生き残る俳句               秋 尾    敏

 平成12年3月〜4月 読売新聞日曜版に連載

1 誤読の力

 俳句はなぜ生き残ってきたのだろう。明治の文明開化も戦後民主主義もあっさりとすり抜け、今またこのグローバル社会を、俳句は平然と生き延びようとしている。すでにはやりのインターネットにも俳句は住み着き、海外のホームページにさえしばしば顔を見せるのである。時代を越え、国境を越えて生き続ける俳句のこの生命力の根源はどこにあるのだろう。

木枯の果てはありけり海の音     池西言水(ごんすい)
海に出て木枯帰るところなし      山口誓子

 この二つの句の間には三百年という時の隔たりがあり、語られている世界も大きく異なる。作者の意図を言えば、言水は、海に至って木を枯らすことができなくなる「木枯」という言葉の物語をまず詠(よ)んだのである。一方誓子は、木枯らしを自己に同化させている孤独な現代人の心を詠んだ。
 しかし私たちは、言水の句にも現代人の心に通う寂寥を読みとることができる。それはこの句が、言水の意図した言葉の論理を越えて、鮮烈なイメージを生成する装置ともなっているからだ。私たちは、言水の句が生み出してくるイメージに、私たち自身の意識に即した現代の意味を勝手に付与して読んでいるのである。
 俳句は、イメージを生成し始めたとき、永遠の命を獲得した。人々は、それぞれの時代の意味を作品に与え続けた。それは誤読ということであったかもしれないが、だとすればその誤読が、俳句を生き延びさせて来たのである。

2 選句の力

 選句は、俳句という文化を支える重要な要素である。しかし、その意義が今まで十分に認識されてきたとは言い難い。

三千の俳句を閲(けみ)し柿二つ          正岡子規

 この句に、選句に飽き飽きしている子規の心を読もうとする人がいる。その人も選句をくだらない行為と考えているのであろう。個人の内面の価値を絶対視する立場からすれば、人の作品を取捨し、ときに手を加えさえする選句という行為は、許し難いものであったのかもしれない。
 だが選句という行為は、個人の言葉を外部の言葉につなぐ通路となって、人の内面を形成する力となってきた。『汀女句集』の序に、虚子の「選は創作なり」という言葉がある。それは、虚子が汀女の句の創造に荷担したという意味ではない。虚子は選句という行為を通して、中村汀女という俳人を作り上げたと言っているのである。
 選句には、異なるふたつの価値観が同居している。ひとつはその句が俳句と呼ぶにふさわしい姿をしているかということであり、もうひとつはその表現が独自の輝きを持っているかということである。一方で一般性を問いながら、他方で特殊性を問うというプロセスの中に、個人の言葉と社会の言葉との間合いを計り合う選句の本質がある。
 近代の言葉は、個人の内面を形成するというテーマを持っていたが、その内面というものは、外部との関係性によって形成されていくものなのである。

行春や選者を恨む哥の主 蕪村

3 凡庸な句

 俳句が流行し、類型的でつまらない句が増えたという声を聞く。たしかに凡庸としか言いようのない句は多い。 しかし、それは今に始まった事態ではない。いつの時代にも凡庸な句は作られ、そのことによって俳句は生き残ってきた。 非凡な表現があれば、その言い回しや発想を踏まえて句を詠む人が現れる。それが繰り返され、その表現は凡庸なものとなっていく。 俳句の世界全体を考えれば、それは質の低下であろう。だが、その作者個人を考えれば、それは学習の結果なのである。その人もまた、独自の個性的な表現を生み出せる力を得たくて、そうしているのである。
 俳句という行為は、人が非凡な表現に向かうプロセスである。それは、平凡な庶民が、個性ある表現者に向かうプロセスでもある。その過程には必ず周囲の言葉を吸収する過程があり、そこで凡庸な句は生産される。とすれば、それはある可能性を持った凡庸さであるといえよう。 俳句は、天才の独占を許す文学ではなく、普通の庶民が、非凡に向かうためのシステムとして生き残ってきた。芸術というものが、天才の表現を鑑賞するという枠組みを根本とするなら、俳句は、芸術の中心から少しずれたところで生き残ってきた文化なのかもしれない。だが、もし芸術が、あらゆる人々を表現者とすることを本質とするなら、俳句ほどその役割を果たしてきたジャンルも少ないのである。

 春雨や心得顔の太郎冠者 子規

4 句会という学習システム

 俳句を文化としてとらえれば、できあがった作品ばかりが俳句ではない。それを生み出すシステムの全体が俳句なのである。結社、句会、コンクール、俳句雑誌、新聞の俳句欄などさまざまな要素が俳句という文化を維持する力となっている。特にその中でも句会というシステムは、改めて考えてみると、実に優れた言葉の学習システムとなっているのである。
 席題が与えられ、周囲を見渡しながら記憶の糸をたぐる。さまざまなイメージを重ね合わせ、状況を踏まえ、リズムをそろえて表現に値する文脈を紡ぎ出す。それは、認知と言語生成の祝祭である。 やがて清記され、回ってきた作品を素早く読み、それぞれの句の差異を見定め、序列化し、気に入った作品を書き写す。そこでは、感性と理性とが相互に補完し合いながら活発に働いている。 最後に、選ばれた作品は披講(朗読)される。多くの人に選ばれた作品は幾度も読まれ、そのリズムが同席する人々の内面に刻み込まれていく。このとき文字で読んだときとはまた違った句の良さに気づくことも多い。またほかの人の選との違いに驚き、自分の理解の狭さに気づくこともある。
 終了後は、作品の評価についての会話が弾むことになる。そのやり取りのなかで、細かな誤解や疑問が解けていく。
 読む、書く、聞く、話すという言葉の活動をトータルに含み、活発なコミュニケーションを作り出す句会は、日本文化が生み出した優れた言語学習システムであると言えるだろう。

