俳句にとって「読み」とは何か
                                                    萩 山 栄 一
 序論
 現代俳句には無季・有季、定型・自由律、口語・文語、伝統・前衛等々、様々な対立軸がある。この現象は一見、百花斉放を想わせるが、その実、同じパラダイム上での二元論にすぎない。俳句の本質を探る上では、それらが「様々な意匠」に過ぎなくなる地点までおりて考察する必要がある。
 この論考では「言語を手段とした最短詩」という定義を出発点として、主に俳句を「言語」の面から考察していきたい。しかし、先ほど述べたようにここでは美的言語、あるいは詩的言語にこだわらないで、一般的な言語を対象とする。この論考で意図しているのは「言語」の自明性に疑問符をつけ、俳句における二十世紀最大の作句理念「写生」のもたらした歪みを質すことである。
 写生説は発想や表現が類型化していた月並俳句に対する効果的なカンフル剤でありえた。近代を考察する上で欠く事のできない理念である。そしてこれからも機会詩としての「写生」の意義は尽きないだろう。
 「写生」の産んだ弊害は、作品よりも、むしろ、読み(鑑賞)に深刻な傷跡を残した。確かに「客観写生」・「花鳥諷詠」は作品のマンネリ化を招き、俳句にとって由々しき問題となっている。しかし読みに関して言えば、言語の可能性の否定という根本的な事態にまで派生したからだ。その事実は高浜虚子の作品が最もよく物語っている。「客観写生」は後に述べるようにかなり問題の多い理念である。にも関わらず、彼の作品の達成度にはあまり影響を与えていないように見える。
 私は、いわゆる「虚実皮膜論」を展開しようとしているのではない。この論考では虚実を混同させ、現実が作品に先行するという転倒を疑いなく許容している、感性の在り方を探ろうとした。それによって作品の可能性、ひいては言語の可能性がいかに狭められているかの告発だ。
 
 リアリズムの日本的歪み
 まず近代日本の言語芸術(小説・短歌・俳句)に共通したリアリズムの受難を語ろう。散文と短詩・定型詩の相違はあるが、リアリズムの時期やその変容は奇しくも一致している。文芸評論家の江藤淳はリアリズムの源流を高浜虚子の写生文に求めた。正岡子規の「写生」をキーワードとして日本における小説・短歌・俳句のリアリズムの動向は連動している。小説と短歌の分野からリアリズムの歪みを示す証言を拾ってみよう。
 
  時代がもはや科学的真理をしか認めず、全て「不真実の幻像を以て成立したるものは 、科学的思潮のために砕かれた」今日、文学も「科学の風潮に生まれた写実主義」を採 用して、あくまで事実に立脚すべきである。作家の見聞した事実のみを描き、体験した 事実のみを歌うべきである。
(傍線 筆者)中村光夫「風俗小説論」自然主義者の所論
  
 私のそのままが作中の〈私〉でありうるという迷信がはびこり、私そのままが作中の 〈私〉として定着されてこそ名歌なのだ、といった珍妙な仮説まで生ましめるにいたった。
佐々木幸綱「作歌の現場」
 
