片山広明のこと

 

 秋尾敏の旧友、片山広明のこと


 追悼

2018年11月13日、片山広明、他界

何度も肝臓を悪化させ、よくここまで頑張ったと思う半面、
やはり、早いよ、とも思う

あなたがいなかったら、私は
勤めを辞めて、もの書きにはならなかったろう
あなたはいつも私の前を歩いていた

「俺だけじゃねえか」
酔ってそう叫んだのは、30歳のころだったか
みんなサラリーマンになりやがって、どうなってるんだ、
そういうことだったのかと言われ、私は、
いつか追いかけるから、と
密かにつぶやいた

圧倒的な才能だった。誰もあなたのようには楽器を鳴らせない
鳴らない楽器を持っていって吹いて貰うと、
たちまちその楽器は鳴るようになった

その音で、
あなたは生涯、すごい音楽を作り出そうとした
うまいとか、渋いとかじゃなく、
すごい音楽を

あなたと知り合ったことが
私の人生だ





片山広明の生い立ちと経歴など

 昭和26年3月、千葉県浦安市に生まれ、8才で野田市に移住。母は三味線の名手だった。
 野田市立中央小学校卒業。卒業時に教育長賞を受賞。第一中学校へ入学し、ブラスバンドで兄の後を継いでアルトサックスを吹き始める。
 埼玉県立春日部高等学校に入学。吹奏楽を続け、県のコンクールで特別賞を得る。むろんビブラートを効かせたクラシック奏法である。
 JAZZらしき音楽を初めて人前で演奏したのは、高3の文化祭。体育館の合奏で「テイクファイブ」のソロをとり、教室で吹奏楽部のピックアップメンバーとコンボで「朝日のようにさわやかに」を演奏。
 昭和44年、國學院大学入学と同時JAZZ研究会へ入会。その頃、地元野田市で活躍していたロックバンド 「デモンズ」に加わり、ヤマハのライトミュージックコンテストに出場。千葉県大会で審査員だった北村英治氏に絶賛されて特別賞を受賞した。
 その後、大学の先輩の卒業記念セッションで沖至氏に出会い、認められてコンボに加入。新宿ピットイン、タロー、渋谷オスカーなど、あちこちのJAZZ喫茶に出演し、ニューJAZZの新人として注目される。
 その後、キャバレーの専属バンドやダンキンドーナツのドライバーをしながらニュージャズを続け、 藤川義明、翠川敬基の「N.M.E」(ニュー・ミュージック・アンサンブル)に加わり、原田依幸、梅津和時らと「生活向上委員会オーケストラ」を結成して注目を浴びる。
 同時に、自己の8重奏団「タコス」、「豊住芳三郎4」、「原田依幸3」などで活躍した。
 80年代には「D.U.B」に加わり、梅津和時、早川岳晴、菊地隆と活動。同時に、忌野清志郎の「RCサクセション」のバックバンドに「ブルーデーズ・ホーン」として定着。
 90年代には「de-ga-show」を中心に活動し、98年3月「Co2」を結成。この頃から肝硬変で入院を繰り返すが、結局酒は止めなかった。また「渋さ知らズ」にセカンドアルバムから参加し、すぐ4番バッターと呼ばれるようになり、酔った不破さんが制御不能になったときは、裏でバンドをコントロールしていた。
 2000年代には、石渡明廣 早川岳晴 湊雅史とハッピー・アワーを結成。東京スリムなども率いた。

 


