もし子規が生きていたら 2008年「潮」誌上 秋 尾 敏 もし子規が生きていたら、今の俳句をどう見るだろうという津根元氏のお尋ねである。が、これは結構難しいテーマである。歴史に「もしも」はないと言われるのだから、そもそもこのテーマを考えること自体が邪な行為ということになる。 実際に子規が生き続けていたらすでに百三十歳を越えているわけであるから、もう何も分からなくなっているであろうし、もし意識があったとしても、俳句は月並調に限る、などと言い出しているかもしれない。あるいはそれ以前に、民族派ジャーナリスト子規は、第二次世界大戦の戦犯として投獄され、戦後は発言しなくなった、などという事態も予想される。だがこんな状況設定は、依頼主の望むところではなさそうだ。 そこで今回は、元気に生き続けた子規が、インターネットを駆使して世界俳句を牽引しようとするという設定を考えてみたい。何しろ子規は、明治のニューメディアである新聞を駆使して、俳諧の革新を推進した人なのである。子規は、世界中の俳句に月並調があることを発見し、また鬼退治を始めるのだろうか。 一 子規が生き続けていたら 子規が生き続けていたらどうなっただろう。 まず、子規は新聞『日本』の記者であった。そのことを忘れてはいけない。子規は会社の方針と無関係には生きていない。むろん子規は、入社してから自分のスタイルをそれに合わせたわけではなく、子規の発想は、初めから日本新聞社社長の陸羯南の思想に合致していたのではあるが。 羯南は、よく国粋主義者と呼ばれるが、正確に言えば国民主義者である。日本が近代国家として列強諸国から認められるためには、政府と国民が共に近代化されなければならず、まず国民が世界状況を理解する水準に達していなければ、真の政府の近代化もないと考えていたのである。 明治二十一年、羯南は政府の条約改正と欧化政策に反対して官職を辞し、谷干城らの援助を受けて『東京電報』を発刊する。この新聞が翌年『日本』となるのであるが、羯南が新聞を発行するのは、当然その読者を啓蒙し、国民というものの形成に寄与しようとしてのことである。 羯南は、西洋の猿まねでは、逆に先進国から馬鹿にされるだけだということをよく知っていた。日本文化を大切にし、日本独自の良さを近代システムの内部に開花させることによって、初めて諸外国に認められる存在になるということをよく理解していた。俳句を得意とする子規を入社させたのも、その方針の上でのことである。羯南が考えていたのは、ただ単に俳句が庶民に受けるから紙面に掲載しようというレベルのことではない。民族固有の文化を、世界水準の文化に育てていくという発想がそこにはあったのである。 日清戦争が終わって、戦後経営の名のもとに政府が急激な軍備拡張を行い、政党もこれを支持するようになると、羯南は政党に対して自由民権思想を保持するよう訴え、軍国主義を批判して世界平和の理想を説くようになる。 しかしその後ロシアの中国侵出が進むと、一転して対露開戦論を展開し始める。羯南の思想が揺れ動いた訳ではない。彼は揺れ動く状況に応じて、日本が一流の近代国家として生き残るための手立てを考え続けただけである。すでに日本は、世界が列強と植民地とに両極化するという危機に直面していた。問題は、日本がそのどちらになるのかということだったのである。子規が亡くなったのは明治三十五年。羯南はロシアの脅威を熱く語り始めていた。 日露戦争後、『日本』の経営は悪化する。羯南の体調が悪かったためもあるが、日露戦争に勝利し列強の仲間入りを果たした日本は、すでに形式的には『日本』の理想を達成させていた。『日本』の使命は終わっていたのである。 明治三十九年、羯南は『日本』を手放す。新社長伊藤欽亮は紙面の通俗化によって生き残りを図るが、それに反対した三宅雪嶺や長谷川如是閑が退社し、雑誌『日本人』に移る。おそらく子規が生きていれば、このときいっしょに退社したであろう。 いや、もしこのとき子規が生きていれば、羯南の次の社長は子規であったかもしれない。すでに子規の知名度は上がり、多くの読者を集める可能性を持っていた。子規が社長ということになれば、夏目漱石の入社先も『東京朝日新聞』ではなく、『日本』ということになったろう。『虞美人草』は『日本』紙上に咲いたかもしれないのである。 大正期の子規は、あの自由主義やロマン主義に対してかなり批判的な位置取りをしたに違いない。荻原井泉水らの自由律を子規がそのまま認めるはずもなく、かと言ってまるまる否定することもなかったろうから、自由律が子規の発言によって、もう少し違った形に収束していった可能性もある。子規には、考え方が違っても本物は認めるという姿勢がある。ただし尾崎放哉や種田山頭火を子規が認めたかどうかは疑問だ。特に山頭火は長州の生まれであるから、おそらくは子規の舌鋒の犠牲になったことであろう。 また北原白秋とも、短誌のあり方を巡って大論争を繰り広げたに違いない。何しろ白秋の子規嫌いは有名で、白秋の弟が経営するアルス出版から子規全集が出ると聞いて激怒したという話が残っているくらいである。 