『明治俳諧金玉集』の考察
 
− 明治中期の俳文芸を伝えるメディア −
 
河合章男
*筑波大学図書館情報メディア研究科
kawai@chiba.email.ne.jp
 
 
本稿は,明治22年に福島県で刊行された句集『明治俳諧金玉集』によって、19世紀末の俳文芸の姿を考察する。本書は、発句ばかりでなく、「歌仙」「和漢行」「漢和の俳諧」「詩題」「詠史」「俳文」などさまざまな形式の俳文芸を掲載しており、これまで研究される機会の少なかった明治中期の俳文芸の姿を幅広くとらえることのできる好資料である。また「オタル(北海道)」から「ヒコ(熊本県)」まで広い地域の作品を収録しており、幾人もの著名な宗匠が序文・跋文を寄せているため、地方俳壇間の繋がりや、地方俳壇と中央俳壇の関係なども考察することができる。本資料の考察によって、正岡子規の俳句革新以前の俳句文化の姿が、より鮮明になると予想される。
 
 
A Study of Meiji Haikai Kingyoku-shu as a Medium of Haikai Arts in the Middle Meiji Era
 
Akio KAWAI
Graduate school of Library, Information and Media Studies, University of Tsukuba
 
The paper presents research into the state of haikai arts in the late 19th century by analyzing Meiji Haikai Kingyoku-shu, which was published in Fukushima Prefecture in 1889. The book includes not only hokku but also other types of haikai-related forms such as kasen, wakangyo, kan'na no haikai, shidai, eishi, and haibun and illustrates a wide variety of haikai literature in the middle of the Meiji Era. The works it contains were written by haikai poets from all over Japan, and many renowned masters of the period contributed introductions and conclusions. Consequently, this book exemplifies the connections between local haikai communities at that time, especially between those that were central and marginal. My close study of the book will shed a new light on haikai culture before it was transformed by Shiki Masaoka's haiku reform movement in the Meiji Era.
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1. 考察の動機
 明治中期の俳諧の流行は、庶民が文字や文芸に接する契機を作りだし、近代読者を生成する一つの力となっていたと考えられる。また、正岡子規の俳句革新も、その背景に、それまでの俳句文化の広がりがあったからこそ、社会的に大きな意味を持つことになったのである。したがって、明治中期の俳文芸の様子や広がりを調査することは、近代俳句や近代読者の成立を理解する上で、重要なテーマである。
 従来、研究の対象とされることの少なかったこの分野も、最近になって櫻井武次郎氏、越後敬子氏による『俳諧開化集』[1]の翻刻が行われ、また越後氏の『明治期俳書出版年表』[2][3][4][5]や、拙論『明治俳書の研究』[6]によって、全体像が明らかになりつつある。
 だが、依然として近代俳句発生期の研究に残された課題は多い。特に、草仮名で刷られた資料についての考察を進める必要を感じる。活字印刷の資料だけからの考察では、近代俳句の発生の状況を語ることはできない。活字印刷された俳書は、当時はまだ俳句メディアのごく一部に過ぎなかったからである。
 そこで、本論考においては、明治22(1889)年に福島県川俣町で刊行された『明治俳諧金玉集』に注目し、明治中期の俳文芸を考察する糸口を探っていきたい。
 『明治俳諧金玉集』は、次の点に特徴があり、近代俳句以前の俳書の性格を備えた資料である。
 (1)草仮名木版刷りの和装本である。
 (2)地方の俳諧宗匠によって編纂された。
 (3)多くの宗匠が、序や跋を寄せている。
 (4)さまざまな俳文芸の形式を掲載している。
 これらのことから、『明治俳諧金玉集』は、近代俳句が現れる直前の、いわゆる旧派俳諧の実態を知るための資料として有効だと考える。
 
2.『明治俳諧金玉集』の概要
2.1 『明治俳諧金玉集』書誌
 『明治俳諧金玉集』は、岩代の国(福島県)の渡辺桑月によって、明治22(1892)年11月9日に刊行された句集である。まずこの本の書誌の概要を記す。書名や引用文中の漢字は、できる限り常用漢字体で示すことにする。
 書名中の「明治/俳諧」(「/」は改行を表す。以下同様)は角書であり、外題、内題とも書名の表記は変わらない。
 奥付には、まず「明治二十二年十一月九日印刷出版 正価金六十銭」とあり、編集人は「岩代国伊達郡川又町 渡辺桑月」、発行人は「同国同郡同町 渡辺弥一郎」、印刷人は「東京市京橋区本材木町三丁目十八番地 埜嵜於菟二郎」と記されている。乾・坤の合本の形をとり、縦19cmの和装四つ目綴で219丁。表紙は青色で、白色の題筌が左上に付され、「明治/俳諧 金玉集 乾/坤 合冊」と書かれている。
 また本の外側を包む包紙があり、右に「真風舎桑月宗匠編輯」、中央に題筌と同じ書名、左に「岩代国伊達郡/川俣町 渡辺氏蔵版」と記されている。奥付で「川又」であった町名が、包紙では「川俣」になっている。また、印刷所の屋号が「崎の家」と記されている。
 現在判明している限りでは、国立国会図書館、天理図書館綿屋文庫、福島県立図書館、俳句図書館鳴弦文庫が所蔵している。別に『明治俳諧金玉集附録人名簿』(真風舎渡辺桑月編・岩代川俣町・編者蔵板・明20.01)があるが、前掲の『明治俳書の研究』の目録によれば、これを蔵するのは綿屋文庫のみである。
 「乾の部」は発句類題集であり、月ごとに季題をまとめている点に特徴がある。
 「坤の部」には、「俳諧連歌の部」「詩題の部」「詠史の部」「祖神祭文吟抜萃」「神祇の部」「釈教の部」「恋の部」「無常の部」「前文附発句の部」「俳文の部」「賞詞の部」という部立があり、「俳諧連歌の部」はさらに「脇起」「独吟」「和漢行」「漢和の俳諧」「表八句の式」などが小見出しとして立てられていて、当時の俳文芸の形式を可能な限り掲載しようとした意図が感じられる。
 「乾の部」末には、「真風舎桑月撰并書」と記されており、文字も桑月のものであるようだ。
2.2 編者について
 渡辺桑月については、『福島縣俳人事典』[7]に次のように記されており、編者の桑月と発行者が同一人物であることが分かる。
 
