女性・差別・近代               秋尾  敏

 子規の背景として気になる女性が何人かいる。
 まず母親の八重である。松山藩有数の漢学者の長女として生まれながら、記録で見る限りさして取柄もなさそうな下級武士の後妻となり、何の不服もなさそうに貧しさを生きていく。その姿は古風で忍耐強く、あまりにも漢学者の娘というイメージそのものでありすぎる。特に近代都市東京に移り住んだ辺りからのこの人の内面の形成が気になるのである。
 同様にまた子規の妹律のことも気にかかる。理由は定かでないが、嫁いだ先から離婚して戻ってきたことは事実である。とすれば、この人にもまた自意識と呼び得るものが存在し得たであろう。社会制度や慣習の枠組みからはずれたとき、人は特別なものとしての自己を意識し出すからである。おまけに律は、上京当時まだ二十才そこそこなのであった。そのような若い地方士族の娘にとって、東京とは何であったのだろうか。単に隣町へ行くというほどのことだったとはとうてい思えない。あこがれの地とは言わぬまでも、結婚の失敗を人に知られずに生活をやり直せる場所としての魅力は十分にあったことだろう。
 上京は、正岡家の存亡を賭け、家長である子規の決断によって行なわれたのではあるけれども、正岡家の必然とか、子規にとっての必然とかいうこととともに、どうやら八重には八重の、律には律の内面の必然と言うものもあったようである。この辺りの事情については、何の論証もなしに、まるで小説のように論を進めてしまうことを恥じるしかないが、しかしこの二人の上京への思いについては、そうした状況から十分に予想できることである。
 おそらく家族を上京させる方がよいと考えた子規の直観の中にも、母や律の状況を思う気持ちが含まれていたのだろう。だが子規はそれについては書かない。当然である。それは書くようなことではない。
 当時のまっとうな士族の男子の価値観としては、家族の女性を思いやるなどという事柄は、「暗黙の了解」に属すべき事柄であり、記述に耐える事柄ではないのだ。だから子規は、ほとんどこの二人の内面の深さを無視しているように書く。

 我々の家族は生まれてから田舎に生活したものであって、 もちろん教育などは受けたことがない。 −中略−
 一朝一家の大事が起こって、即ち主人が病気になるというやうな場合になって来たところで、忽ち看護の必要が生じて来ても、其必要に応ずることができないといふことが分かつた。病人の看護と庭の掃除とどつちが急務であるかと いうことさへ、無教育の家族にはわからんのである。況して病人の側に座つて見た処でどうして病苦を慰めるかという工夫などは固より出来る筈がない。何か話でもすればよいのであるが話すべき材料は何も持たぬから只手持ち無沙汰で座っておる。新聞を読ませやうとしても、振り仮名のない新聞は読めぬ。振り仮名をたよりに読ませて見ても、少し読むとまったく読み飽いてしまう。殆ど物の役に立たぬ女共である。茲に於て始めて感じた。教育は女子に必要である。(「病床六尺」・六十五)

 明治三十五年七月十六日、死の二カ月前のことである。膿の穴は背中から傳部にまで達し、毎朝の当て布を替える作業を始めとする病苦は極まり、麻痺材の使用無しの生活は考えられぬようになっていた。つまりこれは限界から出てきた本音であろう。
この文章から子規の抑制の効かぬ甘えの感情や、女性蔑視などの観念を読み取ったとしても、読者が責められる理由は何もない。けれど、この期に及んでもなお保たれるこの客観化の力の強靭さと、こうした記述の裏で通いあっている子規と家族の女性たちとの「暗黙の了解」の関係を読み得ぬ読者は、やはり読みの浅さを指摘されても仕方あるまい。
 だがそれにしても子規は、基本的な所で八重と律との人格を認めていないように見える。少なくとも近代性という枠の中で判断したならば、これは立派な差別である。そこで河東碧梧桐の、次のような見解が出てくることにもなる。

