一茶受容史

 秋尾 敏

  ある作家の作品が、世の中に受け入れられていった過程の考察を「受容史」という。
 国立国会図書館の蔵書を調べると、江戸の俳人では、芭蕉、蕪村、一茶の資料が多い。しかし、その中で一茶は、生前それほどの大家だったわけではない。近代に、一茶が江戸を代表する俳家とされていった過程を追ってみよう。

 (1)生前の一茶の受容
 信濃、下総を別にすれば、生前の一茶を葛飾派の代表的俳家と見なしたのは大阪俳壇である。寛政十二年(一八〇〇)頃の京大坂の俳人番付に、葛飾派ではただ一人一茶が載るという。これは一茶の師、二六庵竹阿が宝暦・明和の頃、大阪俳壇再興に寄与し、一時その二六庵を継いだことのある一茶が大阪を訪問しているからであろう。大阪の俳人たちは、世話になった竹阿の庵号を継いだ人として、一茶を迎え入れ、その名を記憶したのである。

 (2)一茶没後の受容
 一茶の没後、門人で信州飯山藩の御用油商であった西原文虎が『一茶翁終焉記』(文政10年(一八二七))を記し、また信州の門人十四名が『一茶発句集』(文政12年(一八二七)序)を刊行している。また、天保・弘化時代には、信州中野の山岸梅塵が『一茶発句集 続編』(未刊)を編んだり、「一茶十七回忌・父梅堂追善」という名目で『あられ空』を刊行したりしているが、これらは弟子による地域的な活動である。当時、江戸から出されたいくつかの類題集を見てみたが、一茶の句が多く集録されているということはなかった。
 ところが嘉永元年(一八四八)、墨芳・一具編『俳諧一茶発句集』二巻が刊行されると、状況が変わりはじめる。版元は江戸の山城屋佐兵衛で、かなり版を重ねたらしい。一具は、陸奥福島の浄土宗の僧であったが、四十三歳で江戸に移り、著名な宗匠となっていた。
 そこに信州中野の有明庵白井一之によって『おらが春』(嘉永五年(一八五二)序)が刊行され、一茶の人気はさらに高まる。『おらが春』の文章(俳文)が、一茶の人となりを人々に伝えたからであろう。
 一之は、逸淵から序を貰い、その弟子の西馬に跋を書いてもらっている。というより、これは逸淵が勧めた刊行だったかも知れない。逸淵は群馬の俳人だが、一茶と交流があり、信濃を訪ねてもいる。弟子の西馬は江戸に出て一家を成し、著名な俳人となっていた。この二人が序と跋を書いたことが、『おらが春』の価値を高めたと思われる。
 安政時代になると、一之は、その『おらが春』を、江戸の須原屋から『一茶翁俳諧文集』という名で再刊する。需要もあったのだろうが、一之の才覚を感じる。
 その結果であろう、文久元年(一八六一)の『書画価格録』という目録には、芭蕉・千代女・蕪村・良太・宗久・士朗に続いて一茶が掲載されているというから、幕末の一茶はすでに著名俳人である。小林文雄著『岩手俳諧史』(萬葉堂・昭和53年)には幕末の話として「岩谷堂の竹堂の如く遠く信濃の一茶に私淑して、特異な俳風を全国俳壇に投げかけて居た」などとあるから、幕末の一茶は、すでに全国的に知られた存在であったと考えられる。

 (3)明治期の宗匠たちによる一茶の受容
 明治三十年に、信州出身の宮沢義喜・宮沢岩太郎編『俳人一茶』(三松堂松邑書店)が「正岡子規校」として刊行されて版を重ねたため、この本によって一茶が世に広まったと考える人も多いが、幕末の一茶はすでによく知られた俳人になっており、さらに明治十年代に信州の俳家たちの努力があった。また、二十年代には、逸淵の門流による受容や、大阪俳壇の継続的な受容もあったのである。
 明治十一年、白井一之(有明庵)が、郷土の人々とともに三たび『おらが春』を刊行する。特筆すべきは、この本が東京の好文堂からも同時に刊行されていることで、そのため、『おらが春』を知る人はかなり増えたと考えられる。おそらく弘文堂の社主、小池保吉も信州の人であろう。
