天主堂巡り

キリスト教伝来(1549年)から徳川幕府によるキリスト教禁教までの期間、日本各地に建てられた教会堂は「南蛮寺」などと呼ばれたが、現存する建築物はなく、資料や出土遺物で確認できるのみである。明治以降の日本のカトリック教会堂は「天主堂」とも呼ばれていた。長崎の教会群など、木造の素朴なものから、煉瓦積みのものなど、それぞれに信仰の形を映し出している。
 カトリック八王子教会:JR横浜線八王子駅から徒歩15分。1876年(明治9年)から下壱分方を訪問していたパリ外国宣教会のテストヴィド神父は、八王子にも福音を伝えようと熱心に宣教を試みたが成功しませんでした。横浜で信者となった塚本五郎氏の一家が、郷里の八王子に住み自分の家をテストヴィド神父に提供したため、彼の家を宿泊所として八王子を訪れるようになり、信者は次第に増えていった。 1877年(明治10年)、教会の母体が元八王子村にて創立され宣教活動は本格化した。過労で病気になったテストヴィド神父の後、レゼー神父らが八王子の信者の世話をし、1892年(明治25年)に赴任したメイラン神父が八王子に司祭館を置き拠点とした。その後、1896年(明治29年)に聖堂建築を開始し献堂式が行われた。しかしこの聖堂は半年後、八王子の大火で焼失した。1913年(大正2年)に聖堂が完成したが、第2次世界大戦の際、空襲により全焼した。1950年(昭和25年)に現在の聖堂が祝別された。(2020年7月2日)
 横浜海岸教会:横浜市営地下鉄線関内駅から徒歩10分。横浜海岸教会は、1872年(明治5年)に設立された日本で最初のプロテスタント教会で、日本キリスト教会に所属する正統的なキリスト教信仰に基づく教会の一つです。1861年11月、米国改革派教会のJ.H.バラ夫妻が神奈川に渡来し、横浜で英語私塾を開き、同時にキリスト教の開拓的伝道のための準備を始め、1868年11月には現在の横浜海岸教会の所在地(居留地167番)に、横浜在住の外国人のための礼拝所・日本人のための英語教場として、石造りの小会堂が建設され20数名の学生を教えました。3年後の1875年7月に大会堂が献堂され日本基督横浜海岸教会と改称されました。現在の会堂は1932年末に竣工し献堂されたもので、建物は1945年5月の横浜大空襲の際には、窓ガラス数枚を壊しただけで大きな被害は免れましたが、1945年9月に進駐軍に接収され、Yokohama Base Chapelとして従軍牧師による各教派の礼拝のために使われました。2年後の1947年に横浜公園にチャペルセンターが完成して漸く接収解除され現在に至っています。 (2020年6月5日)
 横浜指路教会:横浜市営地下鉄線関内駅から徒歩4分。アメリカ長老教会から派遣された宣教医J.C.ヘボンが日本にキリスト教を伝道する志を持って夫人と共に来日したのは、1859年(安政6年)10月のことでした。 やがてヘボン塾で勉強していた青年たちを中心にして、教会設立の気運が起こり、1874年(明治7年)9月、アメリカ長老教会の宣教師ヘンリー・ルーミスを初代牧師として設立されたのが指路教会です。教会は最初の横浜居住地39番から、現在地に移り、ヘボンの尽力により赤レンガの教会堂が建てられました。その時ヘボンの母教会の名"Shiloh Church" を頂いて指路教会としました。1923年9月関東大震災によって教会堂が倒壊したのち現在の教会堂が再建されましたが、1945年5月の横浜大空襲によって内部が全焼しました。その後も幾多の厳しい事態に直面しながらも、いつもキリストのみ言葉と信仰によって、今日まで伝道の使命を果たしてきました。2000年12月には、創立125周年記念事業の一つとしてスイス/マティス社のパイプオルガンが設置されました。(2020年6月5日)
 東京復活大聖堂教会:JR中央線御茶ノ水駅から徒歩2分。東京復活大聖堂教会(ニコライ堂)は、イイスス・ハリストス(イエス・キリストのギリシア語読み)の復活を記憶する日本正教会の首座主教座大聖堂である。聖ニコライの依頼を受けたロシア工科大学教授で建築家のM.A.シチュールポフが原設計を行った。お雇い外国人として来日し建築設計事務所を開いていたジョサイア・コンドルが実施設計を担当、建築工事は長郷泰輔が請負い施工は清水組(現・清水建設)が担当した。緑青を纏った高さ35メートルのドーム屋根が特徴であり日本で初めてにして最大級の本格的なビザンティン様式の教会建築と言われる。1891年(明治24年)に竣工し、駿河台の高台に位置したため御茶ノ水界隈の景観に重要な位置を占めた。関東大震災で大きな被害を受けた後、一部構成の変更と修復を経て現在に至る。 (2020年5月24日)