 言うまでもなく西洋における文学は実生活から離れたフィクションの世界だという認識から出発している。リアリズムは少しでも事実らしさを作り上げるための技術である。それに反して日本におけるリアリズムは次のような特徴を持つ。次は中村光夫の「風俗小説論」の要旨である。
 1.見聞した事実をそのまま写せば、リアリティが保障されるとい
  う信仰が生じた。
 2.作者=作中の私という錯覚が極端なまでに正当化されることに
  より.作者の視野を絶対肯定することにつながった。
 3.方法にすぎないリアリズムが「修業」の対象である一つの倫理
  観念(心構え)に変質された。
 このように日本におけるリアリズムでは自分の知りぬいた実生活の些事をことごとく自然の発現と見て、これを「思想や判断」を加えずに再現すれば、おのずから客観に達するとされる。その為、作品の真実性が、その描写自体の客観性または現実性より、背後にある作者の体験に絶対的に依拠するという不思議な事態が生じた。そしてそれが自己目的化され、言語を磨くという観点を失い、ただ虚心に対象に向かう精神状態になることのみが称賛された。はじめは科学的方法として出発したリアリズムはすぐにその本旨を忘却し、単なる精神論に堕している。
 俳句の「写生」も酷似した運命をたどる。それは例えば、高浜虚子の唱えた「客観写生」・石田破郷の「俳句は私小説である」発言に典型的に表れている。韓国の文学博士、李御寧は「蛙はなぜ古池に飛びこんだか」の中で「俳句七損」として日本人が俳句を鑑賞する場合に陥りやすい傾向を的確に指摘している。次にこの論考に関係する三つをあげる。
 1.現場踏査主義
 2.作者の意図第一主義
 3.伝記密着主義
 これらが一概に悪だと断ずることはできないが、作品そのものに虚心に向かい、イマジネーションを働かすことより作者の経歴・作品が創られた状況・作者の意図への知識が優先される事はおかしい。
 この日本におけるリアリズムが被った受難を作品(言語)が現実に隷属する「倒錯」と言い換えることができよう。「倒錯」と表現する所以は、作品そのものを鑑賞するより、事実・経験崇拝に陥っているからだ。もちろん発想、認識の契機としての経験の有効性を軽視するわけではない。しかしそれが過ぎると、作品そのものの否定につながる。
 俳句で例にとると、特に有季派にとっては季語の選定は作品の死活問題であるはずだ。しかし、作品の中での働きを検討するより、単に現実に有ったか、否かだけが問題にされる光景が句会でよく見られる。この風景は作品の出来不出来を検討するよりも、見聞した事実かどうかが重要視されている典型的な例である。
 さらに問題を深刻にしているのは自然主義・客観写生は単なる少数派ではなく、一世を風靡した思潮であり、現代に至るまで底流を流れ続けている点である。その原因を探る為には表層に惑わされず、深層を流れる日本人の感受性・言語観を分析するしかあるまい。
 
 感性の陥穽
 とりあえず日本人の感受性の底流を凝視してみよう。
 日本人には自分の経験したことによる感性を第一義にする思考体質がある。これは手応えの確かな感覚的日常経験にだけ明晰な世界を認める考え方である。そこでは言語そのものからのイマジネーションより経験が重要視される。その日本的な感性を丸山真男は「実感信仰」(「日本の思想」)と呼んだ。これが日本のリアリズムを歪めた最大の要因である。
 確かに、そのおかげで日本語は感覚的ニュアンスを表現する語彙をきわめて豊富に持つ。そして四季自然に自らの感情を託したり、微妙に揺れ動く心理を形象化したりする場合には優れている。川端康成の作品が端的な例である。今日の俳句の大衆化もこの感性の所産であるといえよう。
 俳句では、「写生」と実感信仰が結合し、次第に強化されて、「客観写生」が誕生する。作為や工夫が忌み嫌われるのもその所為だ。しかし自然から表現する対象を取捨選択すること自体が、「作為」的な行為である以上、やはり無理がある。そのため現実そのものにリアリティのありどころを求め、前述した「倒錯」に至った。
 感性重視の傾向もまたこの現象に対する認識を妨げている要因になっている。感性だけに頼って分析を怠ると、「倒錯」をそれと悟らずに許容することになる。なぜならば「倒錯」は感性そのものに潜んでいるからだ。
 阿部完一の近著「絶対本質の俳句論」は示唆に富む書である。彼は俳句を読む際の「論理」を次の三つに分類する。
 1.知的論理
 2.感情の論理
 3.感覚(感性)の論理
 彼は「知的論理」「感情の論理」を俳句鑑賞の中で排斥するものであり、「感覚(感性)の論理」こそが、俳句鑑賞において尊重されるべきものだと説く。これを私なりに言い換えると、科学信仰にしろ、伝統的なイメージにしろ、あらゆる先入観を排して俳句の鑑賞に臨まなければならないということだ。彼は次のように述べる。
  私は「直感読みを謂う。ぴんとくるか来ないか。その一句一句が「わかる」「わからない」という鑑賞者の判断以前に、突然その一句が胸に落ちるー納得する。その一句を「理」以前の私に相対せしめることーそれが「直感読み」であり、それが俳句一句を読む」事と私は思う。
 当然のようなことと見えながら、これには、大きな陥穽が待ちかまえている。なぜならば、絶対的に「直感」に依拠することは、「実感信仰」を疑いを持たずに許容することにつながるからだ。
「絶対本質の俳句論」時間論
 
