明治俳諧の評価

 子規以前の明治の俳諧は、どのように評価されてきたのだろうか。代表的な資料を見てみよう。

表紙・箱
書名
筆者
発行年
内容
敏の感想
日本俳諧史
池田秋旻
明44
大11
改訂
 「但し一二人の俳人中、稍や之れを引揚げて、文学の範疇に入れんとするの念なきにしもあらざりしが、教育ある人にして、未だ俳諧師を以て、自ら任ずるほどの人を見る能わざしなり。(p448)」  無視に等しい。天明の次は子規といった記述である。
俳句の歴史
志田義秀
昭9

 改造社『日本文学講座8俳句文学編』所収

 「天明の俳句復興は集団的動きのものであったが、明治の俳句復興は子規一人に出ているものと言ってよい。固より俳壇そのものの動きはあったのであるが、その中に於て子規一人が俳句復興を真に成し遂げたと言える。 」
 概して昭和10年前後がもっとも子規中心の俳句観となっている。これもその典型。
明治時代の俳句
高木蒼梧
昭9

 同上
 改造社『日本文学講座8俳句文学編』所収

 「子規の改革以前のものは、大まかに天保俳壇の余瀝を舐るに過ぎないものと観て大過あるまい。(p333)」



 講座の中で子規以外の明治俳句を担当した稿にしてこの評価である。
 日本図書センター
からの復刻版しか手
元にありません。
明治俳諧史話
勝峯晋風
昭9
・12
 「所謂旧派の作家はあまりにも存在を認められていない。私はそれがなんとなく憂鬱で寂寥を覚えるので(自序)」   全編子規以前の俳諧を語った貴重な資料。自ら旧派の人である。子規まっ盛りの昭和9年に出ているのがすごい。
俳諧論
寺田寅彦
昭22
 
 「天保より明治子規に到る所謂月並み宗匠流の俳諧は最も低級なる川柳よりもさらに常套的であり無風雅であり不真実であり、俳諧の生命とする潜在的なる匂や響は姿を消した。最も顕在的に卑近なモラールや謎々だけになってしまった。(p19)」
 子規の流れを汲む典型的な近代俳句観である。たしかにそうだろうが、とらえ方が概念的である。そうなったことの意味を考えていく必要がある。
俳句講座7現代俳句史
加藤秋邨
昭34
 明治書院の「俳句講座」第7巻「現代俳句史」の第1章「明治俳句史上」を秋邨が書いている。
 「子規の革新は個人の力のみによるものでなく、すでにうん釀されていた革新への基盤があった。(p15)」 この指摘は大久保忠国『国文』に紹介した信州の『俳諧開化集』(明治15)についてのものである。
 例句をていねいに検証し、実証的に論を展開していく。状況の把握も群を抜いている。地方俳壇に目を向けているところもすごい。
俳諧史
栗山理一
昭38
 塙書房より刊行。
 「天保俳諧の月並調は、明治時代に入ってもそのまま引きつがれている。(p307)」
 「俳諧師が教導職に補され、教化運動に利用されたこともあったが、新時代の文学理念に衝き動かされて俳諧革新に着手するのは、明治20年代の正岡子規らの出現に俟たなければならなかった。(p308)」
 例句も挙げているが秋邨の緻密さには及ばない。概論であることを差し引いても概念的である。
近代俳論史
松井利彦
昭40
 「明治10年前後の俳論(広義)の特質といったものを述べてみるならば、風雅意識とその周辺に実用を考えたり、連句の古い式目を離れることによって自由を想定するなど、安易な形ではあったが、兎に角、開化社会の中での俳諧の存在意義を見出してゆこうという意欲をもち、改暦といった新制度に対応してゆこうとする、その努力の中で、現実を見直そうという契機をもち、又、発句の独立といった傾向を強めてゆくのであって、約言すれば、「新時代に取り残されまいとする意識を秘めた模索期」であったということができる。」  ともかくも大変な労作で、徹底的に原典にあたり、その結果時代を超えた認識に到っている。すごい仕事ぶりである。
     近代俳句のあけぼの 市川一男 昭45   第一部 幕末明治俳壇史
  「天保から子規の出るまでの間は、俳壇史上最も暗黒、不毛の時期であった」ーーー後代人の思い上がりではないか。(P1)

 第二部 幕末明治の俳人とその作品(別冊)
 子規以前の明治俳壇に目を向けた名著。
明治俳壇史 村山古郷 昭53  「明治は近代俳句の黎明期であるが、その明治の俳壇において、華やかな時代の脚光を浴びて活躍した人々、暗く時代の底に沈んで行った不運の人々、その人たちが如何なる彩紋を描きつつ、哀歓の途を歩いたか、その人間模様を描きたいと思ったのである。(あとがき)」  昭和51年から「俳句」誌に連載された。明治の俳諧に新たな目を向けさせた名著である。
近世俳諧史の基層 鈴木勝忠
 「天保俳諧と明治新風」の章
 「梅室作品をさらに純化し印象化したところに碧梧桐の作が成ったと考えても不自然ではあるまい。(p225)」
 「子規の写生論が何の抵抗もなく世に受け容れられたのも、もっとも嫌われ否定された、この幕末の俳諧があったからこそといえるのであり、月並俳諧は、大衆化という量的現象的評価にとどまらず、質的な面でも再評価されてよいものと思うのである。(p227)」
 今最も新しい論であろう。歴史というものがどのように変わっていくかをよく理解した人の言葉である。しかし明治になってから子規までの間の作品の変遷も考えなければならない問題である。


その他、明治俳壇を知る上で重要な資料を挙げておきます。 <河合章男の博士論文「明治期の俳書・俳誌の研究」より>。

2.1.1 先行研究(書籍)

2.1.1.1 『月並研究』
 大正6(1917)年、高浜虚子や河東碧梧桐などが『月並研究』(実業之日本社)を刊行している。これは明治の終わりから『ホトトギス』[1]に座談形式で連載されたものをまとめたものである。月並[2]の正体をつきとめ、その臭みに陥らないための表現方法を考察したものであるが、恣意的に取り上げられた作品を個々に論じており、体系的な論考にはなっていない。また、句の出典があいまいで、資料的には問題がある。しかし、当時を代表する俳人たちが、旧派の月並俳諧をどのようにとらえていたかを知ることができる資料として重要である。

2.1.1.2 『日本俳諧史』
 明治44(1911)年に出版されて以来版を重ねた池田秋旻の『日本俳諧史』(日就社)では、日本派[3]への言及のほか、秋声会や筑波会[4]についての解説も詳しい。子規の解説中、明治26年の椎之友会員の『俳諧』の発行に言及している。また、第10章に「旧派の俳壇」が立てられ、永機、機一、幹雄[5]、準一[6]、雀志[7]、宇貫[8]を解説している。総じて旧派への評価は低いが、永機の学殖を認め、没後の蔵書の散逸を惜しんでいる。慶応大学を卒業した雪人が、阿心庵の継承を一時拒んで放浪の身となったために、永機の蔵書が散逸したことを詳しく記していて貴重な記録となっている。幹雄について、「其の勢力稍や永機に及ばざりしが」という見方も、同時代を生きた俳人の意見として重要な資料となる。雀志については、「幹雄と同時代に、之れと互角の勢を有せし」などとあって、特定の視点からではあるが、当時の俳壇の状況が理解される。
 第12章には「明治年間重要俳書改題」が立てられ、日本派の俳書として『俳諧大要』『獺祭書屋俳和』『子規随筆』『俳句問答』『俳句界四年間』『獺祭書屋俳句帖抄』『新俳句』『春夏秋冬』『蕪村句集講義』『蕪村遺稿講義』『続春夏秋冬』『老梅居俳句問答』『蚊帳釣草』『俳諧馬の糞』『俳句入門』『俳句評釈』『続俳句評釈』『蕪村遺稿』『俳句小史』『俳諧漫話』『鳴雪俳話』『稿本虚子句集』『癖三酔句集』『妻木』『鳴雪句集』が、また筑波会・秋声会の俳書として『連俳小史』『与謝蕪村』『俳諧年表』『俳諧講演集』『俳論史』『俳諧風聞記』『芭蕉句集講義』『新俳句帳』『俳句講話』『紅葉句帳』が取り上げられ、短評が加えられている。ただし、ただ題目と著者名が並べられているだけのものもある。
 なお、本書は出版社を次々に変えて刊行されており、その移動を把握する範囲で示す。

『日本俳諧史』池田秋旻編著, 日就社, 1911
『日本俳諧史』池田常太郎著, 求光閣書店, 1912
『日本俳諧史』池田秋旻著, 増補改版, 三星社出版部, 1922
『日本俳諧史』池田秋旻著, 増補改版, 布袋屋, 1922
『日本俳諧史』池田秋旻著, 増補再版, 布袋屋, 1923
『日本俳諧史』池田秋旻著, 増補再版, 興文書院, 1927
『日本俳諧史』池田秋旻著, 第6版, 星文館, 1929
『日本俳諧史』池田秋旻著, 増補, 不朽社, 1933

2.1.1.3 『明治大正俳句史』
 昭和7(1932)年には、井手逸郎の『明治大正俳句史』(立命館出版部)が刊行された。326ページのうち23ページを「月並俳句」に割き、また「硯友社、秋声会、筑波会」の項に30ページを割いている。幹雄、永機、金羅については、刊行年の記された書誌があり、参考になる。「硯友社、秋声会、筑波会」の項には、書目の刊行年が省かれているが、人物についての記述が参考になる。

2.1.1.4 『日本文学講座』
 昭和9(1934)年に刊行された『日本文学講座』(改造社)は、第8巻が「俳諧文学篇」に充てられており、その中で志田義秀は「俳句の歴史」の項に次のように述べている。

 天明の俳句復興は集団的動きのものであったが、明治の俳句復興は子規一人に出ているものと言ってよい。固より俳壇そのものの動きはあったのであるが、その中に於て子規一人が俳句復興を真に成し遂げたと言える。

 大正末期にアルス出版と改造社から子規全集が相次いで刊行され、また昭和初期には、木村三樹『芭蕉 蕪村 子規 三聖俳句全集』(金竜堂書店, 昭和3(1928)年)や、曾我正堂著『伊豫の松山と俳聖子規と文豪漱石』(三好文成堂, 昭和12(1937)年)などの刊行もあり、日本文化を守りながら近代化を推し進めた偉人としての正岡子規像が確立していく。志田の言説も、そうした評価の潮流の中にある。本来は「俳壇そのものの動き」への言及も必要だったはずなのだが、志田の説明は、子規以降の近代俳句に向かっていく。
 同様に高木蒼梧もまた同講座の中で子規以外の明治期の俳句を担当し、「子規の改革以前のものは、大まかに天保俳壇の余瀝を舐るに過ぎないものと観て大過あるまい」と述べている。当時、明治期の俳文芸がどのように理解されていたかがよく分かる資料である。

2.1.1.5 『明治俳句史論』
 昭和14(1939)年、太田鴻村著『明治俳句史論』(交蘭社)が刊行されている。「『新俳句』の考察」という章では、「新俳句は月並打倒の猛運動と新しい表現様式の樹立の為に、多様の変化と異調の型を求めたのである」と解説されている。客観的で明快な解説が特徴である。「『春夏秋冬』の考察」という章もあり、資料ごとに内容を評しているので、書誌学的にも意味のある研究となっている。