 明治二十年代には、西馬の弟子である三森幹雄が、活字メディアで一茶の句を世に広めている。幹雄は、当時最大の俳句結社、明倫講社の社長で、門弟三千人ともいわれた人であるから、その影響力は大きかったと考えられる。幹雄編『俳諧自在法1~11』(庚寅新誌社・明治25・26年)は、各地の弟子に向けた通信教材だったと思われるが、その中に、一茶の句がかなり引用されている。師系の逸淵、西馬が慕った一茶は、幹雄にとっても一門のような存在だったのだろう。一茶が国学を学んでいたことも、国学派の教導職の幹雄には好ましいことだったろう。「発句を作る方」の項に〈巣の鳥の口あく方や暮の鐘〉〈野大根の花となり鳧なく雲雀〉〈出代やいつくも同し梅の花〉〈夜に入れは直したくなる接木哉〉〈朝顔にはけまされたる夏書哉〉〈此雨はのつ引ならしほとゝきす〉などが引かれている。滑稽句や境涯句ではなく、月並調の句が選ばれていることに注目したい。幹雄自身の句にも、一茶のこうした句の影響があるように思う。明治の月並調の背後には、一茶のこうした句の影響があるのではなかろうか。
 その翌年に刊行された『俳諧名誉談』(庚寅新誌社)にも一茶が取り上げられ、「先生元より仏心に志し深く、敢て継母を恨ます。異母の弟に家を譲りて」、「一茶翁の口調皇国(みくに)の俗言を活(いか)さんとせし故に。其詞の品々なるを人狂句の如く心得て一茶風といひしか。其深きを心得さるぞ、いとわりなき」と紹介されている。一茶の句に深さを読もうとしている点に注目したい。また「皇国(みくに)の俗言を活(いか)さんと」という捉え方にも、国学派の幹雄の面目が感じられる。
 一方、大阪では、この連載の第十回に登場した楠蔭波鴎が、明治二十五年、『意匠自在発句独案内』(米田ヒナ・金川書店)に一茶の句を数多く紹介しており、大阪俳壇における一茶の受容が、江戸期から続いていたことが分かる。引用されているのは、〈巣の鳥の口あくかたや暮の鐘〉〈古桶や二文樒も花のさく〉〈茶もつみぬ松もつくりぬ丘の家〉〈せい出してそよけ若竹今のうち〉〈朝寒や垣の茶笊の影法師〉〈今年米我等が小菜も青みけり〉〈我宿の貧乏神も御供せよ〉などで、こちらも境涯句や滑稽句ではない。中に〈鷺からす雀のみつもぬるみけり〉のように、出典を確認できない句も混じる。この本は明治二十七年に九版を出し、出版社を金川書店に移してさらに版を重ねているから、大阪近辺では一万人を超える人が読んだ可能性がある。
 さらに、これも大阪の弘業館から明治二十七年に刊行された秋月亭寛逸編『改筆季寄俳諧発句初まなひ』にも「発句作例」として〈竹にいさ梅にいさとや親すゝめ〉〈山をやく明りにくたる夜舟哉〉〈まかり出て花の三月大根かな〉〈鹿の親篠ふく風にもとりけり〉〈魂たなや上坐してなくきり/\す〉〈人をとる茸やはたして美しき〉などが引用されている。大阪俳壇における一茶は、すでに発句の指標的存在になっていたとさえいえるかもしれない。
 この時期、長野県においても一茶の評価はさらに高まる。明治二十六年、「東京日日新聞」「時事新報」の選者で、永機の阿心庵を継いだ小平雪人が柏原を訪問し、一茶の価値を説いたといわれる。ただし、これ以前から一茶に傾倒していた地元の俳人は多く、雪人によって一茶の価値に気づかされたということではないように思う。
 明治三十年には、樹葉編『月と梅』が「祖翁二百年紀念建碑会」として小県郡国分寺から刊行されるが、付録として「曽良 白雄 一茶句集」載っている。一茶は既に「曽良 白雄」に並ぶ郷土の三大俳人だったわけである。
 こうした状況を背景に、正岡子規校の『俳人一茶』が刊行され、版を重ねた。いうまでもなく、子規に原稿を依頼した編者の宮沢義喜と宮沢岩太郎編は信州人である。
 明治四十四年に刊行された臼田亜浪編・楓関(渡辺千秋)・無辺(渡辺国武)述『楓関無辺 一茶俳句二色評』(好文堂)という本も興味深い。渡辺千秋と渡辺国武は兄弟で、諏訪郡長地(osati)村(現・岡谷市・下諏訪町)に生まれ、知事や大臣を歴任し、兄は伯爵に、弟は子爵となっている。編者の臼田亜浪もまた長野県北佐久郡小諸町の生まれである。
