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 平成5年




 三百年の昔、芭蕉が枯れ野の夢を残して大阪に倒れたその神無月の十二日、
片雲の風に誘われ、我が友空を伴って南半球へと旅立てば、成田より発する白
い翼の音速は、たちまちに季感を超越し、季語を並べ替える。


  行く秋や虫鳴く果ての桜かな                 敏
  秋風の白い翼に夏を追う                   空

 降り立てばクライストチャーチ。そこ より車で東南に走り続けると、やがて道 路
は小高い丘の中腹を巡り始める。

 黙々と草を食べ続ける羊たち。その周 りを跳ね回る小羊。岩かと思う巨体を寝
そべらせる雄牛や、人の気配に耳をそば だてる鹿達の群れ。それらの忘れかけ
たような光景を次々に映し出しながら、私 たちの車は信号のない山道を走り続け
る。


  牧草の牛ひき向けよほととぎす                 敏

  悠久に判断停止して羊                     空

 半島の入江の街アカロア。複雑に入り組んだ海岸線の一画に小さな街があり、
海は層をなす丘に囲まれている。

 土地の傾斜は、静かに打寄せる波のすぐ近くから始まり、やがてそれは黄緑色
の丘陵となって、たおやかにうねりながらどこまでも続いていく。すべての丘は牧
草地である。


  初夏十月入江湾曲八重桜                   敏

  子羊や黄色い丘の自己相似                  空

 それはまるで自然のような光景であった。
 だが、決してそれは自然ではない。ニュージーランドにもともと獣はいなかった。
百五十年の昔、この島に移住した人々は、岩を起こし、牧草の種を播き、羊を放っ
てこの島の自然を少しずつ飼い馴らしていった。
 その営みの果ての風景が眼前に繰り広げられている。アカロアの丘陵に張り巡
らされた白い柵は、その間の長い時間の象徴といえる。

 かつてその柵は、自然と放牧地とを隔てる結界であった。
 やがて、それは放牧地と工業社会とを隔てる結界となり、私たちは今、進みすぎ
た情報化社会とやらの側から、その柵の中に自然の残照を垣間見ているのだ。

  夏草や土地切り拓く汗の跡                    敏
  うねりつつどこまで続く白い柵                  空



 文明の発生以来、自然と人間は、地球上のあらゆる空間で対峙し、互いの行いを
見つめ合ってきた。自然という神に一方的に見られ続けた人間は、やがて自然を見る
力を蓄え、自然の力を分析し、自分たちの意志で制御し始めた。

 歴史は繰り返す。見るものは見られるものとなり、見られるものは見るものへと転化
する。今は文明が自然の側から評価される番となった。


  鹿の目の視線収束排気音                    敏
  被写体の自覚鹿の目の光る                   空

 アカロアの鹿は角をとるために放牧されている。漢方薬の素材として中国に輸出され
るのだという。もはや漢方は西洋文明に対立する文化ではなくなっている。一見自然に
近いように思われるものも、すべて地球規模の市場経済の円環に巻き込まれている。
それが現代というものだ。果たして私たちの五七五は、その複雑な状況を詠み得るもの
となるのだろうか。


  夏鹿の角も越えるや偏西風                 敏
  角切りて生きる鹿あり雲の峰                 空

 しかし、それにしてもこの国の風土は、人の営みと自然との乖離を感じさせない。それ
は自然を守ろうとしたマオリ族と、文明を築こうとした白人との折り合いの結果なのであ
ろう。あるいはこの土地の霊が持つ不思議な力であるのかもしれない。

  逆光のアカロア湾よマオリは自然                 敏
  せせらぎやマオリの森の神の歌                  空



 アカロアの時間はゆっくりと進み、街は美しく、人々は穏やかに歩く。真鴨が車を止め、
海猫は人を恐れず、店は五時に閉まる。人は自然の時間を凝縮しようとはせず、自然の
時間に寄り添って生活の時間を組み立てる。サマータイムの黄昏は、人通りのない街角
に八時過ぎまでも居座るが、その静寂を破ろうとするものは誰もいないのだ。


  漁夫一人歩めり湾の落日へ                 敏

  夕凪のマストは人の手を離れ                空

 レストランでホットラムバターを注文。 子羊のステーキかと思えば、暖めてバター を浮か
べたラム酒なのであった。



 缶詰の胡瓜を開けて海の宴   敏
 ホットラムバターは酒の名前なり  空

 シェフに南十字星を尋ねる。彼は仕事の手を拭いて私たちを外に連れ出す。たくさ んの
星が見える中、おおよその見当はつけるものの、残り二つを確信するに至らない。だが、
まぎれもなくここは南半球である。

 突堤や覚束なくも十字星                   敏
 街の灯を湾にかそけく星月夜                空

 アカロアから車で二時間半。クライ ストチャーチに戻る。
 郊外のサイン・オブ・タカヘにて昼 食。小高い丘の展望台から街を一望で きる好所である。
昔日の富豪政治家ハ リー・G・エルによって丘を彩る文化 財として手掛けられ、ステンドグラ
ス まで填め込まれたこのチューダー朝様 式の館も、今は営業用のレストランとなる。

