が、攻勢を加える石見国の吉見正頼や安芸国の毛利元就に備えるべく弘治2年(1556年)より高嶺城の築城を始めた。弘治3年(1557年)に毛利氏が山口に侵攻した際には、大内義長は高嶺城を放棄して長門国の且山城へと逃れ自害した。大内氏滅亡後、高嶺城の築城は毛利氏によって再開され完成し、城代として吉川氏一門の市川経好が入り、毛利氏による山口支配の拠点となった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの結果、萩城が毛利輝元の本拠となり、元和元年(1615年)の一国一城令により高嶺城の破却が決定し、寛永15年(1638年)に廃城となった。(2019年1月29日)
 鳥屋城山(304m):JR紀勢本線藤並駅から有田鉄道バス「花園行き」に乗り15分、「金屋」バス停で下車し金谷中学校脇の登城口まで徒歩15分。そこから山頂手前の主郭まで徒歩50分。鎌倉時代末期から南北朝時代初期頃に湯浅宗基によって築かれた。応永7年(1399年)に紀伊国守護職として畠山基国が入国すると、弟の畠山満国が城主となり外山城と改められた。その後、鳥屋城と改められ畠山氏の一族や守護代神保氏等が城主を務め、天正13年(1585年)畠山貞政が城主のとき羽柴秀吉に攻略され廃城となった。鳥屋城は細く急峻な山の地形を利用した城で、山頂から西に東西の規模は550m程である。主郭は東の山頂部分ではなく南西の標高300mの所で、北の尾根上が一段高く、南下に馬場のような帯曲輪が付き、尾根上に堀切がある。東側は東端部が一段高く社が祀られ土塁が付き、背後は大堀切になっている。西は城内でも広い曲輪で、西尾根には岩や石積を利用して段が設けられ堀切が付いている。(2018年11月12日)
 柳ヶ瀬山(468m):JR北陸本線木ノ本駅からコミュニティバス柳ヶ瀬線に乗り23分、バス停「柳ヶ瀬」で下車し徒歩15分で登山口に着く。登山口から55分で山頂に在る主曲輪に着く。玄蕃尾城は、、天正11年(1583年)に柴田勝家と羽柴秀吉が、信長亡き後の織田軍団の指導権を争って戦った賤ヶ岳の戦いの際に勝家が本陣として築城した山城で、柳ヶ瀬山山頂にあり、大小さまざまな土塁・堀切を巡らせた堅固な城である。結果的に勝家は戦わずして撤退し、その後手つかずで残されたことから400年以上が経過した今も合戦当時の遺構が良好に残されている。玄蕃尾の名は、勝家配下の猛将・佐久間玄蕃允盛政に因むもので、曲輪は全部で8つあり、山頂に主曲輪を構え、各曲輪をなだらかな斜面に配している。曲輪周囲には空堀を巡らし、曲輪と曲輪の間は土橋で連絡されている。主曲輪の南北に設けられた虎口には、枡形虎口、あるいは馬出しなどを配して、織豊系城郭技術がこの時期にほぼ完成されていたことを窺い知ることが出来る。(2018年10月25日)
 旭山(785m):長野新幹線長野駅から徒歩60分で中腹に在る旭山観音堂を経て旭山登山口(標高600m)に着く。そこから徒歩30分で旭山々頂(標高785m)に着く。旭山城は「第二次川中島の戦い」の舞台となった城です。旭山は、長野市街地西側の長野県庁裏にそびえる三角形をした山です。旭山の東側には裾花川が流れて断崖となり、南側は犀川が自然の堀となっており、まさに要害堅固の立地です。旭山全体が城域で、山頂に本城、中腹に大黒城、尾根の突端には小柴見城がありました。善光寺の堂主・栗田氏を味方に引き入れた武田信玄が、長尾景虎(上杉謙信)の川中島進撃を牽制するために築いたとされています。対陣は数ヶ月に及び、膠着状態に陥った結果、今川義元の仲介で和議が成立しました。このときの和議の条件のひとつに城の破却が盛り込まれたことからも、上杉勢が手を焼いた要害だったことが考えられ、1557年(弘治3年)には景虎が城を再建しています。現在城址には石積みなどの遺構が確認できます。(2018年9月23日)
 三角山(420m):自家用車で新東名高速道路浜松浜北ICから国道152号線を経由して1時間40分で高根城公園駐車場に着き、そこから徒歩30分で登城。高根城は、南北朝時代の応永21年(1414年)、後醍醐天皇の孫伊良親王を守るために豪族の奥山定則によって築かれた城で、北遠江と南信濃を結ぶ秋葉街道を守備する境目の久頭合の山頂に位置する山城です。奥山氏は今川氏に属していましたが、南北朝から戦国時代と移り今川義元が「桶狭間の戦い」で討たれた後は、遠江侵攻を目指す武田信玄の軍勢によって落城させられました。このときに城は改修されましたが、武田氏が没落すると廃城となりました。城址は平成5年(1993年)から高根城を中世の城として復元整備するべく発掘調査を行い、平成13年(2001年)に主殿・城門・井楼櫓・柵条が復元され、戦国時代の中世山城の雰囲気を感じることができます。(2018年7月8日)
 八溝山(1022m):JR水郡線常陸大子駅から「蛇穴行き」バスに45分乗り終点で下車し、八溝林道入口から険しい山道を2時間登り八溝山の八合目にある日輪寺(坂東33観音霊場の21番札所)に着く。本殿でお参りをした後、用意した般若心経の写経を提出し納経帳に御朱印を戴く。その後、更に30分登り茨城・福島・栃木の三県に跨る八溝山(標高1022メートル)の頂上にある八溝嶺神社に着き、記念写真を撮る。頂上からは太平洋を眺めることが出来ます。公共交通機関(電車とバス)を利用した坂東33観音霊場札所巡りを11月3日に鎌倉の杉本寺(1番札所)から始め、遂に最難関とされる日輪寺に来ることができた。寺伝では、役行者が開き、大同二年(807年)に弘法大師が十一面観音を刻んで霊場とし、その後慈覚大師の来山で天台宗に改めたのだとか。室町時代には大いに栄えたが、その後の火災や明治時代の廃仏毀釈運動により、今は小さなお寺になってしまったという。12月末までに最後の館山の那古寺(33番札所)を詣でて坂東33観音札所巡りの結願とする予定。(2016年12月5日)
 城山(305m):JR七尾線七尾駅から市内巡回バス「まりん号」順回りで13分「城史資料館前」で下車し、沓掛→寺屋敷→調度丸→桜馬場→標高305mの山頂にある七尾城本丸の順に60分で登り、その後、二の丸→三の丸→安寧寺→七尾城史資料館の順に下った。七尾畠山氏の初代当主で能登国守護の畠山満慶が正長年間(1428年~1429年)頃に築いたが、当時の七尾城は砦程度の規模で、行政府である守護所も府中に置かれていた。次第に拡張・増強され、以後約150年間に亘って領国支配の本拠となり、五代当主である畠山慶致の頃には守護所も府中から七尾城へと移された。その後、畠山義続・畠山義綱の頃に能登では戦乱が続いたために増築され、最大の縄張りとなった。天正5年(1577年)に能登国に侵攻した上杉謙信に包囲され開城された。越中国と能登国を繋ぐ要所である七尾城は、後に織田氏によって領され、城代として菅屋長頼が入って政務にあたり後に前田利家が入るが、既に山城の時代ではなく拠点を小丸山城に移したため、暫く子の前田利政が城主となっていたが、天正17年(1589年)に廃城となった。(2016年9月11日)