 信州人たちの、一茶に対するこの熱情はどこからくるのであろうか。
 長野県は、もともと信濃という一つの国であったが、江戸時代には、十九もの藩と天領に分割されていた。
 戊辰戦争ではほとんどの藩が官軍に付くが、経緯は複雑で、明治になっても各藩は困窮して一揆が多発。その勢力が中野に集結して、中野騒動が起き、佐賀藩兵を主力とする政府軍によって鎮圧される。結果、五百名以上が逮捕され、二十名以上が処刑されるという事態となった。
 この事件がきっかけで今の長野市に県庁が置かれるのだが、その状況の「長野県」を一つにまとめていくのは容易なことではなかったろう。隣町は互いに「他藩」だったのである。しかし人々は、一方で「信州人」というアイデンティティを復活させる必要も感じていた。
 そのとき一茶の生き方が、信州人の象徴として働きはじめたのではなかろうか。厳しい家庭環境に負けず江戸に出て学び、各地を旅して一家を成すが、欲は持たず、やがて故郷に戻って自然とともに農業で暮らす、という生き方は、信州人が共通して典型とすべき人物像であった。
 明治四十三年、突如一茶の「勧農詞」なる文章が出回り始める。藤原楚水編『先哲遺訓座右銘全集』(実業之日本社)あたりから農業関係の書物に転載され、やがて国語や修身の教材となっていく。実際は伊那飯島の宮下正零という人の作らしいが、こうなると、もはや一茶は信州を超え、日本の国民像の象徴となっていたというべきであろう。

 (4)明治の一茶ブーム
 昨年十二月、中田雅敏氏の著書『小林一茶の生涯と俳諧論研究』(角川書店)が刊行された。中田氏は、俳誌「雅楽谷」主宰の中田水光氏である。この本では、新しい近世歴史観によって一茶が語られている。
 例えば、本書にも「士農工商」という従来からの用語が用いられているが、それは決して固定的な身分の上下関係のことではない。本書の「士農工商」は、相互に流動的な庶民の生活様態で、そのいずれにも属さなかった「遊民」としての一茶の生き方が語られている。
 今、江戸時代の歴史は、二十世紀に私たちが学校で学んできたものとはかなり異なったものになっている。貿易制限はあったが、支配層は西欧の情勢をよくとらえており、蘭学はこの国の文化に大きな影響を及ぼしていた。日本の銀はヨーロッパ経済に大きな影響を与え、銅は阿蘭陀(オランダ)の武器となって英吉利(イギリス)、西班牙(スペイン)を脅かした。
 日本国内の識字率は高く、多くの人が本を読み、俳諧や雑俳を楽しんだ。高等数学をゲームとして楽しむ人々が各地におり、算盤を使った経理のスピードは西洋を凌駕していた。封建的と言われてきた社会制度も流動的で、人々は士・農・工・商等の職種を自由に行き来し、各地に都市が生まれ、士農工商に属さない渡世人や雲水(漂泊の俳諧師)のような「遊民」を生み出していた。つまり、機械産業以外は、すでに日本は「近代」であった。
 私たちは、そういう認識において「俳句史」を考え直すべきである。中田氏は、従来の一茶研究を網羅した上で、それを新しい歴史観に乗せて語り直している。一読し、一茶は、私が前回記したよりもっと名の知れた俳人になっていたかもしれないという印象を持った。再考してみたい。
 さて、士農工商に属さない俳諧師という存在は、江戸時代の社会状況を解明する象徴ともなるものだ。一門を持つ「宗匠」は、まだ「商」であったかも知れない。だが、その「宗匠」をも捨てた芭蕉や一茶は、まさに士農工商の枠を超えた存在であろう。今日、芭蕉と一茶が突出した影響力を持っているのも、彼らが時代の最先端の存在だったからではなかろうか。
 明治の人たちも、一茶の魅力にとりつかれたようで、例えば次のような書物が一茶を語り始める。
 明29『俳諧独学』(大橋又太郎・三宅青軒編・博文館)
 明30『俳人一茶』宮沢義喜等編・子規校・三松堂松邑書店