 子規の恋愛観といふより異性観といった方がいいかも知れない対女性哲学は、多く在来の東洋的習慣に醸された信条を出でなかつたようだ。在来の東洋的習慣と言うのは、女性を劣等視する、酷に言えば奴隷視する、一人格として認めない、そこに立脚する思想であつた。過度な勉強をして、不治の病を得ることは立派な名誉であったが、女に惑溺して生業を失することは許すべからざる罪悪であった。−中略−
 古白がその生命を賭した初恋のために、手紙を書く字を習い始めた、という事実はある感激を持って私たちに話したこともあったが、非風が長く情交を通じた玄人の女と家庭を持つようになった境遇については、話すことすら喜んではいなかった。子規が異性を劣等視するから、子規に対異性の体験が稀れであったのか、それとも異性に対する体験が稀れであったから、自然冷酷に見くびったのか、そは兎も角子規という人格に、ある情味に欠けた冷たい影の伴随するのは、この対異性観の一面が深く子規の心理に根ざしてゐた為めではないかと思う。(「子規の回想」河東碧梧桐)

 この文章は「近代」の「常識」で子規の言説を捕らえたときに普通に起こるであろう一方の感想を、率直に述べている。
 だがこれは、碧梧桐自身の恋愛について、子規から芳しくない手紙をもらった件について論じた文章なのである。したがって多少割り引いて読んでおかねばならぬ面はある。碧梧桐は、このときの子規の助言を、よほど冷たく人情味を持たぬものに思いなしていたに違いない。第一ここで碧梧桐が引いているエピソード自体が、碧梧桐の主張と矛盾してしまっているのだ。子規の古白についての感慨を、古白が字を習い始めたということひとつに帰することが出来ると碧梧桐は考えたのであろうか。この逸話こそ、子規の恋愛に対する浪漫性を伺い知る格好の材料だと思うのだが。
 むろん碧梧桐も、子規が家族を奴隷扱いしていた等とはどこにも書いていない。だが子規の世代より一つ若い碧梧桐にあっては、子規ほどの「暗黙の了解」はもう理解を超えて古いものに感じられたのであろう。
 ここでまたひとり、正岡家に住んでいた小島ひさという六十才ほどの老婆について考えてみたい。
この人は子規の曾祖父の後妻であり、故あって旧姓の小島性のまま正岡家に住みついていたのである。正岡家に入る前に既に二度結婚しており、初めの家は何事か事件があって離散、再婚した家からは逃げだして松山に隠れていたというような過去を持った人である。律はひさについて次のように回想している。

  またお婆あさんは大変な酒好きで、いざ飲むとなると、お祭りの時や、お客にでも往つたときは、ずいぶん女らしくもなく酔つて騒ぐ人でした。酔ふと、よく口癖のやうに、小島家は、こんな正岡家のやうな成り上がりもんぢやない。キンキンのお侍ぢや、といつてゐました。母はご承知の通り何事にも驚かない泰然自若とした人でしたから、初産でなくても、少し気のつく人なら、母任せにはできなかつたかも知れません。まして、いろいろ功を経たお婆さんでしたから、私たちも自然お婆あさん子といつた風になつたのかも知れません。叱られると怖かつたことを覚えていますが、ふだんは、よく甘えて往ったものでした。(「子規の回想」河東碧梧桐)

 ここで不思議な家族像が浮かび上がって来る。
父親は既になく、家には曾祖父(祖父ではない)の後妻(小島ひさ)と、嫁(子規の母八重)とがおり、その老婆は大変な酒飲み。嫁は漢学者の娘でこれも後妻。長男の升(子規)がただ一人の男性で、幼い妹の律と合わせての四人暮らしである。更に八重は乳の出が悪く、ひさが子規を抱いて近所に乳をもらいに連れていったという。
 その中で泰然自若と暮らしていた八重という人は、どの様な気質の人だったのだろう。有名な子規三歳のおりの火事も、このひさの酒の上での火の不始末ともいわれるが、そのときでさえ八重は次のようであったという。

 母も嫁入ってさう間もないことで嫁入り道具も何一つ残らないで焼けたのでしたが、それすら、残念さうな顔一つしなかった、と当時の話題にもなった、ということです。(前掲書)