5 短さと省略と

 俳句が生き残っていく最も大きな要因は、その短さにあるだろう。

咳をしても一人         尾崎放哉
蹴ればとて石ころ        財馬清一郎

 こうした自由律の試みは、一般化はしなかったが、俳句史にひとつの感動を残した。それは、もともと俳句が、省略の利いた表現を求める性質を持っていたからだ。
 このことは、海外で作られているhaikuの意味を考える上でも重要なことである。俳句を、省略を追究する最短詩形と定義すれば、俳句にグローバルな普遍性を与えることが出来る。
 俳句は、海外の学校で意外なほど扱われており、子どもたちが、それぞれの言葉でhaikuを作っている。しかし、まだ何がhaikuかという定義がはっきりしているわけではない。五七五という形式が意味を持つ言語は少ないし、季語も、四季のはっきりしない国では意味がない。それでも俳句が世界に広がっているのは、やはり、最も短い詩と考えられているからである。
 五七五とか季語とか切字とかの約束は、日本語という土俵の上で効果的な表現を作り出すための方法である。それら伝統的手法の力をあなどることはできないが、それが俳句のすべてとは言えない。
 世界に飛び出した柔道は、異文化との接触によって、多少姿を変えながらも、その本質を明確にしていった。俳句も、国際化の中でこそ、その本質を明らかにしていくであろう。それはおそらく、短さと省略ということに違いないと思われるのである。

苺赤し一粒ほどの平安か           森 澄雄

6 異文化の力

 俳句は、ほかの文化との交流によって生き残ってきた。
 そもそも俳句の先祖にあたる俳諧連歌からして、正統的な連歌に俗語や漢語を取り入れることによって成立したジャンルなのである。そこに、物語、歌謡、謡曲などさまざまな文化の言葉やリズムを吸収し、俳諧はその世界を広げてきた。芭蕉のあこがれが、和歌の西行や連歌の宗祇、また漢詩の李白や杜甫ということになるのも当然の成り行きなのである。

越後屋に衣裂く音や更衣  其角

 この句は森川許六に「かやうの今めかしきもの」と批判されたことで知られるが、そこにこそ俳句の生命力の根源がある。
 明治中期に子規が登場する前後から、俳句は現実の光景を、それまでの文芸の歴史にとらわれずに詠もうとし始めるが、それも俳句が異文化を取り込んだ姿と考えることができるだろう。それまで、古典が作り上げた言葉の世界を土俵としていた俳句にとっては、文明開化の進む「現実」こそが魅力あふれる異文化であったのだ。時代の変わり目で、俳句はいつも新しい現実に目を向ける。

蒲公英やローンテニスの線の外
カナリヤの餌に束ねたるはこべかな   子規

 こうした子規の句は、それまでの古典の知識を必要とせず、それとは別の「今めかしき」知識によって読まれる句である。
 さて俳句は、これからどんな文化を取り込んでいくのであろう。それは言葉であろうか、現実であろうか。それとも仮想現実と呼ばれる世界なのだろうか。

7 メディアの力

 俳句は時代のメディアと密接に結びつき、歴史を生き抜いてきた。
 既に江戸の中期には、主催者と応募者をつなぐ取次所が各地に置かれ、書簡で作品を集める文音所も作られて、地方の句を都市の版元から刊行する仕組みができあがっていた。
 近代の俳句は、郵便や新聞などの巨大なメディアによって、日々大量に全国に伝えられていったのだが、一方で、ガリ版やタイプ印刷による小さなメディアの存在も重要であった。現在のワープロもそうだが、個人レベルで使えるメディアが、俳句を「作る文化」として広げていったのである。今日のインターネットは、その究極の姿と言えよう。俳句は、そのような様々のメディアを活用して生き延びてきたのである。
 ところが最近の俳句は、メディアに牽引され、誘導されて作られているようにも思われる。誤解であろうか。
 たしかにメディアなしに文化は存在し得ない。だが、初めにあるべきものは、伝えたい内容や表現そのものであろう。その後に、それを伝える手段としてメディアが必要になるはずなのである。それが逆転しているのではないか。
 これは俳句に限ったことではない。メディア主導の時代なのだ。メディア自身が生き残る手段として、文化を求める時代なのである。
 私たちは今、過剰とも言えるメディアに取り巻かれて生きており、作品を人に伝えることも容易になった。そうであればこそ、表現することの根源の意味を問い続けていく必要があるのだ。
 補 遺

 第一回の山口誓子の句「海に出て木枯帰るところなし」について、「あの句は特攻隊を詠んだものだそうですが」という質問があった。ある新聞にそう解説されていたらしいのだが、それはちょっと違う。
 この句が作られたのは昭和十九年。まさにそうした時期で、当時はこの句に戦争に向かう若者の心情を重ねた読者も多かったろう。明治書院の『俳句大観』によれば、誓子は「その木枯らしは片道特攻隊に劣らぬくらい哀れである」と自注しているという。
 つまり誓子の詠んだのはあくまで「木枯」であって特攻隊ではない。ただその「木枯」が特攻隊ほども哀れだと解説したまでのことである。それを「この句は特攻隊を詠んだのだ」と言ってしまうのは論理のすり替えで、喩えるものと喩えられるものが逆になってしまう。誓子の「木枯」はさまざまなものを語っている。その中に特攻隊への心情も含まれるだろうが、それだけではない。だから今でも存在価値があるのだ。