2.1.1.6 『桐明俳論集』
 昭和17(1942)年刊行の大森桐明著『桐明俳論集』(東炎書房)の最後には、「明治大正俳論史」が置かれている。子規時代から始まる俳論史であるが、桐明は大須賀乙字の学識を汲んだ人であり、碧梧桐の新傾向俳句と乙字の関係を考察するには欠くことのできない資料である。

2.1.1.7 『現代俳句の研究』
 昭和24(1949)年に刊行された古川克己による『現代俳句の研究』(泰光堂)は、俳句史を分かり易く説いた書である。資料的には、末尾の「結社流派の研究」「俳句史年表」が役立つ。

2.1.1.8 明治書院版『俳句講座』
 昭和34年に出された明治書院版『俳句講座』[10]の第7巻において加藤楸邨は「明治俳句史」を担当し、「子規の革新は個人の力のみによるものでなく、すでにうん釀されていた革新への基盤があった」と述べ、旧派の句をていねいに検証し、また地方誌にも目を向けて、実証的な論考を行っている。さまざまな側面から明治俳諧を追究しており、貴重な論文である。明治俳書の全体を俯瞰した上での資料の選択ではないが、鋭い洞察がある。地方俳書にも目を向けている点が特に参考になる。

2.1.1.9 『近代俳論史』
 昭和40(1965)年には、松井利彦氏の『近代俳論史』(桜楓社)が出版された。高木市之助と吉田精一の序文を持つこの書は、収集された多数の資料を根拠に述べられており、近代俳文学史研究の基礎的重要文献となっている。563ページに及ぶこの書物のうち、子規以前の明治の俳諧に割かれたページは31ページにすぎないが、子規以前の俳句にも学術的な考察を及ぼした功績は大きい。子規以前の旧派を三森幹雄を中心とした「俳諧教訓派」によって代表させようとすることには問題がある。当時の旧派の内部がひとつにまとまっていたわけではなく、また前述した池田秋旻『日本俳諧史』の「其の勢力稍や永機に及ばざりしが」などという見解もあるからである。子規以降については、多くの資料に基づく詳細な考察がある。

2.1.1.10 『稿本 俳句百年』『近代俳句のあけぼの』
 昭和45(1970)年から47(1972)年にかけて俳誌『口語俳句』[11]の別冊として刊行された市川一男著『稿本 俳句百年』[12]は、貴重な研究書である。近代以降の俳句史を語るには、まず目をとおすべき俳句史である。
 また、明治前期の俳句の多くに目を通し、そこに正当な価値を見いだそうとした貴重な研究が、同じく市川一男による『近代俳句のあけぼの』[13]である。第1部『幕末明治俳壇史』、第2部『幕末明治の俳人とその作品』の2冊からなり、明治前期の俳諧史を正面から扱った貴重な研究である。
 天保の三大家と言われる田川鳳朗、成田蒼?、桜井梅室を取り上げ、いくつかの不出来な句だけ取り上げて「この三人を天保期の俳句を俗化させた元凶のように避難するのは大きな間違い」で「非学問的で公正を欠」くと述べている。
 また「幕末の俳壇で目に付くこと」として、「句作の力量よりもその人の属する流派、門閥」が重視されたこと、「流派、門閥による主義、主張や句風、傾向の差異などはほとんどない」こと、「芭蕉関係以外にも数多くの俳書が刊行され」たことなどを指摘し、俳句人口が最大となったと予想されるこの時期が、なぜ俳諧史上最低の時期とされなければならないか、と問い、農工商の富裕層が、排他的な藩の垣根を越えて俳壇という一つの社会を形作っていたことが「文化現象として珍重されなければならない」と述べている。
 さらに市川は、それまで注目されなかった「雲水」にも言及している。「雲水」は、本来は仏法や芸道のために修行の旅を続ける人であったが、幕末には草履銭などを求めるものとして疎んじられ、「乞食、雲水入るべからず」という高札まで立てられるようになった。それが、当時流行した俳人番付にも現れることから明らかなように、俳人としての活動を行っていた。
 従来否定的な側面ばかり語られてきた明治前中期の俳諧文化について、市川は、その俗化した一面を認めながらも、そこに文化的価値を発見しようと努めている。こうした視点は、これからの明治俳句文化研究に重要なものである。
 なお、第2部『幕末明治の俳人とその作品』は、著者、編者等の確認に欠かすことのできない資料であるが、惜しむらくは作品の出典が記されていない。

2.1.1.11 『俳句と俳諧』
 昭和56(1981)年に刊行された尾形仂氏の著『俳句と俳諧』(角川書店)には、W章に「月並俳諧の実態」が置かれ、月並俳諧の返草[14]をめぐって、子規が排撃した天保期以降の「月並俳諧」の姿を明らかにしようとする論が展開されている。本論は、『俳句』(角川書店)誌の、昭和50(1975)年4,5,6,9月号に連載されたもので、戦後の月並俳諧研究の原点ともいうべき論考であり、江戸期の月並句合が、どのように行われていたかを、多くの返草を資料とし、具体的に論述している。明治期の月並句合(返草)への言及もあるが、実例として示されているのはほぼ江戸期のものである。子規もまた江戸末期の月並俳諧を「月並調」として批判したのではあったが、子規と同時代の月並俳諧についての考察もまた付け加えられる必要がある。

2.1.1.12 『俳書の話』
 平成元(1989)年9月には、雲英末雄著『俳書の話』(青裳堂書店)が「日本書誌学大系60」として刊行されれており、そこに、明治期以降の俳書についての論考も掲載されている。「松宇文庫について」には、伊藤松宇の蔵書を整理し、「芭蕉庵文庫」とした昭和60年と61年の調査報告が記されている。また、「故俳人・研究者旧蔵の俳書」では、明治2年刊の『俳家人名録』(朝陽堂)への言及があり、また「乙彦の『五月雨の記』」では、慶応4年5月の萩原乙彦の『五月雨の記』が翻刻されている。いずれの論考も、初出は昭和末期のものである。

2.1.1.13 『子規の近代 −メディア・滑稽・日本語−』
 平成11(1999)年刊の拙著『子規の近代 −メディア・滑稽・日本語−』(新曜社)では、子規の俳句が幸田露伴の影響も受けて成立したことを述べたが、一方で、「滑稽系の風雅誌」[15]というメディアの中で「俳句」という用語が使われていく系譜についても論述した。俳文芸を専門とする俳書や俳誌以外のメディアから「俳句」という用語が一般化していくという現象は重要である。俳文芸研究が対象とする資料を拡大すべきことを示唆するからである。

2.1.1.14 『俳諧史の分岐点』
 平成16(2004)年刊の櫻井武次郎著『俳諧史の分岐点』(和泉書院)は、「俳諧一枚摺」や「年賀状」など、俳文芸を伝えるさまざまなメディアを論じている点がまず注目される。また、「明治俳諧の問題点」や「月並句合」などの章もあって参考になる。

2.1.1.15 『明治俳壇史』
 亀田小蛄の著書『明治俳壇史』について記す。現在のところ所蔵を確認できるのは、北海道大学付属図書館のみであるが、そこには奥付がなく、発行者は不明である。本文末に昭和4(1929)年の記載があり、そのころの刊行と思われる。A5版、洋装247ページで、子規以降の明治俳壇について詳細に述べられている。巻末には、原稿を子規を知る人に送り、確認後に刊行したことが記されており、信用すべき資料と思うが、この資料について触れた文献を見ない。
 著者の亀田小蛄は、明治18(1885)年、大阪に生まれ、鉄物商を営みながら、子規を中心とした明治俳句を研究した俳人である。昭和42(1967)年に没している。著書に『子規時代の人々』(うぐいす社, 昭和42(1967)年)、編著に『碧梧桐句集』(輝文館, 昭和15(1940)年)、『深山柴』(安藤橡面坊著, 糸瓜社, 大正10(1921)年)がある。
 本書は、旧派についての記述は少ないが、日本派のほかに筑波会への言及があり、また、俳書刊行の背景なども記されていて重要な資料である。

2.1.1.16 先行研究(書籍)のまとめ
 昭和初期は、旧派の月並俳諧を否定した子規の言説がもっとも影響力をもった時代であり、明治前中期の俳文芸は、ほとんど考察の対象となっていない。その反動として、旧派の記録をとどめようとする書物も著されるが、それらは、新たな俳句創作につながる生産的な営みとまではならず、やはりノスタルジーの域に留まるものであった。
 戦後になると、徐々に子規以前の明治俳諧も考察の対象となっていくが、俳書・俳誌の全体を見渡しての論考は少ない。松井利彦氏の『近代俳論史』になって、ようやくそうした試みがなされるが、主に三森幹雄の明倫講社の活動がとりあげられており、明倫講社が力を持つようになる以前の俳壇の考察や、教林盟社に属する宗匠たちの価値観については、さらに調査される必要がある。また、市川一男の『近代俳句のあけぼの』は、より総合的に明治の俳壇をとらえているが、月並俳諧の活動や、地方俳壇の動きなどは、さらに検討されなければならない。尾形仂氏の『俳句と俳諧』は、月並俳諧に具体的な視野を開いた画期的な論考である。これに明治期の月並俳諧の姿を具体的に付け加えていくことが必要な段階にある。

2.1.2 先行研究(学術論文)
 次に、明治前中期の俳文芸を扱った論、及び明治月並俳諧と点取俳句に関連する論を取り上げる。

2.1.2.1 「月並俳句の実態−江戸時代末期の大衆俳諧−」
 中野沙恵氏の「月並俳句の実態−江戸時代末期の大衆俳諧−」が『国文学漢文学論叢』(東京教育大学, 昭和50)に所収されている。幕末期の研究であるが、その延長線上にある明治の月並俳諧を知る手掛かりとなる。

2.1.2.2 「幕末江戸月並俳諧資料−投句募集ちらし張込帖所見−」
 今栄蔵氏の「幕末江戸月並俳諧資料−投句募集ちらし張込帖所見−」が『紀要 文学科 39号』(中央大学文学部, 昭和52年3月)に所収されている。幕末期の研究であるが、前掲の中野氏の論同様、明治期の月並俳諧の興行方法を知る資料となる。

2.1.2.3 「明治前期俳壇の一様相」
 越後敬子氏の「明治前期俳壇の一様相」が『連歌俳諧研究87号』(俳文学会, 平成6年7月)に所収されている。明治期の類題集の状況について述べられている。

2.1.2.4 「明治俳壇と日露戦争 −旧派、秋声会、日本派を中心に」
 青木亮人氏の「明治俳壇と日露戦争 −旧派、秋声会、日本派を中心に」が『同志社国文学61号』(同志社大学, 平成16年11月)に所収されている。

2.1.2.5 「連句・雑俳・俳句をめぐる伝承とその変容」
 伊藤龍平氏の「連句・雑俳・俳句をめぐる伝承とその変容」が『日本文学研究 第64冊』(國學院大學國文学会, 平成17年3月)に所収されている。
 
2.1.2.6 先行研究(学術論文)のまとめ
 学術論文においては、明治期の俳文芸のある一面に着目しての考察がなされるようになった。そのため、明治期の俳文芸の姿が、より具体的にとらえられるようになっている。しかし、明治期の俳文芸全体の変遷を論じる考察は未だなされていない。