 夏の丘母国の城の風の夢                    敏

 卯の花にハリー篭るやレストラン                空

 ランチながらも本格的なステーキにサラダバイキングである。肉は厚く、レアで十分うまい。
サラダの野菜も有機栽培系のしっかりとした味である。だがビネガーはあくまで酸く、デザート
はあくまで甘い。味の要素それぞれが、単純に表現されている感じがする。辛いものは辛く、
しょっぱいものはしょっぱい。調味料のベースに、かくし味を見出せない。

 これを逆に言えば、日本の味にはすべてに大豆蛋白の味が潜んでいるということになるだろ
う。空気のようにその味に馴染んできた日本人は、そうでない味に出会って単純さを感じてしま
うというわけだ。だからそれは感じる側の問題でもある、などと考えていると、テーブルの上に
ソイ・ソースが置かれた。気にいらなければこれを注げということか。



 食後、カシミヤ・ヒルの展望台に上ればカンタベリー平野が広がる。ガーデンシティとも呼ば
れる清楚なクライストチャーチの町並から吹き上げてくる初夏の風に吹かれていると、足下を
狸のように肥えた猫が猛然と走り抜けた。どうやら大型の野ねずみを追い回しているらしい。
日常的に野生の小動物を相手にしているのだろう。それは日本の猫よりも、はるかに精悍で
獰猛な生
物であった。

 味噌醤油世界の海に投込まん                 敏
 それはそちらの問題ですよ生が一番と猫走る        空

 街に降りれば、エイボン川が細く静かに流れている。両岸は手入れされた芝が敷き詰めら
れ、木々が川面に影を落とす。

 ハグレー公園は、そのエイボン川を取り巻くように、市街地の西側に広がる公園である。お
りしも日曜日、街のクリケット大会が開かれ、刈込まれた芝生のあちこちで試合が行われてい
た。


 シャクナゲに投手は助走神無月                敏

 クリケットボールの硬さ空の青                 空

 川添いに西に向かうと、大富豪アニー・タウネンド夫人の屋敷跡モナ・ベールがある。園内をエ
イボン川が流れ、線路が走る。小路は花々で彩られ、川岸には鴨が群れをなす。

 少年が二人、ゴムボートで釣をしながらゆっくりと川を下っていった。その脇を、花々を揺らし小
枝を震わせながら、貨物列車がゆっくりと走り抜けていく。


 花色の波紋広げて列車ゆく                 敏

  小舟行く少年脚を浸しつつ                 空

 ガーデンシティーとも呼ばれるクライストチャーチは、郷愁の都である。それは故郷を遠く離れて
移民してきた人々が、新世界の美しさに撃たれながらも故郷の文化を畏敬し、思いでの故郷を理
想として再現した街並なのである。もともとが現実ではない幻想の都市なのである。


 郷愁や水に読む過去流す過去                敏

 追憶の水に幻なぞる街                    空

 川を下り、東にすすむと市街地である。その中心に聖堂が聳える。ここのステンドグラスのイエス
はマオリ族の顔なのだそうだ。白人とマオリとの抗争の、そして折合いの歴史の結果なのだという。

 白人が最初にニュージーランドを見出したのが一六四二年。しばらくは島の価値も理解されずに
いたが、十八世紀後期から少しずつ白人の移住が進み、一八四〇年のワイタンギ条約締結と前後
して移住は本格的なものとなった。

 だが、白人が急増すると、土地の所有を巡るマオリ族との争いは激しくなる。地価を巡る利権争い
ではない。白人は生活の糧を得るために牧草地や耕地を増やそうとし、一方マオリには、同じ理由で、
自然のままの土地が必要だったのだ。互いの生活様式を守ろうとする争いである。マオリは結集し、
種族の王を立てて白人に対抗した。

 マオリの伝統的な暮らし振りを守ることは、この国の自然を維持することに等しい。やがて抗争は終
結を迎え、マオリは白人と対等の市民権を得るが、それはこの国が、自然の維持を前提とした国作り
を選択したことを意味している。

 今、この国の精神風土には、マオリの自然観が融合されている。風土の基層に、自然と文化を融合
させ、均衡させる感覚が根付いている。聖堂のイエスはその象徴であろう。西洋文明の象徴である荘
厳なステンドグラスに、マ オリの自然観がオーバーラップする。そして、マオリの相貌のイエスを白人が
拝むのだ。

 だが、イエスはもともと白人だったのだろ うか。その生誕の地を考えれば、イエスは紛 れもなく中近
東のカラードのはずである。聖母マリアのルーツを、古代エジプトの女神イ シスに求める学者さえいる。
とすれば、この聖堂のイエスこそが本来のイエスに近しい姿 なのではないか。肌の色を超越した普遍
性が 、むしろここに表現されているとも言える。


 聖像はマオリの色に夏の蝶   敏
 戸を叩く黒い文化の普遍性  空



 地球の情報化は、地球上のすべての地域を中心化に向かわせる。私達が地球全体を同時に中心と
してイメージできるようになる日が近付いているのだ。イメージの周辺にあった南半球や有色の文化が、
世界像の中心に押し寄せる。

 聖堂の前は観光客と若者たちでごった返している。そこには、風体のよろしくない若者の姿もある。階
段に腰を降ろしてたばこを吸い続ける少年、うさんくさそうに観光客を眺め回している少女。彼らは雑踏
に紛れて目立たぬが、しかし南半球のこの新しい世代は世界をどう見ているのであろうか。


 聖堂の烏一閃地球は初夏                 敏

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