川俣。渡辺弥一郎。真風舎と号し、書画もよくした。弘化三年九月九日生、明治四十一年七月十三日没。六十三歳。「明治俳諧金玉集」の著がある。
日のめくるたけは薫るや稲の花
 
 また『明治俳諧金玉集』について、『川俣史談』[8]第5号(昭和53年6月)及び第6号(昭和54年7月)に掲載されている五十嵐津根氏による「達南俳壇史」の(四)及び(五)に短い考察がある。その(五)に、桑月についての記述があるので引用する。
 
桑月宗匠は渡辺弥一郎、幼名は矢一、真風舎と号す、弘化三年十月二十三日生れ、本籍は新中町六十番地、今の斎藤武雄氏港屋機業場のところである。川俣町役場の戸籍台帳にあり後で三番地上の方に移り綿屋と称したと生前中の古老佐戸川弥市氏からきかされた。御逝去は明治四十一年九月十六日午前七時六十三才、東京に移住後死亡された。この金玉集を発刊した当時は四十三才の壮者であった。
 
 前の資料とは誕生も死亡も月日が異なるが、どちらが正しいかは不明である。『明治俳諧金玉集 付録人名簿』の奥付に「岩代国伊達郡川俣驛中町六十番地」とあるから、住所はこれで正しかろう。
 前掲の『明治俳書の研究』の目録によれば、桑月の関わった俳書として、次の資料が残されている。
 
 明17序『たむけくさ』桑月編             岩代 川又町 編者(文音所)
 明18.03『おきなの松』氏家又治郎・桑月共編       東京 直久於菟二郎(彫)
 明20.01『明治俳諧金玉集 付録人名簿』桑月編     岩代川俣町 編者蔵板
(明22.11『明治俳諧金玉集』)
 明26.05『常陸三十六歌仙集』壷山堂樵翁編 桑月題句  常陸小田村 大曽根惣平
 明30.07『明治俳諧征清日本の光』 桑月編       東京 真風舎
 明31  『長寿集』清籟軒国分瓦全編・桑月序
 明31.04『しくれ空集』双春居壁谷兆左編 桑月跋    福島文珠村 編者(文音所)
 明31.06『香散見草』此水観娯水(信田伝次郎)編 桑月閲 東京 吉川等
 明32.07『ねしろくさ』夕陽亭沖藤村編 桑月序     山形谷地町 編者(文音所)
 明33 『御かけ集』阿部素鳳編 桑月序       山形町谷地村 編者(文音所)
 明34.03『都の反古』桑月編  東京 編者刊
 明36.02『俳諧一千題発句集』佐久間源治編      桑月閲 福島松沢村 佐久間源治
 
 明治18(1885)年に刊行された『たむけくさ(手向草)』には、幹雄に対抗する立場にあったはずの教林盟社社長橘田春湖が、幹雄と題句を並べている。だが、このころから桑月は、活動の基盤を明倫講社においていたようだ。明倫講社の機関誌である『俳諧明倫雑誌』[9]の明治17年10月号には、広告欄に、「兼題・翁の松」の和歌・発句を募集する記事があり、そこに「編集人 渡辺桑月」と見える。
 また同誌の明治18年5月号には、桑月が、「補訓導」に任じられたという記事が掲載されている。桑月が、明倫講社公認の指導者になったということである。同年の3月号には、「予上京するにあたりて諸氏懇に車を連ねて応歌子の許まて送りたまひしを謝して」という前書きで「深切のいろみえにけり針の梅」という句が掲載されており、また先の5月号には、深川公園で「空也の踊躍念仏」を見たときの「うたてさや見る物にして鉢叩き」の句が載っている。『明治俳諧金玉集』刊行時の桑月の住所は、まだ岩代になっているのだから、この上京は、「補訓導」を受けるための一時的なものと考えてよいだろう。
 京都の上田聴秋が出していた『俳諧鴨東集』[10]の29号(明治19年刊)には、付録の「諸家新詠の部」として、等栽、幹雄に次いで3番目に「鳰の巣や風ハ声より吹もるゝ 岩代 桑月」の句が見える。一流の宗匠の扱いである。『明治俳諧金玉集』の句を募集する頃には、すでに全国的に名を知られた宗匠だったことになる。
 さらにこの句集刊行後は、俳壇における地位をいっそう高めたとみえ、市川一男は、その著『近代俳句のあけぼの』[11]に、桑月の名が、先述の『俳諧鴨東集』を改題した『俳諧鴨東新誌』に、「大日本八大宗匠」の一人として挙げられていることを記している。明治24年のことであるようだ。聴秋は、点取俳諧の宗匠として関西で活躍していた俳人で、この『明治俳諧金玉集』の跋も記している。
 『俳諧明倫雑誌』明治24年1月号「諸家新声」欄には、「岩代桑月子は伊勢参宮より吉野の花に心さし諸国漫遊のよしなるか我去年の春旅せしことを思へは悲しき事もあれと又楽みも多く其情のへかたし尚子か行を思ひやりて」という長い詞書を付した磐城の如水という俳人の句「雪の道ふめと吉野は花の山」があり、そのほかにも、桑月を壮行する俳句4句があり、このころの桑月の活躍ぶりを知ることができる。
 明治30年刊の『明治俳諧征清日本の光』の発行が「東京 真風舎」と記されていることから見て、この時点で桑月が上京していたことは確かであろう。おそらく明治20年代の後半に上京したのであろうが、それはまさに正岡子規が俳句革新を始めた時期と重なる。
 その後桑月は、東京でいくつかの句集に関わるが、それほどの成功を収めた様子も見せず、明治41年、桑月は63歳で他界する。旧派俳諧の時代の最後に登場し、時代の転換期に埋もれていった宗匠だと言えるであろう。
2.3 『明治俳諧金玉集』の成立
 「達南俳壇史(五)」には、「桑月宗匠は四十三才正風俳諧を生命として真摯に全国からの応募作品を撰別し金玉集の大冊を出版した」と記されている。この記述を信じるならば、この句集の作品は、いわゆる俳句興行によって集められた作品だったことになる。
 だが、俳諧興行の応募作品だけでは「坤の部」の俳文やさまざまな俳諧文芸の形式をそろえることはできなかったと考えられ、「坤の部」については、書簡等によってさらに全国の宗匠の作品や文章をあつめたのではなかろうか。
 明治17年頃から明倫講社を基盤として活動していた桑月は、18年には「補訓導」という立場になって、全国的にも名を知られるようになる。
 そこで桑月は、全国から俳句を募集する俳句興行を行い、その作品をまとめて『明治俳諧金玉集』を編み、また、その参加者名簿を刊行して記念としたということであろう。
 だが、句集の刊行は、決して容易な作業ではなかったようだ。『明治俳諧金玉集附録人名簿』の刊行が明治20年1月であるのに対し、『明治俳諧金玉集』の刊行は明治22年11月である。名簿には、「乾の巻」だけでなく「坤の巻」の参加者も記されているから、明治20年の始めには、もうこの句集の全容ができあがっていたことになるが、そこから『明治俳諧金玉集』の刊行までに、2年以上の歳月を要している。
 全国からの応募作品を、季語別、月別に分類し、そこに数々の俳文芸を加えて出版しとなれば、それはかなり大がかりな編集作業であったことだろう。作品の募集から、名簿の完成までに1年を要したと仮定すると、4年の歳月を費やした事業だったわけである。
 