2.2 重要資料
 次に、研究論文以外の明治期の俳書・俳誌の考察に欠かすことの出来ない重要資料を挙げる。

2.2.1 『俳諧史概説』
 昭和5(1930)年に刊行された佐藤一三の『俳諧史概説』(啓文社)は、その「緒言」に「本書は一般好俳の諸士、並に文検国語科受験者、中・小学校教員、専門学校学生諸氏の俳諧史に関する参考の資に供せんがために編んだ」とあり、研究書とは言えない。しかし、「子規」や「俳句」についての俗説がどのように普及していくかの過程を窺い知ることができる資料として、重要である。
 例えば、本書においては「俳句」という用語の出典について、「角田竹令氏は明治辛卯秋の発行である『撈海一得』に俳句という文字の見えることを挙げて、その名の用ひられた年数は、既に百四十余年を閲して居り、此の名称の起源は、或は元禄正風の頃に求めねばならぬのではあるまいか」[16]と述べているが、「日本派の人々は、発句を俳句と称することは、明治の初年以降のことで、新風勃興の当時、子規が、既に独立せる十七字詩として一篇独歩の文学となれるものを、発句と云ふは当らずとの意味で、日本派の人々のかく唱へ出したものが、次第にひろまったものであると説いてゐる」と書き、「前者の説は、単に古書に用例があると云ふ程のこと」としりぞけ、「俳句といふ名称の用ひらるゝに至つたのは、明治以後のこと」と結論づけている。しかし、明治初年から、子規が登場するまでについての言及がないので、読者がこれを読んで、「俳句」という用語を子規以降のものと思う可能性は高い。しかも、『撈海一得』の刊行は明和8年であり、「明治辛卯秋」は誤植なのである。こうした細部の誤記、あるいは単純化の積み重ねが、子規だけが俳句を作ったという分かり易い俗説の流布につながっていったのである。

2.2.2 『現代俳家人名辞書』
 昭和5(1930)年に素人社編として出された『現代俳家人名辞書』(素人社書店)は、明治生まれの俳人を多く掲載している。また、この資料の復刻版が、1991年に日本図書センターより刊行されている。
 豊田都峰氏は『大阪の俳人たち 1』[17]の中で、本書の鈴鹿野風呂の生年が違っているため、この辞書を利用したらしい以後の文献がすべて同じ誤りを記していることを指摘している。

2.2.3 『明治俳諧史話』
 昭和9(1934)年には、勝峰晋風の『明治俳諧史話』(大誠堂)が刊行されている。内容は、俳誌『黄橙』に昭和5年から2年半にわたって連載された「俳諧東京時代」をまとめたもので、自序に「所謂旧派の作家はあまりにも存在を認められていない。私はそれが何となく憂鬱で寂寥を覚える」とあって、458ページを旧派の解説に費やしている。多くの俳誌に触れ、またその印刷技術や装丁に触れた箇所もあって、書誌学的にも貴重な資料となっている。引用資料が不明の部分が多く、研究資料としては不十分であるが、本文でかなりの俳書の内容に触れており、参考になる。

2.2.4 『俳諧新辞典』
 昭和14(1939)年、高木蒼梧・伊東月草編として刊行された『俳諧新辞典』(太陽堂)は、1,204ページの本格的な辞典である。永機や幹雄はもちろんのこと、幹雄を継いだ準一までも掲出されており、明治旧派俳人への解説も詳しい。生没なども確認した限りにおいては正確である。季語や切れ字の解説なども、古来の説を載せるなどして参考になる。

2.2.5 『評釈俳諧史の鑑賞』
 昭和24(1949)年に刊行された勝峯晋風の『評釈俳諧史の鑑賞』(瑞穂出版)は、作品の評釈によって作風の変遷を語ることを趣旨とする書だが、中に萩原乙彦が『俳家新聞誌』を木活字で出したが、「板行の遅々たるを理由に、再び整板で新聞誌を発行した」などというメディアに関する情報も含んでいる。

2.2.6 『明治大正昭和三時代俳書及俳諧雜誌目録』
 文学堂書店店主が、自らの還暦の記念事業として昭和30(1955)年に発行した『明治大正昭和三時代俳書及俳諧雜誌目録』は、販売用の目録であって研究物ではないが、明治期に創刊された俳誌133件(内3件は複数の俳誌のコレクション)を列記した部分は、多くが創刊号からのもので、明治後期に多くの俳書が刊行された様子が直観的に把握でき、また資料を検索する手掛かりとなる好資料である。本論第7章に付した目録には、この資料に基づいて、「NACSIS Webcat」[18]から引いたデータを収録している。

2.2.7 『俳諧人名辞典』
 昭和35(1960)年には、高木蒼梧による『俳諧人名辞典』(巌南堂書店)が刊行され、「幕末から明治初期」という項が設けられて、旧派の俳人が53ページにわたって取り上げられた。江戸期の記述が多いが、明治期に関しても参考になる箇所は多い。

2.2.8 『明治大正俳諧史年表大事典』
 昭和46(1971)年には、大塚毅編『明治大正俳諧史年表大事典』(世界文庫)が出版された。ここには明治大正期の俳諧の貴重なデータが収められているが、惜しいことに刊行年、件名、著者編者または発行者の記録にとどまっており、発行所が不明である。また所蔵が明記されていないので確認のしようもない。また手書き版下という特異な刊行物であるためか誤記が目立ち、読み違いと思われるものも多い。明治3年刊の孤杉序の『西園集』が『西国集』と書かれているような類である。発行当時を知る東京千代田区神田の古書店「文献書院」社長、山田昌夫氏に伺ったところによると、これは出版当時から周囲に指摘されていたことであるという。発行年を、印刷月日に取っているらしいデータも多く、上巻「第三部俳書」について他の目録等によって修正を行ったところ、現時点で、データの1割程度に誤りや疑問点が見いだされており、利用にはかなり注意が必要になる。巻末には148ページにわたる索引が付されていることもあり、明治期の俳文芸について、何ごとかを調べ始めるときに、まず見るべき資料の一つである。

2.2.9 『明治俳壇埋蔵資料』『子規全集』
 昭和47(1972)年の麻野恵三氏らによる『明治俳壇埋蔵資料』(大学堂書店)の刊行は、近代俳句研究における資料発掘の重要性をより強く認識させる。
 また、昭和50(1975)年の『子規全集』(講談社)の刊行は、日本派以後の近代俳句研究に画期的な進歩をもたらした。今でもその資料価値は変わらない。特に、第22巻「年譜」の緻密さと正確さは、資料としての価値が高い。

2.2.10 『俳句辞典 近代』
 昭和52(1977)年刊行の松井利彦編『俳句辞典 近代』(桜楓社)は、旧派の活動も扱った辞典で、資料価値が高い。

2.2.11 『明治俳壇史』『明治大正俳句史話』『明治の俳句と俳人たち』
 旧派の俳諧に一般の目を向けさせたのは、村山古郷の『明治俳壇史』(角川書店, 昭和53(1978)年)と『明治大正俳句史話』(角川書店, 昭和57(1982)年)、『明治の俳句と俳人たち』(河出書房新社, 昭和58(1983)年)である。しかしこの3冊は、作家のエピソードに重点を置いたもので、出典の明示されないものも多く、書誌学的な視点からの資料的価値は低い。

2.2.12 『俳文学大事典』
 平成7(1995)年刊の尾形仂氏等の編になる『俳文学大事典』(角川書店)は、明治期の俳文芸の考察においても重要な示唆を与えてくれる資料である。本論も、明治期の俳人の生没等に関して、基本的に本資料に拠っている。

2.2.13 『明治期俳書出版年表』
 越後敬子氏による『明治期俳書出版年表』が、下記により発表されている。
 「明治期俳書出版年表(一)」『国文学資料館文献資料部『調査研究報告』第18号」所収, 平成9年
 「明治期俳書出版年表(二)」『国文学資料館文献資料部『調査研究報告』第19号」所収, 平成10年
 「明治期俳書出版年表(三)」『実践女子大学文学部紀要第41集』所収, 平成11年
 「明治期俳書出版年表(四)」『実践女子大学文学部紀要第42集』所収, 平成12年
 これらは、明治期の俳書の全体像を把握できるようになったという点で画期的な成果と言える。

2.2.14 『花鳥日記』の翻刻
 加藤定彦氏によって、庄司?風の遺した『花鳥日記』の翻刻が、さまざまな学会誌に発表されている[19]。?風と全国の宗匠・俳人との交流の様子が記されており、秋田俳壇のみならず、全国的な明治俳壇の動きを知ることができる。

2.2.15 『明治俳書の研究 −明治俳書総合目録データベースの作成−』
 著者自身も、越後氏の『明治期俳書出版年表(一)』とほぼ同内容のデータを平成8・9年に作成し、国立国会図書館及び天理大学付属図書館の許可を受けて、平成9年12月よりインターネットのWWWのサイト『秋尾敏の俳句世界』によって公開している[20]。これは、データを電子化して公開したという意味での成果があったが、しかし対象とした目録の数が限られていた。そこで、越後氏の成果等を引用し、さらにいくつかの図書館や文庫などのデータを加えて、「明治俳書総合目録データベース」を作成した。これは修士論文として図書館情報大学大学院に提出した。

2.2.16 各図書館の所蔵目録
 俳書・俳誌の研究においては、各図書館における目録や、既刊の書目一覧などが重要な資料になるが、これについては本論第7章に付す『明治俳書総合目録データベース』の資料として一覧を示す。

2.2.17 重要資料のまとめ
 明治期の俳書・俳誌について記述した資料は多いが、その全体像をまとめたものは少ない。その中にあって、大塚毅編『明治大正俳諧史年表大事典』は先駆的な資料集だが、誤記の多さから、そのまま利用できる状況にあるとは言えない。現在では、越後敬子氏の『明治期俳書出版年表』がもっとも充実した書誌目録であるが、その後の調査で発見された資料もあり、さらに付け加えて整理する必要がある。
 以上のほかにも、正岡子規を初めとする近代俳人については、それぞれかなりの数の評論や評伝の類が刊行されているが、子規以降の俳人の刊行物については、各図書館の目録から十分なデータを得られるので省略する。

2.3 各地方における研究
 各地方における俳句史の研究書は多く、明治期についても、むしろ東京や全国の俳壇を対象とした研究より詳細な報告がなされている。以下、参照した資料についての概要を述べる。

2.3.1 『筑後俳諧史』
 昭和4(1929)年11月、福岡県の竹下工によって記された『筑後俳諧史』(私家版)は、この地方の明治中期の俳諧が、東京の原田雪年の来遊によって活気を呈したことなどが記されている。年表もあるが、俳人の没年の記載が中心で、書誌データには乏しい。明治期にこの地方で活動した凌雲、杜明、岳雲、文老、木屑、貫山、松語、巴井、石風、沙月、三猿、花庭、秋外、花鸚、暉芳、梅史、渓水、花明、霞岡、集鶴、三千代、嘯虎、一蛙、七鼎、故雄、楓陰についての小伝がある。

2.3.2 『会津俳諧史』
 昭和9(1934)年、大槻清三と上野敬二によって著された『会津俳諧史』(吾妻書館)は、明治期を前後期に分け、詳しい解説を施している。また、「会津俳諧年表」には、俳人の没年、句集の刊行、俳誌の創刊のほか、奉額の記録があり、地方の俳句文化を考察するうえで興味深い資料となっている。なお本書は、昭和57年(1982)年2月、吾妻書館によって複刻されており、本論ではその復刻版を参照した。