 おそらくこれは、八重という人物の持って生まれた気質でもあっただろう。だがそれに加えて、父観山の教育が、いや、士族の価値観が、よけい彼女の行動をそのようにさせていたのではないか。ストイックに日本化された近世儒学の倫理観が、彼女の行動様式を規定している。
 近世の儒教の禁欲性は、家康の思想に始まったわけではない。それは、米を一元的な価値とする日本人の思考の一つの型であり、弥生文化から脈々と続く意識の深層であると考えられる。
 近世を支えた武士階級は、もとをただせば農民の出であり、農地を守ることを第一義としている。彼らが禁欲的なのは、彼らの守るべき対象が、米という単一的な価値だからである。
 中世から近世にかけて、さまざまな商品が生み出され、それらは農民や武士階級にも広まっていった。けれど、それらの多様な価値は、農民や武士の本質を知った人々からは、よけいなものでしかなっかたはずだ。藩の経済規模は、幕末まで石高という稲作の出来高で計られ、その価値観の原則は、いかに多様な商品が町々にあふれるようになっても、変わることはなかった。米本位性の経済なのである。
 その意味では、質素を説いた家康も三大改革の推進者達も、武士階級の本質を明確に理解し、押し寄せる多価値社会の波によく抗ったと言えるし、江戸末期に、困窮した下級武士達が、米の神でもある天皇をおし戴いて、理念的には単一価値社会への遡行を企てたのもまた故あることなのである。
 生活に必要な物品は少ない方が良いのか、それとも多様な方がよいのか、筆者には不明なことだが、ともかくも我々日本人の祖先の意識は、この二つの価値観の間を複雑に揺れ動いていたようだ。いや、今も揺れ動いているかもしれない。
 単数と複数とは、人の意識にとって本質的な違いである。一神教と多神教という対比は、人間の意識にとって普通考えられているより遥かに深い意味がある。価値の根本を一つの頂点に集約していこうとする思想は、自己の正当性を打ち出そうとする一つの民族にとって当然の思考形式だろう。
 だが多神教というものは、民族が混交する過程で、互いの文化を許容するために必要に迫られて生まれてくる思考形式なのではなかろうか。
 その意味で日本人は、混血の多民族国家でありながら、単一民俗として自己認識することによって、八百万の神と天皇性という精神の二重性を生き続けてきた。その中に、日本語の、単数と複数の扱いの曖昧さの秘密も隠されているかもしれない。
 単一価値の構造と多価値の構造とを曖昧なままに同居させ、その二面性を二面性のままに危うい均衡を保ち続けてきた社会が日本という国家である。
 天皇制という一元的な制度は、国家の定立理由を証明するための形式であり、その内実は、あらゆる文化を取り込む多価値社会なのである。その意味では、地中海周辺の民族の方が遥かに純血を保とうとしていると言えるだろう。
 だが、稲作を中心の文化とし、その周辺に他の文化を成立させてきたというところに、天皇性が国家の存在証明となる必然性は充分にあるといえる。
 さて、八重の価値観には、稲作文化の価値観の本質が見いだせる。それは、単一的な価値社会であり、禁欲的で、貧しさに不平を言わぬ思想である。だが、ここで考えるべきことは、その禁欲的とか貧しいとかいう概念が、すでに多価値社会からの一方的なもの言いになってしまうと言うことである。
 だから、八重は貧しかったから禁欲的にならざるを得なかったのだ、というような言い方は、当たってはいるけれども、多少不公正なのである。金銭や物品が乏しいということは、多価値社会に生きる人々の意識にとっては大変な欠落感を伴うものであるけれども、単一価値の文化の系に属する人々にとっては、それはまた異質な思いの状況であったはずなのである。
 確かに彼らは貧しかった。現代からみれば考えられないほど貧しい。しかしそれは米を唯一の価値対象として生きている人々には当然の日常であり、そのこと自体が苦痛であるということではない。むしろ彼らから見れば都市の商品の多価値性にお群がる人々の意識こそが狂気であったに違いない。
八重もまたそうした単一的価値の系に属する人の一人であった。自分の嫁入り道具が火事で丸焼けになったとしても、彼女に取ってそれ自体は大した問題ではなかったはずだ。
 だが、その八重が上京する。八重の近代が始まるのである。いや、彼女のような人々の上京によって、東京の「近代」が成立し始めるのだ。
 都市には都市の女性が不可欠だ。近代都市には近代にふさわしい女性が歩いていなければならぬ。都市に集まるのは都市にふさわしい自意識の持ち主であるはずだ。そうした人々の意識が都市を都市とし、またその都市が人の意識をそのように変えていく。ではなぜ、単一価値社会の典型のような意識を持つ八重が、上京などしたのであろうか。

