恋愛の規則

ACT.2

 

 

「んっ……」
 息苦しさに、緑は目を覚ました。
 手首に痛みを感じ視線を向けると、両腕を縛り上げられ、脚も固く縛られていた。当然、服はなにも身につけていない。どうしてこんなことになったのか。朦朧とする記憶を辿り、バイト先からの行動を考える。
 ふと、独特の甘い香水の薫りが、鼻腔をくすぐり、小さなランプだけが燈る薄暗い闇の中から、スラリとした男が姿を現した。
「お目覚めか? 緑――」
 口端を吊り上げ、薄笑いを浮かべるその男は、ベッドの上で横たわる緑の顔を覗き込んだ。
「充……」
 緑は、声がする方向へ顔を向けた。そこには、半年前までよく一緒につるんでいた、端崎充の姿があった。
「どういうつもりだ?」
 尖った声を発し、鋭い眼差しで、緑は充を睨みつける。
 緑はクラブで働いていたころ、充といることが多かった。年が同じで、同じような境遇だった二人は、自然と距離が縮まっていった。緑も充も客が多く、店の中でも目立った存在だった。
 充も、城山に声をかけられた人間だった。
 母親にずっと虐待されつづけ、見かねた親族が充を施設へ預けた。しかし充も施設を逃げ出し、ぶらぶらしていた時、城山と出会った。そのまま『club Trip』で働くようになり、身体も売ることになった。そのことで、自分を卑下したりすることはなかった。
 自分自身をこの世で一番、憎んでいたから。
 愛されなかったのは、自分が悪いのだと思い込みつづけている。
 許せない、自分の存在。
 恐ろしいほど冷たく凍った、充の心。
 笑顔など誰にも見せない、そんな男だった。
「半年前、おまえが急にいなくなって、俺は、おまえの分まで客を取らされた。おまえ一人で、あそこから逃げるなんて卑怯じゃねえか?」
 冷酷な充の右手に握られた、鋭く光るナイフ。充はそのナイフで、裸にさせた緑の胸の上を薄っすらなぞる。
「どうして、俺の居場所がわかった」
「偶然だよ。仕事で、おまえが住んでる所の近くに行ったんだ。朝、帰る時におまえが男といるところ見た。駅で、おまえは今まで見たことないような顔してたよ」
(テツのこと、言ってるのか……)  
 緑は冷めた心で、鉄朗のことを考えた。そうでもしないと、思い出しただけで涙が出そうだったからだ。
「俺を、どうするつもりだ」
「そうだな。二度と、あいつに逢えないようにしてやろうか?」
 充はそう言うと、緑に覆い被さり、口唇を貪った。
「やめっ、ろ!! 放せっ!」
 侵入してくる充の舌に噛みつき、激しく抵抗する。心の中では、大声で鉄朗の名前を呼びつづける。
 届かないことはわかっていても、また助けてくれるかもしれない。
 そんな叶うはずのない期待を胸に、充から仕掛けられる愛撫に抵抗しつづけた。
「いまさら、抵抗なんてするなよ。あの男に、義理立てしてるのか? 恋人なんだろ?」
 緑は充からされる質問に、何一つ答えなかった。
「おまえに、答える義務はない。早くこの縄を解け」
 鉄朗の前では決して見せない、感情のない顔を充に投げかけ、放すよう凄んだ。しかし充は、そんなことでは怯まない。
「その表情だよ。おまえには、その顔が似合う」
 ナイフを持たない左手で、充は緑の顔をなぞる。
 綺麗に整った、緑の顔。
 ぎらぎらと光る瞳や、透けるように白い頬、紅く薄い魅惑的な唇をそっと辿り、目を細める。
「どうやって、あの男を誑し込んだんだ。何度ここで、あの男をイかせた?」
 充は乾いた指を、緑の蕾へ強引に挿し入れた。濡らさずに入れられた痛みに、緑は悲鳴を上げる。
 それを楽しむ充。
 緑を信じていたわけではないが、ほかの人間よりは心の中に存在していた。その分だけ、裏切られたと思う憎しみが増す充は、残虐な心を押さえられない。
 傷つけてやりたいと、二度と鉄朗に逢えないようにしてやろうと、身体が動く。
「おまえに、義理なんてないだろう? ここを使って、今まで散々男を騙してたんだ」
 指先で緑の蕾を弄りながら、充は言葉でも緑を責めた。
「うぁ、くっ! やめろっ!」
 身体を捩って、充の指から逃げようとするが、縛られているせいで逃げることも出来ない。
(テツっ!!)
 緑は、浮かんでくる涙を堪えた。
 せっかく好きになり始めた、自分の身体。鉄朗に愛されて、抱かれて、やっと浄化されたと思ったのに、今、充の抱かれてしまったら、それさえ崩れてしまう。
 落ち着いてきた緑の精神も、またぼろぼろになってしまう。
 充に言われたとおり、緑は抱かれてしまったら、もう鉄朗には逢えないと思っていた。
 好きだから、愛しているから逢えない。
 大好きな鉄朗に――
「おまえは、抜けられないんだよ! この暗闇から! この世界から!」
 部屋中に響く怒鳴り声を上げ、充は何かを自分の口にほうり込んだ。そして荒々しく緑に口付ける。
「な、んだ、これ……」
 充の口から移された錠剤を、緑は飲み込んでしまい、慌てて吐き出そうとするが失敗した。
「いい夢が、見られるぜ」
 充はファスナーを下げ、自分の欲望と取り出すと、先ほど散々弄りまわした緑の蕾に押し当てた。
「やめろ! 充! 正気になれ、馬鹿野郎!」
 力いっぱい腰を浮かし、それから逃れようとするが、ナイフを捨てた充の両腕で押さえ込まれ、抵抗虚しく、屹立し固くなっていた充が侵入した。
「いやぁ――!! テツっ――!!」
 混乱した緑の中には、朝まで隣にいた、鉄朗しかなかった。
 瞳に映るものは、すでに涙に滲んで、なにも映してはいない。
(そんなに好きなのかよ、あの男が――!!)
 腰を遣って緑を犯しながら、充は小さく舌打ちした。その小さな音は、泣き叫ぶ緑には、聞こえていなかった。
「テツっ――!! テツっ――!! ああっ……」
 鉄朗以外の男にこうして抱かれても、感じてしまう自分が憎かった。緑の身体の中心も、勃ち上がって解放を待っている。
「緑、俺の顔を見ろよ」
 固く瞳を閉じ、髪を振り乱す緑の顎をとらえ、充は上を向かせた。しかし緑は頑なに、瞳を閉じている。
 思い通りにならない緑に苛立ち、充は剥き出しで放置されていた緑のものを握り、荒々しく扱き上げた。
「ああっ、あん……やぁ……」
 いつもとは違う、手の感触、大きさ、力強さ。嫌でも鉄朗ではないと、思い知らされる。
「テツ……テツ……」
 口唇から洩れる言葉は、鉄朗の名前だけ。
 ただ一人の名前をずっと呼びつづけ、いつもなら涙を拭ってくれる優しい指先も感じられぬまま、緑は溜まった熱を吐き出した。                  