2.3.3 『信濃の俳人』
 昭和19(1944)年刊行の、小林郊人による『信濃の俳人』(木村書店)には、多くの俳書が記されている。刊年不明だが、他に記されていない資料も多い。以下に明治期の刊行物を抜粋する。

水焉廼舎小林葛古 明治13年6月没。88歳。『和漢合運追加3巻』『近世至賢標1巻』『切芟 1巻』   『うがひ水』1巻 家集2巻
雪真斎中野銀岱  明治16年9月没。『行々集』。
雪散屋岩波其山  明治27年4月没。『早合点』『連月千句集』『百千鳥』『草の餅』。
雪散居林芒斎   明治35年6月没。『芒斎集』
鷲尾亭花岡梅休  明治9年3月没。 『花岡集』
馬場凌冬  明治35年9月没。61歳。夫妻で上洛し芹舎に入門。後諸国を遍歴し、帰郷。門人         300余人。『旅硯』『竹園隠抄』。
語石庵精知    文久3年〜明治5年の間、飯田に居住し、版下、貸本業を営む。明19年東京で没す        る『とくさかり』(年刊)『古今発句類題図画』。
岩本木外    『河合曽良』
関紫竹     『二葉句集』『蝸牛書屋俳話』『文人画論』諏訪湖畔に句碑あり
島田九万字    明治41年『葉月』創刊。42年『ウロコ』創刊。大正4年『山』創刊、12年廃刊。

2.3.4 『日向俳壇史』
 昭和29(1954)年、日向興業銀行創立20周年記念として刊行された杉田作郎著『日向俳壇史』(日向文庫11,日向文庫刊行会)は、新派の下記の俳誌の創刊を記している。また、「明治の日向各地の俳会」として16の会の存在を、その代表作とともに記録している。

 明34. 『土筆』 宮崎 
 明33. 『星影』 静岡伊豆
 明33. 『吹雪』 秋田羽後

2.3.5 『越前俳諧提要』
 昭和39(1964)年刊行の石川銀栄子編『越前俳諧提要』(福井県立図書館・福井県郷土誌懇談会)は、越前発行の俳書だけでなく、越前の俳人を納める句集も紹介している。「越前俳人名纂」に次いで「越前関係俳書略解」を置き、1件ごとに解説を付している。ただし、斎藤耕子によって誤りを指摘されている項目もある。

2.3.6 『明治の房総俳人 原田虎月のことども』
 昭和40(1965)年刊の古川柳哉による『明治の房総俳人 原田虎月のことども』(朝虹会)は、俳誌『朝虹』について詳しい。創刊編集した原田虎月は、明治21年5月23日印旛郡富里村生まれ。明治39年、上京した清宮翠連峯の『若桜』を継いで俳誌『朝虹』を創刊。印刷は佐倉市の小沢活版所。正則英語学校で連峯の同窓であった富田零余子が同人参加。虎月は、45年、鉄道事故により26歳で没し、『朝虹』は7巻11号で廃刊した、とある。また、『朝虹』廃刊後、千葉の俳誌の中心は44年7月より改名した『ツボミ』となり、さらにその廃刊後は、同人の多くが零余子の『枯野』に移ったと記されている。

2.3.7 『石川県俳壇明治百年誌』
 昭和42(1967)年刊の石川県俳文学協会編の『石川県俳壇明治百年誌』(石川県俳文学協会)は、碓井梅嶺、直山大夢、春藤鳳兮、園亭鴬橋、後藤雪袋、清可亭可夕、南無庵文器、竹村秋竹、中川富女、北川洗耳、近藤泥牛、直野碧玲瓏、藤井紫影、倉知漁村、大内月仙、蔵月明、松瀬青々、大谷繞石、松下紫人、園亭萎文について触れられている。また俳誌年譜、俳書年譜、句集年譜、句碑一覧が付されている。かなりの誤記があり、14ページに亘る正誤表が作られているので、それに目を通す必要がある。

2.3.8 『伊予の俳諧』
 昭和50(1975)年刊行の、星加宗一著『伊予の俳諧』(愛媛文化双書刊行会)は、他に記録のない以下の資料の存在を示している。

 明05  『四時園社中三十六雅花のしらべ』其戎 愛媛
 明15.04『花入塚再建俳諧連歌』誘拓社(可等等) 愛媛
 明15.04『花いれ塚掃浄弐百歳御忌取越式行脇起俳諧之連歌』明栄社 愛媛
 明15.05『祖翁二百年祭取越花入塚再造供養脇起俳諧之連歌』(愛敬社) 愛媛
 明16  『左右合』拾山判 愛媛
 明22.01『宇和しま集』南無庵真海編 京都 馬場利助
 明20 『はせを庵宗匠点書抜 ラ〜ク』はせを庵  写本
 明23.序『梅鴬集』鴬居門人等編 弄月園庄司?風序 松山 田村政太郎
 明  『翁のよだれ』  
 明  『半窓発句集』自筆写本

 また、俳句一枚刷りの資料として、下記の存在を記している。

明09 蓬莱飾刷 柱簑の還暦の賀 林簑
明10 柳刷   鬼章八十の賀  幽好

2.3.9 『群馬県 明治大正の文学』
 昭和50(1975)年刊行の、根岸謙之助による『群馬県 明治大正の文学』(群馬県;みやま文庫)は、群馬県における明治前期の俳諧宗匠の活動を記しており、天心庵城光同、金子夫雪についての記述が特に注目される。

2.3.10 『信濃路の俳人たち』
 昭和50(1975)年刊行の、藤岡筑邨による『信濃路の俳人たち』(信濃毎日新聞社)は、明治期に活躍した俳人として、井上井月、伊藤松宇、束松露香、正岡子規、矢ヶ崎奇峰、上原三川、岩本木外、小平雪人、高浜虚子、根津芦丈、臼田亞浪、島田九万字、両角竹舟郎などについて書かれている。特に、露香の一茶研究について触れた章や、奇峰の章では、明治37年創刊の俳誌『はゝき木』の創刊について述べた章などが注目される。

2.3.11 『明治大正諏訪俳句史抄』
 昭和52(1977)年刊の滝沢敬三著『明治大正諏訪俳句史抄』(甲陽書房)は、『湖』『氷室』『諏訪文学』等の雑誌の存在を記述するが、書誌の詳細は記されていない。いずれも未確認の俳誌である。

2.3.12 『岩手俳諧史』
 昭和53(1978)年刊の小林文夫著『岩手俳諧史』(萬葉堂出版)は、新派、旧派をともに詳述している。俳誌については、明治31年に始まった盛岡の『ホトトギス』系俳誌『紫苑』が「全国十指に入る勢い」と記している。また、他に記録のない以下の資料の存在を示している。

 明13 『田舎汚吐化絵「垂涎奇聞」』快々社
 明14 『森の下風』梅の屋(梅の也)
 明15 『むきのこ』酔雨選
 明17 『花菖蒲集』 
 明22 『露しぐれ』四世三柳舎白我
 明25 『手むけ草』 
 明25 『梅月庵月次衆議判発句集』梅月庵梅月
 明26 『翌日の反故』三柳舎白我
 明26 『関城文芸いはゐの雫』
 明32 『名月集』名月吟社 岩手 名月吟社
 明32 『としの花』竹隣選
 明32 『春秋社発句集』春秋社 岩手 春秋社
 明32 『片月庵嗣号披露句集』些白 岩手 春秋社
 明34 『俳海』青天居十八公井出松郎・國分一骨・菊地牧童
 明34 『はつ霞』春秋社 岩手 春秋社
 明38 『衆議判』三柳舎白我 岩手 風香会

2.3.13 『福島と近代文学』
 昭和56(1981)年刊の塩谷郁夫著『福島と近代文学』(桜風社)は、明治31年発刊『岩磐時報』の俳句欄が日本派中心であったことを記している。

2.3.14 『八戸俳壇の歩み』『八戸の俳諧』
 昭和56(1981)年刊の八戸俳句倶楽部編『八戸の俳諧』(八戸俳句倶楽部;藤井白兆)には、この地方の明治期における俳壇の動向が多少記されている。本書を編んだ八戸俳句倶楽部が、明治36年に結成されたということも、地方における明治の俳文芸を知る重要な手掛かりである。
 また、昭和57(1982)年刊の関川竹四著『八戸俳壇の歩み』(八戸俳壇の歩み刊行会)は、俳誌創刊当時の様子の記述に多くのページを割いている。また、「八戸俳諧・俳句年表」が付されているため、この地方の俳書、俳誌の刊行について知ることができる。

2.3.15 『樺太の俳句』
 昭和58(1983)年刊の菊地滴翠著『樺太の俳句』(北海道新聞社)が明治41年発刊『樺太日日新聞』紙上に「日日俳壇」が設けられていたことを記している。

2.3.16 『茨城俳句史(1)史料編』
 昭和60(1985)年12月刊の茨城俳句の会編『茨城俳句史(1)史料編』(茨城俳句の会)には「茨城の俳壇年譜」があり、そこには、他の資料に記載のない次の俳誌の刊行が記されている。

明28.05『柳の影』宝寿軒柳旦遺句集 
明28.06『常陸土浦 宝寿軒柳旦居士小祥忌追福併不争軒柳旦二世更嗣号披露発句集』
明29.01創刊『香墨新誌』山口常太郎(季蹊),
明34.06『有明月』(散文集)雨谷一菜庵, (大塚毅『明治大正俳句史年表大事典』に記載あり)
明32.10創刊『文之花』(俳誌)下館 清宮支峰
明42.08『芭蕉翁』雨谷一菜庵,  (初版ではない)
明44.10『けしの花(?実)』(句集)江尻梢人(正一・晩果(知十門))

2.3.17 『若越俳人列伝』『福井県俳人大観』
 平成8(1996)年刊の斎藤耕子著『若越俳人列伝』(福井県俳句史研究会)には、明治の俳人として、古岑、其流、籬翠、呼月、是秋、芦風、娯水、凌運、東耕、鴬春の10人が取り上げられている。付録に「福井県関係俳書一覧表」があり、書誌の資料としても有益である。
 また、平成11(1999)年刊の斎藤耕子氏の『福井県俳人大観』(福井県俳句史研究会)は、福井県の俳人を網羅したといってもよいほどの労作である。ここにも付録として、「福井県関係俳書一覧表」が付されている。

2.3.18 『東北・北海道俳諧史の研究』
 平成15(2003)年刊の井上隆明著『東北・北海道俳諧史の研究』(新典社, 新典社研究叢書150)は、広範囲の俳諧史を扱った労作である。近代俳句への考察はないが、明治期における江戸俳人の句集への言及があり、また江戸期に生まれ、明治にも活躍した俳人について記されている。福島県の章で、塩田冥々(寛保元年〜文政7年)の句集が、明治期に刊行されたことが記され、明治30年に三森松江編『冥々句集』が刊行されたとあるが、これは『冥々集』である。また同37年に永井破笛編『冥々集』とあるが、これは他の資料では確認ができない。青森県の章では、浅田祇年への言及があるが、書目は残されていないようだ。秋田県の章では、庄司?風(天保5〜明治38)について詳しい。

2.3.19 各地方における研究のまとめ
 地方における研究には、俳人の記録や俳書の記録が詳細で、また奉額などの俳文芸の活動も記されており、貴重である。ただし、そのデータの正誤を確認できない場合も多く、またどこに価値を見いだすかによって、取り上げるべき情報も異なってくる。また、本論では取り上げないが、各県、市町村史などの地方史で、文芸や文化が取り上げられることは多々ある。

