〜〜〜 なんでもない一日 〜〜〜
「テツ!早く起きてよ。急がないと道混んじゃうよ」 緑は気持ちよさそうに惰眠を貪っている鉄朗の身体を揺らしてたたき起こす。今日は約束どうり二人で桜を見に行く事になっていた。 「あと五分だけ…」 目を閉じたまま布団に潜り込んだ鉄朗を、ため息混じりに見つめる。 低血圧の鉄朗は、緑に起こしてもらってもいつもこのようになかなか起きない。慣れているとはいえ、今日は楽しみにしている桜が待っている。 どうしても起きてもらいたい緑は強行手段に出た。 「お・き・ろっ!」 近くから走りこんで寝ている鉄朗の上にダイブして乗りあがり、思いきり布団を捲った。 「ぐえっ!!緑…、重いよ…」 いくら緑が華奢で細いといっても人並みに体重はある。いきなりダイブされてはたまったものじゃない。 仕方なく寝ることを諦めた鉄朗は、上に乗っている緑を落ちないように支えながら起き上がった。 「やっと起きたね」 満足そうな笑顔で寝起きの鉄朗を見つめる。 「さっ!早く用意して桜見に行こうよ。もう朝ご飯は作っておいたから」 緑は鉄朗の上から降りて、腕を引っ張ってベッドから引き摺り下ろした。 「わかったよ…。でももう少し優しく起こして欲しかったな…。これからはもっと優しくしてね」 ベッドから降りながら少し不満を言った鉄朗を、緑は驚いたような顔で見つめていた。 「本当だったんだ…」 俯いてそう呟いた緑の言葉を鉄朗は聞き逃さなかった。 「何のことだ?」 「一緒に暮らそうって言ってくれた事。俺、夢なんじゃないかって思ってて…」 昨日すべてを話し、鉄朗は受け止めてくれた。しかしこれから一緒に暮らしていけるという事実がまだどこかで夢かもしれないと思っていた緑は、目覚めるのが怖かった。目覚めたらすべてが自分の思い過ごしで、昨日のことは幻だったらどうしようと思っていた。 それが鉄朗の口から『これからは』という言葉が聞けた。思い過ごしなんかではなく、本当だということがやっと実感できた。 「夢じゃないよ。だからこれからは優しく起こしてよ」 緑の頭に手を乗せて、優しく笑いかける。また涙が出てきそうになるのを緑は堪えてわざと偉そうな態度をとった。 「しょうがないから優しくしてやるよ。でもちゃんと起きてよ?」 「はい…」 うな垂れる鉄朗が妙にかわいくて緑は愛しい気持ちが募る。 (離れられない…) 自分の中の何かが昨日砕けて、変化した緑はもう鉄朗から離れることができなくなった自分に気付いていた。 鉄朗が花見の場所に選んだのは、マンションから車で2時間ほどの川沿いだった。 そこは毎年大勢の人が花見に来るので、屋台が稼ぎどきだとばかりにたくさん並ぶ。 今年も例外ではなく、たこ焼きやお好み焼き、りんご飴に懐かしいおもちゃが並んだ店がずらりと軒を並べていた。 「すごい!!」 やっとの思いで車を駐車し、川沿いへ行くとすでに大勢の人が花見に来ていた。宴会を開き、気持ちよさそうに歌っている団体もある。 それを見た緑の開口一番がそれだった。 「そうだろう?毎年こうなんだ。まだ早い時間だから人もこれくらいだけど、昼になるともっと凄いことになるよ」 「これだけでもすごい人なのに…」 人込みがあまり好きではない緑は少し腰が引けるが、それでも桜を見たい気持ちには勝てず前に進む。 「綺麗だね、桜。こんなにたくさんあるところ初めて見たよ」 嬉しそうに微笑む緑は桜に負けず綺麗だった。 「そんなに喜んでもらえると光栄だね」 そんな緑を見ていると、鉄朗も嬉しくなった。長い時間運転してこんな遠くまで来た甲斐があるというものだ。 ここにはソメイヨシノが折り重なるように咲き誇っており、人々の目を楽しませている。今は淡紅色の花が満開で、ちらちらと舞い散りながら桜の雨を降らす。川の中にも花弁が舞って、あたり一面を覆い尽している。 川沿いの桜並木を二人で歩きながら、屋台を見て回っていると次第にお腹が空いてきた鉄朗は立ち止まって緑を振り返った。 「何か食べる?