 実感信仰的な「読み」の例を一つ例を挙げよう。あるシンポジウムに出席したときの出来事である。
 
  首断たれ鰤夕焼を噴き出せり  熊谷愛子
 
 私は次の三つの理由で、「首断たれ」の主語は作者であり、同時に鰤でもある。そして、この作品のテーマは原罪の自覚であると発言した。
 @「首断たれ」が受動態であること
 A「首」の語句は人間を暗示していること
 B「首断たれ」は断頭台(ギロチン)を想起させること
 この解釈は猛反発をくらった。その反対意見を次に挙げる。
 A女史「主婦として鰤の首を切ることは、日常的な行為である」
 B氏「この句は夕焼の鮮烈さを詠んだ句である」
 注意すべきは、二氏ともこの句を佳句だと評価した上で、この意見が出た点にある。つまり良否だけの読みでは、作品を充分に味わい尽くさないで終わる場合があるということだ。この経験は私に「読み」の固定観念を考える契機を与えてくれた。
 この二氏は「実感信仰」による読みに依拠している。A女史は主婦としての経験、B氏は夕焼けを血潮だと感じた経験である。ここで問題なのは自分の経験に作品を当てはめただけで鑑賞を終えてしまった点にある。これをA女史・B氏の特別な例として処理するのは非礼であろう。新聞の俳句欄の選評を見ると、この手の読みが多数派である。
 現在は「直感」による読みを推奨するより、経験による感性(実感信仰)と、言語に対する感性を峻別することの方が急務である。それは言語の論理性を認識することだ。もちろんここで言う「論理」とは阿部の使う意味とは全然別である。科学信仰・感情の論理等の固定観念そのものを洗い直すために必要な論理だ。いずれの場合も論理蔑視は現状維持しかもたらさない。
 確かに数少ない選ばれた「読者」には、すべての固定観念を離れた直感的な読みが可能であろう。しかし特殊な例を一般化してしまうと、作品を自分の経験に当てはめるだけの「読み」がなんの反省もなく横行してしまう。勿論、佳句かどうかを判断するのは読者の培った言語感覚の総体としての「直感」である。しかし少なくとも佳句だと感じた作品は、言語の論理性に従って思考して、作品の良さを吟味してみる必要がある。それが作品との、ひいては作者とのダイアローグ(対話)にほかならない。そしてそれ以外に日本人の宿痾である「実感信仰」を免れる術はない。
 