3.『明治俳諧金玉集』の内容
3.1 序・跋等
 まず、杉聴雨と山岡鉄舟二人の題字が、それぞれ一丁ずつを使って掲げられている。
 杉聴雨は、本名を杉孫七郎といい、長州出身の子爵で、皇太皇后太輔を勤めていた。明治天皇に書を教えたと言われる。明治9(1876)年、天皇の東北御巡幸に同行しており、そのときの句「月や空世のうきことも信夫山」の句碑が福島市の信夫山に残されている。題字は「壷中/乾坤」で、二文字ずつ表裏に記されている。
 山岡鉄舟は、天保7(1836)年に江戸に生まれた幕臣で、無刀流の創始者として知られる。維新以後は子爵となり、明治天皇の侍従を務めた。前名が小野高歩(たかゆき)で、この題字の落款のひとつも「山岡高歩」と彫られている。題字は、表に「友月/交風」と大きく記され、裏に「為渡寒葉は/雅人清噪」とある。鉄舟は明治21(1888)年に死去しているので、これがこの句集のための依頼による揮毫だったとすれば、最晩年の筆跡ということになる。
 続いて三人の序文と一人の序句が続く。最初は、岩代の宗匠、桃樹園三千俊である。この人について詳細は不明だが、「達南俳壇史(四)」によれば本名を菅野孫一といい、川俣町の出身だという。序には、桑月の師や実績について具体的な記述があるので、全文を示す(「□」は難読文字。以下同様)。
 
序 棉和/精風(印刻)
鸞鳳は卵のうちより鳴声諸鳥に/すぐれ栴檀は二葉にして清声を/発すと宣なる哉吾桑月子其/性質怜悧にして孝義おこたらす/和漢の書籍を柳生寛斎武藤貞秋/の両大人に学ひ是に加ふるに書を能し/吟を尽く俳諧を翫ひては咳唾皆玉噴/?是声し故に桃李ものいはすして下に蹊をなし其門に遊ふもの少なからす実に出藍の潔き浪の中の璧と称すへし爰に明治十七年の秋には手向艸てふ一小冊を綴りて同志の諸子に贈り又の年は翁の松といへる本を編輯して普く世に知らる又は門徒の需に応して諺問答を述て大家の称賛を得たるなと皆人のしる所なりこたひ俳書金玉集を編みていよいよ正風の長く無に朽さらむ事を希ふ?桑月子の志気さかむなる哉僕三千俊に此巻のはしめに一言添よと強にこわるゝものから辞みかたく子か いな/功績の概略をあけて序に換ふと云爾
 ?明治十九年季夏
桃樹園三千俊述
齊景池真澄書
        [菊/□] [澹/齊](印刻)
 
 文中にある明治17(1884)年の『手向草』、18(1885)年の『翁の松』は、いずれも綿屋文庫等に残されている。なお、三千俊は『手向草』の序も記している。
 序の二人目は、東京の宗匠三森幹雄である。文政12(1829)年、陸奥国中谷(福島県石川町)に生まれ、江戸に出て11世春秋庵となった。通称寛。幼名菊治。別号は多く、静波、樹下子、笈月山人、不去庵、天寿老人、桐子園、香南居などを名乗った。明治7(1874)年、俳諧教導職となり、明倫講社を結成して、明治13(1880)年から『俳諧明倫雑誌』を刊行。門弟3000人に及んだと言われる。明治43(1910)年に没した[12]。序文の日付は明治19年11月であるが、すでに幹雄の中央俳壇での地位は確立しており、序は、同郷の宗匠という立場ではなく、中央俳壇の中心人物としての距離を置いた書きぶりである。後に正岡子規ら日本派の俳人は、旧派の俳諧を批判するときによく「月並臭」などという言い方をするのだが、ここでは「悪臭」という語が使われていて興味深い。
 