 その時分自分も病気をしてから昔のように倹約ばかりもできない。月に二十円くらいはかかる、といっていました。私共女二人は、日に五円あれば食べていかれました。ぢゃ、二十五円あれば三人で暮らせる、といふのが私どもが東京へ移る話の初めでした。(「子規の回想」河東碧梧桐)

 これもまた律による回想である。文中「日に五円」というのは「月に」の誤植であろう。そうでなければ合計が合わない。
 この回想で心打たれるのは「三人で暮らせる」と言う部分である。彼らは「三人で暮ら」そうとしていたのだ。既にそうしたい気持ちが前提としてあり、その実現を図っていたのだ。だが三人で暮らしたいのなら、松山で暮らせばよい。それが一番手っとり早いのだから。にもかかわらずそうしないということは、そうできない事情があるからである。彼らはもはや松山では暮らせない。金銭的にも立場的にも、上京するしかない所に追い込まれている。
 藩士であるうちは、食いぶちは藩主からもらえたし、それで充分なのであった。だがその構造が崩れ、自分で耕す農地もない今、単一価値の系を離れるしか手だてはない。そうでなければ餓死するしかないのだ。実際、子規の親族には、最後の奉禄を食べつくし、自分は武士であるからこれで終わりだと言って餓死していった人もいるのである。
 子規の世代には、初めから米を捨て、都市の多価値社会を選択する必然性が組み込まれていた。だが、八重の世代にはそんな必然性はない。彼女の心情としては、野心を抱いて上京しながら病に倒れた長男を手助けしなければならぬという母親としての思いがまず先行していたはずだ。
女性としての発想、母性愛、しかしこれもまた一つの文化の型には違いない。家を重んじ家長を支え、老いては子に従って生きていくという定まった発想の枠の中で、母親としての愛情を示すことになるのだ。
 単一価値社会の選択よりも、家の選択が優先しているところを見るべきであろうが、しかし、単一価値社回は、制度としては既に解体してしまっているのだから、優先と言っても比較にはならない。藩とか幕府とかの単一価値社会の制度が解体してしまった以上、彼女に残されているのは家しかなかったのだ。
 八重はあくまで自己の持つ価値観の視座によって、社会を見、その枠を出ない。だから「殆ど物の役に立たぬ女共である。茲に於て始めて感じた。教育は女子に必要である。」などということになってしまう。当然であろう。そもそもここで子規が言う教育という概念自体が近代の側のものなのである。子規は女性ももっと「近代」を学習しろといっているにすぎない。
 たしかに八重も律も、近代の側からみれば、貧しく、我慢強く、教育の低い「女共」であるのだけれど、近世の価値構造の中では決してその様な評価は受けない人々なのである。
彼女達の自我も、前近代的で未成熟なものと受け取られがちだが、それはあくまで近代を近世の発展したものと捕らえた場合そういう評価になるだけの話であって、近世には近世の自我の有りようというものがあり、それもまた立派な一つの文化の価値体系であることを考えれば、哀れな女性達などと言うことはできない。
 小島ひさにしても、なんという自我の強さであろうか。それは確かに、とうてい近代的なものということはできないけれども、「近世的自我」ともいうべきものが、強烈に彼女の内部に渦巻いている。
 彼女達は、近世の単一価値社会を背景とした価値観の中での立派な自意識を持って生活している。それは碧梧桐が幻想するような近代の理想とは異なった女性達なのだ。
 おおよそ精神というものには、いつの時代にも共有される部分と固有の部分とがある。
 いかに近代的自我が個人の概念をその中核におくといっても、時代精神からそうそう簡単に超越できるということはない。だいいち、近代的自我というもの自体が、決して固有のものではなく、ひとつの時代精神に過ぎないではないか。
 またそれとは反対に、前近代の精神にも固有の自我というものは存在する。おそらくそれは、土地制度をはみ出し、自己の生きざまを自分自身で考えねばならなくなった人々の間に広がっていった意識のあり方なのである。したがってそれは近代的自我と同様に、状況に抗いつつ、居場所を求めてさまよい歩く意識である。
 男にせよ女にせよその基本的なところでの意識の有りように変わりはない。ただ、具体的な形となると多少の違いがでてくる。社会制度を直接運営し、あるいは変革する立場に就く者が男である場合が多いからである。それは制度の問題でもあるし、また文化の問題でもある。
