お絵かき少年時代
いまでこそ、この頃の趣味?なんていえるかもしれないが、小学校の3年生くらいまでは、動物と絵を描くのがすきだったみたい。
自分では、それほど印象にないのだけれど、幼稚園の先生にこの子σ(^-^;はとんでもない絵を描きますね・・・と何度もいわれてことがあとになって言い聞かされてすごい印象に残ってます。
たしか、虫歯予防のポスターで無意識に「遠近法」とかって描いたみたいなんです。
あとになって、まわりと全然違う絵をかいていたのが、イヤだったのかそれ以来そんな描き方はしばらくしなかったみたい・・・なのが何とも残念です。
やはり、芸術家になるには人目など気にしてたらなれないってことなんですね。
このころは、描いている絵を見られるのがすごくイヤで、夢中になって描いているときにハット見られているのに気づき、隠すと何故か怒られた?ことが記憶に今も残ってるんです。
やはり、いまでも人前で絵を描いたり、身近なひとに描いた絵を見られるのはあまり好きじゃないけど。

良く描いていた絵は、犬(写真のうつし)、何だかわからない夢の車(ありもしない永久機関)、スケッチ画のスケッチ?(ものまね)、なんてよく描いてた気がする。
中学だったか、高校時代か・・・イラストを投稿してたまに掲載されたのも懐かしい。
でも、芸術で飯が食えるわけがないなんて現実てきにものを考えてたこともあり、だんだんと描くのも次第に減ったのが今となってはもったいない。
きっと、ひとの評価を気にするようになると自由にかけなくなるんでしょうね。

電気少年時代

電気工作に目覚めたのは、小学校3年位にお年玉で買ったホーマーの¥850の1石ラジオがきっかけだ。
この1石とは、トランジスタが1個使われているという意味であるという事をしったものこのとき。
ちなみに、真空管の場合は、1球・・・・・という。

当時のわたしには、ラジオ放送の内容など理解できるほどの頭もないのに毎晩ラジオを聞いていた。
どうして聞いていたかというと、不思議で不思議でたまらないからである。
そのころは、ソ連が全盛期?で良く聞こえる放送というとNHKの次がモスクワ放送なのである。
こんな小さい箱からソ連の放送が聞こえる!というだけで喜びなんです。このラジオもσ(^-^)じまんの分解地獄の「いけにえ」にあい、二度と聞けなくなってしまった・・・

次は、自分で作ってみたくなり¥500だったとおもうが「ヒノデのゲルマラジオキット」なるものを買い更に深みにはまって行った・・・
電波の弱い群馬県でゲルマラジオを聞くと言うことは、至難の業が必要だった。
この奇妙な名前のラジオは、なんでゲルマラジオというかというと、電波を音声に変える部品にゲルマニウムダイオードという米粒みたいな部品を使っているからである。昔は、鉱石を使っていたので鉱石ラジオとも言われいた。
 

このゲルマラジオを聞くコツはというと、アンテナのつなぎかたとアースのとりかたにつきる。イヤホンにも当たり外れがあること。電灯線(コンセント)がすごくいいアンテナになること、水道管がアースになること・・・・などなど、いろいろ実験して楽しんでた。
このころ、良く読んだ雑誌が「子供の科学」「模型とラジオ」でいつかこんなすごいラジオを作ってやると思いながら、制作記事の回路図を写していたのもこの頃。
今思えば、おもちゃに目もくれず、回路図を写す小学生?なんて変な子供だったんだろうね。

この手の雑誌には、必ずと言っていいほどラジオ組立講座なんていう通信教育の広告が掲載されていて、ハマッテ?しまった思い出がある。
たしか、¥3000を現金書留でおくったら、薄っぺらな教科書3冊を紙製の真空管ラジオ組立て教材、会員証・・・・
あれは、詐欺まがいの講座だたのか、まじめなものだったのか今でも謎である。
¥3000で至れり尽くせりの通信教育ができること自体おかしな話なので、詐欺でもないのかもしれない。
教科書そのものは、当時の記憶からは、まじめな無線工学といったようだったような気がする(なにしろ、小学生にわかるはずがない)
でも、このての通信教育に引っかかった?ひとはいっぱいいるでしょうね・・・・
小学生には難しすぎて質問などできなから、教材だけ送りっぱなしで済む通信教育だからね。(笑)