物に名をかふらせて能生応せむ/事容易しとせす岩代の桑月子/発句をあつめて此物をつくり/金玉集と題す予聞て名の過/たらむやうに思はる故に是を/とりて一読するに或は腮を/解くものあり或は涙をこほさし/むる物あり続て形の見ゆる物/あり続て懐を亡ふ物あり森/羅万象集中に尽ささるはあら/すも詩二百篇何そ数かふに/足らむや実に俳諧は万葉/集の姿なり詞林金玉の好人/にして塵なく悪臭なく撰/すの志しをみるにたれり嗚/呼余か思ひ過てりといふ事/を書て此集の序となすのみ/明治十九年十一月/香楠居主人述 幹雄(印刻)
 
 三人目は、東京の俳諧宗匠、桂花園桂花(天保元(1830)年〜明治32(1899)年)である。本名を幸島正一郎といい、遠江国掛川の人で、江戸に出て日本橋の富豪となった[12]。
 
夫質朴深切にして不易の風雅を導/き骨格和順をもて流行の世情に/あはせ能親交を全たからしむるは我正風/の俳諧ならんかされとも物久しけれはやふると/蕉翁去りて既に二百年風宿の数/いつとなくへたたり露杖の闇おのつから/遠さかりて或はのりをこえ博を放つの/恐なきにしも非す迚貴賤と親疎を/撰はす是を如才にかたらひ金を/票水の流に得玉を潤木の山にもとめ/てここに明治の一大集を編せるは八千/代の苔むすてふ岩代国川俣なる真風舎主人也/かくて其よしを予に示して巻のはしめに/記せよといはる辞せんとすれは紫雪の深意/に悖り応せむとすれは瑟この集中に/愧つよて有のままをことみしかにのへて/たた其光輝を讃美するのみ/東京 幸嶌桂花 桂花/園(印刻)
 
 序に続いて、東京の点取俳諧の人気選者であった夜雪庵金羅が題句を寄せている。夜雪庵金羅の名は代々受け継がれた俳名で、この金羅は四世である。四世金羅は天保元(1830)年、江戸に生まれ、本名は近藤栄次郎。三世金羅門で、初め珍斎其成を名乗った。別号三万堂。「白雪連」と呼ばれる一門を率いた。明治27(1894)年に没している[12]。『明治俳諧金玉集 付録人名簿』の「標目」には、この題句も「序」とされている。
 
  [思古印](印刻)
かくつゝられし/渡辺雅兄の丹精を/惑して           夜雪 [金][羅](印刻)
 此国の実に/金玉よ/桑の月
 
 三千俊と幹雄を除いては、自筆の文字と思われ、当時の宗匠の書風を知ることもできる。
 このあと発句の類題集が123丁表まで置かれ、「乾の部」の最後には何の標題もなく、次の文章がある。桑月の自跋と考えて良いだろう。
 
陶淵明は菊の隠逸/なるを愛し周茂叔は/はすのいさきよきを/賞す世の人大かたは/牡丹の富貴をこのむと/いへともわれはまた/こえこゝにとゝめて/めつる桜かな 桑月
 
 「坤の部」の最後には、宝屋鈴木月彦、弄月園庄司?風、声画庵東旭斎、不識庵上田聴秋、陶水園星楓、桃井園文彦という六人の跋文が置かれている。いずれも自筆のようである。
 鈴木月彦は、文政8(1825)年、江戸に生まれ、明治25(1892)年3月20日に没した俳諧宗匠である。東杵庵四世・宝廼屋、吏登庵、紫花園、素学堂、言霊道人などの別号を持ち、はじめ鳳朗門。後に顧言門となり、明治7年に俳諧教導職となった[12]。
 庄司?風は、天保5(1834)年に生まれた秋田の豪農で、明治38(1905)年2月28日、没した。馬山、弄月園、涼斎の別号を持つ秋田俳壇の中心人物であった[12]。
 東旭斎は、文政5(1822)年の生まれ。下総国香取郡多田村の農家で、明治30(1897)年7月5日に没した。本名胤孝。通称善太左衛門。別号は、声画庵、無耳坊。はじめ同郡押砂出身の丁知に入門。のち由誓門。朝日社と称する一門を率いた[12]。幕末、明治期の下総俳壇の中心人物である。
 上田聴秋は、嘉永5(1852)年、美濃に生まれ、昭和7(1932)年1月17日まで生きた。不識庵、花の本11世などの別号を持つ。芹舎門で、明治17(1884)年、京都で「梅黄社」を興し、前述したように『鴨東集』(のち『俳諧鴨東集』『俳諧鴨東新誌』)を創刊した[12]。
 陶水園星楓と桃井園文彦は、岩代の俳人である。最初の月彦の跋を示す(文中の「/\」は、2文字分の畳字を示す。以下同じ)。
 
道端の木槿も古池の蛙も心ある人に
愛されてこそをかしとも淋しともうたはるゝ/かひもありなめ此道や蕉翁にひらけて/元禄宝永年間の盛なりしより文化/文政の頃ます/\行はれ明治の今に至て/いよ/\開明に進歩して古に遡る風姿/少からねはとて玉の声有る又こかねの/ひゝきある句とも文とも余多指とられて/金玉集成りぬ是は岩代の桑月詞兄か/□藻の書に富□学に疎からさるいさをと/いふへし世に明はやる名をもとめ利をむさ/ほるの類にはあらすてたゝ造物主の無尽/蔵を千載不朽に備へ猶風交を広く/厚からしめんと承り賛成者の壱人求に/座して其ゆゑよしをかくなむ/十九年夏 権少□正月彦 たから/のや(印刻)
 
 これらの序や跋から、桑月の構想の大きさが見えてくる。桑月は、明倫講社の人脈を利用して、岩代と中央俳壇とを結びつけようとしたのであろう。著名な華族や宗匠の文章を、これだけ集めるということはそう簡単な作業ではなかったはずである。それを成功させたのは、明倫講社の人脈だということができよう。夜雪庵金羅は、東京の点取俳諧の人気選者であって、思想的には俳諧の正常化を唱える三森幹雄とは相反する立場のように思われるが、実際には金羅もまた明倫講社の役職を担う人であった。
3.2 「乾の部」の内容
 「乾の部」は発句の類題集で、1丁から123丁までが充てられ、1丁の表裏それぞれ13句が記されている。
 先述したように月別の編纂だが、1月は「陽暦歳旦の部」と「陰暦歳旦の部」に分けられている。頭注に示された題数と句数は[表1]のとおりである。
[表1]<『乾の部』の句数>