 家を飛び出した鉄朗が真っ先に向ったのは、緑が以前働いていた『club Trip』だった。緑と一緒に、どこかへ行ったという男を捜すためだ。たとえ緑を連れ去ったのがその男じゃないとしても、何を知っているはずだと考えたのだ。
 最初は店の場所を探した。行ったこともない店を探すのに少し手間取り、見つけたその店は、裏通りの同じような店が連なるところにあった。
 鉄朗は呼吸を整え、重い扉を押し開けた。
 薄暗い店の中には、大音量の音楽が流れ、男や女が入り混じって酒を飲んでいる。性別を超えた、異次元の世界。鉄朗はそう、感じた。
 これが緑のいた、闇の世界。
(緑――!!)
 更なる不安が、鉄朗を襲う。以前中谷に連れ去られた時は、間一髪で助け出すことが出来た。しかし今回ばかりは、鉄朗自身が連れ去った人間を見たわけでもないし、相手も断定できていないのだ。
 スーツを着た男が入る場所ではない店の中へ、鉄朗は歩を進める。一瞬静まり返った店は、また騒がしくなる。
 鉄朗はオーナーである城山を探した。緑と一緒に消えたという、綺麗な顔の男の居場所をきっと知っているはずだ、そう信じて。
 幸い、城山は今日出勤していた。奥に進み、店員らしき男に城山を呼んでくるよう頼んだ。
「なにか私に、用ですか?」
 奥から現れた城山は、黒のスーツに身を包んだ、まだ若そうな男だった。
 鉄朗は緑と一緒に消えた男の特徴を話し、知らないかと尋ねた。
「で、その男が何か?」
 城山は薄ら笑いを浮かべ、鉄朗を見据えた。危ない光を放つ、城山の瞳。鉄朗は少しばかり身の危険を感じたが、緑の行方がかかっている。ここで諦めるわけにはいかない。
「その子がここで働いてると聞いて、一晩、買いたいと思って」
 鉄朗の言葉に、城山は卑猥な笑みを浮かべ、顔を近づけて耳打ちした。
「直接、指名ですか?」
「そうですね」
「でも残念ですが、その子は今日、休みなんですよ。明日なら、出勤してきますから、ご予約入れますか?」
(休み?)
 探していた男が休みと聞き、鉄朗の鼓動が早鐘を打つ。緑を連れ去ったのはたぶんその男だろうと、鉄朗は思った。
 心配が募り、鉄朗は吐き気を覚える。
 目を閉じ、気分を落ち着かせた鉄朗は、城山に向き直り、強張った顔を残したまま言葉を発した。
「その子の名前、なんですか?」
「充ですよ。端崎充。で、どうしますか?」
 鉄朗をすっかりただの客だと思い込んでいる城山は、のん気に商売の話を進める。それを丁寧に断った鉄朗は、店を横切り、ネオンが眩しい街へと走り出した。
 