 岩崎山(408m):JR只見線会津本郷駅から向羽黒山城跡入口まで徒歩20分。現在、城跡は白鳳山公園となっており、公園管理棟まで徒歩15分。さらに山頂の本丸まで徒歩45分。向羽黒山城は、阿賀野川沿いにある岩崎山山頂から山腹を城域とした壮大な山城である。会津を本拠地としていた戦国大名の蘆名盛氏が永禄4年(1561年)に築城を開始し永禄11年に完成した。盛氏は城が完成すると、本城の会津若松城を嫡男の盛興に譲り向羽黒山城に隠居した。しかし蘆名家の当主となった盛興は26歳で早逝したため、盛氏が当主として復帰。会津若松城に居城を移したため廃城となったが、再び城として復活し、天正17年(1589年)の摺上原の戦いで勝利して会津を領有した伊達政宗、天正18年の豊臣秀吉の奥州仕置で会津の領主となった蒲生氏郷、越後から会津に国替えとなった上杉景勝などが同城の改修を行っている。しかし関ヶ原の戦いで西軍に与した上杉氏の敗戦に伴い廃城となった。現在、本丸、二の丸、三の丸などの郭跡や竪堀、空堀、虎口、石塁などが残っている。(2016年7月1日)
 臥牛山(687m):JR高山本線高山駅から三の丸水堀を経て徒歩25分で二の丸公園に着き、徒歩15分で標高687mの臥牛山頂に着く。高山城は、飛騨の守護代である多賀山出雲守徳言によって臥牛山に文安年間(1444年~1449年)に築城され、永正年間(1504年~1521年)には高山外記が在城していた。天正13年に金森長近は、秀吉の命を受けて飛騨へ侵攻し、翌年飛騨一国を賜り天正16年から築城を始め、慶長5年までの13年で本丸、二の丸が完成し、以後金森可重によって更に3年で三の丸が築かれた。高山城は、信長の安土城構築直後に築かれ大きな影響を受けている。軍事的機能を最優先させた城ではなく、御殿風の古い城郭形式を持ち、外観二層、内部三階の構造を持つ天守を備えているのが特徴で、秀吉の大阪城築城以前における城郭史上初期に位置付けられている。本丸屋形には台所、風呂、大広間、茶室などが、南の大手方面には南の出丸、北の搦手方面には、東北曲輪、中段屋形が配置され、遺構として曲輪、堀、石垣、土塁などが残る。鐘楼門が雲龍寺に移築されている。(2016年6月6日)
 飯盛山(316m):JR西日本片町線四条畷駅から徒歩10分で四條畷神社に着く。そこから急峻な上り坂を徒歩50分で標高316mの飯盛山頂に着く。飯盛山城は、生駒山脈の北西支脈に位置している飯盛山に築かれた山城で、中世の山城としては、かなり大きな部類に属し強固な要塞であった。天文年間に畠山義堯が河内を支配するようになり家臣の木沢長政に命じて飯盛山に城郭を構えた。その後、三好長慶が攻め落とし居城とした際に大幅に拡張されたが、織田信長に攻められ落城し、そのまま廃城となった。安土以前の山城では珍しく石垣が残る。主郭部は山頂の高櫓郭から北へ展望台郭、倉屋敷郭、三本松郭と続き、北の二ノ丸は御体塚郭、史蹟碑郭、南は千畳敷郭、南郭そして東山腹の楠公寺が馬場となっている。本丸曲輪群は削平された段が連なる曲輪群で、東下の遊歩道沿いに石積が残されている。(2016年5月9日)
 郡山(390m):広島市のバスセンターから広島電鉄バス「吉田出張所行き」で90分、「安芸高田市役所」で下車し徒歩5分で安芸高田市歴史民俗博物館に着く。そこから郡山山頂にある本丸跡まで徒歩45分。吉田郡山城は、南北朝時代の建武3年(1336年)に毛利時親が郡山東南麓に旧本城を築城、後に元就が郡山全山を城郭化し、更に輝元が改修を加えた大規模な山城で、毛利氏260年間の居城であった。北流する可愛川と、それに注ぐ多治比川との合流点の北側にあり、標高390m、比高190m、範囲は1km四方に広がる。遺構は、山頂に本丸、周囲に二ノ丸、三ノ丸ほか、御蔵屋敷の壇、勢溜の壇、姫の丸の壇など、大小270の曲輪が配され、所々に石塁の跡が見られる。天文9年(1540年)に尼子晴久が3万の大軍を率いて来攻したが、毛利軍は小勢ながら良く戦い、翌年尼子軍を敗退させた。その後、毛利氏は、この城を本拠として、中四国、北九州まで勢力を伸ばしたそうです。天正19年(1591年)の輝元の広島城移城後は廃城となり、江戸時代に入って建物、石垣等も壊され、堀も埋められた。(2016年4月15日)
 岩櫃山(803m):JR吾妻線「郷原」駅から徒歩30分で登城口に着き、本丸まで徒歩15分。岩櫃城は岩櫃山の北東に伸びる標高594mの尾根に築かれ、南は吾妻川へ下る急斜面、北は岩山で天然の要害となっている。西から本丸・二ノ丸・中城などが続き、北東に天狗丸がある。鎌倉時代初期に吾妻太郎助亮により築城された。その後、斎藤氏の支配する所となり、永禄6年(1563年)武田信玄は上州侵略のため、重臣真田幸隆に岩櫃城攻略を命じた。ときの城主斎藤基国は堅城を利して奮戦したが落城し、信玄は幸隆に吾妻郡の守護を命じた。天正2年(1574年)に幸隆が世を去り、岩櫃城主には長子の信網が収まったが、翌年、長篠の戦で信綱、昌輝兄弟が戦死したため、真田家は幸隆の三男、昌幸が相続した。その後、昌幸の長男信幸が支配し、信幸の弟幸村も少年時代をこの城で過ごした。天正18年(1590年)北条氏の滅亡により、信幸は初代沼田城主となり、岩櫃城は沼田城の支城として、重臣出浦対馬守を城代とした。徳川家康が発した一国一城令により四百余年の長い歴史を残し姿を消した。(2016年3月13日)
 天神山(325m):JR豊肥本線豊後竹田駅からレンタサイクルで10分、観覧料徴収所に着く。徴収所から徒歩30分で本丸跡。岡城は標高325メートルの天神山に築かれた。文治元年(1185年)に緒方惟義が源頼朝に追われた源義経を迎えるために築城し、南北朝時代の建武元年(1334年)に後醍醐天皇の支持を受けた大友氏一族の志賀貞朝によって拡張され、岡城と名付けられた。文禄3年(1594年)播磨国三木から中川秀成が移封され、入城後に3年がかりで大規模な修築を施した。志賀氏時代の城域の西側天神山に本丸・二の丸・三の丸御殿・櫓を造営し、城の西側を拡張し重臣屋敷群を設けた。本丸に御三階櫓を設け、城門は志賀氏時代の大手口であった下原門に加えて近戸門を開き大手門を東向きの下原門から現在見られる西向きの位置に改め、三口とした。明治維新後、廃城令によって廃城とされ城内の建造物は全て破却され、現在残っているのは高く積み上げられた石垣のみである。(2016年2月6日)
 多気山(377m):JR宇都宮駅から関東バス「大谷経由・立岩」行きで30分、「立岩入口」で下車し徒歩10分で多気山参道口に着く。参道口から山頂まで徒歩30分。多気山城は、宇都宮城を本城としていた宇都宮国綱が危急の際の詰めの城として築いたもので多気山の全山を城域としていた。中世の頃に宇都宮城の支城として築かれ、その後、戦国時代末期の天正12年(1584年)に北条氏直が下野国に進出して以降、宇都宮氏の領地はしばしば小田原北条氏の侵攻を受けるようになった。このため、宇都宮氏は常陸国の佐竹氏と同盟して対抗したが、平城の宇都宮城では防衛が十分でないと判断され、多気山に要害を築いて、天正13年(1585年)には、宇都宮城から多気山城へと本城を移した。慶長2年(1597年)、宇都宮氏は豊臣秀吉により改易処分となったが、これに伴い多気山城は廃城となった。城跡には、土塁、空堀、曲輪、虎口、竪堀、櫓台などの跡が残っている。(2015年12月27日)