2.4 俳書・俳誌以外のメディアについての研究
 俳誌・俳書などの刊行物以外の明治期の俳文芸の姿を伝えるメディアについての研究には、次のものがある。

2.4.1 『三囲(みめぐり)の石碑(いしぶみ)』
 平成13(2001)年刊の矢羽勝幸著『三囲の石碑』(上田市;大屋)には、三囲神社にまつわる句碑などの調査が詳しい。
 社内にあった扁額は消失しているが、宮崎三昧のノート『墨水漫筆』に「三囲の扁額目録」が記されており、慶応3年の『月之本為山撰の俳額』の存在が記されているという。また機一が、「大幹にたどりつくまでや蝸牛」の短冊を残しているという。境内にある明治年間の句碑については、次の記載がある。

 ・老鼡肝の句碑「夜はもとの蛙にわたす田うた哉」。永機建立。明治4年。
 ・庭庵林甫の句碑「水音や花の白雲冴かへる」。東京今川橋に居住した俳人。幕末から明治初年。
 ・服部山蝶の句碑「きぬ/゛\の浅黄桜と見しや夢」。九代目団十郎の脇あり。明治9年。
 ・岡本五休の辞世句碑「陽炎や其きさらぎも遠からず」。明治20年。
 ・木村素石の句碑「蝶わたる日和となりぬ隅田川」。明治36年。
 ・5世川柳供養碑「和らかくかたく持たし人心」。明治3年。
 ・6世川柳の句碑「つまらぬといふはちいさな智恵袋」。明治14年。
 ・9世川柳の句碑「出来秋もこゝろゆるむな鳴子曳」。明治38年。

 なお上記2件目の庭庵林甫について、矢羽氏は詳細を不明としているが、本論第7章に付した目録には下記の資料があり、初期教林盟社で活躍した俳諧師であることが分かる。

明03 『百句余集』八巣謝徳編 きく守見外 庭林甫 等栽 行庵 月の本老人序 春湖跋 
明06 『真名井』林甫・是三・素水・禾暁・石里等編 東京 教林盟社
明07.04『真名井』林甫等編 桜井能監序 東京 教林盟社

 また本書には、明治年間の其角堂永機、機一の境内への移住について詳細に記されており、参考になる。

2.4.2 『群馬の句碑』
 昭和54(1979)年刊の丸山知良による『群馬の句碑』(みやま文庫, みやま文庫73)は、群馬県内の句碑について精査な調査をしており、参考になる。以下に、明治期のものを抜粋する。

・芦渓「紫陽花の花捨てあり草の中」。明治35年10月、花鳥連建立。安中市板鼻町の長伝寺境内。
・岸豊湖「味はうて鳥の声きく日永かな」。明治35年8月、友人・幹雄 桐生市新宿通定善寺境内。
・天野桑古「いつの間に夕風立ちし木槿かな」。明治35年4月、渋川俳雅連・豊秋俳雅連建立、東久世通禧書、前橋公園東照宮境内。
・岩崎逸女・天野桑古「草の香の移る野間や春の水 逸女」「そよぐ風さへ光もつ頃 桑古」。明治22年4月、岩崎逸女建立。前橋市三河町養行寺境内。
・延年舎遠藤鶴池「のどかさや松には声もありながら」。明治30年ごろ。十品山人山本有所書、藤岡市二丁目。

2.4.3 『秋田俳句歳時記』
 昭和55(1980)年刊の風早郷著『秋田俳句歳時記』(無明社出版)にはまとまった書籍のデータはないが、「県内句碑一覧」が収められている。明治期に建立されたものを抜粋し、本章末に、付表1「秋田県明治句碑一覧」として示す。表記は本資料のとおりとした。

2.4.4 俳書・俳誌以外のメディアについての研究のまとめ
 刊行物以外の、俳文芸を伝える、メディアの研究は少ない。句碑については、各地方行政の文化や観光や広報を担当する部署が調査している場合もある。また、各地方の歴史研究会のような民間のグループが、奉灯や奉額の翻刻を行っている場合もある。しかし、それらを包括した調査を行うことは容易ではない。今後、インターネット上のワールド・ワイド・ウェッブにおいて、各地方の翻刻資料のネットワークが形成されることが望まれる。

2.5 明治期の俳書・俳誌研究の今後のあり方
 筆者の『明治俳書総合目録データベース』によって、明治期の俳書刊行の全貌がとらえられるようになったが、次の段階としては、雑誌の創刊を加えて整理し、明治期の俳文芸のメディアの全体像の考察が必要とされる。
 文学研究からも、この時期の俳文芸への考察は必要である。今まで、特に明治前期の俳文芸研究が乏しかった理由は、例えば本章「2.1.1.4 『日本文学講座』」で指摘した高木蒼梧の、「子規の改革以前のものは、大まかに天保俳壇の余瀝を舐るに過ぎないものと観て大過あるまい」というような認識のためである。だが、その認識は、明治前中期の俳文芸を真摯に探索した結果からのものではない。この時期の俳諧や俳句に優れた作品が少ないことは事実かも知れない。だがそれは、江戸期も、また現在も同じことである。多くの人の心に響く作品というものは、いつの時代にもそう数多くあるわけではない。江戸期の作品については、数多くの中から人の共感を呼ぶ句が選ばれ、それが代表作とされている。けれども明治期については、それを選出する努力が十分に行われてきたとは言えない。まず、明治俳諧の代表作を見いだす努力が重ねられるべきであり、そのための資料整備を急がねばならない。子規に始まる新派の俳句のどこが新しかったのかも、旧派の作品の正確な理解なしに判断できることではない。
 さらに文化を論じるという視点から明治俳句メディアをとらえ直してみれば、そこには近代初期の人々の重要な生活の営みの貴重な記録が記されている。
 例えば、国立国会図書館には『奉納句集等』[21]と名付けられ、4つのグループに分割されたコレクションが所蔵されている。198件314冊の資料からなる明治中期の俳諧資料である。その内の20件を次に示すが、件名のいくつかを見るだけでも、この資料の文化論的な価値の高さが分かるのではなかろうか。

明21.01〜10『神田神社奉灯月次句集 一月分』守雪連東京本郷 辻忠興
明21.02『下総季節待受夏秋混題三句合』東京本所 村田昌興
明21.04『青山邸内稲荷初午奉灯句集』東京下谷 稲見悟友(崇次)
明21.04『雪登斉庵中掛額春季交題句集』(多賀良組)東京浅草 小島則道
明21.04『蛎殻町水天宮月次奉灯句合 第86回』東京京橋 渡辺金治郎
明21.04『月並句合』東京赤坂 疋田正善
明21.04〜10『花屋敷かけ額・春窓楼かけ額四季之句集』東中社東京 太田□次郎
明21.05『守雪連入改号点式披露句集』東京本郷 辻忠興
明21.05『亡兄青林院七年忌追福句輯』東京 石川観治
明21.05『不老軒芝友一周年忌追善春混題句合』東京本所 佐々木富
明21.06『故月之本為山翁七年祭並ニ立机披露四季混題句合』明宝野連 桑乃本総社中 東京 辻忠興
明21.09『虎門金刀比羅神社月次奉灯発句合』東京芝 増島知雪
明21.11『九世採茶庵・三世随巣・三世聴芦窓嗣号披露句集』東京浅草 重田景福
明22.04『山岡鉄舟居士追弔並南養寺奉額句集』神奈川 岸長吉
明22.04『吉原仲の町楼園両面掛額』東京浅草 猪爪素吉
明22.05『新吉原彦太楼前掛灯』東京浅草 猪爪素吉
明22.05『三河国碧海郡安城村八幡社奉額句集』波留 阿栗東京本郷 坂知孝
明22.05『武都小山日枝神社永代奉額句集』神奈川 岸長吉
明22.05『陸奥遊歴帰節待受秋冬混題句合』(桂連)東京本郷区 志村政則
明22.09『臥竜園帰杖待請夏季句集』神奈川 岸長吉

 ここには、文字によって何かを表現し始めた庶民の活気がある。誰かの何回忌だといっては句を集め、俳席を新築したと言っては句会を開き、旅に出た宗匠を待ち受けるといっては句をまとめ、俳名を変えたと言っては句を作り、寺社ばかりか吉原にまで句を奉じる。中には『月並句合』とか『月並句集』というそっけない名のものもあるが、ほとんどはその成立事情をうかがわせる題が付けられ、その名称を眺めているだけでも、当時の人々の暮らしぶり、というより豊かな遊びぶりが浮かんでくる。多くの寺社の名前が見え、また「奉献」「追福」などの語彙からも分るように、これらの遊行の背後には、庶民の信仰の姿も見えてくるようだ。
 さらにここからは、文字文化が庶民に広がっていく勢いをとらえることができる。明治中期、教育制度や活版印刷の普及によって、文字は一気に多くの庶民が活用できるメディアとなった。この圧倒的な数の句集の刊行こそが、その現れであり、さらにこの俳諧という文化の活動によって、文字を身に付けていった人も多いのである。
 そうした背景があってこそ、明治前・中期の俳諧文化は、庶民の間に圧倒的な流行を作り出し、人々が文芸に接近する契機を与えた。社会に果たした役割という視点から言えば、この時期の俳諧文化はさまざまな存在意義を持っていたのである。
 けれども、『国立国会図書館蔵書目録 明治期 第6編 文学』[22]には、この『奉納句集』は4つのコレクションとしてまとめられ、件名(書名)だけが記されて、編著者、発行年等のデータは記されていない。また、尾形仂氏の著『俳句と俳諧』には、日比谷図書館(現在、都立中央図書館)蔵の「東京誌料」に収められた「返草集」もまた同じ状況であったことが記されている。これらのことからも明治中期の月並俳諧が、研究資料としてあまり重きをおかれていなかったことが分かる。
 一方、明治中期以降の俳書は、正岡子規や日本派の俳人が近代俳句を作り上げた資料として、研究対象となってきた。だが、それにもかかわらず当時の資料がすべて整理されているかと言えば、資料の全体を俯瞰できる状況にはなっていない。子規の刊行物であっても『俳句二葉集』[23]のような稀覯本もあり、その所在はあまり知られていない。またこの時期の俳書は、急激に進歩する印刷、出版システムの中で、発行所を変えたり、別の名前で刊行されたりするものが多く、その動態を正しくとらえていくことが重要となる。そこで、明治俳書の全貌をとらえられるデータベースを作成し、それに基づいて、明治期の俳書・俳誌刊行の変遷を考察していくことが必要になるのである。