俺、腹減ってきちゃったよ」 「じゃあ食べようよ」 しかしたくさんあり過ぎて、食べたいものがなかなか決まらない。 「何にしようかな…」 「よし!いろいろ買って二人で分けて食べよう」 空腹に耐えられなくなった鉄朗が突然そう言って、あちらこちらの店で食べ物を買いあさり始めた。 たこ焼き、お好み焼き、ベビーカステラ、フランクフルト、焼きそばを買ってきた鉄朗はとても満足そうな顔をして緑のもとに戻ってきた。 「テツ…。買い過ぎだよ…」 「大丈夫だよ。俺、大食いだから」 「知ってるけど限度があるよ?」 「緑ももちろん食べるだろ?だったらこれぐらいどうって事ないよ」 抱えていたものを緑も持ちながら、どこか座るところを探す。しかしどこも人がいっぱいで、やっと座ることができたのは桜並木から少しばかり離れた公園のベンチだった。 「さすがにここまで来ると人が減るね」 緑は最初にたこ焼きを開き、周りに人がいないことの感想を漏らす。 「桜も少ないからね。でもこの方が好きだろ?」 「え?どうして?」 「人込みが嫌いそうだったから。本当は今日ここじゃなくて別の場所にしようかと思ったんだけど、他にたくさん桜がある場所ってないからさ」 「知ってたんだ。俺が人込み嫌いだって事」 あまりに意外で驚いてしまった。まさかそんなこと気に掛けてくれていたなんて思ってもみなかったのだ。 「何となくね。それよりさ、この焼きそばいまいちなんだけど。緑が作ってくれる焼きそばのほうがうまい。ほら、食ってみて」 鉄朗は箸に焼きそばを摘んだまま、緑の口の前まで持っていった。 誰かに食べさせてもらうことなんて今までなかった緑は恥ずかしくて少し躊躇したが、嬉しかったので口を開いた。 「味が薄いみたい」 「だろ?うまくない」 「今度俺がうまい焼きそば作ってあげるよ。だから今日は諦めなよ」 まだ未練がありそうな鉄朗にお好み焼きを渡しなから慰めた。 緑は今幸せだった。思いが通じなくてもこうして一緒にいることができ、見たかった桜も他の誰でもない、鉄朗と見ることができた。このまま時間が止まって欲しいと願うのはこれから先に不安を感じるからだ。 幸せな時間があれば不幸な時間もある、というのが緑の考え方だった。どうしても幸せだけを信じることができない自分を悲しいと思う。 「桜ってさ、綺麗だけど掃除が大変だよな」 緑が物思いに耽っていると、突然鉄朗がおかしな事を言い出した。当然わけがわからない緑は不思議そうな顔をして鉄朗の顔を凝視した。 「いや、俺の行ってた高校が桜に囲まれたところだったんだ。確かに綺麗なんだけど桜が散ると掃除するのが俺達の仕事でさ。これが大変なんだよ。掃いても掃いても上から桜が降ってきてキリがないの」 「いいじゃん。俺も掃除は好きじゃないけど桜は好きだから掃除頑張るよ」 「思ったより大変なんだぞ」 神妙な顔つきで言ってくるのがおかしくて緑は吹き出して笑ってしまった。最近、ふと気付くと笑っている自分がいる。決して愛想笑いなんかではなく、面白いし楽しいから笑っている。 「テツ、ありがとう。今日ここに連れて来てくれて」 笑顔が残るまま鉄朗を見て素直な気持ちを告げる。 「どういたしまして。緑に喜んでもらえたみたいだから。そろそろ帰ろうか。道も混んで来るしな」 「うん」 食べ終わったゴミを捨て、来た道を戻る。 二人の頭の上から小さな桜の花が大勢の人を見守っている。 来年もここにはソメイヨシノが綺麗に咲き、数え切れない人を喜ばせる。 短命なソメイヨシノはそれでも人々に愛され続けている。 緑も鉄朗に愛されつづけたいと思う。 愛するというのがどんな形でも、決して離れないで傍にいたい。 それは人間の本能で、人間が無条件で桜を愛するように生きている限り願うたった一つの思いだろう。 「緑、着いたぞ」 朝早くからフル活動したので疲れていた緑は、車の中で眠ってしまった。あまりに綺麗な寝顔だったので、鉄朗は起こすのは勿体無いと思ったがこのままにしておくわけにはいかない。 