 鬼城山(397m):JR伯備線総社駅からタクシーで20分。帰りは、JR吉備線服部駅まで徒歩で80分。鬼ノ城は、663年(天智天皇2年)の白村江の戦いに倭国が敗れた後、唐・新羅の侵攻に備え築城したと考えられており、すり鉢形の鬼城山の山頂周囲を石垣・土塁による城壁が周囲2.8キロメートルに渡って取り巻く。城壁によって囲まれた面積は約30ヘクタールを測る。城壁の要所に、門、城外への排水機能を持つ水門を配する。門は東西南北4ヶ所、水門は6か所に確認されている。城の内部には食料貯蔵庫や管理棟などと推定される礎石建物が7棟、烽火場の可能性が指摘される焚き火跡、鍛冶場などが確認されている。「鬼ノ城」の名前の由来は、「異国の鬼神(名を温羅という百済の王子)が吉備国にやって来て備中国の新山に居城を構え、しばしば西国から都へ送る物資を奪ったり婦女子を掠奪したので、人々は恐れおののいて「鬼ノ城」と呼び都へ行ってその暴状を訴えた」(鬼ノ城縁起など)によるそうです。(2015年10月12日)
 岩殿山(634m):JR東日本中央本線大月駅から徒歩30分で中腹の「岩殿山ふれあいの館」に着く。さらに揚城戸、番所、物見台、馬場、倉屋敷、兵舎などの跡、空濠、井水、帯郭を経て徒歩30分で本丸跡、烽火台跡がある岩殿山山頂に着く。岩殿城は、武田信虎の時代の天文元年(1532年)に、甲斐の有力国人で武田氏に重臣として任えた小山田信有により築かれ屈指の堅固さで知られていた。小山田氏は甲斐守護の武田氏に敵対していたが、永正6年(1509年)に郡内を領有する半独立の領主の地位を保ったまま武田氏の傘下に入り重用され武田二十四将の一員となる。天正10年(1582年)に織田信長が甲斐に侵攻したとき小山田信茂は織田方へ寝返り、新府城から岩殿山城へ落ち延びようとした武田勝頼の郡内入りを阻止した。進退に窮した勝頼は天目山に追い詰められて自害した。小山田信茂は織田信長に帰参を求めたが不忠者として処刑され、17世紀初めに廃城となったそうです。(2015年9月20日)
 高森山(432m):中央自動車道「中津川IC」から自家用車で10分して中津川市苗木遠山史料館に着いた。建築物として残っている風吹門の扉と柱を見学した後、登山靴に履き替え、「四十八曲り道」と言われ、長さ500m、高低差150mある大手口道を歩いて登る。三の丸・二の丸・本丸などの石垣や大矢倉跡・笠置矢倉跡、風吹門・台所門・綿蔵門・坂下門・菱櫓門などの門跡、千石井戸跡、堀が残っており、天守台や大矢倉の石垣に馬洗岩など巨大な自然石が複数箇所で利用されている。戦国時代の天文年間(1532年)に、遠山直廉が高森山に苗木城を築く。織田信長没後、豊臣方の森長可に城を落とされ、城主遠山友忠は徳川家康を頼って落ち延びた。関ヶ原の戦いが起こると、友忠の子遠山友政は豊臣方の河尻秀長から苗木城を奪い取った。戦後この功が家康に認められ、遠山氏は再びこの地に返り咲き、苗木藩主として幕末まで苗木の地を治めたそうです。(2015年8月23日)
 鶴尾山(452m):若桜鉄道若桜駅からフリーサイクルを借り15分で登山口に着き、登山道を山頂まで徒歩40分。若桜鬼ヶ城は、鶴尾山山頂部から尾根部分に曲輪群を設けている。建仁年間(1201-04年)に矢部暉種が築城し、矢部氏16代の居城となった。永禄年間(1558-70年)に尼子勝久が城を攻略したが、その後吉川元春に攻められ落城した。天正6年(1578年)に羽柴秀吉がこの城を攻め落とし木下重賢に若桜鬼ヶ城を守らせ因幡平定の拠点とした。慶長5年(1600年)に関ヶ原合戦で重賢は西軍に属したため改易となり、替わって摂津三田より山崎家盛が2万5千石で入城した。元和3年(1617年)に家盛の跡を継いだ家治は備中成羽に移封となり、一国一城令により廃城となった。山崎氏転封後、若桜は鳥取藩主・池田氏の領国となり、元禄13年(1700年)に鳥取城主・池田光仲の五男・清定が1万5千石を分知されたそうです。遺構として、郭、石垣、虎口、竪堀、櫓台が残っている。(2015年8月3日)
 要害山(770m):JR中央本線甲府駅から要害山登山口までタクシーで15分。登山口から山頂まで徒歩40分。標高770メートルの要害山に築かれた要害山城は、武田信虎時代の永正17年(1520年)に武田氏館(躑躅ヶ崎館)の詰城として砦や狼煙台が築かれた。同年には駿河の今川氏勢の武将福島正成が駿州往還を甲斐へ侵攻し甲府へ迫っており、信虎は正室の大井夫人を避難させ福島勢を駆逐しているが、夫人はその最中に城中で武田晴信(後の武田信玄)を出産した。本丸に至る通路や枡形、曲輪、堀切、見張台、信玄の産湯と伝わる井戸等の遺構のほか、要所を固める石垣、「武田信玄公誕生之地」の石碑も遺存されている。天正4年(1576年)に武田勝頼は帯那郷の村役人に人夫督促状(朱印状)を発給し要害山城の修築を命じた。武田氏滅亡後、徳川氏の支配期を経て豊臣系大名が入城し、加藤光泰により修築が行われた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、廃城となったそうです。(2015年6月1日)
 芳賀城山(458m):JR山陽本線「姫路」駅 から神姫バス「山崎行」で60分「山崎」で乗り換え、バス「皆木行」・「原行」で40分「上野」で下車し、徒歩10分で登山口に着き、蛇行した上り坂の車道を徒歩30分で波賀城史跡公園に着く。波賀城史跡公園は、宍粟郡波賀町が平成2年(1990年)から開始した波賀城跡の発掘調査と史跡公園としての整備事業により誕生したもので、山麓から山頂の城郭に至る遊歩道が造られ城郭内には冠木門、二層櫓などが復元されている。波賀城は、因幡街道と千種を結ぶ街道を眼下に望む独立峰の城山(標高458m)の山頂に位置する山城で、芳賀七郎が築城し、13世紀中頃から秩父を本拠地とした秩父丹党の丹治氏の一族である中村光時が城主となり戦国時代末期の吉宗まで20代中村氏が続き、赤松氏の支配下で勢力を維持し城を修理・拡張したそうです。(2015年5月11日)
 真弓山(301m):名鉄三河線猿投駅から豊田おいでんバスさなげ・足助線「百年草行」に40分乗り、「一の谷口」バス停で下車、徒歩10分で真弓山入口に着く。入口から坂を15分登って「城跡公園足助城」に着き、南の丸、西の丸、本丸の順に廻った。山頂の近くでは粉雪が降っていた。南の丸には物見台や厨、西の丸に物見矢倉、本丸に高櫓と長屋、各所に板塀などが復元されている。足助城は、戦国時代にこの地を治めた足助鈴木家の本城で標高301メートルの真弓山に建てられた。大永5年(1525年)に松平清康がこの城を攻めた記録が残り、この際に清康の妹・久を2代鈴木重政の嫡子・重直に嫁すことで一旦は松平氏に下っている。その後は離反帰服を経て、永禄7年(1564年)に松平家康に攻められた後は完全に服属し、以降は松平氏の家臣団として戦った。天正18年(1590年)に、家康の関東入国に従って鈴木氏も足助を離れ、足助城は廃城となったそうです。(2015年2月8日)