 子規が「病床六尺」で考えたことは、女性もまた近代の洗礼を受けねば近代に暮らすことはできないということであり、それ以上でも以下でもない。つまり子規は、男性の優位を説いたわけでも女性を蔑視した訳でもない。
 そして、もしその言い方が冷たいとすれば、それはむしろ女性に対する距離のなさからである。女性を「こちら側」の人格と考えているために、遠慮がない物言いになってしまっているのである。無論それは子規の生い立ちからきている。
 幼い子規の家庭は、女性ばかりであった。そこで子規には、女性を対自的なものとしてではなく、即自的な存在として感じてしまう部分がある。
 互いの人格を自己とは完全に「別のもの」として尊重しあおうとする西欧的な個人主義の感覚からすれば、この自他のけじめのなさは一種の「甘え」と考えられよう。しかし、子規の生い立ちを考えたとき、それもまた必然的なものであったと思わざるをえない。自他の感覚を身につける時期に、女性に囲まれて育ったという経験は、「女性」と「男性」という結界をも曖昧にしてしまう力を持つだろう。
 さらにまた状況と戦いつつすさまじく生きる母八重と小島ひさとを眼前に見て育った子規には、幻想としての女性よりは、現実の女性というものが強く認識されているはずだ。おそらくここに子規が筋がね入りのリアリストになった第一の理由があるだろう。究極的に言えば、人は異性に対して幻想的か現実的かということで、その思想の根本を決めているようにも思えるのである。
 さて、そう考えてくると、どうやら女性を擁護している風に見える碧梧桐よりも、あからさまに不満をぶちまけている子規の方が、はるかに女性について現実的な見え方が成立しているのではないかという気もしてくる。いや考えてみれば、これほどの女性達に囲まれて育った子規が、女性の自我や内面の存在を知らぬと考える方がおかしい。
 たしかに子規の背景には、「女性」として子規に関わって来る女性の存在が希薄である。しかし碧梧桐がいうように「子規が異性を劣等視するから、子規に対異性の体験が稀れであったのか、それとも異性に対する体験が稀れであったから、自然冷酷に見くびったのか」というような理解では子規の女性に対する意識を見尽くすことなどできはしないだろう。
 それは例えば、子規の小説「曼珠沙華」のヒロイン、蛇使いの娘で花売りの「みい」について考えて見れば分かることである。
 領内一の富豪、野村家の総領玉枝との恋愛も、圧倒的な身分差から破局を迎え、玉枝は別の娘を嫁に取る。だが玉枝は、追慕と呵責とから気を狂わせてしまうのである。
 この作品では、蛇使いを魔術師めいた非日常の世界の住人とも読めるように描いており、その意味では玉枝は触れてはならぬ世界に踏み込み、それがために狂わせられたと解釈することもできる。そう読めば、この作品はいわゆる猟奇の類いであろう。また今からみれば、その差別観が気になる作品である。「蛇使い」という世界を特殊な彼岸の世界として描いており、そのことにこの作品の幻想性・非日常性が保証されているからである。蛇使いの娘に対する玉枝の心は、「純愛」と「神秘」と「同情」と「恐怖」と「打算」の間を大きく揺れ動く。
 さらに後段は、主人公玉枝の無意識の領域において展開していく。夢の中の世界である。リアリスト子規が展開して見せる幻想の世界である。
 野間宏も、その批評「『慢珠沙華』について」において、「子規は神秘を創造しようとして苦闘を続けているが、その神秘の中心に子規は夢を置いている」と述べている。これは、この作品の一方の主題を的確に現した表現であるということができよう。さらに野間は、子規が、激しく変化する明治という時代へのアンチテーゼとして、その神秘を創出させようとしているとも考えている。
だが読後の感情として迫ってくるものには、それとはまた別のものがある。それは、女性を裏切ったことによる呵責と言うものである。罪の意識といってもよい。愛しながら世俗の習慣を気にし、別の富裕な娘を嫁に迎えてしまった玉枝を襲う悔恨の深淵である。
 しかし野間はそこを読まない。その罪の呵責が、玉枝の差別観を浄化するとは考えていない。そこで、野間の「慢珠沙華」論の後半は、差別論に終始することになる。実に野間らしい問題意識の持ち方だ。野間は次のように言う。