   『連俳小史』佐々醒雪・大日本図書
   『俳諧名家全伝』桃李庵南涛・三松堂
 明31『消閑漫録』志村作太郎等・興雲閣
   『一茶大江丸全集』岡野知十校・博文館
 明32『座右之銘 先哲教訓』裳華房編・裳華房
 明33『青年文学時文断片』松霞子・武田交盛館
   『硯海余滴』中川愛氷編・明昇堂
   『偉人の言行』俣野節村著・大学館
   『花紅柳緑誌』無腸公子・河合文港堂
 明34『滑稽俳句集』佐藤紅緑・内外出版協会
 明35『俳諧百話』青蓮庵・金桜堂
   『俳句小史』佐藤洽六(紅緑)著・内外出版協会
   『一茶俳句全集』大塚甲山編・内外出版協会
 明36『一茶句集』俳諧寺社中・博文館
 明38『一茶俳句二色評』楓関千秋・無辺国武
 明39『風雲児女』町田藍川・読売新聞社
 明40『名家奇文集』中川愛氷編・藤谷崇文館
   『短文百家選』中川愛氷編・藤谷崇文館
   『滑稽妙文集』中川愛氷編・文学同志会
 明41『一茶一代全集』可秋編・又玄堂
   『古今名流俳句談』沼波瓊音他・内外出版協会
   『模範名家俳句大成』沼波瓊音編・東亜堂書房
 明42『清新禅話』忽滑谷快天編・井冽堂
   『国の光』坪井忍・報徳会
   『人物の神髄』伊藤銀月著・日高有倫堂
   『日本奇人伝』町田源太郎著・晴光館
   『俳聖五家集』天生目杜南編・昭文堂
   『鳴雪俳話と評釈』内藤鳴雪著・博文館
   『滑稽百話』加藤教栄著・文学同志会
 明43『黙想の天地』沼波瓊音著・東亜堂
   『七番日記』一茶同好会編・一茶同好会
   『猫』石田孫太郎著・求光閣
   『先哲遺訓』藤原楚水編・実業之日本社
 さらに続くが、ここで止めておく。三十年代は日露戦争のために減少するが、その後は年を追うごとに増加している。一茶ブームというべきであろう。書名から分かるように俳書ばかりではない。一茶は、新時代の生き方を模索する人々の指標ともなっていた。その生き方と俳風の両面で、一茶は明治の日本文化に大きな影響を与えていた。

 (5)秋声会・博文館による一茶の活字化
 秋声会は、明治二十八年十月に結成された俳句結社で、中心にいたのは、角田竹冷、尾崎紅葉、戸川残花、大野洒竹らである。新古の折衷を主義としていたため、江戸俳諧の紹介に努め、出版社の博文館と組んで一茶を活字化し、明治期以降の一茶の受容に大きな役割を果たした。
 まず子規の校閲した『俳人一茶』より早く、秋声会に連なる大橋又太郎(乙羽)が『俳諧独学』において、一茶を取り上げていることに注目したい。
 ただし、この本は、奥付の編者こそ大橋又太郎であるが、実質的な著者は三宅青軒である。「例言」には「青軒三宅彦輔君の編する所、氏は京都の人にして、其祖父は俳豪花の本菫舎翁なり」とある(「菫舎」は「芹舎」の誤植であろう)。
 大橋又太郎は、博友館社長大橋新太郎の養子となった人である。博文館は、当時、俳文芸の活字化を進めた出版社で、三宅青軒はその博文館の「文藝俱楽部」編集部にいて、後に小説家となった人である。八木芹舎の孫というから俳諧史にも造詣があり、内容の大方を青軒が書いて乙羽が整え、活字で刊行したということであったと思われる。とすれば、俳諧宗匠の知識が若い世代に伝わっていく過渡期の資料として注目されるべきである。この本の題字は渋沢青淵(栄一)で序は永機、題句が幹雄であるから、博文館が、いわゆる旧派の読者を対象に刊行した書籍と考えてよい。
「一茶の風調」という項には「されど一茶は、仏道に志篤くして、敢て継母の無慈悲を怨まず、異母の弟に家を譲りて世を遁れしが」「我国の俗言を力めて使ひこなし」「なにやら狂句めきたる風あれど、併しよく/\其句意を翫索すれば、なか/\に高尚なる想を含めるなり」などと評し、〈露散るや各々明日は御用心〉等を引いている。
 明治三十一年には、同じ博文館から岡野知十校の『一茶大江丸全集』が刊行され、明治末までに五版を重ねている。