思い出

 中2の秋、生徒会選挙で書記長に立候補しようと思ったら、片山が「俺が出るからやめろ」というので、会長に立候補して私は落選。片山は書記長になった。
 高1で初めて同じクラスになった。最初のテストで、片山は数学、私は国語がほぼトップだった。休み時間、片山は吹奏楽部の配置ばかり考えていたのだが、1学期の成績が出ると、私の音楽が10で、片山が9だったので、片山は本気で怒った。しかし、二人とも成績を語れるのはここまでである。
 夏休みの終わりに私は赤痢に罹患し、2ヶ月休んだ。隔離病棟まで見舞いに来てくれたのは片山だけだった。退院すると、私の成績は片山のはるか下になっていた。
 片山が家でレコードを聴くのでステレオがほしいと言いだし、私は中学の時からオーディオが趣味だったので、休みの日はオーディオの話ばかりしていた。片山はたしかスピーカーをARにしたのではなかったろうか。私は自作の箱でダイアトーンP610A。トーンアームは片山がFR、私はオーディオテクニカAT1005。要するに片山の方が予算があった。
 最初、片山はクラシック専門で、通販でレコードを買っていた。私が聞いたことのなかったリハルトシュトラウスとかベルリオーズなどを聞かされた。ワーグーナーもよく掛けた。私が持っていくレコードはジャズで、最初はMJQとかジャズメッセンジャーズだったが、段々過激になって、高2になると、コルトレーンの「至上の愛」とかエリックドルフィーとかになり、、ついに「ビレッジバンガード2」を掛けていたら、片山の母上が扉を開け、「これ、音楽?」と聞いてきたので、大笑いになった。
 高3の吹奏楽コンクールを応援に行った。課題曲は「移り気な五度のムード」で少しナイーブな演奏だった。自由曲は何であったか忘れたが、片山のソロがすばらしかった。関東大会には進めなかったが、片山は特別賞を取った。文化祭で吹奏楽部の有志がコンボを結成し、「朝日のようにさわやかに」を演奏した。私も楽器をやりたいと思った。
 片山は國學院大學の史学科に入学し、吹奏楽部には入らずジャズ研に入った。理由を聞いたら、大学の吹奏楽はレベルが低いから面白くないというのであった。私の入学した埼玉大学には独立したジャズ研がなかったので、吹奏楽部に入部し、その付属のジャズ研に入って、ドラムを始めた。楽器は従弟のお古を貰った。
 高校の最後の頃、野田市が吹奏楽団を作るということになり、片山も入団した。私も後から入った。キッコーマンの財団が楽器を購入してくれ、片山はそのYAMAHAのアルトサックスを使っていた。片山はその楽器にユカリという名を付けた。
 ところが、私の大学のサックスの先輩に何かもめ事があったらしく、全員退部してしまい、少しクラリネットが吹けたので、私にサックスに回れという指示がきた。ちょうどその頃、片山が本格的にジャズをやると言ってセルマーを買ったので、ユカリは私が使うことになった。
 夏休みに山に登ろうというと乗ってきたので、秩父縦走計画を立てた。しかし私の計画が無理で、雲取山だけで戻ることになってしまい、お前の計画はと、さんざんに言われた。
 野田にデモンズというロックバンドがあって、クリームを意識してか3人でやっていたのだが、YAMAHAのライトミュージックコンテストに出るのでホーンを入れるということになり、片山が入って、私もおまけで入れてもらった。たぶんリーダーが、登場したばかりのBSTとかシカゴを意識したのだろう。しかし私はまだサックスを初めて半年である。ベースのいないバンドだったので、私はコードのルートを担当している感じだった。コンテストでは普通に演奏し、片山はここでも審査員の北村英治に絶賛されて、特別賞を取った。