 言語の本質
 言語学の観点から客観写生を批判することもできる。
 周知のように子規は画家の中村不折によって、写生説のヒントを得た。後継者の虚子がすべきだったのは、絵画との表現手段の相違に対する真摯な考察であった。絵画や映画の映像芸術では事物をありのままな形に捉えられる。しかし言語では単なる抽象的な記号に還元される。言語が事物そのままを表現できないのは、確かにマイナスの面だが、それだからこそ厖大かつ複雑な感性的側面を持つ事象、例えば「一生」「都会」「戦争」「国家」「社会」「宇宙」のような広い概念を簡単に表現する事ができる。また、目には見えない人間の心理の微妙な動きを、直接に扱うことが可能になる。
 「客観写生」の歪みは日本人の言語に対する素朴な誤解に起因している。それは言語の概念性を忘れて、言語が或る実体物と単純に対応していると見る誤解である。それをソシュールの研究者丸山圭三郎は「言語名称観(言葉は客観的な事物の秩序に名前=記号を与えたものだとする見方)」と呼んで完全に否定している。確かに言葉がなくても実体物は存在する。触れてみることもできるだろう。しかし、秩序化する以前の自然は、単なるカオス(混沌)でしかない。
 「客観写生」は「言語名称観」を必要十分条件として成立する。虚子は、それとしらずに「言語名称観」の強化に努めた事になる。虚子及びその信奉者達は言語の自明性に胡坐をかいて、一番大事な手段としての言語を検討することを怠った。
 現代の俳句作家が為さねばならないのは言語が現実をそのまま描くことには不向きな手段であるという冷厳な事実を受け入れ、俳句に適した表現方法を考え直すことである。確かに俳句に限らず、あらゆる表現において成否を決定するのはリアリティである。しかしそれはあくまでも描写自体によって判定されなければならない。リアリティは、感覚を呼び起こさせる具象物のイメージによって触発される。特に俳句の場合は、もののイメージを起爆剤として、一つの世界を作り上げる文芸であるからなおさらである。その意味では俳句は「もの」を描く詩であるという先人たちの教えは誤りではない。しかし言語の本質を理解しないと、前述した「倒錯」を免れることはできない。
 言語の本質とは「抽象性」・「概念性」である。極言すればどのように具象的に見える言葉でも、抽象性を免れることはできない。たとえば、「机」といった言葉は、形態ではなく、機能面から抽象した言葉である。また非常に視覚的に思われる、形・色も抽象の産物である。
 この事実は言語発生の目的からも検証できる。言語は自己、あるいは対象の表象を目的とする。しかしもっと重要な目的が存在する。それは混沌とした現実の整序と伝達であり、新しい世界観を編み上げることである。それを丸山圭三郎は「言分け」と呼んだ。もちろんこの場合の言語とはパロール(発話)ではなく、ランガージュ(言語能力・抽象化能力)である。ランガージュによって人間は文化を作り上げてきた。
 この考え方は俳句に新しい可能性を開示してくれる。俳句は現実をありのまま写すものではなく新しい世界観を表明するためにあるのだという俳句観だ。一句例に採ろう。
  
  金亀子擲つ闇の深さかな    高浜虚子
 
 この句から「金亀子」を擲った作者の心情など再現しようとしても意味がない。生物を呑み込み尽くしてしまうような闇を発見した人間の根源的な恐怖を想うべきである。読者として肝心なのは光の従属物ではなく、すべての存在を呑み込んでしまう質量を持った闇をイメージすることだ。
 人間の精神もまたカオスである。故に感性も実風景の場合と同様に言語を離れては存在しない。確かに言語以前の感情はあるだろうが、それだけでは俳句を作る場合にも、読む場合にもあまり役に立たない。勿論、言葉によって心そのままを表すことなどありえない。しかし、言葉によってしか表す事ができないのも厳然たる事実である。
 山崎正和は「劇的なる日本人」で次のように述べる。
  
 考えてみれば奇妙な現象であるが、日本の歌論には伝統的に「心」か「言葉」かという論争がある。(中略)この二者択一は西洋美学からきればきわめて奇異なものであり、もしそれを「内容」か「型式」か、あるいは「素材」か「表現」かという対概念に翻訳するならば、およそギリシア以来問題になり得ない選択だといえる。
 
 古今集仮名序にある在原業平の和歌に対する評を読めばよく分かるが、日本では古来から言葉と心を対置させる思想が連綿と現在まで続いている。俳句でも心に重きを置く評がよく見受けられる。これは言葉と心を分離し、対置させて認識している点で問題がある。言葉に重点を置いたにしろ、心に重点を置いたにしろ、分離を前提にしている事実にかわりはない。このような二元論を離れて言語と精神の不可分性を認識することが肝要である。この二元論が言語の真相を隠蔽してしまう一因になっている。
 