 また、大正二年には『名家俳句集』(博文館)の中に高梨一具補訂の「一茶発句集」が佐々醒雪と巌谷小波の校訂によって刊行されてもいるから、秋声会の人々が一茶の句を活字化する大きな力になっていたことは確かであろう。

 (6)日本派による一茶の受容
 正岡子規「俳句分類」「春の部」に引用された一茶の句 は三十二句。〈春立つや見ふるしたれど筑波山〉〈浦風にお色の黒い雛哉〉〈手のひらにかざつてみるや市の雛〉〈門番があけてやりけり猫の恋〉〈昼飯をたべに下りたるひばり哉〉〈魂も心おくかよ巣立鳥〉〈雀の子そこのけそこのけお馬が通る〉〈象潟や桜をたべて鳴く蛙〉〈おんひらひら蝶も金比羅参り哉〉〈蛙飛ぶや此世にのぞみないやうに〉〈夜に入れは直したくなる接木哉〉などで、動物に偏っている。他の季節に一茶の句は見当たらないので、子規が一茶の句集をどのくらい読んでいたのかはよく分からない。
 けれど、『俳人一茶』の解説では、子規は一茶の全体像を把握しているように思われる。
俳句の実質に於ける一茶の特色は、主として滑稽、諷刺、慈愛の三点にあり。中にも滑稽は一茶の独擅に属し、しかもその軽妙なること俳句界数百年間、僅に似たる者をだに見ず。(中略)一茶は不平多かりし人なり。(中略)一茶は熱血の人なり。(中略)俳句の形式に於ける一茶の特色は、俗語を用ゐたると多少の新潮を為したるとに在り。
 こうした子規の評が、一茶の評価を滑稽に傾けたという批判はある。しかし、子規の言う滑稽は、俳諧の本質としての滑稽であって、決して浅薄なものではない。それは、一門の佐藤紅緑の『滑稽俳句集』(内外出版協会)の選句を見てもわかる。この選集に紅緑が選ぶ一茶の句は〈春空を今こしらへる烟かな〉〈春風や牛に引かれて善光寺〉〈門前や杖でつくりし雪解川〉〈柳からももんぐぁと出る児哉〉〈大仏の鼻から出たる燕かな〉〈昼飯をたべにおりたる雲雀哉〉〈雀の子そこのけそこのけお馬が通る〉〈おんひらひら蝶も金比羅参り哉〉〈折てさすそれも門松にて候〉〈おらが世やそこらが草も餅になる〉〈持たすれば雛をなむる子供哉〉〈這へ笑へ二つになるぞ今朝からは〉など味わい深い句である。
 さらに紅緑は『俳句小史』(内外出版協会)に「一茶は当時の大異彩を添へた傑物」「俳句史上四百年間を通じて彼れが独擅に闊歩した滑稽的方面は、決して他をして其縄張に入れしめなかった奇物」「芭蕉蕪村以外に自家の畑を開拓した」「一茶は箒星」などと評している。
 日本派の滑稽観は、中川四明が西洋哲学の概念で理論化している。これについては次回述べよう。
 子規の「滑稽は一茶の独擅に属し」という評は、一茶の文学性を低く見た言説ではない。『俳諧大要』(ほととぎす発行所・明治32年)に子規は、「滑稽もまた文学に属す。しかれども俳句の滑稽と川柳の滑稽とは自らその程度を異にす。川柳の滑稽は人をして抱腹絶倒せしむるにあり。俳句の滑稽はその間に雅味あるを要す」と書き、「滑稽」の文学的価値を認めている。
 この子規の滑稽観を、西洋美学の概念を使って理論化してみせたのが中川四明であった。
 四明は、明治三十九年に『平言俗語俳諧美学』(博文館)を刊行し、最後の章に「滑稽」を置く。これは、子規の「美の標準は文学の標準なり」(『俳諧大要』)という考えを、論理的、体系的に展開した本だと言える。
 四明は、寒川鼠骨によって、夏目漱石、尾崎紅葉、水落露石、大野洒竹とともに「明治俳壇の五名家」の一人に数えられた東大予備門の教授で、京都に戻って関西俳壇の中心人物となった。この本の読者も多かったようで、明治四十二年には第四版が刊行されている。
 四明は「悲壮」の美の対局に、優越による「滑稽」を置き、「尋常滑稽」「諧謔」「有情滑稽」の三種を示す。
 「尋常滑稽」は、何事かと思ったが害がなかったという葛藤で、一茶の〈陽炎や手に下駄はいて善光寺〉〈涼風のまがりくねりて来りけり〉等が例句に挙げられている。