 大学2年の夏休みに、バイトしてセルマーを買おうと思っていたら、片山が、グリコのアイスクリーク工場で冷凍室に入ると時給が高いという。それで二人で40日間、冷凍室で働いた。外気温30度で冷凍室がマイナス20度。そこに30分交代を繰り返すのである。1週間で血尿が出たが、2週間で体が慣れ、私の楽器もセルマーになった。
 その後、すぐ片山は沖至のバンドに入り、埼玉大のジャズ研にも来てくれたが、忙しくなっていっしょに演奏することはなくなった。レベルも違いすぎたのである。しかし、最初、片山に教わったお蔭で、今でも音量だけはアマチュアには負けたことがない。
 ピットインにはときどき聞きに行った。帰りは、片山のサニーに乗せて貰い、当時できたばかりの狸小路で札幌ラーメンを食べて帰った。
 その後、私が中学校に就職し、なぜかバレーボールの監督になって、ほとんど休めなくなって会わずにいたが、3年後に吹奏楽部を作るというので顧問を頼まれ、また自分でも少し楽器を吹き出し、野田のNJCというビッグバンドにも入ったので、何度か、片山が箱で演っているキャバレーで吹かせて貰ったりもした。だが、その後片山はフリージャズのスターみたいになっていったから、もういっしょにはできないと思い、純然たる客となった。渋谷のプルチネラとか新宿タローに行った記憶がある。
 その後私の仕事が忙しくなり、たまに様子を見に行くという感じになったが、長男が3歳のころ、生活向上委員会オーケストラには何回か連れて行ったが、楽しそうに踊っていた。
 平成10年の正月、野田に遊びに来た片山に、当時私が教頭をしていた中学校のオーケストラが県で最優秀をとったので自慢して聞かせたら、フレーズの末尾の処理が甘いと厳しいことを言われた。相変わらず音楽には妥協しない男であった。
 平成12年、私は勤めを辞め、もの書きになることにした。それで、俳句中心にいろいろ活動していたのだが、平成19年、夏石番矢さんが、日本でも国際的なポエトリー・フェスティバルをやろうと言い出し、その事務局を引き受けることになって。平成20年に、東京ポエトリー・フェスティバル2008というのを明治大学を会場に開催して、そこでの私の朗読を片山とコラボしようと思いたって連絡した。リハも必要だと思ったので、片山に頼んで、横浜のエアジンと、合羽橋のなってるハウスで渋さちびズに入れて貰った。絶叫調でやったら、俳句は短いので、合間に入り込みやすくて、これはけっこういけると思った。不破さんにも意外と合うね、と言って貰ったが、本番は二人だったので、かなり抑えて朗読した。雁の句を読んだら、瞬間的に片山が雁の声をサックスで出してきたので、こりゃ参ったと思った。
 https://www.youtube.com/watch?v=gQRfB5BnBnk
 この会で、詩人の白石かずこさんが、沖至さんといっしょにやったので、片山と沖さんが30年ぶりに再会することになった。それが縁で、沖至、林栄一、片山広明のフリーセッションが新宿ウルガで実現し、これがお互いをリスペクトし合った素晴らしいセッションになった。私の隣でこっそり録音している人がいたと思うが、そのデータを頂きたいと本気で思っている。
 その後、2回ほど柏のスタジオWUUで、片山のライブをプロデュースした。同窓会のようなものであったが、2回とも満席になった。
 最後に演奏を聴いたのは、7月11日のピットインの板橋さんのバンドであった。何しろホーンが多いから若手に譲っている感じで、終わってから楽屋に行ったら、何だ来てたのか、だったらもっと吹いたのに、と言われた。そんなに大変そうには見えなかったので油断していたら訃報が舞い込んだ。本当に驚いた。
 ピットインのライブで買ったハッピーアワーの「ラストオーダー」がとてもいい。題名が「ラストオーダー」だし。おい、ちょっと渋くなってるぞ、とは思うが、そこがまたいい。
 みんな、片山を聴いてくれ。
 