 作品の主人公が差別観を持っているからといってその小説が差別小説であるなどとするのは誤りである。 −中略− その主人公の差別観が作品全体によって否定され、批判されるという展開が作品のなかで行われていないということならば、問題は別のものとなる。

 その通りであろう。その通りであればこそ、次のように考えるべきなのではないか。
 主人公の差別観は、夢に苦しみ、狂気へと追い込まれていくその根元の罪の意識によって充分に否定されている、と。野間は、なぜ玉枝が蛇に追われるれる夢を見続けるかという点を読み落としているのだ。
 さらにまた、その差別という価値観自体が、近代という特殊な時代性を背景として成立していることも考えなければなるまい。近代の時代精神の中では、確かに差別観というものは大きな問題となるのである。しかし近世におけるそれを近代の物差しで計り、その後進性を言うというようなことは、余り意味のあることではない。それは、西洋の文化を基準として、アジア・アフリカ諸国の文化を後進的と決めつける思想に通じる。それこそ差別以外の何ものでもないだろう。
子規の意識の中で、なぜこのような主題が、「書かれるべきこと」となったのかは興味深いことだ。普通知られている以上の女性とのやりとりが、おそらく子規にもあったのではないかと考えたくなる。それほどにこのヒロインの情念はリアルである。
 むろんこの人物は子規の創作上の人物で、実在するわけではない。しかし創作者子規の意識の上にはそれはありありと存在した女性であり、そのような問題意識が子規の内部に胎動していたということが重要なのである。
 子規の背景には、まだ私たちに見えていない女性がいたのではないかとも思われる。
あるいはそれは母や妹達であったかもしれない。しかしまた子規の愛した女性であったかも知れない。果して、現実の背景なのか、意識としての背景なのかは定かではないけれども、その女性は、子規に悔恨を、あるいは呵責を教えるだけの存在であったことは確かなようである。
 子規の言葉の深層をこそ見るべきである。子規の精神の根源には、彼を脅かす女性像が存在している。
 その女性は子規の精神を脅かしつつ、彼の精神のアイデンティティーを構成している。
 子規の精神は、どうやらその根源的なところで、女性に支えられていたようなのである。子規が、たとえその言説の表層で女性を差別していたとしても、それは日本の近代の言説の構造のためである。
 近代の言説を相対化することは重要だ。しかし、日本の近世には近世の言説の構造があり、また近代には近代の言説の構造がある。だれもがそうであるように、子規もまたその構造の中に生きている。
 あらゆる文化は、その特性を尊重されつつ相対化されるべきである。日本の近代を、あるいは近代に居残った近世の影を「遅れていた」などと安易に述べるような批評は、文化人類学の初心を思い出さなければならない。
 さらに言えば、時代の言説のあり方を相対化するということと、ある個人の意識を相対化するということは別のことでなければならない。子規は、時代の言説の構造のなかで、その構造とともに変化しつつ、次への課題を提示し続けている。
 そこにはむろん子規の限界というものがある。当然のことである。子規もまた時代の言説の中で、差別の構造に気付かずに発言を続ける。
 しかしその言葉の中には、次の時代への課題が提示されている。言文一致体に対する態度にもみられるように、子規は安易な近代化には向かわない。
 同時代の「近代」を越えたところに、日本という風土の特性を踏まえた近代を作りだそうとする姿勢を見せるのである。
 子規のすごみというものがそこにある。津波のように押し寄せる近代文化の渦中で、その近代を文体として日本に定着させるという途方もなく大きな作業をなしつつ、その近代を心のどこかで相対化しているのである。子規には、近世があるひとつのやり方にすぎなかったように、近代もまたある一つのやり方なのだということが分かっていた節がある。
 むろん子規にも、よくわかっていなかった部分はたくさんある。しかし彼は、それでも前に進もうとする。
 子規は、日本の「近代」化の進行にともなって、女性もまた「近代」の女性として自立せねば、生活の均衡が保てぬことを感じていた。それは、近世の女性が自立していたとかいないとかいう問題とは、また別の次元の問題なのであった。
 森鴎外に「最後の一句」という作品がある。だまされて罪を犯した商人の娘が、お上に慈悲を願い出るのだが、奉行所の方では、これはとても子供の考えではあるまいというので、許しても良いがそのときはその方たちの命はないぞと脅しをかける。だが娘は、「よろしゅうございます。お上のすることに間違いはございますまいから」という「最後の一句」を発し、奉行たちを圧倒するのである。
史実に取材したこの作品の中で、鴎外は「献身」という西洋風の概念を導入し、当時の役人達はそのような概念は持ち合わせぬから、娘の言動が理解できぬのも無理はない、と結ぶ。
 しかし鴎外のこの作品は、彼の「近代」女性論として読むこともできる。というのは、この娘とまったく対比的に描かれているのがその母親で、主人を役人に取られてからというものまったく何もできずに泣いているばかり、という設定になっているからだ。鴎外は、明らかにこの二つの人物像に、前の時代と新しい時代との女性像を対比させて書いている。
 鴎外と同時代に生きた若い女性がこれを読んだとき、母親の世代を越えて自立的(それはあくまで「近代」という価値構造の中での自立に過ぎないが)であろうとヒロインに同化しつつ勇気を奮い起こしたことは間違いない。
 だが鴎外のこの図式が、果してことの真実を伝えているかというと、いささか意義を申し立てねばなるまい。近世の女性の典型が、果して、男がいなければ何もできず泣いているしかない母親でいいのかという問題である。おそらく正岡八重や小島ひさにこの小説を読ませれば、やはり「いち」の方に同化するに違いあるまい。もっともこの小説を「西洋から近代的な諸概念が輸入される以前の日本の近世にも、いちのような女性がいた」と解釈すれば、また話は違ってくるだろうが。
 いずれにせよ、近世の女性には近世の女性なりの自立というものがあり、それは「近代」の側の概念規定からみれば、自立と呼べるような代物ではないかも知れないのだが、そこにはやはり自立としか言いようのない内面が成立していたということなのだ。
だが鴎外は、どうもその辺りをもう少し単純に図式化してはいないだろうか。いや、鴎外には鴎外なりの「近代」との葛藤があったのだろうが、やはり彼は「近代」を即時的に内包しうる素質を持っていたようだ。故郷津和野へは帰らないタイプの人なのである。だから話の最後に、どうしても「献身」と言うような西洋の概念での意味付けを行ってしまう。
 一方子規には、漱石以上に「近代」に対する緊張感がある。西洋画ひとつを容認する過程をみても、子規には中村不折や上川為山らとの長い長いやりとりが必要なのだ。
  