 「諧謔」は「一時二物をして一物の如き想ひあらしむる」滑稽で、まず掛詞や枕詞がそれだとされ、一茶の〈蕗の葉に飛てひつくり蛙かな〉等が挙げられている。他に「外観の類似を笑う」「思い違い」、「つくりかへ」、「方言俗語」、「換意(パロジー)」、「做大(カリカツール)」等があるとされ、「做大」の例として一茶の〈早乙女か尻につかへる筑波山〉が置かれている。また、「陽賛(イロニー)」と「諷刺(ザチリー)」は、「川柳に適して俳句には用ひ難し」と述べられている。
 三つ目の「有情滑稽」は「フモール Humor」で、「滑稽美の至高」とされる。「観るものと観らるゝもの」が同じ「人」であるから、「我みづから我を笑へる」ということになる。今で言えば、ヒューマニズムを基底に置いた笑いということになろう。「諧謔は理に愬((うった))え有情滑稽は情に愬ふ」と言い、「笑へる涙」だとして、一茶の〈露ちるやあすはおの/\ご用心〉、子規の「糸瓜咲て痰のつまりし佛かな」等が掲げられている。つまり、「陽賛(イロニー)」や「諷刺(ザチリー)」は他者を区別して笑うのであるが、フモールは、人類全体のおかしさを笑うのである。
 おそらく四明は、ドイツ・ロマン派のジャン・パウルの著『美学入門』(一八〇四年)を参考にしている。イロニーとフモールを並べて滑稽を論じる四明の方法は、現代においても、川柳と俳句の違いを考えるときの指針となる論であろう(『美学入門』は二〇一〇年に白水社から古見日嘉訳の新装版が刊行されている)。
 (7)筑波会(帝国文学派)による一茶の受容
 しかし、いわゆる新派の俳人たちの中で、一茶をもっとも早く、また高く評価したのは、佐々(さつさ)醒雪(せいせつ)、沼波(ぬなみ)瓊音(けいおん)、大野洒竹(しやちく)、天生目(あまなめ)杜南(となん)ら、筑波会の人々であろう。
 醒雪は『連俳小史』(大日本図書・明治30年)に、「一茶坊は成美の門人なりき然れども彼が天賦の奇才は到底師伝の羈束に堪えざりき、彼は破門を甘受して彼自身の俳諧を始めぬ、其滑稽詼謔の調専ら俗談平語を弄して而かも卑属に陥らざるは三百年の俳諧史中独り其の美を専らにする所なり」と述べている。これは明治二十七年から「帝国文学」に連載された文章で、内容にいささか問題はあるが、明治期の一茶の評価としてはもっとも早期のものである。
 また瓊音は、『黙想の天地』(東亜堂・明治43年)の「一茶翁の特色」に、俳句を知るには「一茶の句集を見れば沢山だ」と洒竹に言われたことを書いている。
 杜南は『俳聖五家集』(昭文堂・明治42年)に、宗因、鬼貫、芭蕉、蕪村、一茶を並べており、また、醒雪は巌谷小波(さざなみ)と刊行した『名家俳句集』(博文館・大正2年)に、高梨一具補訂の『一茶発句集』を入れている。

 (8)教材として受容された国家主義の一茶
 前回紹介した中田雅敏著『小林一茶の生涯と俳諧論研究』には「一茶の教育教材化」という章が設けられており、明治四十三年に信濃教育会の『補習国語読本』に始まる一茶の教材化の過程が詳しく述べられている。
 要約すれば、明四十一年、俳諧寺可秋によって『一茶一代全集』に一茶作として載せられた「勧農詞」(実は他人の作)が、主に実業補習学校の副教材であった『補習国語読本』に収録され、当時の総合的「郷土」学習の教材に一茶が使われるきっかけを作ったということである。
 その後の展開は中田氏の著書を読んでいただきたいが、少し付け加えると、『補習国語読本』刊行の前年八月に、東京の報徳会から刊行された坪井忍編『国の光』にも「勧農詞」が「一茶勧農の詞」として収録されている。また、四十三年六月に東京の実業之日本社から藤原楚水編『先哲遺訓』(座右銘全集)が出て、そこにも「勧農詞・小林一茶」という章がある。楚水が信州の生まれならまだ話は分かるのだが、大分県豊後高田市の人である。
『国の光』は、巻頭に「教育勅語」を置く国家主義の本である。信濃教育の郷土教育に先駆けて、あるいは同時進行で、報徳会のような国家主義の団体の一茶顕彰が進んでいたものと思われる。