 カトリック神田教会:JR中央線水道橋駅より徒歩7分。1874年(明治7年)1月、三つの旗本屋敷を購入し70畳敷きの大広間を聖フランシスコ・ザビエルに捧げた聖堂としたことが、現神田教会の礎となりました。その後1878年(明治11年)に、神学生は長崎の公教神学校へ移り、アルフレッド・ペティエ神父が初代の主任司祭となり、小教区神田教会は新しい時代を迎えました。1896年(明治29年)に新築された聖堂は、1913年(大正2年)の大火で焼失、さらに1915年(大正4年)に落成した聖堂も1923年(大正12年)関東大震災で焼失しました。現在の聖堂は1928年(昭和3年)に建築された鉄筋コンクリート造りの建物です。1945年(昭和20年)の東京大空襲では難を免れました。また1953年(昭和28年)プロカテドラルに改築されたこともありました。このように神田教会は1874年(明治7年)に誕生して140年の時を刻む、築地教会と共に都内最古の歴史を誇る教会で、スイス人の建築家マックス・ヒンデル氏の設計によるロマネスク様式とルネッサンス 様式を融合させた建築です。 (2020年5月10日)
 カトリック松が峰教会:JR東北本線宇都宮駅からバスに乗り東武駅前で下車し、徒歩5分。松が峰教会は、1888年(明治21年)パリ外国宣教会のカジャック神父によって川向町に建てられ、宇都宮天主公教会として創立され、1895年(明治28年)に現在の松が峰に土地を移し、聖堂はスイス人の建築家マックス・ヒンデル氏の設計により1931年(昭和6年)に起工された建築物で、献堂75年を越える歴史があります。聖堂の内外壁に用いられている大谷石は、旧帝国ホテルに用いられた場所と同じ大谷の採石場から切り出されたものに、石工職人により様々な意匠が施されています。古代および中世初期の教会建築とロマネスク様式によって建設されており、日本では数少ない双塔を持った教会建築です。松が峰教会のパイプオルガンは、1978年(昭和53年)4月に奉献されました。このオルガンは、カトリック典礼に相応しい音であること、松が峰教会のミサに最適な音色を備えていることを条件に検討、設計、施工されたバロック様式のオルガンです。(2020年4月26日)
 カトリック碑文谷教会:東急東横線都立大学駅から徒歩15分。1948年3月、サレジオ修道会がこの地に宣教拠点を置き、完成した二階建て司祭館の一階を聖堂にして、着任した故ダルフィオル神父によるミサ聖祭が始まり、1954年に現在の教会堂が建設された。建設途中、東京国立博物館のキリシタン遺物の中に最後の潜入宣教師シドッティ師(1708年屋久島に渡来)の所持品である聖母画が発見された。この聖母画を江戸のサンタマリアと名づけ、教会をこの聖母に捧げ、保護者とした。聖母画は献堂式にあたり4ケ月間当教会に特別展示され、現在はレプリカが教会入ロに掲げられている。聖堂はロマネスク様式で、イタリア産の大理石が荘厳な落ち着いた雰囲気を醸し出している。故フェラリ修道士の力作である壁画や天井画は祈りの雰囲気を作り上げ、近年入れられたステンドグラスはキリストの生涯や、聖書や教会のシンボルなどを見事に映し出している。この教会は、献堂当初からサレジオ教会の名で知られ親しまれてきた。 (2020年4月5日)
 井持浦天主堂:貝津教会から車で40分、海と崖に挟まれた小さな集落にあるのが井持浦天主堂。福江島の最果ての厳しい地形の中に気高く佇むこの教会には、フランスのルルド(霊水)を模倣して明治32年(1899年)に作られた日本で最初のルルドがあるため、全国からの巡礼者が後を絶えません。明治30年(1897年)建立のレンガ造教会が台風で倒壊し、昭和63年(1988年)にコンクリート造の現教会となりました。井持浦教会から福江までは島の中央部を貫通する道で戻ると早いのですが、夕方まで時間があるので島の南部を半周してみました。途中、シンダーコンと呼ばれる珍しい形の火山として知られる鬼岳がありますので、裾野に沿ってその景観を楽しみながら福江港まで戻ります。(2020年3月15日)