 津久井城山(375m):自家用車で国道16号橋本駅南口交差点を過ぎ、国道413号を津久井方面へ30分で津久井湖城山公園の根小屋地区駐車場に着く。車坂を登り、帰りは女坂を廻った。津久井城は城山の山頂付近と麓の根小屋に分かれ、山頂付近は飯縄神社のある東峰の飯縄曲輪、西峰の太鼓曲輪、本城曲輪が階段状に配置されている。小田原城を本城とした北条氏は16世紀中頃までに、本城の下に支城を設け支城領を単位とする支配体制を作った。津久井地域は甲斐国境に近く領国経営上重視されており、津久井城(城主内藤氏)は有力支城の一つとして重要な役割を果たしていた。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めの際に、津久井城も徳川勢の本多忠勝、平岩親吉らに攻められ落城した。落城後は徳川氏の直轄領になり麓に陣屋が置かれ代官が政務を執っていたが、寛文4年(1664年)に陣屋は廃止され、津久井城は地域統括拠点としての機能を終えたそうです。(2015年1月12日)
 高取山(583m):近鉄電車吉野線壺阪山駅で下車し奈良交通バスで10分「壺阪寺口」で降り、徒歩90分。上り坂の車道を歩き五百羅漢に着く。そこから高取城跡までつづら折りの車道を登り続ける。本丸跡に近づくにつれ地表には昨日降った雪が積もっている。さらに急坂があったり高い段差の箇所があったりして本丸跡に辿り着く。遂に三大山城(岩村城、高取城、備中松山城)をすべて踏破した。高取城は、南北朝時代の元弘2年(正慶元年、1332年)に南朝方であった越智邦澄が築城したのが始まりと伝えられています。当初は越智氏の本城である貝吹山城の支城として機能していました。越智氏の支配が長く続き戦国時代には高取城が越智氏の本城となっていました。山城の中では敷地面積が最も広く、往時は白漆喰塗りの天守や櫓が29棟も建て並べられていたそうです。(2014年12月15日)
 霊亀山(367m):JR山口線津和野駅から徒歩20分で山麓に現存する馬場先櫓、物見櫓を見てから登り口に着き、リフトに5分乗った。その後15分歩いて津和野城の出丸、台所、西門櫓、三の丸、南門櫓、二の丸、人質櫓台、天守台、太鼓丸、霊亀山山頂にある三十間台(本丸)の順に廻った。鎌倉時代の弘安5年(1283年)に吉見頼行は沿岸防備のため西石見地方の地頭として津和野の地に赴任し永仁3年(1295年)より津和野盆地の南西部に横たわる霊亀山上に築城を開始し正中元年(1324年)に完成した。関ヶ原の戦いの軍功で東軍に属した坂崎直盛が3万石で入城し総石垣の近世城郭に大改修し二の丸に天守を築いた。直盛は元和2年(1616年)に千姫事件で自害し坂崎氏は改易となり、元和3年(1617年)に因幡国鹿野藩より亀井政矩が4万3千石で入城し城下町を整備したそうです。(2014年11月13日)
 繖山(433m):JR西日本琵琶湖線安土駅から徒歩30分で繖山(きぬがさやま)山裾に着き、山裾より石段400m徒歩10分で南北朝時代建立の桑実寺に着き受付で入山料を払ってから、さらに徒歩で石段を30分登って観音寺城の本丸跡地に着く。標高433mの繖山の山頂にある本丸跡の近くには石垣や石塁が築かれていて虎口も形成されており井戸跡もありました。観音寺城は、近江守護六角氏の居城で、繖山の南腹の斜面に曲輪を展開し家臣や国人領主の屋敷を配していたそうです。永禄11年(1568年)に尾張の織田信長が足利義昭を擁して上洛の大軍を興すと六角氏は敵対し、信長に支城の箕作城と和田山城を落とされると、六角義賢・義治父子は観音寺城から逃げ無血開城したそうです。織田信長の安土城は、六角氏の観音寺城を見本に総石垣で普請されたそうです。(2014年10月19日)
 八幡山(354m):長良川鉄道の郡上八幡駅から街循環バスで8分「郡上八幡城下町プラザ」で下車し徒歩3分で郡上八幡城登り口に着く。さらに徒歩で18分、斜面を登って大手門を経て標高354mの八幡山山頂にある天守に着く。天守の前で記念写真を撮ってから、天守閣から城下町を一望し、櫓、石垣、首洗い井戸などを見学。同じ道を下山し麓に戻ってから城下町内の店で食事をした後、町並みの風情を楽しみながら散策し30分ほどで郡上八幡駅に戻った。郡上八幡城は、永禄2年(1559年)に遠藤盛数により築かれ、南と西を流れる吉田川・小駄良川が天然の外堀となっています。明治になって廃城となりましたが、昭和8年(1933年)に模擬天守が木造で再建され、本天守は現存する木造再建城としては日本最古となります。大手門と隅櫓は平成3年(1991年)に復元・再建されたそうです。(2014年9月24日)
 蓼科山(2530m):自家用車で中央道諏訪南ICから国道152号を経由して1時間で蓼科牧場の駐車場に着く。登山靴に履き替えて山歩き開始。蓼科牧場のゴンドラリフトを利用して御泉水自然園に降り立ち、登山道を1時間30分ほど歩くと蓼科山荘の前に出る。岩がゴロゴロと積み重なった急斜面を注意しながら小刻みに登っていく。40分ほどで山頂に着き、八ヶ岳や日本アルプスを眺望する360度の大パノラマを満喫する。山頂部は荒々しい火口跡ながら、溶岩の隙間で高山植物が花を咲かせ蓼科山の夏を彩っている。休憩した後、蓼科山荘までの急斜面を慎重に下降し、蓼科牧場の駐車場に戻った。(2014年8月31日)
 富士山(3776m):バスで河口湖五合目に到着。溶岩砂礫や岩尾根の登山道を5時間ジグザグに登った。八合目にある山小屋「太子館」で夕食を摂り仮眠を5時間取った。深夜23時から吉田口登山道を光り輝く満月「スーパームーン」を目にしながら再び5時間登った。吉田口頂上に近づくにつれ東の空がオレンジ色に染まってきた。山頂に着き記念写真を撮った。火口を巡る「お鉢巡り」は強風のため中止し覗き込むだけした。下山は吉田口頂上から溶岩砂礫にジグザグに切られた下山専用道に入り5時間歩いて五合目に戻った。最後に「ふじやま温泉」で入浴し疲れを癒した。スポーツジム企画の登山ガイド付き富士山登山に参加し43年振りに富士山に登った。(2014年7月12日、13日)
会社に入ってから、同じ部の人たちと日本一の山「富士山」に登った。草木が少なく、小石や砂の道路が非常に多かった。しかし、さすがは富士山、頂上に立ったときの眺めは素晴らしかった(1971年)、という記憶がある。
 男体山(2486m):東武日光駅から二荒山神社に行き今回の山歩きの安全を願ってお参りした後、東武日光駅に戻り「湯元温泉行き」バスに50分乗車しバス停「二荒山神社前」で下車。二荒山神社中宮祠の社務所で記帳のうえ入山料を納めて、いよいよ山歩き開始。山頂までの険しい登拝路を3時間、登り続ける。登拝路の途中で時々休憩し、眼下に見える中禅寺湖の眺めで癒され元気を貰う。登拝路にまだ雪が残っている箇所が二か所あった。登拝路を登りきって男体山の頂上(2486m)に着き、二荒山神社奥宮の高みに雄々しく立つ二荒山大神の御神像の脇で記念写真を撮る。日光連山の眺望を30分楽しんだ後、往路と同じルートを戻る。急下降の岩場が多く適度に休憩を採りながら2時間半で二荒山神社中宮祠に戻った。6時間の険しい登拝路の山歩きで非常に疲れたが無事下山でき二荒山神社中宮祠でお礼参りをした。(2014年6月1日)