 一茶の生きた時代は、人々が世界の中の日本を強く意識した時代であった。寛政四年(一七九二)にはロシアのアダム・ラクスマンが根室に、文化元年(一八〇四)にはニコライ・レザノフが長崎に来て、国中が大騒ぎになり、一茶も〈花おのおの日本魂いさましや〉(文化三年)などの句を詠んでいる。一茶のこうした側面が、国家主義者によって、さらに早くから受容されていた可能性も考えてみなければなるまい。何しろ、大正十三年、長野県上田市の蕉風俳諧研究会の西村実太郎による『一茶翁百年祭記念集発行の趣意』には、「忠君愛国の志」として一茶が顕彰されているのである。

 (9)反権力としての一茶の受容
 その一方で、一茶は反権力の人としての人気も高かった。志村作太郎・岩崎英重著『消閑漫録』(興雲閣・明治31年)は「一茶の気慨」として次の文章を置いている。
 加州候より使ありて短冊を乞はる、一茶乃ち缺硯の硯を払ひ、唾して墨摺り、禿筆にて書かんとせしを、ソハあんまりと使の詰れば、アナ面倒と其儘寝転びて取合はず、使者是非なく彼の言に任せければ、然らばとて「何のその百万石の笹の露」何たる洒落ぞ、又或時墨堤にて「土手縁りに江戸を眺むる蛙かな」風刺の上乗。
 この逸話は、この後もさまざまな書籍に使われている。
 さらに、日露戦争に反対した俳人として知られる大塚甲山が『一茶俳句全集』(内外出版協会・明治35年)を編んでいることにも注目しておきたい。
 甲山は青森県上北郡上野村(現、東北町)出身で本名は寿助。「平民新聞」の非戦論に共鳴して社会主義協会に入り、「新小説」に詩や随筆を発表。明治四十四年に三十二歳で没した。
 明治三十年、雑誌「文庫」(少年園・内外出版協会)の俳句欄に投句を始め、内藤鳴雪に認められて、三十四年に内外出版協会から鳴雪選評・甲山編『俳句選 第一編』を刊行する。このとき甲山は上野村在住のままであった。
 その後上京し、内外出版協会の山形悌三郎の企画で『一茶俳句全集』を編纂して明治三十五年十二月に刊行。よく読まれたようで、四十二年に第五版が出ている。
 甲山は岡野知十、巌谷小波、中山丙子(へいし)から資料や助言を得たが、句数の少なさや誤写の多さに気づき、「予これを憂へ東西にさぐりて無慮二千七百句を得」と「はし書」に書いている。一茶全句集の嚆矢と言ってよいだろう。
 甲山が社会主義協会に入るのは後のことだが、一茶の句集を編纂する中で自己の世界観を構築していった気配がある。『評伝大塚甲山』(未來社・一九九〇年)の著者きしだみつおも、「甲山は、一茶の十七文字から、激しく告発する詩心を読み取っていた」と記している。

 (10)一茶の多面性
 要するに一茶には、近代思想の多くが内包されているということである。
 まず、外国を意識した上での〈国家意識〉があった。
 その一方に、反権力の気概があって、告発の精神も読み取れ、弱者に平等の存在価値を認めようとする〈デモクラシー〉や〈ヒューマニズム〉に通じる精神がある。
 また、自分の内面は唯一のものだという〈近代的自我〉の萌芽を見ることもでき、その自我は、都市の遊民として、貨幣経済社会をどう人間らしく生きるかという問題を抱え込んでいる。
 その結果、明治時代の一茶は、一方で国家主義者のコンテンツとなり、一方で反権力、自然主義、自由主義を求める人々のコンテンツとして受容されていった。
 その後も一茶は、管理社会からの脱却、身体性の回復など、現代思想のコンテンツとして受容され続けている。
 どうやら一茶は、俳句史のみに抱え込める対象ではない。一茶の考察は、思想史、文化史、生活史に広がり、さらに地方と都市の問題等に広がっていく。おそらくそれは、一茶の表現が、狭隘な文芸思潮に縛られることなく、生きることを生のまま表出しているからであろう。

                「俳壇」(本阿弥書店)に2021年に連載