武田和郎 句集『一文字』書評

「秋風」の温もり
  
秋尾 敏

 「俳句四季」2007年9月号掲載


老人と秋風が来てさて坐る  和郎

 武田和郎は、考える詩人である。「ももすもも仮名を軟派と思いけり」「満月の力を借りて釘を打つ」「水を釣る哲学もあり小春の日」などなど、一句一句に思考の過程がある。
 考える俳句はおもしろい。仕掛けやひねりを存分に楽しむことができる。だが、掲句は、何も考えていない。考える詩人が考えていない。そこに凄みがある。
 もちろん仕掛けはある。「さて」に前後を暗示させ、坐ったあとが本番だと言っている。「さて」というのはそういう言葉である。何をするのかは分からない。会話を始めるか、句をひねるか、瞑想にふけるか、あるいは休むだけなのか、それは分からないけれど、ともかくも、それからが本番である。おそらく、ただ「坐る」ということが本番だったのであろう。それ以上のことはどうでもよい。そこに無為が生まれ、俳味が生じる。
 この「老人」は作者かもしれない。そのこともまた「さて」が示している。「さて」は、けっこう主観的な言葉である。副詞の「さて」は代名詞のようなものだからともかくとして、接続詞の「さて」には語り手の意識が強く現れる。「ま、とにかく話を変えよう」ということである。掲句の「さて」は、この接続詞のような性格も持つが、実は感動詞で、「さあ」ということである。「さて」と言っているのは語り手、つまり作者のはずであるから、「老人」も自分と言うことになる。それを「老人と」と客観的に言い出したところが俳句である。作者は、視点を「老人」の外側に置いて描きだし、「さて」で、突然内面化して見せる。そこにこの句の「切れ」が作られている。
 また、作者も「老人」も、「秋風」に人格を認めている。このことが、作品にヒューマニズムを漂わせる要因となり、「秋風」という季語で温もりを描くという離れ業を成功させている。
 いずれにせよ、武田和郎は、ほんとうにいろいろなことを俳句に詰め込む人なのである。