 赤城山(1828m):自家用車で関越自動車道「前橋IC」から50分で標高428mにある赤城山ビジターセンターに到着。赤城山は黒檜山や駒ケ岳の総称です。登山靴に履き替えて黒檜山登山口に向かう。途中にある大沼畔の赤城神社で安全祈願をしてから黒檜山登山口に着く。登山道に入り樹林の中を1時間、登るとやがてはっきりした尾根道となり、眼下に大沼の青い水面がきらめく。尾根道を登りきって黒檜山の頂上(1828m)に着き、記念写真を撮る。谷川岳や武尊山や皇海山の眺望を楽しんだ後、稜線を南下してから緩やかに登り返して1時間、駒ケ岳の頂上に出る。駒ケ岳から黒檜山を望んだ後、緩やかに下ってから山腹から急下降して更に1時間で駒ケ岳登山口に着いた。赤城山ビジターセンターへと戻る前に、ミニ尾瀬と呼ばれる高原湿原の覚満淵の遊歩道を一周した。(2014年5月18日)
 小谷山(495m):JR北陸本線河毛駅で下車し、湖北町タウンバス小谷山線で20分「小谷城址口」で下車。小谷寺の西から山道を登るルートで30分ほどで山頂にある小谷城の本丸跡に着く。この間、番所跡、虎御前山展望所、御茶屋跡、御馬屋跡、馬洗池、首据石、桜馬場跡、黒金御門跡、大広間跡を経て、浅井長政が小谷城落城時に自刃したと伝えられる赤尾美作守の屋敷,本丸櫓台,山王丸の石垣等の見所がある。小谷城は織田信長に滅ぼされた戦国大名浅井亮政・久政・長政三代の居城であり堅固な山城として知られたが、元亀・天正の騒乱の中で4年間織田信長に攻められ落城しました。浅井長政とお市の方との悲劇の舞台として語られることが多い城です。戦功のあった羽柴秀吉が入城したが秀吉は長浜に新城を築き小谷城を廃城にしたそうです。(2014年5月12日)
 古城山(354m):JR西日本播但線竹田駅より表米神社登山道を30分掛けて登った所に、竹田城の北千畳曲輪、三の丸、二の丸、本丸、天守台跡、平殿、花屋敷、本丸への虎口跡、南二の丸、南千畳曲輪が配されていた。竹田城跡は、播磨・丹波・但馬の交通上の要衝でもある古城山(354m)の頂上に築かれた南北約400メートル、東西約100メートルの山城で、室町時代の守護大名、山名宗全が築いたとされ、関ヶ原の役(1600年)後、廃城となったそうです。城下から遥か高く見上げる山頂に位置し、しばしば円山川の川霧により霞むことから「天空の城」や「日本のマチュピチュ」とも呼ばれます。天守台跡は立入禁止となっているため、南千畳曲輪の石碑が建てられている所で記念写真を撮った後、南登山道を60分掛けて下り竹田駅に戻った。竹田城を登城する人が増え石垣などの損傷が激しいため、登山は8時から17時までに限定され、駅裏登山道は閉鎖され、至る所にロープが張られて立入禁止になっていました。(2014年5月11日)
 小松山(430m):JR西日本備中高梁駅より観光乗合タクシーで「ふいご峠」まで行き、そこから登山靴で階段と坂の山道を登って20分。備中松山城の土堀、大手門跡、三の丸跡、二の丸跡、本丸、天守と巡って、小松山山頂(430m)に着いた。山頂にある天守の前で記念写真を撮って、二の丸跡に戻り休憩してから、天守の北にある二重櫓も忘れずに見学。下りは途中から遊歩道を歩いて「ふいご峠」に戻った。城跡が国の史跡に指定され、江戸時代に建造された天守、二重櫓、土塀の一部が国の重要文化財に指定されている。そのほかに石垣、復元された櫓、門、土塀が現存します。1240年に秋葉重信が備中有漢郷の地頭となり大松山に最初の城を築いた。1331年頃に高橋宗康が小松山まで城を拡張した。戦国時代の三村元親の時代には大松山・小松山を範囲とする一大城塞となり、1874年に廃城となったそうです。(2014年4月22日)
 岩村城山(717m):中央自動車道「恵那IC」から自家用車で25分して岩村歴史資料館に着いた。登山靴に履き替え、復元された表御門・平重門・太鼓櫓、藩主邸の一部などを麓で見学した後、坂道や階段を登って岩村城の大手門を経て三の丸、二の丸、東曲輪を守る六段壁、本丸埋門、本丸まで25分歩いた。岩村城山山頂の本丸跡(717m)で記念写真を撮り、持参した「おにぎり」を食べて休憩した。その後、出丸、出丸にある氷餅蔵、霧ヶ井を見学してから下山し岩村歴史資料館の駐車場に戻った。岩村城は、本丸が諸藩の居城中最も高い海抜717mに位置しており、1185年源頼朝の重臣・加藤景廉がこの地の地頭に補せられ、その子・遠山景朝により1221年以降に創築されてから、鎌倉・室町、戦国、江戸期を経て明治に至り1871年に廃城されるまでの650年間に亙り城と城主が連綿と続いたそうです。(2014年3月21日)
 金華山(329m):馬に乗った「若き日の信長像」がある、岐阜市の金華山山麓にある岐阜公園に着いた。この岐阜公園から急峻な登りが続く「馬の背登山道」を、剥き出した岩肌をよじ登ったり木の根を掴んで登った。山頂の近くにある岐阜城の天守で内部を見学した。その後、金華山(329m)の山頂で記念撮影をした。下りは整備された「七曲り登山道」を歩いて岐阜公園に戻った。岐阜城は、1201年に二階堂行政が稲葉山に砦を築いたのが始まりとされ、織田信長が1567年に斎藤龍興から奪取した稲葉山城の縄張りを破却して新たに造営したものです。1601年に徳川家康は岐阜城の廃城を決め、奥平信昌に10万石を与えて加納城を築城させました。昭和31年(1956年)7月25日に鉄筋コンクリート建築で3層4階建ての復興天守が落成。天守の設計は加納城の御三階櫓の図面や古文書を参考に城戸久名古屋工業大学名誉教授が行ったそうです。(2014年2月8日)
 八王子城山(446m):JR中央線高尾駅より西東京バスで10分、霊園前で下車して徒歩約15分。麓の八王子城跡管理棟から城山川沿いに約10分、古道を歩いて曳橋、虎口、冠木門および御主殿跡を見学した。管理棟に戻り八王子城山の山頂を目指して約40分、坂道を登って八王子神社に着いた。裏手の坂道を更に約5分、登って松木曲輪・小宮曲輪跡を経て、北条氏の本城である小田原城の支城であった八王子城の本丸跡に着いた。山頂の本丸跡(446m)で記念写真を撮って休憩してから下山した。八王子城は北条氏照が1571年頃より石垣で固めた山城構築をして築城し1587年頃に本拠としました。1590年に上杉景勝・前田利家・真田昌幸らの部隊1万5千人に攻められ敗北し、城代の横地監物や城主の北条氏照は切腹し、新領主となった徳川家康により廃城となったそうです。(2014年1月3日)