         題数   句数
  陽暦歳旦の部  65   205
  陽暦歳旦の部  83   420
   2月の部    44   158
   3月の部    48   183
   4月の部    72   357
   5月の部    65   195
   6月の部    68   219
   7月の部    99   378
   8月の部    77   250
   9月の部    31   113
  10月の部    94   402
  11月の部    33   138
  12月の部    10    22
  歳旦の部    39    94
  合計          3,134

 「陽暦歳旦の部」には、「一月・一日・初御空・初雲・初鶏」などが並び、「陰暦歳旦の部」には「御代の春・立春・正月・太郎月・睦月
・元日・国の春・花の春」などが並んでいる。
「一月」を陽暦に入れ「睦月・立春」を陰暦に収めるなど納得できるものもあるが、「掛鯛・結昆布」が陽暦で「削掛・破魔弓」が陰暦など基準のよく分からないものもある。陰暦歳旦には「余寒・春の雪・冴え返る・霞・陽炎・春風・恋の猫・鶯」なども含まれていて範囲が広い。陽暦には「陸軍始め・海軍始め」などという江戸期にない季語が掲載されている。
 これに加えて、「坤の部」に「四季混題追加の部」があり198句が掲載されている。「陽暦歳旦の部」の「一月」の句を示す。
 
一月となるやおもふや雪の松  東京 等栽
やりとりや一月ものゝ掛ふくさ ウコ 口金風
一月やよそて暮してかへりかち ナカト満斉
一月やさふき中にもおもしろみ 遠江 探松
一月や雪みて遊ふつれも来る  西京 九岳
一月や同し寒さも別こゝろ   陸前 岐山
一月やはな/\しくも木々の雪 イハキ 桃壺
一月やはや春めきし門柳   イハ代 菊露
ゆつくりとして一月の寒かな  イハ代 枯山
一月やなんと名つけん鼠の子 ウセン 五鳳
 
 俗事が多く取り上げられており、理屈の句が多い。また情景の句は平凡で説明的であるように見受けられる。正岡子規が「月並調」と名付けた俳諧の特徴を備えていると言えよう[13]。
3.3 「坤の部」の内容
 「坤の部」には、「俳諧連歌の部」「詩題の部」「詠史の部」「祖神祭捧吟抜萃」「神祇の部」「釈教の部」「恋の部」「無常の部」「前文附ほ句の部」「俳文の部」「賞詞の部」「唐うたの部」「やまとうたの部」が掲載されている。
 「前文附ほ句の部」には、前文が二十行を越えるものもあり、俳文の範疇に入れられるものかもしれない。
 「連歌俳諧の部」はさらに、歌仙、半歌仙、六韻、「脇起五十韻」「五十韻独吟」「和漢行」「漢和の俳諧」「表八句の式」が掲載されている。
 百八十九丁からは「四季混題追加の部」で、発句198句と、4つの「六韻」が置かれている。
 次に「俳文の部」として、最後に発句を置いた文章が19話掲載されている。
 さらに、この句集の刊行への祝辞である「賞詞の部」があり、その中に「唐うたの部」「やまとうたの部」「ほ句の部」がある。
 こうした編集については、目の前にある作品をただ並べたということではなく、さまざまなスタイルの俳文芸を、網羅的に掲載しようという編集意図によるものと考えるのが妥当だろう。
 管見の限りでは、ここまでの網羅性は、江戸期にも明治期にも他に類を見ない。桑月は、時代の推移を感じ取り、こうした文化を記録する必要を感じたのであろうか。それとも、このような文化が、近代という時代に淘汰される可能性をまったく顧みなかったために、継続を信じて、こうした俳書を残したのであろうか。今となっては、桑月の意図を知るよしはないが、こうした俳諧百科全書ともいうべき編集の俳書が、まさに正岡子規による俳句革新の直前に現れたことの意味を考えてみる必要はあるだろう。
 さらにまた、このような、ある意味では大変豊かな俳文芸の多様性が、近代という時代にどのような様相で消滅していったのだろう。
 こうした問題意識を持ちつつ、以下、それぞれの項の概要を示し、子規の近代俳句登場以前の俳句文化の実像を見ていくことにしたい。
3.3.1 俳諧連歌の部
 「連歌俳諧の部」には、二十二の歌仙、十三の半歌仙、六韻が一、「脇起五十韻」「五十韻独吟」「和漢行」「漢和の俳諧」「表八句の式」がなどが掲載されている。以下、その種類別に概要を述べる。
3.3.1.1 俳諧連歌
 歌仙を中心とした俳諧である。「俳諧」と略さず、「俳諧連歌」と記述している所に、この本の編者の意識がかいま見える。正式な書を残そうとしたのであろう。
 124丁から161丁までに、歌仙18、半歌仙9、6韻1、五十韻2(独吟1)が置かれ、残りは、この後の諸形式の中に散在する。
3.3.1.2 和漢行
 俳諧連歌の一種で、五七五と七七の和の行の間に、五言の漢詩句が入る和漢連句のうち、五七五の発句で始まるものを「和漢行」という。161丁に歌仙1編が掲載されている。現在では、ほとんど目にすることのない形式である。発句から五句目までを示す。
 
 名月の水をはなれぬ光り哉  東京 松江
  過雁雲共連         、 潭龍
  樵歌霧動達         、 幹雄
  かくれ陶子の持おもりする     江
 梅干の乾く匂ひのするあつさ     龍
 
 東京の宗匠たちだけによる作である。しかし、こうした文芸が東京の宗匠たちだけの文化でなかったことは、次の「漢和の俳諧」を見れば明らかである。
3.3.1.3 漢和の俳諧
 和漢連句の漢句で始まるものである。164丁、165丁に歌仙1巻が掲載されている。これも現在は目にすることの少ない形式である。7句目までを示す。
 