※本章の注・資料
[1]『ホトトギス』は俳誌。高浜虚子の編集、発行。明治30(1897)年に柳原極堂によって創刊され、翌年から発行所を東京に移し、虚子の発行となった。本論第5章で論じる。
[2]本来は、月次と同様、毎月の、という意味であり、月例で行われる句会を指す用語であったが、正岡子規が、宗匠を中心として行われるそれまでの俳諧を総称する用語として侮蔑的に用いてから、古くさい作品を指す語となった。
[3]日本派は、新聞「日本」を主たる発表の場として活動した正岡子規らの俳句グループ。内藤鳴雪、河東碧梧桐、高浜虚子らがいる。
[4]秋声会は、角田竹冷の主唱によって明治28年に結成された俳句結社。大野洒竹、岡野知十、尾崎紅葉、巖谷小波らが加わった。背後で毎日新聞が支えていたため、「毎日派」とも呼ばれる。また、筑波会は、明治29年、大野洒竹、佐々醒雪、笹川臨風らの東大生によって結成された俳句結社。
[5]永機については、本論「6.10 永機」の項、機一については、本論「6.23 機一」の項、幹雄については、本論「6.15 幹雄」の項を参照。
[6]準一は三森幹雄の長男。明治14(1881)年、東京に生まれる。春秋庵12世。昭和41(1966)年没。明治期に次の資料を残している。
 明36..40『明治発句題林 2編』知守庵為谷(木村喜太郎)編 桂窓準一校 東京 潮花吟社
 明37.07『日露戦争勝鬨集』三森準一(佳窓)編 東京 古池吟社
 明40.08『惺庵西馬居士五十回忌追福句集』三森準一編 東京 古池?社
 明41.08『春秋庵幹雄師開庵第五十年及齢八十祝賀句集』三森準一編 幹雄 古池?社
 明43.02『時雨供養集』三森準一(春秋庵)編 東京 古池教会
 明44.10『芭蕉神社遷座紀念集』三森準一編 東京 大成教古池協会刊
 明45.02『月の俤』三森準一(春秋庵)編 東京 三森準一
[7]雀志については、本論「6.21 雀志」の項を参照。
[8]宇貫は、元治元(1864)年生まれ。はじめ杉浦姓、のち飯野姓に変わる。雪中庵10世。大正7(1918)年没。下記の資料を残している。
 明42.11『蓼太全集 2版』不白軒梅年・雪中庵雀志・雪蓑人宇貫校訂 東京 博文館
 明43.05『正風明治俳句集 春』双樹庵ゝ舟編 機一・宇貫閲序 羽州等題句 東京代々幡村 双樹庵
 明43.12『正風明治俳句集 夏』双樹庵ゝ舟編 機一・宇貫閲序 羽州等題句 東京代々幡村 双樹庵
 明44  『かまくら八歌仙』杉浦喬編 田辺機一・宇貫校 川端玉章編 
 明44.11『正風明治俳句集 秋』双樹庵ゝ舟編 機一・宇貫閲序 羽州等題句 東京代々幡村 双樹庵
 明45.07『正風明治俳句集 冬』双樹庵ゝ舟編 機一・宇貫閲序 羽州等題句 東京代々幡村 双樹庵
 大01.10『蓼太全集 3版』不白軒梅年・雪中庵雀志・雪蓑人宇貫校訂 東京 博文館
[9]全17冊。山本三生等著。第1巻:概論総説篇、第2巻:民族文学篇、第3巻:物語小説篇 上、第4巻:物語小説篇 下、第5巻:隨筆日記篇、第6巻:和歌文学篇 上、第7巻:和歌文学篇 下、第8巻:俳諧文学篇、第9巻:新詩文學篇、第10巻:演劇戯曲篇、第11巻:明治文学篇、第12巻:明治大正篇、第13巻:大正文学篇、第14巻:大衆文学篇、第15巻:特殊研究篇、第16巻:國語文法篇、第17巻:年表書誌篇
[10]昭和33(1958)-34(1959)年刊。1:俳諧史、2:俳人評伝 上、4:古典名句評釈、3:俳人評伝 下、5:俳論・俳文、6:現代名句評釈、7:現代俳句史、8:現代作家論、9:研究、10:地方俳諧史・研究史・索引
[11]口語俳句協会発行の月刊の俳誌。昭和23年7月創刊。昭和42年8月改刊。
[12]以下のように刊行されている。
「俳句百年1」口語俳句発行所, 1970,口語俳句;別冊1
「俳句百年2」口語俳句発行所, 1970,口語俳句;別冊2
「俳句百年3」口語俳句発行所, 1971,口語俳句;別冊3
「俳句百年4」口語俳句発行所, 1971,口語俳句;別冊4
「俳句百年5」口語俳句発行所, 1972,口語俳句;別冊5
[13]『近代俳句のあけぼの』三元社・中央公論事業出版制作, 昭和50(1975)年
 第一部「幕末明治俳壇史」, 第二部「幕末明治の俳人とその作品」
[14]返草は、月次(つきなみ)句合などで、応募された句のうちの高点句を摺り、応募者に返すもの。通常は無料である。この名称については諸説あり、本論「4.3.4 『南総内田夜酔庵雪斎受号披露句集』の意義」に記している。
[15]都々逸、狂歌、狂句、川柳、謎、小説などを主な内容とする雑誌。仮名垣魯文の『魯文珍報』(明治10(1877)年創刊)や、岡野伊平の『風雅新誌』(明治11(1878)年創刊)などを嚆矢とし、明治前20年前後に増加した。尾崎紅葉などの硯友社の『我楽多文庫』などもその系譜に属する。



[16]『撈海一得』は鈴木嘉蔵(煥卿)の著書で、別名『漫画随筆』。明和8(1771)年、江戸須原屋伊八(青藜閣)の刊である。引用文中の「明治」は「明和」の誤植である。
[17]大阪俳句史研究会編(安達しげをほか著)『大阪の俳人たち 1』
          大阪 和泉書院, 平成元(1989)年6月, 大阪俳句史研究会叢書2, 上方文庫9
[18]国立情報学研究所が作成し、提供する総合目録データベース。http://webcat.nii.ac.jp/
[19]「明治俳壇消息抄―庄司吟風『花鳥日記』」等の題で下記により発表されている。
 『花鳥日記』第 1冊(明治 4年分) 『立教大学日本文学』91〜93号、平成15年〜16年
 『花鳥日記』第 2冊(明治 5年分) 『立教大学日本文学』94号、平成17年7月
 『花鳥日記』第 8冊(明治11年分) 立教大学言語人文紀要『ことばと人間』3号、2001年
 『花鳥日記』第 9冊(明治12年分) 近世文芸『研究と評論』61・63・64号、平成13〜15年
 『花鳥日記』第10冊(明治13年分) 『立教大学日本文学』87〜89号、2001年・2002年
 『花鳥日記』第11冊(明治11年分)立教大学言語人文紀要『ことばと人間』4・5号、2002・2003年
 「続・教導職をめぐる諸俳人の手紙―庄司ギン風『花鳥日記』から」『連歌俳諧研究』100号所収
[20]秋尾敏の俳句世界「明治俳諧の世界」 http://www.asahi-net.or.jp/~cf9b-ako/haikai/meijihaisho.htm
[21]明治20年代に寺社等に奉納された句集を集めたもので、次の4つのグループに分割されて登録されている。
 『奉納句集』  東京 辻忠輿等  明20..23 155冊
 『奉納句集』  東京 辻忠輿等  明21..36 68冊
 『奉納句集』  東京 村田昌輿等 明21..23  46冊
 『奉納句集』  東京 小島則道等 明21..27 45冊
 いわゆる点取俳諧とか月並俳諧とか呼ばれるものである。『国立国会図書館蔵書目録 明治期 第6編 文学』にはそれぞれの件名しか記されていない。そこで、全資料を確認したデータを、本章の「付表2」として掲載する。なお、付表中、洋装の活字のメディアは、次の3点のみである。
 明27.01 『演知堂朴翁居士追福句集』 東雅・秋芳(三木重平編) 神奈川 愛甲郡 三橋貞次郎
 明27.01 『好鶴庵帰郷披露秋季混題句集』 東京浅草 徳野覚斉
 明36.03 『連入並点式披露四季混題句集』 埼玉 田村力太郎
[22]国立国会図書館編『国立国会図書館蔵書目録 明治期 第6編 文学』
国立国会図書館, 平成6(1994)年
[23]『俳句二葉集』は、明治27年に、正岡子規が編集していた新聞『小日本』の付録として刊行された句集。日本派最初の句集と言われる。


※付表1 「秋田県明治句碑一覧」
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 ・二葉「たつ煙雲にもならで秋の色」明治17年、秋田市八橋、日吉神社。
 ・素山「ひとつある物を何処でも月見かな」明治27年、秋田市八橋、日吉神社。
 ・皆川二山「降れば又雨をけしきや春の山」明治44、秋田市八橋、日吉神社。
 ・佐藤碧濤「見へて来るやふに聞へぬ秋のかね」明治44年、秋田市八橋、日吉神社。
 ・有柳「卯の花の白にもある夜雨かな」明治38年。秋田市西来院。
 ・可領「枯れてさへよい日のさすや菊の上」明治17年、秋田市東福寺。
 ・梅子「野は広し何処へ向いても月と梅」明治42年、秋田市久城寺。
 ・梅子「石に打ちぬ文字の線や蔦かづら」明治42年、秋田市久城寺。
 ・三味坊「鳥雲に入るや山又山の上」明治29年、秋田市善長寺。
 ・完長「淡雪や木々の雪も惜まるる」明治9年、秋田市誓願寺。
 ・はせを「暫らくは華のうへなる月夜哉」明治11年、秋田市新奥日吉町日吉神社。
 ・一節庵「草の露明日しらぬ世をましらかな」明治11年、秋田市新奥日吉町日吉神社。
 ・以栗「草の香もまたなつかしき卯月かな」明治28年、横手市神明天神社。
 ・松庭「秋立やすみきる空と水の色」明治39年、横手市神明天神社。
 ・五椿「鴬のこえふる里を神立日」明治17年、横手市金神様。
 ・柳南居士「また山は月いただきてあささくら」明治40年、湯沢市愛宕公園。
 ・笑達「すす虫や可古に何国の秋をなく」明治40年、湯沢市愛宕公園。
 ・音峰「梅さくや丸/\月の中十日」明治28年、湯沢市愛宕公園。
 ・霍嶺「人は酔里月はひそかに花のうへ」明治26年、湯沢市愛宕公園。
 ・可聴「まつ可勢の中にも聞ゆ秋の声」明治26年、湯沢市愛宕公園。
 ・風柯「人こころ愚になりぬ花盛」明治16年、湯沢市愛宕公園。
 ・林宣「とやかくと葉になりすます桜哉」明治16年湯沢市愛宕公園。
 ・遅速「空はいかにけふは薬の降と聞」明治16年、湯沢市愛宕公園。
 ・秀女「行くみちは一筋淋し秋の桐」明治32年、湯沢市最禅寺門前。
 ・草戦「我が屋との松涼しや夏の月」明治31年、湯沢市八幡神社。
 ・無為「春古登に名も栄ゆるやと幾はやま」明治43年、湯沢市三関八幡神社境内。
 ・豊「涼しさや欲垢もかたき松の風」明治31年、湯沢市上関市道端。
 ・不明「豊かさや月雪花の日にさかり」明治31年、湯沢市上関市道端。
 ・一養老翁「白露を含みて萩のたわわかな」明治31年、比内町寿仙寺境内。
 ・雪川「けふばかり人も年寄れ初時雨」明治26年、比内町正覚寺境内。
 ・月江居士「極楽はここらあたりか花の山」明治31年、比内町徳栄寺境内。
 ・庄司?風「鳴きやめばみな水になる蛙かな」明治39年、森吉町阿仁前田。
 ・あつま「打くたく月を丸めて帰る波」明治22年、五城目町神明社。
 ・柳風「空    からきは誘う風」明治22年、、五城目町神明社。
 ・三友「世に残るすかた並し枯尾花」明治17年、五城目町下山内。
 ・月高「時雨るやこの月今日は翁の日」明治17年、五城目町、下山内。
 ・南五「鋤鍬の句弟子や花に坐臥参差」明治44年、五城目町稲荷前。
 ・豊雲庵「松しまのかり寝をゆめの春夜かな」明治25年、五城目町石田六ヶ村。
 ・芭蕉「疑ふな潮の花も浦の春」明治26年、仁賀保町平沢。
 ・酔月「舞まふて立つこそ嬉し花の陰」明治11年、矢島町城内。
 ・鶴「冬枯や又咲花のはるを待つ」明治5年、由利町吉沢玉坂。
 ・亀宥「真ごころや雲井にわたる郭公」明治5年、由利町吉沢玉坂。
 ・小鯤「惜まれて蜂も打たれす芥子の花」明治4年、由利町前郷。
 ・可隋「雲の杖分るる人にゆつりけり」明治4年、由利町前郷。
 ・知友「不足なき夜の明けふりやほととぎす」明治4年、由利町前郷。
 ・逸七「梅に月更くるけしきもなかりけり」明治4年、由利町前郷。・「
 ・徳行「忍ぶ身の恋には高し猫の妻」明治4年、由利町前郷。
 ・響秀「ただひとつ水に影あり種瓢」明治4年、由利町前郷。
 ・秀女「草臥の枕にかろし郭公」明治4年、由利町前郷。
 ・柴仙「へらへらと日の移り行く尾花哉」明治4年、由利町前郷。
 ・亀山「昼の茶に寝かねてひとり納涼哉」明治4年、由利町前郷。
 ・鶴友「峰つくる雲あしらふや宿世山」明治4年、由利町前郷。
 ・芭蕉「雲折々人を休むる月見哉」明治22年、神岡町歓喜天社。
 ・小笠原素謙「古池に明理ひいたる桜かな」明治40年、西仙北町土川。
 ・村上須山「一本の杉に奥あり秋の暮」明治末期、雄物川町道地西田圃。
 ・永沼見留「面白やわが行く道は雪月花」明治末期、雄物川町柏木。
 ・渡部九右衛門「聴きなおす声あともなしほととぎす」明治末期、雄物川町常野。
 ・丹善三郎「豊かなる常野に遊ぶ閑古鳥」明治末期、雄物川町常野。
 ・不明「海原や月一輪夜明振」明治34年、雄物川町沼館。
 ・手柄「碁打たで月をみている二人かな」明治34年、雄物川町大沢下区明神社境内。
 ・皆川彳「ただ澄や三奈川水の万寿かがみ」明治16年、雄物川町谷地新田。
 ・土屋治兵衛「紙叩く音の眠らし夏木立」明治14年、十文字町館前(建立は昭和か)。
 ・松窓美佐雄「更行やあられの中に鐘の声」明治16年、羽後町西馬音内神明社。
 ・藤原至王「まきの斧ほほ杖にして牡丹かな」明治32年、稲川町大倉常在寺。
───────────────────────────────────────────── 