 あてもなく街を歩きながら、鉄朗は途方に暮れた。これからどこへ行けばいいのか、何もわからない。
 ポケットから煙草を取り出し、咥えて火を点けた。
(落ち着け。これからどうするか、考えるんだ)
 不安に苛まれる胸を押さえ、鉄朗は考えを巡らせる。
 ピリリ、ピリリ、ピリリ……
 突然携帯が鳴りだし、鉄朗は慌てて携帯を探す。映し出されたディスプレイには、緑の名前と番号が通知されている。勢い込んで通話ボタンを押すが、聞こえてきた声は緑のものではなかった。
『もしもし、あんた鉄朗さん?』
 聞いたこともない、知らない声。
 そして緑の電話――
『聞いてんだろ?』
 苛立ちを含む、尖った声には、ときおり笑いも含まれていた。
「聞いてるよ。君、充君だろ?」
 そして鉄朗の声にも、怒りをはらんだものになる。
『よく、そこまで調べたな。緑、探してんだろ?』
 楽しんでいるような声音。鉄朗は充に対して、今までにないほど冷たく、低い声を出し、込み上げてくる熱い感情を殺して話かける。
「一緒にいるんだろ?」
『いるよ。ベッドの上に、一緒にね』
 クスッと笑った充は、縛り付けている緑の口元に、電話をつき付けた。
『……ッく、んんっテツ――!』
 電話越しに聞こえた微かな声は、愛しくてたまらない緑のものだった。何かを懸命に堪えているような、苦しそうな声。一体電話の向こうで何が起こっているのか、鉄朗は考えただけでも心が潰れそうになった。
(緑――!! 緑――……)
 ギュッと握り締めている拳に、汗が吹き出る。
『三咲町の、スカイマンション903号室に、今すぐ来いよ。いいものが、見られるぜ』
 充はそう言うと、電話を切ってしまった。
「チクショ――……」
 鉄朗は携帯をポケットにしまうと、駅へと走り出した。 