寒梅会微笑            尽誠堂
鯉の鰭ふる小はる日の池       桑月
よりかゝる机に鰓と持あけて      堂
 ?盛衰自知             月
 弾琴孤月下             堂
 団扇もいらぬ秋風の吹        月
 陸よりも鹿島祭りは舟かよし     堂
 
 地方の宗匠であった桑月もまた漢句を作っている。俳諧宗匠であれば、当然の行為であったのだろう。
3.3.1.4 表八句の式
 165丁裏に、「表八句の式」と題されたものが1編置かれている。「表八句」は百韻懐紙の表に記す8句であるが、この句集に「百韻」は1編も収められていない。すでに長すぎる形式になっていたと考えられる。せめて冒頭の8句の付け具合を楽しみ、またその様式を伝えようとしたのであろう。四句目までを示す。
 
豊かさや降積雪もとしの花       桑月
をり/\注連にかゝる遣り羽子 エチコ  可雪
佐保姫の歌を色紙に書き初て   、   松雨
 雲井はるかに響く鐘のね    、   雪湖
 
 この項の立て方から、この句集には、実際に行われていた様式だけが採録されていると考えてよいだろう。もし、懐古的に様式を揃えようとするのであれば、百韻なども無理をしてでも作り上げて採録したと考えられるからである。
3.3.2 詩題の部
 173丁から174丁に、漢詩の題によって作られた発句20句が載せられている。冒頭に鈴木月彦の作が二句掲載されているので、それを示す。
 
 春日偶成
蝶追ぬ指へき草は指すして   東京 月彦
 落葉無行路
踏わけしほとはあとより散紅葉  、
 
 俳諧の文化と、漢詩の文化とがこのような形で交流していることには注目する必要があろう。俳諧によって文字文化に接した庶民が、こうした活動から漢詩、漢文の文化に接していくということもあったと考えられる。
3.3.3 詠史の部
 174丁から177丁に掛けて、歴史上の人物を素材とした発句40句が掲載されている。冒頭の2句を示す。
 
 和気清麿
しら梅のものに汚れぬ白さ哉  東京 幹雄
 佐藤忠信
嵐よりはけしよしのゝ花吹雪 ブセン 晩節
 
 「詠史」は、明治期の他の資料にもよく見る形式である。雑誌等が募集する俳句の形式として人気があったようである。俳文芸が、周辺のさまざまな文学形式と関係を持とうとしていた様式であったと言えるのではないか。
3.3.4 祖神祭捧吟抜萃
 177丁裏から178丁に掛けて、「祖神祭吟抜萃」と題した発句14句が並んでいる。いずれも冬の句で、時雨の句が多いところから、これは地方の祖神を祭る行事ではなく、芭蕉の忌日(時雨忌)における「捧吟」であると考えられる。冒頭の3句を示すが、2句目に「十二日」とあるが、時雨忌は陰暦10月12日であり、このことからも、この「祖神祭」が時雨忌であることは明らかであろう。
 
笠に着る烏帽子や足は時雨折  東京 月彦
なつかしむ枯尾花也十二日  ヤマト 水石
今日うれし笑ふほとなる朝時雨 イセ 杲想
 
 なお、芭蕉は、「祖翁」と呼ばれることが多いが、明倫講社の機関誌『俳諧明倫雑誌』では「祖神」という呼称は通常のことである。また、この雑誌の明治16年3月号に、角田竹冷を会長とする「俳諧同盟」発起の記事があるが、その会の「誓約書」中にも「祖神」の呼称が使われている。この時代に、少なくとも明倫講社に関わる人には一般化していた呼称と考えられるが、それ以前の用例については不明である。
3.3.5 神祇の部
 178丁に、神祇に関わりのある語彙を含んだ句7句が掲げられている。冒頭の1句を示す。
 
月花とよふを和布刈の神事哉  ナカト 梅宿
 
 「和布刈(めかり)」は下関市一の宮の住吉神社、北九州市門司区の和布刈神社(旧称早鞆(はやとも)明神)で行われる神事で冬季の季語。他に「靖国」「やしろ」「鷽かへ」「鳥居」「北野」「奉納」などの言葉が詠み込まれている。
3.3.6 釈教の部
 178丁裏から179丁に、釈教に関わる発句が6句記されている。いずれも季語を含む発句である。冒頭の1句を記す。
 
親ありときけはなつかし鉢叩 ミチノク 歴岱
 
 「鉢叩」は、ここでは空也念仏をして歩く半俗の僧で、空也忌から大晦日まで歩くことから冬の季語とされる。他に、「木魚」「仏」「尼寺」「放生会」などが詠まれている。
3.3.7 恋の部
 179丁に、恋の句が6句掲げられている。いずれも季語の入った発句である。最初の2句を示す。
 
何人の手活盛筒の玉つはき    東京 月彦
雪の竹積る思ひを折るゝ竹   ナカト 為斎
3.3.8 無常の部
 179丁の後半に4句並んでいる。冒頭の永機の句を示す。
 
穂すゝきや心に留る塚の影    東京 永機
 
 なお、この「無常」や、前掲の「神祇」「釈教」「恋」などは、俳諧の「表八句」や「表六句」には詠まれない題材である。
3.3.9 前文附発句の部
 179丁裏から189丁まで、前文を付した発句が71編掲載されている。前文は、1行のものから23行に及ぶものまである。23行のものは編者桑月のものである。冒頭の句を示す。
 