 貝津教会:高浜ビーチから5分、国道端で聖母像にむかえられて入ると、畑の向こうに白壁で木造の教会が見えます。大正12年(1923年)3月、かつて外海地区から頓泊などに入り更に竹山に移住した40戸の信徒の子孫が、岳教会の主任司祭山頭師の指導を得て現在地に10坪程度の教会堂を創設し、翌13年4月15日竣工し同年8月献堂し、岳小教区の巡回教会として発足しました。その後、昭和27年(1952年)岳小教区より独立し貝津小教区となり、浜口貞一師が翌28年11月3日、最初の主任司祭として着任されました。竹山勇師のとき、老朽のため建て替えを余儀なくされ、昭和37年(1962年)増改築し現在に至っています。屋根の小さな尖塔は増改築の時新たに付け加えられたものです。内部は、ステンドグラスを通して差し込む赤や青、緑色の鮮やかな光の芸術が素朴なぬくもりのある空間を彩っています。ひっそりと静まり帰った堂内には、内陣に色とりどりの季節の花が飾られ、厳かな中にも訪れる人に心の安らぎを感じさせてくれます。(2020年3月15日)
 カトリック水の浦教会:楠原教会から車で5分、カトリック水の浦教会へ。水ノ浦の信徒は、五島と大村の藩の政策による1797年の外海(大野・牧野・神ノ浦)5人の男性とその妻子の移住にはじまると伝えられています。1880年(明治13年)に最初の教会が建築されましたが、老朽化に伴い奥の土手を削って広げ、1938年(昭和13年)に鉄川与助設計施工の木造の優美な現教会に改築されました。この白亜の建物は現存する木造教会堂としては最大規模のもので、目の前に美しい入江を望む景観が有名な、五島を代表する美しい教会です。水の浦教会から西へ20分ほど進むと、天然の海水浴場としては日本一の美しさともいわれる高浜ビーチが。まばゆいばかりの白砂の向こうには、澄みきった東シナ海。遠い南国リゾートの、誰も知らない秘密の花園のような景観が楽しめます。(2020年3月15日)
 楠原教会:福江から車で細い道路を30分、楠原教会へ。大村藩から移住してきた潜伏キリシタン第一陣108名のうち、一部の者は楠原に住み着きました。1865年(元治2年)、信徒発見の日を迎え、五島のキリシタン達も次々と長崎のプティジャン司教の元を訪れて、五島の津々浦々に待ちに待った神父到来の報せが伝えられた。しかし、五島では明治に入る頃から信徒への弾圧や捕縛が始まり、楠原でも帳方の家が牢に充てられ、棄教を迫る役人の残酷な拷問が待っていた。1873年(明治6年)、禁教の高札が撤去され漸く捕縛や入牢は無くなりました。1912年(明治45年)、鉄川与助により完成したのが、現在の楠原教会で、外観はレンガ造りのゴシック様式で下五島に現存する教会としては堂崎教会に次いで二番目に古い教会です。その後、年月の経過と共に楠原教会は徐々に傷みが出始め、1968年(昭和43年)に祭壇部分を含めた増築・補修工事が行われ現在に至っている。境内にファチマの聖母と牧童たちの可愛い像を配した一角があり祈りの場になっている。(2020年3月15日)
 堂崎天主堂:五島列島は、五島のうち最大の福江島を中心とする南西部の島々を下五島と呼んで区分されます。下五島地域へのアクセスは、長崎港から福江港までジェットフォイル高速船で1時間25分。福江港に到着したらレンタカーを借り、北へ約10キロ、車で20分の堂崎天主堂へ。堂崎天主堂は長崎で殉教したヨハネ五島を記念して創立されたレンガ造天主堂で、明治6年(1873年)の禁教令解禁後の1908年(明治41年)、ペルー神父の設計により五島に初めて建てられたもの。当初は世界遺産を構成する教会の一つとして推薦されましたが、その後の構成資産の見直しにより除外され、それにより福江島内で世界遺産を構成する教会は無くなってしまいました。しかし五島を代表する教会として「世界遺産の構成資産と一体的に保存・継承していく資産」として認定されたこの堂崎天主堂には、今なお多くの人々が訪れます。そのあとは福江に戻り、武家屋敷通りへ。ここは福江藩五島氏の城下町で、市街中心部には福江城跡もあり、和風情緒が感じられる町です。(2020年3月15日)