 鋸山(329m):久里浜港から金谷港まで東京湾フェリーに乗船した。金谷港から歩いて登山口に着き、階段を登り観月台に着き屏風のように連なる岩壁を眺めた。樹林に入って露岩を削った階段を登り樹林の尾根を何度も登り下りして漸く鋸山山頂に着いた。鋸山の地質も凝灰岩で昭和57年まで建築用の石材として切り出され房州石と呼ばれ利用された。山頂で記念撮影をしてから日本寺の北口管理所に戻って階段を登り展望台に着いた。突き出た岩の上にあり「地獄のぞき展望台」と言われ竦んでしまう凄い眺めであった。石段を下って樹林の中を行くと高さ31mの薬師如来の大仏が鎮座していた。1783年に大野甚五郎が門弟と共に岩を彫刻して建立したが長年の雨風により侵食・破損が発生し昭和41年から仏師・八柳恭次を中心に修復が行なわれ昭和44年に完成したそうです。数か月掛けて作成し作品展に出品した木彫りの釈迦如来を思い鋸山に今回登った。歩いて山を下り更に町の中を歩いて金谷港に戻った。(2013年12月1日)
 那須岳(1917m):JR東北本線の黒磯駅からバスで那須ロープウエイ駅まで行き下車し那須ロープウエイに山麓駅から山頂駅まで乗った。久しぶりの快晴のためバスは交通渋滞で大幅に遅延し登山者も多かった。降りた山頂駅付近では風が強く吹いていたが、砂礫の斜面を登って茶臼岳(1915m)の頂上に立った。頂上には那須岳神社の祠があり安全祈願をしました。頂上からの展望を満喫した後、火口縁をバランスを崩さないように注意しながら少し下って峰ノ茶屋避難小屋に着き持参した「おにぎり」を食べて休憩した。次に岩の斜面を登りアルペン的な朝日岳(1896m)の頂上に着いた。ここから茶臼岳や三本槍岳(1917m)を展望した後、少し下って峰ノ茶屋避難小屋に戻り茶臼岳の西中腹を水平に横切って行った。活発に噴煙を上げる噴気孔の近くを通って鞍部の牛ノ首に出てから更に下って那須ロープウエイの山頂駅に戻った。(2013年10月14日)。
 八幡平(1613m):JR東北新幹線盛岡駅でバスに乗り八幡平アスピーテラインを通って見返峠で下車した。見返峠から三角錐を誇示している畚岳(1578m)や奥の岩手山(2038m)を眺めた。見返峠から30分歩いて八幡平頂上(1613m)に着き記念写真を撮ったが、途中にはガマ沼や鏡沼があり周辺の所々で紅葉が見られた。八幡平頂上で持参した「おにぎり」を食べてから、往路とは別のルートを30分歩いて見返峠に戻った。その後、バスで日本で最も深い田沢湖(最大深度423m)に移動した。田沢湖は、瑠璃色の湖面とたつこ姫伝説に彩られ周囲約20キロメートルのほぼ円形の湖で、飲水思源像のある場所から、たつこ姫の像のある場所までの10キロメートルを遊歩道に沿って散策した。(2013年9月26日)。
 谷川岳(1977m):アルペン的な景観を見せて聳え立つ上越国境の双耳峰の谷川岳に登った。天神平から谷川岳山頂に登り天神平に戻るまで約4時間半歩いた。(2013年7月31日)。
コース概略:JR東京駅発(6:08)→とき301号→JR高崎駅(6:58着、7:10発)→JR上越線→JR水上駅(8:13)→谷川岳ロープウェイ行バス発(8:25)→ロープウェイ谷川土合口駅着(8:45)→ロープウェイ乗車(8:50)→天神平(9:00)→天神峠(9:15)→熊穴沢避難小屋(9:50)→天狗の溜り場(10:25)→肩ノ小屋(11:05)→トマの耳(11:15)→谷川岳山頂・オキの耳(11:30)→下山開始→トマの耳(11:45)→肩ノ小屋(11:55)→昼食おにぎり(11:55-12:05)→天狗の溜り場(12:20)→熊穴沢避難小屋(12:45)→天神平(13:40)→昼食カレー(13:40-14:00)→ロープウェイ谷川土合口駅(14:10)→水上行バス発(14:13)→JR水上駅(14:33着、14:56発)→JR上越線→JR高崎駅(15:59着、16:21発)→あさま534号→JR東京駅着(17:12)
 西穂高岳(2909m):新宿から新穂高温泉まで夜行の専用登山バスに乗り、その後ロープウェイに乗り標高2150mの西穂高口駅に着いた。展望台で朝食を摂り、これから登る西穂高岳や西穂独標を見ました。西穂高口から樹林帯の中を1時間30分ほど登り西穂山荘に到着しました。さらに西穂山荘の脇から西穂高岳を目指してハイマツの間を登り、標高2452mの丸山を経て標高2701mの西穂独標に辿り着いた。西穂独標には鎖が設置され傾斜が45度ほどあります。あいにく西穂独標の山頂付近はガスが一杯で周りの景色は見えず風速10mほどに風が吹いていました。ここで記念写真を撮り西穂高岳への登頂を切り上げて西穂山荘まで戻り昼食を摂りました。西穂山荘からは上高地を目指して樹林帯の中を3時間ほど歩きました。途中、集中豪雨に遭い「ずぶ濡れ」になってしまいました。何とか上高地から新宿までの専用登山バスの発車時刻の16:00に間に合い帰路に着きました。(2013年7月22日)。
 ピッツネイル山(3057m):サンモリッツで教会や美術館などの建物を眺めた後、ケーブルカーとロープウェイを利用して標高3057mのピッツネイル山の山頂にあるピッツネイル展望台に着いた。ロープウェイの中からはリス科のアルプスマーモットが巣穴から出て飛び跳ねているのを何度も見ることができた。山頂からはサンモリッツ湖やシルバプラウナ湖と3000mクラスの山々が綺麗に眺められた。サンモリッツのピッツネイル展望台で昼食を食べた後、山頂にあるウシ科のアイベックスの像と一緒に記念写真を撮った。(2013年6月26日午後)。
 ピッツベルニナ山(4049m):氷河特急に乗車してパノラマ車両からのライン渓谷や世界遺産のランドバッサー橋などの絶景や車内食を楽しみながら前日にサンモリッツに移動した。サンモリッツからベルニナ鉄道に乗車しベルニナ・ディアボレッツァ駅で下車し、ベルニナアルプス観光ロープウェイを利用し標高2978mのディアボレッツァ展望台へ着いた。ロープウェイの中からは、中腹にある大きなラゴビアンコ湖が見渡せた。ディアボレッツァ展望台からは、主峰ピッツベルニナ山(4049m)やピッツパルエ山(3900m)などの名峰群や大迫力の氷河などの息を呑むほどの絶景が眼前に広がりました。絶景を楽しみ記念写真を撮ってから、往路と同じロープウェイとベルニナ鉄道を利用して下山し、サンモリッツに戻りました。(2013年6月26日午前)。
 モンテローザ山(4634m):標高1620mの麓町ツェルマットでゴルナーグラート鉄道の登山電車に約50分乗り、終点のゴルナーグラート駅に到着したら、駅前の広場には4000m級のスイスアルプスと氷河が眼前に広がっていました。駅前広場の上の展望台や展望スペースまで歩き、その先の岩場でスイスの最高峰モンテローザ山を背景に記念写真を撮りました。展望台からは標高4634mのモンテローザ山、標高4527mのリスカム山、標高4164mのブライトホルン山、ゴルナー氷河、グレンツ氷河をはっきりと見ることができました。(2013年6月23日)。
 マッターホルン山(4478m):マッターホルン山の麓町ツェルマットはガソリン自動車の乗り入れが禁止された山岳リゾートで、のどかな雰囲気と新鮮な空気を思う存分満喫できます。この標高1620mのツェルマットから、朝焼けに染まるマッターホルンが見れました。ツェルマットでゴルナーグラート鉄道の登山電車に乗り三つ目の駅リッフェルブルグで降りてハイキングを行い、マッターホルンを始め美しいアルプスの山並みを楽しみました。ツェルマットに下山し駅前通りで、運よく夕方4時半頃、ヤギの行進が見られました。また夕日に染まるマッターホルンも見れました。時間帯により豊かに表情を変えるマッターホルンの眺めを堪能できました。(2013年6月23日)。