 一品親王有栖川宮の御前に/講をつとめて
  はつ蝉や艸をはなれて聞れ顔 東京 月彦
3.3.10 俳文の部
 前項に続いて「四季混題追加の部」があり、発句が7丁ほど続き、短い連句などの付け加えがあって、198丁から214丁までは「俳文」が20編掲載されている。ほとんどが初めに題を記し、最後に発句を置くという形をとっている。形式から見れば、前項の「前文附発句」の内の前文の長いものと区別しがたいものもある。作品の掲載は省略する。
3.3.11 賞詞の部
 214丁裏から215丁裏までは、この集の発行に寄せられた漢詩、和歌、発句が掲載されている。まず桑月の前書きがあり、文中に「ほ句はいうもさら也からうた大和哥をもて称へことを玉はりけるはいとも/\はつかしきことになむありける」などとあって、「唐うたの部」は3人の詩を3首、「やまとうたの部」は、9人の和歌(短歌)10首が掲載され、「ホ句の部」では12人の句が詞書とともに掲載されている。
 「達南俳壇史(五)」は、この和歌の作者のうち菊地真澄と酒井さと子の二人を川又(川俣)の人と説明している。菊地については「川又の書道の先生で二本松藩出身の士族、大きな墓碑が常泉寺東方の中ほどに立派に建てられてある」とある。また酒井は「塩屋四郎右ェ門の娘現在瓦町の司法書士酒井東助御夫婦達のおばである」と記述している。他は「常陸」の歌人が多く、五人が掲載されている。
3.4 句集の参加者
 この句集の参加者については、前述したように、『明治/俳諧・金玉集附録人名簿』によって確認できる。この名簿は『明治俳諧金玉集』と同様の大きさで和綴であるが、内容は明朝体の活字印刷である。「明治俳諧金玉集乾坤弐部標目」と題された目次の次から、16丁まで丁が記されている。名簿は地域ごとにまとめられ、俳号、住所、本名が記されている。本名の左に庵号の書かれている参加者もいる。各地の著名俳人の名も多く見えるところから、それらの人々の住所や本名を知ることができ、当時の俳人の広がりや、居住地を知ることができる好資料となっている。掲載されている順に、地域ごとの参加者数を数えると、[表2]のようになる。
[表2]<『明治俳諧金玉集』への参加者>

 東京 68    西京 13    大阪  7
 兵庫  1    大和  2    武蔵 35
 上総 10    下総 47    常陸 43
 磐城  8    岩代 89    陸前 21
 陸奥 13    北海道 5    羽前 10
 羽後 15    越後 25    信濃 11
 甲斐 10    相模  2    遠江 13
 駿河  3    伊賀  3    伊勢  5
 尾張 12    三河  2    横浜  2
 阿波  3    能登  3    安房  2
 肥後  1    美濃  1    美作  2
 近江  7    上野 17    下野  9
 伊予  6    讃岐  3    加賀  1
 紀伊  2    石見  1    土佐  1
 豊前  2    豊後  3    備前  3
 備中  1    越中  2    長門  9
 出雲  2    播磨  1    佐渡  8
 長崎  1    伯耆  1    因幡  1
 但馬  1    丹波  1    周防  1
 筑後  1   

 参加者は全国に及んでいることが分かる。幕末の戊辰戦争などの戦いで、桑月の住む岩代とは立場を異にした長門(山口県)や羽後(秋田県)からの参加者も多い。
 
4. 明治中期の俳句文化
 本章では、前章までに見てきた『明治俳諧金玉集』の姿に基づいて、明治中期の俳句文化を考察する。
4.1 和装俳書の変遷
 本書は、草仮名木版刷りの和装の句集である。明治22においては、その形態は通例のことであった。明治期の俳書を多く所蔵している国立国会図書館の『国立国会図書館蔵書目録 明治期 第6編 文学』[14]、及び天理大学附属天理図書館の『綿屋文庫連歌俳諧書目録 第二』[15]によって、明治19年から26年の間に確認できる洋装の資料の数を、次の[表3]に示す。
[表3]<洋装の俳書数>

  明治18年  55件中 0件   0 %
  明治19年  26件中 0件   0 %
  明治20年  40件中 0件   0 %
  明治21年 126件中 5件  4.0 %
  明治22年 142件中 4件  2.8 %
  明治23年  82件中 4件  4.9 %
  明治24年  60件中 6件  10.0 %
  明治25年  91件中 30件  33.0 %
  明治26年  97件中 34件  35.1 %