 最後に為山君が日本畫の丸い波は海の波でないといふ事を説明し、次に日本畫の横顔と西洋畫の横顔とを並べ書いてその差違を説明せられた。さすがに強情な僕もまったく素人であるだけにこの実地論を聞いて半ば驚き、半ば感心した。
 殊に日本畫の横顔には正面からみたような目が書いてあるのだといはれて非常に驚いた。けれども形似はの巧拙に拘らぬといふ論でもつてその驚きを打ち消してしまふた。その後不折君と共に「小日本」に居るやうになつて毎日位顔を合わすので、顔を合すと例の畫論を始めていた。このときも僕は日本畫崇拝であつたからいふことが皆衝突する。僕が富士山は善い山だろうといふと、不折君は俗な山だという。松の木は善い木であろうといふと、それは俗な木だといふ。達磨は雅であらふといふと、達磨は俗だといふ。日本の甲は美的であらうといふと西洋の甲の方が美術的だという、一々衝突するから、同じ人間の感情がそれほど違うものかと、余り不思議に思ってつくと考えた。そのうちふと俳句と比較して見てから大いに悟るところがあった。俳句に富士山をいれると俗な句になり易い、俳句に松の句もあるけれど松の句には俗なのが多くて、かえって冬木立の句に雅なのが多い。 −中略−
 けれどまだ日本畫崇拝は変わらないので、日本畫をけなして西洋畫をほめられるとなんだか癪にさわってならぬ。そこで日本と西洋の比較をやめて、日本畫中の比較評論、西洋畫中の比較評論といふやうに別々に話してもらふた。さうすると一日と何やら分かつて行くやうな気がして、十カ月ほどの後には少したしかになつたかと思ふた。(「畫」明治三十三年)