 俳句の抽象性
 今まで見てきたように、言語は具象性より抽象性に本質がある。では冒頭の定義にある「最短」はどのような作用を加えるのだろうか。それはより一層の抽象性である。つまり俳句は抽象の豊かさを利用すべき詩型であると言える。抽象性という言葉は我々日本人にとってどちらかといえば曖昧な、貧困なという負のイメージを彷彿させる。それもまた、「実感信仰」のゆえである。共通した要素を引き出すのが抽象性なのだから、多くの場合を包摂するという長所を持つことになる。
 その点を俳句と同じ出自である、短歌との比較において明らかにしよう。寺山修司の同じ内容を持つ作品を引いてみる。
  
  桃太る夜はひそかな小市民の怒りをこめしわが無名の詩
   
  桃太る夜は怒りを詩にこめて
 
 内容は同じだが、限定性に格段の差がある。俳句では具体的な「怒り」が限定されていない。読者に許されているのは、「桃太る」という具体的なイメージを持つ季語と「怒り」を関連づけることだけである。「怒り」の主体・状態をめぐって、読者の想像が刺激される。つまり俳句では独自の読みの可能性が開かれている。「常識」的な読みに従えば、短歌で詠まれたような情景を再現するしかないが、それでは情報量の少ない俳句の方が不利に決まっている。
 桑原武雄のいわゆる「第二芸術論」に対する俳壇の反応を想起しよう。結社制度批判や俳人の没主体性に対する批判には正鵠を射ている点もあるが、それは俳人に対する批判すなわち現象面に対する批判でしかない。本質的な俳句の詩型に対する批判は「短さゆえに人生を盛る」事ができないという一点だった。作者の「人生を盛ろう」とする事自体が近代文学に共通する誤りであった。なぜならば「作者」が固定観念化され、作品の矮小化を招いてしまったからだ。
 本質を外した批判に対して、虚子派は韜晦し、他の俳人は「人間」を描こうと社会性と思想性に走った。俳句や言語の特質を理解しないで、「自然」あるいは「人間」を描こうとすれば 俳句(言語)不信に陥るのは理の当然である。
 抽象性から必然的に派生してくる要素として多義性がある。特に最短詩型である俳句には多く出現する。なぜならば極端に省略された言葉は、多義的にならざるをえないからだ。しかし多義的に解釈することも忌避されているのが現状である。その態度は俳句の可能性を著しく損なっている。例えば前掲した熊谷愛子の句の場合、一文の主語は一つであるという「常識」が読み手を誤らせる。この句の場合、鰤の頭を断とうとしている作者は自分の首を断つわけだから、作者は断罪者であり、被害者であるという錯綜した関係になる。このオーバーラップ(二重写し)がこの作品の世界を広げている。もう一句例にとろう。
 
  霜の墓抱き起こさるるとき見たり  石田破郷
 
 この句は「霜の墓」と破郷の二つが「見たり」の主語だと考えるべきだ。つまり破郷が霜の墓を見た瞬間、霜の墓(死)から見られているように感じた時の戦慄が眼目の句だ。多義性がイメージの拡散、つまり曖昧さに終わるようでは、問題があるが、オーバーラップは活用すべき方法である。
 
 「読み」の創造性
 抽象性・多義性は俳句本来の性質である。この特質を生かすためには、固定観念を離れた読者の存在が不可欠である。換言すれば俳句は読者が積極的に参加する型の詩型である。しかし現実には、正反対の現象が起きている。
 
 〈読者〉のことなど考えるべきではない、あるいは自分の内なるもうひとりの自分を 〈読者〉に想定すればいいのであって、あえて読んでもらうべき他者を念頭におく必要 がない。そういう意見が現歌壇では優勢である。
佐々木幸綱「作歌の現場」
 