 モンブラン山(4807m):ヨーロッパアルプス最高峰のモンブラン山を目指して、専用バスに乗って、チューリッヒからベルン、モントルー、マルティニーを経て、スイスとフランスの国境を越え標高1030mのシャモニーへ、約5時間を掛けて向かいました。シャモニーでロープウェイに二度、約20分乗り、標高2525mのブレバン展望台に着きました。ブレバン展望台では、結婚式を挙げるカップルに出くわしました。上空の天候は良くありませんでしたが、雲の隙間から辛うじて「白い山」を意味するモンブラン山を、大きな氷河の奥の方に眺めることが出来ました。(2013年6月22日)。
 吾妻山(2035m):JR山形新幹線米沢駅からのバスを終点の白布湯本で降りロープウェイとリフトで標高1820mの北望台まで上がった。気温は米沢では23度だったが北望台では16度で肌寒かったが高山植物が色々咲いていた。樹林帯の一部は積雪1mの硬い残雪があり登山道が解り難く何度もコースを間違えて戻ったりした。人形石、梵天岩や天狗岩を経て150分程歩いて漸く山頂に辿り着いた。山頂は山名と標高を記した標識が有るだけで展望など見るべきものは無い。帰路は西吾妻小屋、吾妻神社、天狗岩、かもしか展望台を経て120分程歩いて北望台に戻った。樹林帯では赤いリボンを目印に残雪の中を道を間違えないように注意して下山した。(2013年6月10日)。
 陣馬山(857m):JR中央本線藤野駅から30分歩くと陣馬山登山口の標識があった。ここからジグザグの登りと平坦な道の繰り返しの林道や丸太の階段の一ノ尾根を5km、100分間登って陣馬山の山頂に着いた。山頂は広く一段高い所に山名に因んだ白馬像があり、360度の大展望が開けており関東平野から奥多摩、丹沢、中央本線沿線の山々が見渡せ、特に富士山が綺麗でした。茶屋で陣馬ソバを食して休憩してから下山しました。帰りは奈良子峠、明王峠、与瀬神社を経てJR中央本線相模湖駅まで145分歩いた。藤野駅から午前8時に歩き出し陣馬山山頂に午前11時に着き相模湖駅に午後2時に着きました。万歩計を見たら約3万歩を示していました。(2013年6月1日)。
 金時山(1213m):芦ノ湖を取り巻く箱根外輪山の最高峰が標高1213mの金時山です。JR東海道線の小田原の駅前から箱根登山バスの桃源台行に乗り仙石バス停で下車。金時登山口から登山を開始し樹林帯の斜面を登り矢倉沢峠へ。芦ノ湖や仙石原の景色を眺めたりしながら尾根を歩きガレ場を慎重に進んで富士山が美しく映える山頂に到着。山頂では持参したオニギリを美味しく食べました。登ってきたのと反対側に下山し乙女峠を経て山道を下り乙女口バス停に到着。途中で坂田公時(幼名は金太郎)が祭られている金時神社に立ち寄ってから帰路につきました。(2013年3月6日)。
 木曽駒ヶ岳(2956m):自家用車で中央道駒ヶ根ICから県道75号で駒ヶ根高原の有料駐車場に行き下車、路線バスに乗り換え「しらび平」まで乗車。ロープウェイを利用して「千畳敷」に降り立った。千畳敷カールには残雪があったが高山植物が咲き競っていた。前方には中岳や宝剣岳がそびえ立っている。八丁坂の急坂を登り切って中岳に登り次に木曽駒ヶ岳を目指した。頂上山荘のある鞍部に下ってハイマツの斜面を登り返して木曽駒ヶ岳の頂上に立った。雄大な展望が開け、木曽駒ヶ岳から頂上山荘や中岳や宝剣岳の写真も撮った。コマウスユキソウを初めとして各種の高山植物が綺麗だった。(2012年8月12日)。
 ベイカー山(3172m):レンタカーを借りてバンフからレイク・ルイーズとジャスパーを結ぶアイスフィールド・パークウエイを走行。ハイウエイの途中には数か所、動物が横断するための専用通路が設けられ保護が図られています。バンフから105kmの駐車場に車を停め下車して、ボウ峠(2070m)を目指して10分ほど坂道を歩きました。この道沿いには小動物や高山植物が見られました。ボウ峠の展望台からペイトー湖を見下ろし、残雪の残ったベイカー山やパターソン山とエメラルド色のペイトー湖の雄大で綺麗な眺望を楽しみました。バンフからジャスパーへの全長300kmのカナディアンロッキー縦断ドライブを友人と行い、周囲の雄大な山々の風景を眺め、途中途中で下車し湖や滝や渓谷の美しさを堪能しました。(2012年6月12日~15日)。
 大山(1252m):小田急の伊勢原駅に着き10時頃に路線バスに大山ケーブル前まで乗車。ケーブルで中腹にある阿夫利神社まで行き、そこから丹沢山系の一つである大山の山頂を目指して90分歩いた。冬のため痩せた二匹の日本鹿に途中で出会った。山頂には12時45分頃着いた。山頂付近は雪一色で滑りやすかったが、持参した「おにぎり」を食べて記念撮影をした後、アイゼンを用意しなかったので滑らないように一歩一歩確かめながら中腹の阿夫利神社まで60分掛けて下山した。14時頃に阿夫利神社に着き、ケーブルと路線バスで伊勢原駅に戻った。下界では梅が咲いており春が近づいていた。(2012年3月11日)。
 昇仙峡・弥三郎岳(1058m):特急あずさ号で中央線甲府駅に着き路線バスで天神橋へ到着。長瀞橋を起点としてモミジや銀杏の紅葉を眺めながら奇岩や覚円峰や仙蛾滝などの昇仙峡散策を楽しんだ。仙蛾滝駅からパノラマ台までロープウェイに乗り、さらにパノラマ台から弥三郎岳へウォーキングをし、鎖を伝って登っていくと大きな丸い岩が乗っかった弥三郎岳の山頂に出た。山頂からは富士山や甲武信岳などの360度の大パノラマが眺められた。山頂の周りは絶壁で恐る恐る記念撮影した後、往路と同じ場所を復路として帰途に着いた。秋の紅葉と自然の景観を満喫できた。(2011年11月13日)。
 至仏山(2228m):鳩待峠で上越新幹線上毛高原駅からの関越交通バスを降り、10時30分頃におにぎり弁当を購入してから至仏山を目指して登山を開始した。鳩待峠は尾瀬が原への出発点として有名な場所である。途中12時頃にお腹がすいたので持参したおにぎりを一個食べた。中腹から燧ケ岳と左手下に尾瀬が原を眺めた。至仏山の頂上に到着したのは13時であった。下界は9月にも拘わらず32度と高温であったが、至仏山の頂上近くは涼しく気持ちが良かった。その先の山ノ鼻へは下山禁止となっているので至仏山の頂上から元のコースに戻って15時に鳩待峠に着いた。鳩待峠休憩所で岩魚の塩焼きをビールと共に味わった。美味で頭も尻尾もすべてまるごと食した。鳩待峠で再び関越交通バスに乗り上越新幹線上毛高原駅に戻り、帰途に着いた。(2011年9月19日)。
 霧が峰(1925m):車で中央道諏訪ICから国道152号、ビーナスライン経由で霧が峰ロイヤルイン前の駐車場に到着。ビーナスの丘でニッコウキスゲの集落地の周りを散策しました。その後、信州諏訪湖 塩嶺高原のコテージに一泊し、信州の高原の涼しさの中、蕎麦打ち名人が作った美味しい蕎麦を戴き、カラオケを楽しみました。(2011年7月18日~19日)。