 子規はその長い葛藤の果てに近代を内面化し、写実を身につける。そのとき子規の内面で、近世と近代とは融合し、クロスオーバーして新しい文化が生まれる。子規は「近代」に融合したのでなく、自己の内部に「近代」を取り込み、以前からあるものと混ぜ合わせて、新しい日本の文化を創製した。
 子規の内部では、西洋と日本とは等価である。それは松山が江戸より後進的であるという認識を子規が持っていない事による。そこに子規が、根の深い、日本の文化の深層に食い込んだ所での仕事を成し遂げる可能性があったと考えられる。 西洋を規範とした「近代」主義の価値構造の中では、西洋文化の構造を摂取しきった順に先進国と呼ばれ、その感化を受けていない国家は後進国と考えられてしまう。この発想は、発展途上国などという言い替えなどで消えるものではない。
 これがダーウィンの進化論の果てに現れたものなのか、キリスト教の普遍主義のせいなのか、それとも遥かそれ以前から人類の意識に予定されていたものなのかは分からぬが、人類の文明が単一的に「発展」していくのだという錯覚が、その裏には横たわっている。そしてその考え方が、もっとも明確に現れている歴史観が、史的唯物論だと言える。それはもう一種の欧化主義なのである。あらゆる国家・あらゆる民族がその独自性を越え、一つの歴史的法則に乗っ取って科学的論理性に整合する形で進化していく、いや進化して行くべきだと言うこの考え方ほど「近代」を象徴している思想はない。
だが、一見普遍妥当性を持つと見えるそれらの思想も、やはりひとつの文化圏においてのみ有効な発想であることはもはやはっきりしている。日本には日本の特殊性があり、それは他文化との関わりの中で、たえず再生産されながら変化し続ける文化の系である。そしてその文化の変容のあり方それ自身が日本の文化の独自性と言うものなのである。
 これを例えれば、現在地中に住むみみずが、やがて進化して人間になるわけではないということである。みみずはみみずとして生きており、みみずとして進化していく。そのこと自体にみみずの存在価値を認めていかねばならないのだ。
 西洋風社会の成立が、日本という国家の進歩だという考え、これこそが「近代」の正体である。この思想は、明治期の日本に新たな展開をもたらし、その後の経済成長を作り出した。また同時に、日本人とは何かという自己自身に対する過剰な問い直しを生み出し、様々な「日本人論」や「日本文化論」が生産された。この過剰な自意識は、「近代」に向かおうとする日本人の、これでよいのか、これで西洋になれるのか、というおびえにも似た精神の、余剰として吹き出してきたものである。服の着方から、村役場の組織、会社の経営からナイフの使い方に至るまで、西洋と比べて、これでよいのかと問い続けた百数十年は、この国の長い歴史の中でも、なかなかに特色ある時代であったと言える。 言い方を変えれば、それは西洋側からの差別とのあくなき戦いなのであった。日本人は黄色人種だけれども白人並の扱い、このことに賭けてきた百年の歩みなのである。
 しかし子規には西洋に対する劣等感、被差別意識がない。彼にとっては松山と東京が文化的価値において等価であるように、日本と西洋もまた等価の存在なのである。
 だから子規は、政府や文壇やアカデミズムの表層の文化の取入れとはまた別の次元で、西洋を内面化していくことができた。自己の内なる伝統と「近代」とを、差別化せず、等価のものとして比較し、自己の論理と感性によって融合させていったのだ。結果的にそれは当時の文壇やアカデミズムの動きより、遥かに日本の文化の深層に深く切り込んだ作業となった。いわば子規は、近代化の波から自立したところで、近世からの文化の深層につながる「独自の近代」を創製していたのである。そして、その子規の自信と問題意識の背景には、近代以前の女性として自立し、したたかに生きていた小島ひさや母八重の存在があったことを忘れることはできないだろう。