 弘前昇天教会:JR奥羽本線弘前駅からバスで7分、中土手町で下車し、徒歩5分。弘前の地に宣教が開始されたのは、明治29年(1896年)で、現聖堂の建築は米人宣教師シャーリー・H・ニコルス司教(後に京都教区主教)の下に、大正10年(1921年)に行われた。設計者は、いま愛知県の明治村に遺る聖ヨハネ教会と同じく、米国人ジェームス・M・ガーディナー(1857-1925年)で、請負者は大工、林緑である。レンガ造りの平屋建てで、全体がゴシック様式に纏められており、イギリス積のレンガ、開口部廻りと控壁上の水切リに用いた石材などが建物のトラスから祭壇に至るアンティックな空間が見事である。正面右寄り上部の三葉飾りのアーチにある鐘は、朝夕の祈りの時間に清楚な音で時を告げ、市民に親しまれている。(2017年6月26日)
 ラパント・プロテスタント教会:スイスのサンモリッツ湖畔に立ち、セガンティーニ美術館の近くにある小規模な教会。
(2013年6月26日)
 ノートルダム大聖堂:モントリオール・ノートルダム聖堂は、カナダのケベック州モントリオールの歴史的地区にあるバシリカ式聖堂である。特に聖堂は、アルム広場に面し、モントリオール旧市街聖スルピス通り(アルム広場地下鉄駅)の一角にある、ノートルダム通り西116番地に位置している。聖堂内部の教会は世界でも最も印象的なものの一つである。内観は壮大且つ色とりどりであり、天井部は濃い青色と金色の星で装飾され、その他の神聖な場所は青、空色、赤、紫、銀、金色といった多色の彩飾で施されている。更に、何百という入り組んだ木製の彫刻作品や複数の宗教的な彫像で埋め尽くされている。教会には稀であるが、内陣の壁に沿って作られているステンドグラスの窓は聖書からではなく、モントリオールの宗教的歴史からの場面を描写したものである。また、内部にはカナダにあるカサバン・フレール社のカナダ製パイプ・オルガンも有している。このパイプ・オルガンは、7000本ものパイプを使用している。(2012年6月7日/カナダ5000km横断鉄道の旅2週間)
 カトリック山手教会:JR根岸線石川町駅南口から徒歩10分。カトリック山手教会は、神奈川県横浜市にあるキリスト教カトリックの教会および聖堂。禁教令の緩和直後、横浜居留地(現在の山下町)にパリ外国宣教会が創建した横浜天主堂が、1906年現在地に移転した。1923年の関東大震災で倒壊した。ヤン・ヨセフ・スワガーの設計により1933年に再建され、現在に至る。 (2012年12月14日)
 大浦天主堂:JR長崎本線長崎駅から路面電車に15分乗り「グラバー園入口」停留所で下車し徒歩5分。長崎県長崎市にあるカトリックの教会堂で、日本に現存するキリスト教建築物としては最古である。江戸時代幕末の開国後、1865年(元治2年)に建立された。大浦天主堂は二つの歴史的な出来事と関わりがあります。一つは、1597年の日本二十六聖人の殉教です。大浦天主堂は、正式には、「日本二十六聖殉教者聖堂」と言い、1862年に二十六人の殉教者たちが聖人に列せられたのを受け、捧げられた教会です。そのため、大浦天主堂は殉教の地である西坂に向けて建てられています。もう一つは、1865年の「信徒発見」です。大浦天主堂が1864年に建てられ、翌年2月から公開が始まったその約一ヶ月後の3月17日に、浦上の潜伏キリシタン達が信仰の告白をして名のりを挙げました。プティジャン神父は大喜びでフランス、ローマに報告しています。 (2010年5月22日)
 聖キリアン大聖堂:ドイツのヴュルツブルグにある聖キリアン大聖堂は、ドイツで4番目に大きなロマネスク様式の教会とされ、11世紀から12世紀にかけて、100年以上をかけて建設され4つの塔をもっていました。現在の建物は、第二次世界大戦で崩壊後、再建されたものです。聖キリアンは、640年にアイルランドの貴族の家に生まれ、聖職者の道を歩みました。ヴュルツブルクで、司祭のコールマン、助祭トトナンと共に布教活動に打ち込み、ヴュルツブルクの領主であったゴツベルト公爵を改宗させました。しかし、公爵の兄の未亡人で夫人から、公爵の不在中に暗殺されました。現在はヴュルツブルクの守護神として祀られています。(2005年10月6日)


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