 明るいライトに照らし出された、建ちそびえるマンション。鉄朗は息を切らしながら、上を見上げた。
 ガラスの扉を押し開け、エレベーターのボタンを押す。なかなかやって来ないことにしびれを切らし、鉄朗は横にある螺旋階段を上った。九階まで一気に上り抜け、903号室を探す。角部屋である部屋のインターフォンを押し、住人を待った。時間にして一分も経たないその時間が、非常に長く感じ、また苛立つ。
 ガチャリと音がして、重い玄関ドアが開いた向こうからは、まだ年端もいかないと思える男が、薄笑いを浮かべて出て来た。
「いらっしゃい。待ってたよ」
 はだけたシャツから覗く、薄い胸。まだ成長しきっていない、若い男の身体には、無数の薄い傷跡が残っていた。
「緑はどこだ」
 鉄朗はすぐに視線を部屋の奥に戻し、緑を探した。
「お姫サマは、あちらで寝てるよ」
 充は顎をしゃくって、寝室を指し示す。鉄朗は、教えられた部屋へと飛び込んだ。
「緑――!!」
 小さなランプだけが燈る部屋のベッドで、緑は縛られたまま横になっていた。
 明らかに情事の跡が残るベッド。
 緑は鉄朗の声に目を見開いて驚いたが、すぐに視線を逸らした。
 今のこの状態を、鉄朗にだけは見られたくなかった。この部屋を出たら、鉄朗には逢わないで、どこかに消えるつもりだったのだ。
 また汚れた、自分の身体。
 このまま死んでしまってもいいと、強く思った。
「緑……。今、解いてやるから――」
 そっと鉄朗がベッドに近づこうとしたら、緑は勢いよく顔を鉄朗に向けた。
「来ないで!! お願いだから、テツ……、来ないで……」
 一瞬止まった足を鉄朗は動かし、緑の言葉を無視してベッドに近づいた。言葉とは裏腹に、緑の顔は不安に揺れている。
「よかったよ、無事で」
 鉄朗は優しい微笑みを緑に与え、震えている緑の腕と脚の縄を解いてやった。緑は四肢が自由になった途端、挫けそうになる脚を下ろして、鉄朗から逃げようとした。しかしそれは、鉄朗に身体を抱かれ、出来なかった。
 ピクッと、緑の身体が跳ねる。
「テツ、放して……。おねが……いっ……」
 熱いものが込み上げ、緑は涙を流した。
 他の奴に抱かれた奴なんて嫌いだと、鉄朗の口から放たれるんじゃないかと、怖くて仕方なかった。
 捨てられる。
 また、独りになってしまう。
 そう思うと、怖くて、悲しくて身体が震えてしまう。
「やっと、捕まえたんだ。放すもんか――」
 汗を拭うのも忘れ、鉄朗は力いっぱい緑を抱きしめた。今すぐにでも、この手を抜けだし消えてしまいそうな、緑の身体。引きとめるように、ただただ抱きしめた。
「テツッ……テツッ……ごめんなさい……ごめんなさッ……」
 懐かしいとさえ感じられる、鉄朗の腕や胸の感触を、緑は抱き返すことで確かめる。
「緑、帰ろう。俺達の部屋に」
 鉄朗は、何も言わず優しい言葉だけを緑に与えた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
 その言葉しか知らない子供のように、緑は謝りつづける。鉄朗は緑の涙を拭ってやり、啄ばむような口づけをし、軽い身体を抱き上げた。
「朝、約束しただろう? もう、謝るようなことはするなって。大丈夫だよ、緑。心配することは、何もないから」
「テツ……テツ……」
 緑は鉄朗の胸に顔を埋め、再び泣き出した。
 その様子を、充はじっと見ていた。驚きを含んだ充の顔は、複雑に歪んでいた。緑の態度が、想像以上に甘えたものだった。鉄朗にされるがままの緑の姿。泣き顔も、初めて見たのだ。
「帰ろうな」
 鉄朗は充の存在を忘れ、緑の涙を舐めて拭き取る。
「テツ――」
 二人はそのまま荷物を持って、部屋を出た。緑はまだ泣いていたが、すべて鉄朗が受け止めている。
 充は何も言わず、静かに鉄朗と緑を見送った。