その後の新興俳句の台頭では、むしろ虚子を諫めたかもしれない。子規の俳諧革新は、一面では俳句文化の社会システムの転換であった。「宗匠ー連」というシステムが、「主宰ー結社」というシステムに再構成されるきっかけを子規は作り出している。一方で虚子を擁護しつつ、他方では権威主義に抵抗する若手を子規は援護したのではないか。 だが、戦場に取材にすら行かず、新聞記事と写真と想像力で戦争俳句を作り続けるような若手を子規が評価するとは考えられない。それは写生云々というレベルの問題ではなく、人としての生き方の問題なのである。とすれば、評価の対象となるのは富沢赤黄男くらいのものか。 二 戦中・戦後の子規 明治の頃の子規の性格からすれば、戦時中か戦後のどちらかに投獄されている可能性もある。むしろ国家主義の立場から行き過ぎた軍部の暴挙に正論を吐いてしまうかも知れず、あるいは侵略的な国家主義に荷担したとして、戦後は戦犯という立場に置かれるかも知れない。 ただ子規もすでに喜寿を過ぎ、年の功によって虚子とともに信州の片隅で静かな戦後を迎えたかも知れない。 三 子規のホームページ 老いてなお好奇心と意欲を失わない子規は、一九九四年、ウエッブ上に自らのホームページを立ち上げ、俳句・短歌の世界進出を企てる。ホームページのタイトルは「日本」。俳句、短歌を中心に、あらゆる日本文化を盛り込んだそのページには、日本文化が、いかに世界の文化と交流し合うことによって形成されてきたかが示され、日本こそが世界文化の中心的な交流地点であるかのように構成されている。 重要なコンテンツとして、そこには子規の「俳句分類」が公開されている。それはすでに江戸俳諧ばかりでなく、近代俳句のほとんどの句集までも網羅しており、またあらゆる俳句コンクールや大会の入賞句も入力され、「総合俳句データベース」と名付けられて、類想、類型、類似の作品がたちどころに検索できるようになっている。 二〇〇二年、ある俳句と他の俳句が似ているかどうかの判断を文体分析により計量的に判断するアプレットがホームページ「日本」に登場し、話題となる。人々は一句作るごとに、おそるおそる子規のホームページ「日本」にその句を入力し、過去に似た句がなかったかどうかを確かめるようになった。二〇〇五年には、ついにすべての俳句団体が、作った俳句の「総合俳句データベース」による検索を、新しい俳句のルールとして義務づけるようになった。 その結果、類型の要素の第一が「巧さ」であることが判明し、それでもなお巧さを追求するか、それとも下手な句を目指すかで、俳壇に論議が沸き起こり、子規は下手派の旗頭となった。 子規がその昔に述べた、文字の順列組み合わせの限界によって俳句は明治時代には尽きる、という予測は、ずっと間違った予言と考えられてきたが、実は子規は、明治時代が八十年ほど続くと考えていたのである。そこでデータベースで隈無く捜してみると、おおよそ子規の予想が当たっていることが分かってきた。ただしそれは、俳句で使われる言葉が変化しなかった場合の話であって、実際には変化し続ける日本語を俳句が取り入れた分だけ可能性が残されることになる。 それにしても新しい俳句表現が登場する可能性は低くなり、それによって本物の創造的な俳句作家と、俳句らしさをなぞる趣味の俳人とがはっきり区別されるようになった。 二〇〇八年、各俳句団体の協議によって、本物の俳句作家と認められるためには、子規の「総合俳句データベース」によって、類型度〇・三以下と計測された俳句作品を、三割以上の確立で年間五十句以上発表しなければならないということになり、この条件をクリアできる作家はほんの十数名ということになってしまった。 子規自身も一四〇歳となり、さすがにこの条件をクリアできなくなっていたが、俳句らしさに遊んだり、学んだりすることの重要性に気づいた子規は、蕪村が好んだ「句兄弟」という考え方を利用することを思い立ち、ホームページ上に「俳句兄弟」というコンテンツを作り出した。これは、パロディーとして過去の作品を利用した作品を発表したり、あるいは自分の作った句と似た句を積極的に探し出してそれを兄の句とし、自分の句を弟として並べて鑑賞するという遊びである。 また絵を描くことが好きな子規は、ホームページ上の画像もすべて自分で書いて楽しんだ。 子規の選択したOSはBTRONである。MS社の製品はもちろん、Linuxにさえ子規は興味を示さなかった。それは子規が国産品の熱烈な愛好者であったためであるが、何と言っても「俳句分類」に出てくる漢字を すべて表示できるOSはそれしかなかったのである。 また子規は、世界各国語の俳句の収集も始めていたが、そのすべての文字をBTRONは表示した。そのことが世界に認識され、BTRONは徐々に世界に普及し、独自の文字を使う少数民族に熱烈な歓迎を受けて、今や世界標準になりつつある。二〇一八年のことである。今年子規は、一五〇歳の誕生日を迎える。 ※時代状況が変わっていますが、2008年に発表したままを掲載しています。 |