敏の「ID・JAZZ論」

 その1

 縁あって1950年という記念すべき年に生を受けた僕は、20世紀後半の歴史を生きてきた。
 20世紀前半の世界史の主役は、むろんヨーロッパだった。なぜなら、世界史というものを発明し、記述していたのがヨーロッパ人だったからである。
 しかし、僕がものごころついたころ、その主役の座は、アメリカ合衆国とソビエト連邦に割り振られていた。その経済力によって、世界史を記述する権利が彼らに移行していたらしいのである。
 敗戦によって民族的なアイデンティティをいささか崩壊させてしまったこの国は、経済的にも精神的にも、他の国よりはいささか直接的に、そうした状況の変化の影響を受けることになった。その結果、日本人の世界観は、アメリカとソ連とを二極とする世界像に単一化されていった。
 僕が生まれるちょっと前まで、この国は、自ら自前の世界史を書き上げようとしていた。
 ところが僕が歴史というものを習い始めたとき、日本史と世界史とは、何やら別の装いを見せて共存していたのだ。
 なぜこんなことから書き始めたかといえば、ジャズというものが、要するにアイデンティティを問題とする音楽だからである。
 私が私であるとはどういうことなのか、なぜ私は状況の中でこのような私であるのか。人は私をどのように理解しており、要するに私とは何か。
 発生的に言えば、合衆国の黒人にとって、ジャズとは、自らのドメスチックな文化と、白人社会の文化とに折り合いをつけるための音楽であった。黒人が黒人らしさを表現しつつ白人社会に受け入れられるための手段であったわけだ。ジャズは、黒人がアイデンティティを獲得するための音楽だったのだ。
 また、そのジャズに参戦した白人ミュージシャンたちにとっては、その白さが問題であった。逆のアイデンティティを問われ、もの真似、偽物、まがいものというレッテルとの戦いが始まっていた。
 やがて60年代になると、公民権運動の盛り上がりとともに、ジャズは黒人が自らのアイデンティティを主張するためのメディアとなった。僕がジャズを聞き始めた頃だ。マックス・ローチやチャーリー・ミンガスの戦いぶりは壮絶だった。
 そして僕は、自分が日本人であることに気付く。

  俺たち黒じゃな〜い〜 俺たち黒じゃない!
  俺たち白じゃな〜い〜 俺たち白じゃない!
  俺たち黄色〜     俺たち黄色 イェイ!

 メロー・イエローのメロディーに乗せて、生活向上委員会大管弦楽団がこう歌ったのは、1970年代も終ろうとしていた頃のことだった。

 その2

 70年代まで、日本のミュージシャンたちは、黒人のように演奏しようと、どれほどの努力をしてきたことだろう。ひたすら黒人らしくあること、それがジャズメンとしてのアイデンティティの要件であったのだ。そして、その苦闘の中で、自分が日本人としての、名付けがたい独特の音感を持っていることに気付いていく。「俺たち黒じゃない」というシニカルな叫びはそこに由来している。
 そのとき彼らは、大きく四つの方向に分化していったように見える。
 まず、あくまで「黒」であることにこだわる人達がいた。しかし彼らは黒ではない。そこで必然的に彼らの方法は、スタイルの問題に偏向していく。まるでシャネルズのように。しかしその中でも、ドラムで言えば渡辺文男や角田ヒロなどのように、資質としてその方向にあっておかしくない人々もいた。
 次に、そのことを何とか肯定的な要件に換えようと努力する人々がいた。日本的であることをジャズとしての個性としようとしたのだ。穐吉敏子もそうであったろうし、また菊地章文もそうであったかもしれない。彼らはおそらく、もっとも正統的なアプローチをしていたのである。
 また、徹底的に「日本」であろうとした人々もいた。武満的アプローチと言えようか。楽器が尺八だということもあるが、山本邦山がそうであり、「KOGUN」の穐吉もそうであろう。また生活向上委員会などの日本のニュージャズも、日本人としてのリズム感を徹底して前面に押し出すことで独自のサウンドを作り出している。それは開き直りではあろうが、サウンドとして成功した例もある。
 最後に、最初からそうしたことをあまり気にしない人々がいる。その中には単に問題意識が欠如しただけと思われる人も多いのだが、資質としてそこをクリアしてしまう渡辺貞夫のような幸せな人も存在する。彼は始めから自分であることでやっていけた希有な例である。
 90年代になると、ミュージシャンの肌の色は、あまり問題にならなくなった。それぞれの民族は、それぞれの音感を継承しており、その中から独特の天才が現れるのだという当然の理屈がようやく理解されるようになってきたのだ。
 今や、あらゆる差異が肯定的に受け取られ始めている。日本人臭いリズム、ヨーロピアンらしい理屈っぽさ、そんなものも、ジャズメンの立派な個性として認められるのだ。
 しかも若い日本のミュージシャンは、もはや日本人であることを意識させないサウンドやリズムを平気で作り出すことができるようになった。むしろ、どうやって自分の個性を保証するのかと心配するほどである。

 その3
 
 日本のジャズメンが、イエローであることを否定的に受け止めなくなったということは、とりもなおさずJAZZにおいてもキャッチアップ型の近代化が終焉を迎えたということであろうから、とりあえずは喜ぶべき状況なのである。
 しかも若手のミュージシャンのリズム感は、ちょっと聞いただけではどこの国のミュージシャンかと思うほど「JAZZ」的である。それは地球上で、日本人のアイデンティティを確保し易くなったということでもあろう。
 だが逆に考えれば、それはエントロピーを増大させただけのことではないのかという気もしてくる。
 つまりそれは単に日本人であることを希薄にした結果なのではないかと。柔軟になった日本人のリズム感は、JAZZの独自性を希薄にし、その結果JAZZの世界を貧しくしてしまったのではないか。
 ジャズとは何か。
 それは、スタイルなのか、サウンドなのか、それとも即興性なのだろうか。ジャズとは、いったい何に対して名付けられた名前なのだろう。
 ジャズがスタイルやある特定のサウンドであるならば、ジャズは既に固定した概念である。そのときミュージッシャンたちは、ひたすらジャズらしさを身に付ける練習を繰り返すことになるだろう。事実、多くのミュージシャンはそのように練習し、やがてジャズを奏(や)れるようになっていく。
 しかし、よく考えてみよう。はたしてジャズは、そのように発展してきたのだったか。そうではない。ジャズは常に他のジャンルの音楽を取り込み、さまざまな個性によってそのサウンドの幅を広げてきたのだった。そこには、ある民族の音が、他の民族の伝統の音と出会い、つじつまを合わせながら自己表現を獲得して行くという過程があった。
 アフリカの音がヨーロッパの楽器を手に入れ、ポルカやマーチに出会い、ソシアルダンスと融合し、近代の音楽理論によって理論武装もし、ロックと切り結び、ボサノバと出会い、レゲエも取り込んで今に至っているのだ。それはすべて、自分の音と周囲のカッコイイ音とを融合させ、喜びを共有できる音を作り出すことによって自己の個性を認めさせようとする行為の歴史である。
 つまりJAZZとは、音によるアイデンティティの形成行為である。しかもテーマはすでに民族のアイデンティティから個人のアイデンティティへとシフトしている。
 いや、ちょっと待て。JAZZとはスイングではなかったか。その厳密な定義はさておいて、デューク・エリントンも山下洋輔もそう言っている。
 そう、たしかにJAZZはスイングである。
 しかしスイングとは何か。
 あえて定義しよう。スイングとは「自由」のことである。そしてそれこそがアイデンティティなのだ。 
                                                −つづく−

JAZZが好きに戻る
ホームページに戻る