※付表2 『奉納句集等』
───────────────────────────────────────────── 
明21 仲秋『元祖太日堂桃鄰居士二百回忌六世桃翁孤月居士十七回忌追福並立机嗣号披露句合』
明21.01&&10『神田神社奉灯月次句集 一月分』守雪連 ,東京本郷 辻忠興
明21.01&&11『月並参句集』 ,東京本郷 辻忠興
明21.02『下総季節待受夏秋混題三句合』 ,東京本所 村田昌興
明21.02『雪萼集 亀雪庵中月並五句合 1』 ,東京浅草 山□喜一郎
明21.02『年篭冬春十題発句集』維石 ,東京芝 清水維石
明21.02&&06『稲の家庵中月次句集』(いね花連)稲の家 ,東京本所 米沢一郎
明21.02&&10『下谷神社奉灯月並発句集』(桂連) ,東京府 志村政則
明21.02&&10『箔星街海老床題額月並集』(桜連) ,東京牛込 鈴木重雄
明21.02&&10『府下根岸之里薬師堂並桂床両額面月並三句聚』翠ハイ連 ,東京 山内俊一
明21.02&&4『てつほうすいなり月なみ奉灯句合』 ,東京京橋 小野原国太郎
明21.03『花姫稲荷奉灯並一鳳庵中懸額句集』 ,東京牛込 鈴木重雄
明21.03&&06『 ,東京睦連月並句集』( ,東京睦連) ,東京麻布 原田達七
明21.03&&09『明宝廼社中月並句合』(明宝廼連) ,東京浅草 清水新八
明21.03&&10『本所一ノ橋江島神社月並奉灯琵琶集』 ,東京本所元町 大竹新造
明21.03&04『年篭六花集 第10号』 ,東京浅草 小島則道
明21.04『青山邸内稲荷初午奉灯句集』 ,東京下谷 稲見悟友(崇次)
明21.04『三友亭四季並』(曙連) ,東京 高原□杖
明21.04『雪登斉庵中掛額春季交題句集』(多賀良組) ,東京浅草 小島則道
明21.04『蛎殻町水天宮月次奉灯句合 第86回』 ,東京京橋 渡辺金治郎
明21.04『月並句合』 ,東京赤坂 疋田正善
明21.04&&10『茅場町薬師地内日枝神社仝町摩利支天隔月奉灯月並句集』日之本連 ,東京 曲直瀬道三
明21.04&&10『花屋敷かけ額・春窓楼かけ額四季之句集』東中社 ,東京 太田□次郎
明21.04&&10『慈眼薬師灯面月並三句合』 ,東京京橋 鈴木節誠
明21.04&&6『成田山不動尊月並奉灯』 ,東京本所 関川照真
明21.04(8)『晩晴堂嗣号披露四季混題三句合』(鴬盟舎)千葉 上総国長柄郡網田村34番地 吉野市蔵
明21.05『蛎殻町三丁目観音堂月並奉灯発句合』(乾坤社) ,東京 石井鉄太郎
明21.05『守雪連入改号点式披露句集』 ,東京本郷 辻忠興
明21.05『悠哉居士一周忌追福句合』武蔵野国 木村文蔵
明21.05『当季混題三句合』(水親連) ,東京日本橋 岡本卯兵衛
明21.05『松平神社奉額集句』 ,東京浅草 鈴木常次郎
明21.05『亡兄青林院七年忌追福句輯』 ,東京 石川観治
明21.05『不老軒芝友一周年忌追善春混題句合』 ,東京本所 佐々木富
明21.05&&10『烏森神社奉灯月並句集』(花実連) ,東京芝 滝川市三郎
明21.05&&10『月並句合』 ,東京 田村力太郎
明21.05&&12『寿連四季並句集』寿連 輪番 ,東京京橋 鈴木節誠
明21.06『故月之本為山翁七年祭並ニ立机披露四季混題句合』明宝野連 桑乃本総社中 ,東京本郷 辻忠興
明21.06『陸連和人披露四季句集』 ,東京麻布 林岩次郎
明21.06&&11『茅場町日枝神社奉灯月並句集』(扶桑連) ,東京 佐分利寛蔵(神奈川士族)
明21.07『武州荘原郡嶺村田原屋楼上掛額四季句合』 ,東京日本橋 西田種三郎
明21.07『幽雅堂君新居祝賀句集』 ,東京麻布 原田辰七
明21.07『月並句合』 ,東京神田 真田金次郎
明21.07&&10『雪中庵梅年評三題月次』 ,東京 深川
明21.08『四季並三句集 第1会夏分』 ,東京浅草 清水新八
明21.08『桑之本庵中俳席新築披露四季交題発句合』明宝廼社中 ,東京浅草 清水新八
明21.08『栞連披露四季混題句合』 ,東京芝 森富三郎
明21.08『自亭掛額句集』丹崖 ,東京浅草 大井信之
明21.08&&11..『大日本風流会句集 春・夏・秋・冬季』 ,東京京橋 長屋定吉
明21.09『自亭懸額四季句集』埼玉 田村力太郎
明21.09『桃家月並』神奈川 岸長吉
明21.09『遊汀居五升翁追福夏季交題句集』 ,東京 木村文蔵
明21.09『閑樹園嗣号披露春夏混題句集』閑樹園 ,東京本郷駒込 日向義徳
明21.09『四季並集』 ,東京本所元町 大竹新造
明21.09『秋三季混題通運社字結衆議発句集』 ,東京京橋 国藤新三郎
明21.09『浄蓮童子百ヶ日追福秋季混題発句合』青雲堂 ,東京芝 増島知雪
明21.09『琴日庵老母喜字賀筵四季混題句集』(村田昌輿編) ,東京本所 村田昌興
明21.09『虎門金刀比羅神社月次奉灯発句合』 ,東京芝 増島知雪
明21.09&10『月並句集』 ,東京神田 真田金次郎
明21.09&11『湯島円満寺不動尊奉灯並四時並集合併混題句章寮 第2回秋季・第3回冬季』 ,東京本郷 辻忠興
明21.10『浅草南元町月読講社同山之宿町成田山永代奉額四季句合』 ,東京浅草 清水新八
明21.10『松の家秋稿信州浜の家柴舟箱根帰杖待受句集』花連 ,東京本所 米沢一郎
明21.10『ひと葉わけ』蕉林社神奈川 岸長吉
明21.10『蓬窓菊丸芳野婦杖待受句集』 ,東京日本橋 吉村欽太郎
明21.10『白金氷川神社大祭奉灯長谷寺夜叉明王奉灯秋季五題句合』 ,東京荏原郡 吉住勝利
明21.11『祖翁例祭冬季発句合』 ,東京
明21.11『九世採茶庵・三世随巣・三世聴芦窓嗣号披露句集』 ,東京浅草 重田景福
明21.11『三島神社奉額四季乱題結字句合』 ,東京牛込 中山喜□間太
明21.11『武州西多摩郡菅生村如意輪観音奉額句集』 ,東京下谷 稲見悟友
明21.12『深川上木場三峰山奉額並ニ吏登斎宗匠広島帰杖待受四季混題三句吟』 ,東京日本橋 鈴木伝次郎
明21.12『扇獅子富貴の英』(吉村新七編) ,東京日本橋 加藤忠兵衛
明21.12『風交庵柳湖居士大祥忌追福集』 ,東京 安川平左衛門
明21.12『香楠居嗣号披露句集』 ,東京京橋 伊川信三
明21.12『日登華庵居士大祥忌追善発句集』 ,東京京橋 鈴木節誠
明22.01『上総国市原郡内田郷長栄寺観音堂奉額四時混題一万句集』 ,東京日本橋 鈴木伝次郎
明22.01『花桜五句会』 ,東京日本橋 鈴木伝次郎
明22.01..『大日本風流会句集 春・夏・秋・冬季』 ,東京京橋 長屋定吉
明22.02『明宝の社中年篭冬春句集』社中 ,東京浅草 清水新八
明22.02『とし篭句合』 ,東京日本橋 細井松夫
明22.02&5『寿連四季並句集』寿連 輪番 ,東京京橋 鈴木節誠
明22.03『雪中庵雀志評四季次 春ノ部』 ,東京日本橋 鈴木伝次郎
明22.03『蕉門改名披露楽々園懸額四季句集』 ,東京日本橋 鈴木伝次郎
明22.03『八幡社祭礼奉灯』神奈川 岸長吉
明22.03『藤廼本一麗転居披露冬春混題句集』 ,東京本郷 辻忠興
明22.03『武州下新井床場懸額句集』埼玉 金村力太郎
明22.03『牛篭喜久井街とよ床掛額発句集』(免久美連) ,東京牛込 山田豊太郎
明22.03『連号並更号披露句合』(上林森□蹄) ,東京神田 安藤秋義
明22.03&&11『風流会句合 春・夏・秋・冬季』 ,東京神田 直井朝太郎
明22.03&&11『湯島円満寺不動尊奉灯四季なみ句集 春・夏・秋の部』 ,東京本郷 辻忠興
明22.04『青山邸内稲荷初午奉灯句集』 ,東京下谷 稲見悟友(崇次)
明22.04『九世雪中庵嗣号披露四時混題発句会』 ,東京日本橋 鈴木伝次郎
明22.04『山岡鉄舟居士追弔並南養寺奉額句集』神奈川 岸長吉
明22.04『吉原仲の町楼園両面掛額』 ,東京浅草 猪爪素吉
明22.04『弐居士追善集』 ,東京浅草 石垣孫市
明22.04『柳雨大人愛児追福春夏混題句集』 ,東京芝 栗原?三郎
明22.04『春季交題句集』(旭連) ,東京麻布 多田好業
明22.04『年篭冬春混題さざなみ集』 ,東京深川 三上母子□太郎
明22.05『牛島神社若宮奉灯春夏句集』 ,東京本郷 坂知孝