 片山広明ディスコグラフィー Under Construction

1973 「インスピレーション&パワー14 FREE JAZZ FESTIVAL 1」 ナウミュージックアンサンブル他 LP : TRIO PA3006-7
(2009) (「katayama hiroaki 1977,1978 live at alone and aketa no mise いそしぎ」) 片山広明 佐藤春樹 堀上高由 明田川荘之 早川岳晴 石井八充 亀山賢一
1979 生活向上委員会大管弦楽団「This is music is this!?」 原田依幸 片山広明他  LP : UNION GU-2004
1979.4 「THE MASTERPIECE」豊住芳三郎ユニット 豊住芳三郎 片山広明 梅津和時 佐藤春樹 LP : ALMレコード/コジマ録音
1980 RC SUCCESSION 「PREASE」 RC SUCCESSION 梅津和時 片山広明他 LP : KITTY RECORDS
1980.9 「生活向上委員会大管弦楽団 DANCE DANCE DANCE」 原田依幸 片山広明他 LP : UNION GU-2004
1981.8 Doku UME BAND 「Deluxe AT SAGAE」 どくとる梅津バンド LP : (株)フジレコーディング 
1982 「DANGER」 ドクトル梅津バンド+清志郎 東芝EMI LP : EASTWORLD WTP72404
1982 「RC SUCCESSION AT BUDOHKAN WITH BLUE DAY HORNS」 RC SUCCESSION 片山広明他 LD パイオニア
1982.8 「THE DAY of R&B」 RC SUCCESSION 梅津和時 片山広明他  (SAM & DAVE REVUE RC SUCCESSION CHUCK BERRY ) LONDON L28N-1005
1983 「DYNAMITE」 どくとる梅津バンド LP : LONDON L28N-1011
1983 「EQUATOR」KATAYAMA HIROAKI SOLO SAXOPHONES 片山広明 LP : MUSIC BOX
1984 「live at moers」
1984 「IQ84」 D.UB+浅田彰(カセットブック)
1984 「DO-Guwow!」
1984.11 RC SUCCESSION 「Feel So Bad」 RC SUCCESSION LP : TOSIBA-EMI WTP90306
1985 「ソーン」 第1回東京ニュージャズフェスティバル
1985 「DANGERU」 ドクトル梅津バンド+清志郎 45rpnLP
1986 RC SUCCESSION 「the TEARS OF A CCLOWN」 RC SUCCESSION 片山広明他 LD 東芝EMI
1986 D.U.B  「 D 」 梅津和時 片山広明 早川岳晴 菊地隆 LP : OMAGATOKI
1987.8 「DREI SHERRY」 片山広明 早川岳晴 角田健 LP : NO TRUNKS
1988.4 「CHABO'S BEST 1985-1997」 仲井戸麗市 片山広明他 HUSTLEにsolo
1990 酒井俊「香港ブルース」 酒井俊 渋谷毅 川端民生 古澤良治郎 片山広明他
1992.5 「そーかなあ」 片山広明 古澤良治郎 望月英明 加藤崇之 OMAGATOKI SC7106 
1993 「DETTARAMEN 渋さ知らズ2nd」 不破大輔 加藤崇之 片山広明 林栄一他 ナツメグ
1993 「DETTARAMEN 渋さ知らズ2nd」再版 不破大輔 加藤崇之 片山広明 林栄一他 地底レコード
1994.3 「de-ga-show」 片山広明 林栄一 古澤良治郎 上村勝正 松川純一郎 酒井泰三 佐藤春樹 鈴木正則 CMCZ-1008
1994.8 「大仕事アンコール'94LIVE」 梅津和時 片山広明 他 Disc Union AX-002
1995 梅津和時「大仕事アンコール」 梅津和時 片山広明 緑川敬基 早川岳晴他
1995.2 「de-ga-show/続」 片山広明 林栄一 古澤良治郎 上村勝正 松川純一郎 酒井泰三 佐藤春樹 鈴木正則 藤ノ木みか CMCZ-1011
1996.1 「THE MIX DYNAMITE YU 游」  板橋文夫 OMAGATOKI OMCZ-1010
1996 酒井俊「買い物ブギ」 酒井俊 片山広明 つの犬他 director : 片山 広明
1996.11 「HOSPITAL Kiyoshiro meets de-ga-show」 忌野清志郎 片山広明 林栄一 古澤良治郎 上村勝正 松川純一郎 酒井泰三  SWIM-C002
1997 酒井俊「Fly Me To The Moon」 酒井俊 片山広明 林栄一 つの犬他
1998 「渋龍 渋さ知らズ ヨーロッパ公演」 不破大輔 片山広明 渋谷毅 他
1998 「古澤良治郎と大往生/もうすぐ死にまっせ」 古澤良治郎川端民生 片山広明他
1998.3 「インスタント・グルーブ」 片山広明 林栄一 宮野裕司 梅津和時 早川岳晴 芳垣安洋 加藤崇之 勝井祐二 不破大輔 大沼志朗 石渡明廣 井野信義 つの犬 ナーティア W-101
1998.5 「CO2 ZERO」 片山広明 林栄一 加藤崇之 早川岳晴 Natya W-102
1999 「fiktion」 片山広明 石渡明廣 不破大輔 豊住芳三郎 Studio Wee
1999.11 「Ninety-Nine」「DREI SHERRY」のCD化 片山広明 早川岳晴 角田健 1987録音
2000 「CO2 tokai」 片山広明 林栄一 加藤崇之 早川岳晴 芳垣安洋
2002 緑化計画 緑川敬基 片山広明 早川岳晴 石塚俊明 StudioWee
2002 「quatre katayamahiroaki quartet」 片山広明 板橋文夫 井野信義 芳垣安洋
2002 「渋旗 渋さ知らズ」 不破大輔 石渡明廣 片山広明他
2006 「渋全 渋さ知らズベスト盤」 不破大輔 片山広明 立花秀輝他
2008 「DUST OFF」 片山広明 立花秀輝 不破大輔 磯部潤
2008 「WE11 Titabashi Fumio Orchestra」 板橋文夫 片山広明他
2009 「katayama hiroaki 1977,1978 live at alone and aketa no mise いそしぎ」 片山広明 佐藤春樹 堀上高由 明田川荘之 早川岳晴 石井八充 亀山賢一
2010 「TOKYO SLIM lIVE」 片山広明 辰巳光英 高橋保行 ギデオン・ジュークス 山口コーイチ 藤掛正隆
2011 「My One and Only Love」 片山広明 明田川荘之
2013 「8 seasons」 片山広明 石渡明廣 藤掛正隆
2015 「K.O.」 片山広明 太田惠資
2015 「ハッピーアワー」 片山広明 石渡明廣 早川岳晴 湊雅史
2015 「驢馬駱駝」 林栄一 片山広明 石渡明廣
2018 「ラストオーダー 片山広明&ハッピーアワー」 片山広明 石渡明廣 早川岳晴 湊雅史

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