 天城山(1406m):家で焼き卵とおにぎりを作ってから自家用車で湘南バイパスを経由して天城高原ゴルフ場前の駐車場に到着。熱海峠では霞が立ち込めていたが天城高原では快晴だった。登山靴に履き替えて万二郎岳を目指して出発。セミの鳴き声が激しい中、万二郎岳に到着。綺麗なニワハンミョウを二度見かけた。10:30だが空腹感を覚えたので持参したおにぎりを1個だけ食べてから万三郎岳を目指して出発。途中の岩場から富士山を見晴らすことが出来た。1時間半後に万三郎岳の頂上に着き持参した昼食をおいしく食べた。涸沢分岐点を経由して天城高原ゴルフ場に戻った。久し振りの登山で4時間掛けて2万歩も歩いて大変疲れた。共同浴場で汗を流してから帰った。(2011年7月10日)。
 浅間山(2568m):標高1973mにある浅間山ビジターセンターに自家用車で上越自動車道を経由して到着。途中の麓の木々の葉は黄色や赤色に染まり綺麗であった。車坂峠周辺の駐車場を利用し登山靴に履き替えて黒斑山(2404m)を目指して登山を開始した。中腹からは水ノ塔山(2202m)やアサマスキー場や南アルプスが一望できた。中腹で持参した「おにぎり」を食べた。浅間山の外輪山である黒斑山の岩峰から雄大な浅間山を眺め記念写真を撮影した。この後、黒斑山から下山し車坂峠に戻ったが、今回は天候に恵まれた。(2010年11月6日)。
 立山(3015m):扇沢で長野新幹線上田駅からのバスを降りトロリーバスに乗り換え黒部ダムで降りケーブルカーに乗り黒部平で降りた。次にロープウェイに乗り大観峰で降りたが、ここから立山(3015m)までは天候に恵まれず霞が立ち込めていた。次にトンネルバスに乗り室堂で降りミクリガ池や地獄谷まで散策した。バスで美女平に出てケーブルカーに乗り立山駅で降りた。更にバスに乗り富山駅で降りた。念願の立山黒部アルペンルートに行ったが大観峰、立山、室堂では残念ながら天候に恵まれず自然の景色を堪能できなかった。(2010年8月16日)。
 蔵王山(1841m):蔵王山は熊野岳(1841m)を主峰として地蔵岳、刈田岳などの峰を総称したものです。蔵王温泉で山形新幹線山形駅からのバスを降り地蔵岳、熊野岳、刈田岳と縦走した。天候に恵まれず強風で霞が立ち込め20m先は見えない状態でした。御釜では強風で時折、霞が消えるタイミングを見つけて写真を撮りました。刈田岳山頂バス停に午後2時頃着き山交バスを捜したが午後1時発の1日1便しか無い事が判明、止む終えず縦走路を逆に戻り地蔵岳から下山し蔵王温泉で足湯に浸かってから帰宅した。縦走路を往復し通常の2倍歩くことになってしまった。(2010年7月20日)。
 大菩薩嶺(2057m):机竜之介を描いた小説「大菩薩峠」で有名になった大菩薩嶺に登るため自家用車で上日川峠まで行き駐車場で降り、上日川峠から福ちゃん荘を経由して大菩薩峠に登った。昼食を食べてから雷岩を経由して大菩薩嶺の頂上に立った。大菩薩峠から大菩薩嶺へ行く尾根では風が吹いて随分寒かった。大菩薩嶺から唐松尾根を経由して上日川峠に戻った。(2010年4月25日)。
 筑波山(877m):筑波山に登るため「つくば駅」から筑波山神社入口へバスで行き降りた。そこから男体山(871m)の頂上目指して歩いた。中腹からは前日降った雪に覆われていた。男体山の頂上からは御幸ケ原に下って女体山(877m)を目指した。山頂での展望を楽しんだ後、奇岩怪石の間をめぐる「白雲橋コース」、尾根沿いの「おたつ岩コース」をたどってつつじケ丘に出た。つつじケ丘からは「つくば駅」へバスで戻った。(2010年3月27日)。
 塔の岳(1491m):丹沢山塊の一つの塔の岳に登るため渋沢駅からバスで行き大倉で降りた。そこから塔の岳の頂上目指してひたすら歩いた。中腹からは残雪に覆われておりアイゼンを用意しなかったので滑らないように一歩一歩確かめながら登った。途中、山小屋で一服したが、その際、近くで野生の小鹿を見つけた。大倉から4時間半後を掛けてようやく登頂した。持参した「おにぎり」を食べてから下山を始めたが雪と傾斜が急のため思いのほか苦労し2時間半後に大倉に着いた。日の入り間際であった。(2010年2月7日)。
 高尾山(599m):近郊の高尾山に登った。途中、中腹にある薬王院に初詣。1号路:表参道コースを使って頂上に到着。頂上には多くの登山者が休憩・昼食を採っていた。持参した「おにぎり」を食べてから周りの眺望を楽しんだ。帰路は6号路:びわ滝コースを使って下山。途中、琵琶滝に寄って見学した。(2010年1月10日)。
 大雪山系黒岳(1984m):生まれて初めて北海道に旅行。大自然と動物の触れ合いを堪能した。石狩川の流れる層雲峡の麓からロープウェイを使って黒岳の5合目まで登った。5合目の散策コースをウォーキング中、エゾシマリスに数回出会った。エゾシマリスは笹の葉の間を飛び回ったり「どんぐり」を食べたりしていた。「生きた化石」などとも言われるウスバキチョウにも出会ったが、写真には撮れなかった。(2009年7月30日)。
 屋久島・白谷雲水峡(800m):妻と娘と3人でトレッキング。宮之浦の集落より車で約30分、標高700mから900m付近にかけて広がる屋久スギ原生林の自然休養林。(2003年9月18日~20日)。
9/18 砂浜を散歩しアカウミガメの産卵する場所をじかに見た。9/19、白谷雲水峡を家族三人でトレッキング。9/20は台風15号のため午前中の見学計画はすべて中止し、ホテルで朝食を摂ってチェックアウトし、飛行機はすべて欠航のため鹿児島行の高速艇トッピーに乗船、条件付き出港(出港して海の状況で種子島で停泊、鹿児島まで行かない可能性がある事を了承の上で乗船)で、波が非常に高く揺れが激しく1時間遅れで鹿児島に到着。鹿児島から東京の飛行機は予定時間どおり運行、無事羽田に到着。
 局ケ岳(1029m):とんがった局ケ岳に挑戦した。(1992年11月28日)
コース概略:桑名→(近鉄)→津新町→(車)→166号線→飯高町宮前→局ケ岳→飯高町宮前→(車)→津新町→(近鉄)→桑名
 奥香落渓・倶留尊山(1038m):1991年4月から三重県に3年単身赴任した。会社の人達と休日、山歩きした。ススキの綺麗な名所の山に登山でき、奈良県側の曽邇村と三重県側の美杉村を走破する事ができ、日頃の体力不足を補うのに大変有効な1日を過ごす事ができました。(1992年10月25日)
コース概略:桑名→(近鉄)→名張→(バス)→太良路橋→おかめ池→亀山峠→倶留尊山→曽邇高原→(バス)→名張→(近鉄)→桑名
 御嶽山(3063m):母と一緒に「六根清浄」を唱えながら根性杖をついて夜、歩いて信仰の山「御嶽山」に登った。頂上で雲海から登る「ご来光」(朝日)を見た時の感動は今も記憶にはっきり残っている。(1966年)
 槍ヶ岳(3180m)、双六岳:高校時代に姉および姉の友人達の登山に同行して、初めて本格的な山に登った。槍ケ岳の頂上は狭く急な傾斜で、クサリを辿りながら頂上に登った。(1964年7月20日~23日)


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