水原秋桜子と『馬酔木』
                            秋 尾    敏
 『馬酔木』の創刊は大正十一年、当初は『破魔弓』という
名であった。鳴雪門下の佐々木綾華が、謡と俳句を内容と
る雑誌として創刊したのが『破魔弓』である。
 『破魔弓』の成立事情については、秋桜子が大正十五年一
月号に「元来破魔弓なる雑誌は綾華君、黄雨君、並びに松浦
元氏君が責任をもつて創刊されたのであつて其の中の黄雨、
元氏二君がうやむやの中に脱退してから綾華君一人が全責任
を負ってゐる次第なのである。然らば吾々同人とは如何なる
種類のものであるかといふにこれは創刊後半年乃至其後の機
会に於て「決して迷惑をかけぬ」といふ保証の下に名を列ね
ることを委嘱されたものに過ぎない」と書いているのが、内
輪の事情としては正しかろう。要するに、俳句と謡を主な内
容とする雑誌を作ろうとした三人が、「ホトトギス」に名を
列ね、帝大俳句会のメンバーでもあった秋桜子以下数名に声
を掛けて始めた雑誌が『破魔弓』だったわけである。
 秋桜子がこの文章を書いたのは、これは『破魔弓』のあま
りの遅刊や校正ミスの多さに辟易したからであったが、しか
しこれは、秋桜子の前向きな意欲の発露なのであった。
 この年の三月号には、やはり秋桜子が、小言幸兵衛の名で、
「雑誌改題の識」を書き、「「破魔弓」なんて、古くさくて
ぢ〃むさくて」という理由で、新しい名を公募するとあり、
五月号に「謹告!」として「本誌を七月号以後左の通り改題
す 馬酔木」ということになるのである。またその間の四月
号編集後記には綾華が「本月号は、ほとんど秋桜子氏の独舞
台です」と書いていることからも、力関係が読みとれる。
 それでも綾華は主幹を続け、結果的に帝大俳句会のメンバ
ーに自由にものを書く場を提供することになる。
 この、雑誌の主幹がまったく雑誌の方向性に意見を持たず、
同人として「雇われた」帝大俳句会の面々が自由に意見を言
うという構造の中が、その後の『馬酔木』の方向を決定づけ
ていく。同人は、自分の雑誌を大した雑誌だとは思っていな
かった。ここが重要である。だからこそ若い同人達は伸び伸
びと自分の意見を書いた。主体性のない発行者が、参加者の
主体性をとめどなく育てていったのである。
 大正三年七月、予告どおり誌名は『馬酔木』となる。
 馬酔木咲く金堂の扉にわが触れぬ秋桜子
 ついに秋桜子は、思いの通り誌名を変え、新しい時代の雑
誌を自分の手で作り始めようとする。このときの同人は、水
原秋桜子、増田古手奈、日野草城、佐藤眉峰、山口青邨、富
安風生、大岡龍男、佐々木綾華である。また雑詠の二番手に
は橋本多佳子の名がある。
 裏門をしめに出てきて千鳥かな 多佳子
 七月号雑詠欄に高屋寒秋とあるが、これは窓秋であろう。
 からたちの芽ぐみてをれど百舌贄寒秋
 また九月号には、橋本多佳子と杉田久女が並んでいる。
 春蝉や仮寝の面を覆う袂多佳子
 釣舟の並びかはりし藤椅子かな久女
 四年四月号には三宅清三郎の「再び妹俳句について」の中
には「妹俳句即ち男性的といふ虚子先生の御意見にいささか
異論を申し述べてみたかったのである」という言説があり、
また大岡 男の「翁進び(おきなさび)」には「「ホトトギ
ス」の漫談会はあれは漫談会になっていない矢張り俳談会だ。
(中略)もっと原石テイ氏や吉野左衛門氏がズバズバ当って
行つたやうに虚子先生にぶつかつて行つて遠慮なく教えて貰
ふといいのだが」などとあって、虚子の俳句に対する考え方
にではなく、「ホトトギス」が虚子の権威を受け止めるだけ
の雰囲気になっていくことへの強い懸念が読みとれる。
 もしこの『馬酔木』という場がなかったら、若手の俳人の
こうした思いは、影でくすぶりつづけただけで、ひとつの潮
流を作り出すことはなかったかも知れない。歴史にもしもは
ないが、それにしてもこの雑誌の存在意義は大きい。
 昭和五年からは、装丁もあか抜け、ページ数も増えて厚手
の雑誌となる。また巻末にある売捌所もこの年から全国に増
えだし、年の終わりには四店舗となり、七年末には全国二十
五カ所を数えるまでになる。このとき、秋桜子が『ホトトギ
ス』を離別し得る基盤が確立していたと言えるだろう。
 昭和六年、秋桜子は、『ホトトギス』の写生が、瑣末描写
に傾いていくことを批判、『ホトトギス』を離れる。これは
むろん秋桜子の気概であり、才能であるが、しかしその背景
に、この『馬酔木』という自由に物を言う基盤が存在したこ
とを忘れてはなるまい。
 以降のことは割愛するが、この『馬酔木』から『寒雷』が
生まれ、そこから『海程』が出たことだけを考えても、『馬
酔木』の存在の大きさは理解されよう。『馬酔木』初期の、
参加者が自己の論を堂々と弁ずるという伝統が、この系列の
俳誌に必ず受け継がれているように見受けられるのも興味深
いことである。

          『俳壇』 平成12年11月号掲載