 俳壇でも同様な傾向が見られる。その意識は読者を想定することと、迎合することが同一視されているところから生じ、その結果「読者」の不可欠性が閑却されることになる。。この意識は読者不信、すなわち、作者の孤独を表している。作品はダイアローグ(対話)ではなく、モノローグ(独語)となり、独善・陳腐に陥り易いだけでなく、自作の可能性まで閉ざしてしまう。一方、読者も作品の成立から疎外され、共感するか、否かの鑑賞しかなくなる。この悪循環によって、成熟した「読者」の不在状況が続いてきた。
 この意識を育てたのも、「客観写生」であった。なぜならば「客観写生」の読みは作者の経験・あるいは心情を探し求め、解読することを当然とした。それはダイアローグを否定している。なぜならば作者の経験あるいは意図を読み取ることが要求されるならば作者の優位は確実であり、作者と読者の対等なダイアローグなどは成立するはずはない。
 作者と読者は作品を媒体にしてダイアローグが可能になる。作品軽視は読者無視と同義語である。フィクションを認めるか否かにかかわらず、「作者」がダイアローグの阻害要因になってきた。おそらく子規は作者を前提とした作品鑑賞の弊害を直感していた。そうでなければ句会のシステムがあれだけ匿名性にこだわったものにはならなかったはずである。高柳重信の「作品しか信用しない」覚悟もその危機感の表明であった。
 作者と読者の乖離という悪循環を断ち切るためには「読み」に対する認識の変換が求められる。鑑賞とか批評というものは作品から意味を受け取ると同時に、作品に意味を付与する相互行為にほかならない。
 ダイアローグとモノローグをキーワードとして俳句史を概観すると、俳諧の時代はダイアローグの時代であったといえる。俳諧の場で付け句を通じて、作者と読者は対等であり、相互に創造的でありえた。明治になり子規が俳句と改めることによって、作品のモノローグ化が始まった。私は子規の俳句改革の骨子である、創作の個人化は絶対に必要な決断であったと思っている。しかしその弊害を看過する事はできない。その改善方法として集団創作である、俳諧に戻ることは不可能であるし、また逆行である。
 俳句のダイアローグを復活させるために現在求められているのは創造的な「読み」である。固定観念を離れて作品の世界を読者なりに創造することだ。これは勿論、恣意的な読みとは区別しなければならない。言語の論理性に従った上で、イマジネーションを存分にはばたかせた「読み」である。言語体験が違うのだから、「読み」がくい違うのは当然である。作者や他の読者と解釈が一致しなくても恐れる必要はない。それよりも固定観念に縛られて読み足りないことを恐れなければならない。読者が作品から新しい世界を引きだすことによって、作者と読者の健全な関係が始まる。
 広義でいえば、人間あるいは、取り巻く環境を描くことが文学である。しかし、「作者」を読み取ることが先入観になると、作品を矮小化してしまう結果になる。近代の問題は一言で言えば作者偏重にある。それが作品軽視、ひいては読者不在状況を招来した原因である。その批判としてテクスト中心論が出現した。ただし、それが作品に関して何とでも言える、むしろ様々な風に言ってみることが面白いというだけならばナンセンスである。テクスト論とは人間不在ではなく、人間の新しい可能性を開示する方法でなければならない。
(敬称略)
【参考文献】
 江藤淳「リアリズムの源流」河出書房新社
 中村光夫「風俗小説論」新潮文庫
 佐々木幸綱「作歌の現場」角川選書
 李御寧「蛙はなぜ古池に飛びこんだか」学生社
 阿部完一「絶対本質の俳句論」
 丸山圭三郎「ソシュールを読む」岩波書店
 山崎正和「劇的なる日本人」新潮社
 桑原武夫「第二芸術ー現代俳句について」岩波書店