 雑誌資料を含まない目録であるためもあるが、明治20年代に入ってもなおしばらくは、和装が多数派であることは明らかであろう。
 また、明治25年から、洋装の俳書が激増していることも分かる。それらは、まだ子規の著書ではない。明治25年は、子規が新聞「日本」に俳論を連載し始めた年である。つまり、子規にわずかに先行して、俳句文化におけるメディアの変化は始まっていたのである。
 本資料は、この[表3]の初めに企画され、募集されて、22年に刊行、その後読者の手にわたって読まれた。まさに、洋装俳書が普及し始める直前のメディアだったことになる。
 いうまでもなく、洋装本のほとんどは活字印刷であり、和装本のほとんどは、草仮名の木版印刷である。その違いが、俳文芸の内容に及ぼした影響も考えてみる必要がある。
 前述したとおり、本資料の「印刷人」は、東京の埜嵜於菟二郎であるが、筆跡は桑月自身のものである。やはり筆耕の職人ではないから、丁ごとに文字の違いがあり、いささか集中力を欠いていたのではないかと思われる丁も多い。また、序や、跋は、それぞれの書き手自身の筆跡で、決して読みやすいものではない。「達南俳史」の著者もそのことに触れ、苦労して読んだことを記している。そうした事情は、刊行当時からあったのではなかろうか。
 おそらくこの時期の草仮名の俳書は、読みやすいことが重要なのではなく、文化的価値として、そのように書かれていることが重要だったのであろう。金属活字印刷が登場してからの木版刷には、そうした意識が強く働いていたと予想される。参加した人々は、自分の作品を読者が読むという喜びのほかに、桑月宗匠の手で自分の句が書かれているという喜びを持ったのではないか。
 そうであるならば、そこには、作品個々の文学的な価値以外の価値観が混在していたことになる。子規に「月並」と呼ばれた作品は、そうした価値観によって記載されていた可能性がある。とすれば、それらを近代俳句と同じ価値の尺度で評価することはできないだろう。
 活字印刷の俳書は、個々の作品を、はっきりとすぐ読めるものにした。いわば、文字というメディアが、より透明になったのである。そのことによって、作品の内実を検討する「近代俳句の読み」が、形成されたとも言えるのではなかろうか。
4.2 俳文芸の諸形式
 本資料には、明治中期の俳文芸が、単に「俳諧」と「発句」というジャンルに閉じていなかったことが示されている。少なくともそこには「書」「漢詩」などの文化との密接な関わりがあり、さらに「和歌」の文化とも人的な繋がりがあった。明治以降の「和漢行」や「漢和の俳諧」についての調査は少ないが、全国的にはどれほどの活動が行われていたのであろう。またそれは、いつごろまで続いた文芸なのであろうか。これからの調査が必要になるだろう。
 また注目すべきものの一つに、「前文附発句」と「俳文」がある。正岡子規や高浜虚子らによる『ホトトギス』誌上の「写生文」は、近代小説を生むひとつの土台として注目されているわけだが、もともと俳文芸が、こうした散文のジャンルを抱え込んでいたことにも注目する必要があるのではないか。
 今となっては、桑月の意図を知る術はないが、こうした俳諧百科全書ともいうべき編集の俳書が、正岡子規による俳句革新の直前に現れたことの意味を考えてみる必要はあるだろう。
4.3 地方俳壇間の交流
 まず、序文・跋文などから、各地の宗匠が、広く交流を持っていた様子がうかがわれる。前掲の[表2]を見ると、跋文をしたためている宗匠が居住する東京、下総、西京、羽後などからの参加者は、いずれも2桁を記録しているが、前述のとおり、「乾の部」の発句は、全国からの応募作品を撰別して編纂されたのであるから、その募集に際して、関わりのあった宗匠が力を貸したことが推測される。
 また「坤の部」には、別の地域に住む宗匠が参加している連句が残されている。文音(手紙などの通信)によるものと訪問によるものがあるのであろうが、いずれにせよ、各地の宗匠間の交流は盛んであったということができよう。
 ただ、まだ最初に行われたはずの俳句興行の募集の報せを発見することができていない。中央からのメディアによる募集だったのであろうか、それとも江戸期の俳諧興行が利用していた独自のネットワークが残っていたのであろうか。さらに調査を進めたい。
 
5. 結語
 桑月が残したこの句集は、近代俳句が切り捨てたさまざまな俳句文化の有り様を見せてくれる。おそらくこのように、俳文芸の姿をすべて示そうとしたような句集は、明治期にはもちろん江戸期にも少ないのではなかろうか。あるいはそれは、近代以前の俳文芸が、ひとつの終焉を迎える特殊な時期であるからこそ登場した句集であったのかも知れない。
 桑月の所属した明倫講社の作品が、今日、近代文学の作品として評価されることはない。けれど、彼らもまた俳諧を近代化しようとしたのである。松井利彦氏によって「俳諧教訓派」[16]と名付けられたように、彼らは、倫理性のある俳句を「蕉風」と理解し、近代国家の文化水準を高めるために、その「蕉風」を広めようとした。それは、初期明治政府の意図と同期した思想であった。
 俳文芸を、倫理という側面だけから近代化することには無理があったようだ。だが、残された資料には、豊かな「読み書き」の文化の広がりが示されており、それは、直後に到来する近代俳句の土壌になったと考えられる。だがそこには、どのような関連があったのか。この時期の俳文芸の様態については、更に詳しく調査される必要があるだろう。
 
[1]西谷富水編『開化集・俳諧開化集』(東京 芙蓉庵蔵板, 明14.05)を翻刻した資料が、下記により刊行された。
櫻井武次郎, 越後敬子『俳諧開化集』(新日本古典文学体系・明治編4,岩波書店,2003)
[2]越後敬子「明治期俳書出版年表(一)」国文学研究資料館文献資料部『調査研究報告書』第18号(H9.6)所収
[3]越後敬子「明治期俳書出版年表(二)」国文学研究資料館文献資料部『調査研究報告書』第19号(H10.6)所収
[4]越後敬子「明治期俳書出版年表(三)」実践女子大学文学部『紀要』第41集(H11.3.20)所収
[5]越後敬子「明治期俳書出版年表(四)・(補遺)」実践女子大学文学部『紀要』第42集(H12.3.20)所収
[6]河合章男『明治俳書の研究 −明治俳書総合目録データベースの作成−』(2003,ほむら舎)
[7]矢部榾郎編『福島縣俳人事典』(昭和30.6, 福島縣俳人辞典刊行会(代表岡部宗城))
[8]『川俣史談』(川俣町地方史研究会発行)は、川俣町中央公民館内の川俣町地方史研究会より発行されている定期刊行物。五十嵐津根氏の「達南俳壇史」を所収している。
[9]三森幹雄,『俳諧明倫雑誌』(東京 明倫講社),
[10]上田聴秋(肇)『鴨東新誌』(京都 梅黄社刊)『俳諧鴨東新誌』とも。創刊終刊年不明。明治32年4月号が163号、大正4年1月号が第374号。
[11]市川一男『近代俳句のあけぼの』(中央公論事業出版, 昭和50)
明治13年12月創刊。終刊不明。
[12]尾形仂等編『俳文学大辞典』(角川書店, 平成7)
[13]「乾の部」の発句、「坤の部」の俳諧の連歌を翻刻したものをホームページ「秋尾敏の俳句世界」中で公開する。urlは下記のとおり。
[14]国立国会図書館編『国立国会図書館蔵書目録 明治期 第6編 文学』(国立国会図書館, 平6.9)ただし、本目録中「奉納句集」としてまとめられている4点のコレクションは、202件の個別の資料として数えた。
[15]天理大学附属天理図書館『綿屋文庫連歌俳諧書目録 第二』(天理図書館叢書第三十五輯・天理大学出版部 昭61.6)
[16]松井利彦『近代俳論史』(東京 桜楓社, 昭和40)