明22.05『霞山箭弓両稲荷社奉灯春夏五題句合』 ,東京本郷 辻忠興
明22.05『釈妙願信女百ヶ日追福弐句吟句集』 ,東京本郷 辻忠興
明22.05『新吉原彦太楼前掛灯』 ,東京浅草 猪爪素吉
明22.05『三河国碧海郡安城村八幡社奉額句集』波留 阿栗 ,東京本郷 坂知孝
明22.05『武都小山日枝神社永代奉額句集』神奈川 岸長吉
明22.05『下毛那須雲岩寺永代奉額句集』 ,東京本郷 辻忠興
明22.05『故西尾麟慶田辺南竜居士追善春季混題句集』琴凌 ,東京日本橋 田上喜太郎
明22.05『三居士追福春夏句集』家明 ,東京神田 田中辰之助
明22.05『南有堂立机披露句集』 ,東京日本橋 渡辺金次郎
明22.05『日輪弘法大師堂内永世奉額発句集』 ,東京芝 増島知雪
明22.05『藤庵故太年居士三年祭追福句集』(幸運) ,東京神田区 本郷直
明22.05『陸奥遊歴帰節待受秋冬混題句合』(桂連) ,東京本郷区 志村政則
明22.05&12『新高野山奉額句集 夏季・冬季』(都連) ,東京下谷 渥美与作
明22.06『松の家秋稿新居披露春夏混題句集』雪雅 桐 芝舟 三重女 旭嶺 ,東京本所 米沢一郎
明22.06『守雪連月並神田神社奉灯継続十年祝』守雪連 ,東京本郷 辻忠興
明22.06『彦太楼前懸灯夏五題発句』為寿 曙連 ,東京浅草 猪爪素吉
明22.06『白山帰楼紀念及同社奉額句集』 ,東京小石川 井上正良
明22.06『塩竃神社奉灯夏季句集』(岡田幸編) ,東京京橋 根村劔吉
明22.06『草々甫翁追福句集』(栞連) ,東京芝 森富三郎
明22.06『鄙之花篭』(千遊会) ,東京 池田信正
明22.06『再興角觝春季交題発句集』(免久美連) ,東京 大館兼太郎
明22.06『判者並稲花連号披露二卍奉吟集』 ,東京下谷 稲見悟友
明22.06&07『北埼玉郡飯積村々社鷲神社永代奉額四季交題四句合』荒井一光 平井玉光 ,東京 坂知孝
明22.06..『風雅聯合句集』 ,東京荏原郡馬込村 岸田吟治
明22.07『武蔵国都築郡都田村川和八幡社永代奉額句集』神奈川 岸長吉
明22.07『湿硯庵中掛額四季混題句集』 ,東京本所石原町 青木□重
明22.07『忠臣蔵結四季混題一力楼懸額句集』 ,東京北豊島郡南千住 斎藤興八
明22.07『老まつ朝日いなりやしろ深川弁財天御水屋両社奉額句集』(素周) ,東京深川 折山文次郎
明22.08『故月琴堂松林君七回忌追善夏秋混題句合』霞頂 春笑 鴬里 ,東京本郷 辻忠興
明22.08『時鳥三句合』 ,東京本郷 坂知孝
明22.08『吏登斎新居披露夏混題句合』 ,東京本郷 坂知孝
明22.08『神宮式年御遷宮遥拝所懸額並百日祭祀執行句集』 ,東京浅草 宮川勝五郎
明22.08『梅月居士一周忌追善句集』(伊勢田広造編)神奈川 小林弥吉
明22.08『村富神社永代奉額句集』(大富社中)神奈川 岸長吉
明22.08『十句合相撲為一覧』 ,東京本所 坂知孝
明22.08&09『松平花園両社奉額句集』(忍川巣連) ,東京本所 杉本順三
明22.08&11『雑題句集』豊民 豊秋 ,東京本郷 坂知孝
明22.09『大岡川村耕地不動尊永代掛額四季混題句あはせ』神奈川 岸長吉
明22.09『武州久米村水天宮奉額句合』弥生 志山埼玉 田村力太郎
明22.09『臥竜園帰杖待請夏季句集』神奈川 岸長吉
明22.09『浅草富士ヶ根鳳集亭掛額夏秋句集』(常盤連) ,東京本所 吉野貴宗
明22.09『改号披露並温泉神社永代奉額四季交題句輯』 ,東京浅草 小島剛道
明22.09『露月居士百ヶ日追福夏秋混題句集』 ,東京神田 □木直智
明22.09..『蔦蘿集』(寿連) ,東京京橋 鈴木節誠
明22.10『翠□孱亭帰節待受句集』 ,東京本郷 辻忠興
明22.10『よしはら仲の町あけぼの連々号披露』 ,東京浅草 猪爪素吉
明22.10『藤庵嗣号披露発句集』 ,東京神田 布川□一
明22.10『新吉原花柳芳寿新居掛額夏秋句集』 ,東京日本橋区 市場□□
明22.10『秋季句集』(喜楽連) ,東京 □村□太郎
明22.10..『風雅聯合句集』 ,東京荏原郡馬込村 鈴木留五郎
明22.11『祖翁例祭冬季発句合』月 庵 ,東京
明22.11『蛎殻町弐丁目道了大菩薩奉灯秋冬乱題三句合』 ,東京本郷 坂知孝
明22.11『両居士故飛雲庵川柳、故園裳亭梅吉追福句集』 ,東京本郷 辻忠興
明22.11『陋室居歌舌居士追悼秋冬混題三句合』 ,東京本郷 坂知孝
明22.11『小泉利子追悼句集』 ,東京麹町 入江堅太郎
明22.11『土浦琴平神社奉灯句集』茨城 松野民次郎
明22.11『喜』 ,東京王子 早船一喜
明22.11『百斗庵陶水大君御帰点待受秋季三句合』 ,東京本所区 □朝本□次郎
明22.12『秋冬句集』(きらく連)
明22.12『赤城神社奉灯冬季神祇各題三句合』 ,東京本郷 坂知孝
明22.12『稲花連入披露句集』 ,東京本郷 坂知孝
明22.12『亀井野』神奈川 岸長吉
明22.12『釈早悟童子追福句集』 ,東京日本橋 細井松夫
明22.12『滝田香室貞瑞信女百ヶ日追福句集』 ,東京本郷 辻忠興
明22.12『松左園花祐居士追福発句集』 ,東京本郷 坂知孝
明22.12『雪三句合』 ,東京本郷 坂知孝
明22.12『清竜高橋俳顛居士百ヶ日追悼 秋冬混題句集』 ,東京日本橋 吉村欽太郎
明22.12『四季混題句合武州鳩谷町鎮守氷川神社永代奉額並同町吉野楼小金楼及清風亭更潮花庵別号披露』
,東京浅草 徳野光高
明22.12『忘年会冬春乱題句合』 ,東京本所 種村慎八
明22.12『丸岡利明翁追福句集』 ,東京本郷 丸岡唯七
明22.12『武州西多摩郡東秋留村二宮成田山永代奉額句合』 ,東京赤坂 増田達夫
明23.01『秋冬句集』(きらく連)
明23.01『武揚入間新座守雪連入披露句集』 ,東京本郷 辻忠興
明23.01『大相撲三句合』(雪門社中) ,東京本所区 植村清八
明23.01『四季詠』(岡田新蔵) ,東京京橋 岡田新蔵
明23.02『川崎大師新道入口奉灯句集』 ,東京本郷 辻忠興
明23.02『故以祢女三年祭』神奈川 岸長吉
明23.02『常州河内郡樋之沢鎮座月読神社永代奉額句集』 ,東京日本橋 細井松夫
明23.02『角觝見立秋季交題発句合』兎久美連 ,東京 大館兼太郎
明23.02..『風流会春季句集』 ,東京神田 直井朝太郎
明23.03『北廓千中米楼上懸額句集』 ,東京麻布 原田達七
明23.03『故奥野贈権大教正端梅軒学圃居士追善四季混題三句吟』 ,東京本郷 辻忠興
明23.03『故学行舎一ヶ年追福並嗣号披露句集』神奈川 岸長吉
明23.03『西明寺掛額句集』神奈川 岸長吉
明23.03『上総国市原郡内田郷延命山長栄寺観音堂永代奉額四季混題十句合』 ,東京本所 植村清八
明23.03『すえひろ軒かけがく句集』(大伝馬二) ,東京本所区 植村清八
明23.04『江の島恵日寿楼庭山五玉稲荷社奉灯春期文字詰句集』神奈川 岸長吉
明23.04『小伝馬町弐丁目祖師堂奉灯花桜三句合』 ,東京 神村清八
明23.04『故鷹園学山翁追福句集』 ,東京本郷 辻忠興
明23.04『不忍弁財天奉灯春夏三句合』 ,東京本郷 辻忠興
明23.04『年篭連入及別号点吊披露四季混題三句合』 ,東京 神村清八
明23.04『常陸国真壁郡下館金井町極楽寺永代奉額四季混題三句合』 ,東京 神村清八
明23.04『武陽吹上正観世音永代奉額句集』 ,東京本郷 辻忠興
明23.04『押上普賢堂永代奉額句集』 ,東京
明23.04『築秋庵幸長判者披露春句集』 ,東京 大庭仁兵衛
明23.04..『蔦蘿集』 ,東京京橋 鈴木節誠
明23.05『冬春交題年篭句集 飯倉熊野神社額面・芝荒沢三日月不動王堂灯面・芝公園弁財天境内額面奉献』
,東京麻布 原田達七
明23.05『別業屋内掛額さくら句集』(花咲庵東柳居士催主) ,東京神田 前橋栄太郎
明27.01『演知堂朴翁居士追福句集』東雅・秋芳(三木重平編)神奈川 愛甲郡 三橋貞次郎
明27.01『好鶴庵帰郷披露秋季混題句集』 ,東京浅草 徳野覚斉
明36.03『連入並点式披露四季混題句集』埼玉 田村力太郎
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