「ん…。あれ?ここどこ?」 寝ぼけている緑に苦笑しながら着いたことを告げると、慌てて車から降りた。 「ごめん…。俺寝ちゃったみたい…」 「気持ちよさそうに寝てたよ」 笑いを含む口調で言うと、恥ずかしくて緑は顔を赤くして俯いてしまった。 「いいよ、気にしなくて。部屋に行ったら風呂に入れよ。さっぱりするぞ」 「ありがと」 鉄朗に背中を押されながらまだ覚めていない頭を振りながら部屋に向かった。 「背中流してやろうか?」 着替えを持ってバスルームに向かおうとしていた緑は、突然の言葉に驚きながら鉄朗を振り返った。鉄朗はからかう風情もなく、真剣のようだ。 「どうして急にそんなこと言うの?」 「今日疲れただろうから労おうと思って」 緑はしばらく思い悩んだ。 一緒に入ることは嬉しい。嬉しいが緑は鉄朗を恋愛の対象として好きで、何となく裸を見られることに抵抗がある。しかしせっかくの誘いを断るのも気が引けた。 「じゃあ俺もテツの背中流してやるよ」 いつもと変わらない調子でそう言って再びバスルームに足を向ける。 「どうしよう…」 脱衣所で服を脱ぎながら、今更ながらとんでもない事だと思い始め、どうしても行動がゆっくりになってしまう。 「あれ?まだ入ってなかったの?」 ドアを開き入ってきた鉄朗は、まだ脱衣所で服を脱いでいた緑に視線を向け、不思議そうに眺めた。急な事に頭が真っ白になってしまった緑は慌てて顔を逸らして言い訳を考える。 「あの、湯を入れてたら遅くなったんだ。先行ってるね」 ドギマギしながらもなんとかかわし、浴室へ逃げ込んだ。 (ううっ…。ヤバイよ…) 胸を撫で下ろし、一呼吸つく。心臓はドキドキして鼓動がいつもの倍の速さになっていた。 「ほら、座れよ。洗ってやるから」 ホッとしたのも束の間、すぐに後ろから鉄朗の声が聞こえ再び鼓動が早まる。 「うん…」 腰にタオルを巻いた姿で椅子に座る。 ザバッと湯を身体に流されて背中をゴシゴシと洗われ始めると、緊張のあまり顔が赤くなるのを感じた。 鉄朗と出会うまで誰かに裸を見られて恥ずかしいと思った事などなかった。そんな事を考えていたらウリなんて出来ない。出会ってその場で行為に及ぶ関係に恥じらいも何もない。顔さえ憶えていないことだってあるのだ。 ドキドキしていたのは何も緑だけではなかった。鉄朗も白く、滑らかな緑の肌を見ているうちに妙な気分になってきたのだ。顔は綺麗に整っているし、身体も細く綺麗だった。 (オイオイ…。何考えてんだ、俺…) 男の身体を見て欲情しかけている自分に、鉄朗は心引き締める。 「次は髪だな」 静かだと余計妙な気分になりそうだったので、明るさを保ちながら気を紛らわせる。 「テツ、擽ったいよ」 「そうか?じゃあもう少し力入れるぞ」 シャンプーを泡立てて、茶色く細い髪に指を絡ませて洗い上げる。背中にあたる鉄朗の身体が熱く、心地よい。 「テツ…」 「なんだ。どうした?」 泡を流してもらったあと、ポツリと鉄朗の名前を囁いた。 「今日はありがとう。桜を見に連れてってくれて。俺すごく嬉しかったよ。テツと一緒に桜を見れた事。小さい頃にね、一度母さんと桜を見に行ったことがあったんだ。詳しくは憶えてないんだけど今日みたいに桜がたくさんあった事だけよく憶えてるんだ」 「そうか」 「俺、母さんのこと好きじゃないけど、桜を見に行ったことだけがいい思い出だから」 「これからは俺とたくさんいい思い出を作ればいい。いろんな所に行ってたくさん思い出作ろうよ」 「ありがとう…」 最近よく見る緑の涙を指で拭ってやりながら、優しく髪を撫でてやる。緑は気持ちよさそうに瞳を閉じて鉄朗に身を任せている。 (緑を支えてやろう) そう心に誓った鉄朗は、今日見たソメイヨシノを思い出しながら儚く散ってしまいそうな緑をそっと抱きしめた。 *** END *** |
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