このころ一番欲しかった夢の玩具は、学研のマイキットと電子ブロックである。組める回路が100以上もあるモデル(マイキット100とか・・、電子ブロック100?)は、高価で当時のσ(^-^)のお年玉では買えなく、玩具やにいっては眺めているだけ。。。きっと、店員はまた来たこのガキと思ってたにちがいない。
やっとのおもいで買ったのがマイキットジュニアで確か2000円くらいだったと思う。
組める回路は15種類と少ないものの、毎日何かいろいろ実験?して不健康な日々をおくってた。
 
 

このころだったか、昔から家にあった真空管のラジオで海外の放送がいろいろ聞こえることに興味をもち、「自由中国の声」「フィリピンの極東放送」「北京放送」「朝鮮中央放送」「ラジオ・オーストラリア」など毎晩きいていた。特にはじめて聞いた「笑いカワセミ」の鳴き声は今でも忘れられない。
その後、BCLなんていうのが大ブームになり、σ(^-^)も真っ先にブームにのってベリカード集めに励んでいた。
とうじは、主要の海外・国内の放送局の周波数と放送時間をほとんど暗記していたぐたぐらいで・・・そんなもの覚えるくらいなら、歴史の年号覚えろ!といわれるくらいです。

無線少年時代

BCLブームがさって、ポカンとすることがなると次は聞くばかりではなく、自分からもなにか出したい!という衝動にかられた。でも突然そんな気持ちになるわけもないですね。じつは、BCLに夢中になりながらも、CB無線やアマチュア無線を聞いていたので「楽しそうやなぁ」とその時から思ってたのである。
さっそく、国家試験のための勉強開始。中2の夏だったとおもう。免許をとって無縁局が開局できたのは中3の夏。ほんとは、受験勉強の没頭しなきゃいけないのに、毎日無線機をさわってばかりいたみたい。話す(交信)と勉強していないのがバレバレなので聞いてばかりいた。
晴れて?高校に入り日夜無線に没頭しました。学校のクラブでは、昼間から寄るまで・・・大出力?の無線機で海外との交信。未知の世界はホントになのしいです。このころは、免許は持っていなかったんですが、モールス符号も覚えていたので海外との交信はほとんどモールス通信(CW)だった。
さすがに、これだけ無線にはまると学校の成績のほうが、まるで撃墜された零戦(古いかぁ・・・)のように、急降下。構内の実力テストで、学年順位が200番以上落ちたのには驚いたぁ。なにしろ、夜中は無線機にかじりつき、昼間は学校で睡眠の毎日が半年続いたのだから当たり前か・・・

このころは、電気少年&無線少年が重なっていた時期ともいえます。
何かを作りたいという気持ちは、無線に関する分野でもおなじでなんです。
モールス用のエレキー(半自動自動信号生成器)、送信機、ワイヤレスマイク、電源、周波数カウンタ、再生式受信機・・・
もちろんアンテナなども自作(自分で作る)しました。
自作をはじめると、部屋の中は部品と、工具、加工した削りかす、ゴミ・・・すざましいもんでした。
寝食・寒暖わすれて没頭して作業してたもんです。
でも、このころ身につけたものが、今の仕事に役立ってるなぁ〜とつくづく思っています。
なにが、役立っているかというと理屈では説明しにくい、感とか、センスとかこの時期に培ったものなんですね。

そのご、電信級(現第3級)の資格をとったけど、そのころにはもう飽きてしまってたみたいだ。σ(^-^)の性格は晴れて合法的にできるようになると、飽きてしまうようである。いけないなぁ・・・
 そうそう、行き着くところ第1級アマ免許をとってから無線からはほとんど足を洗ってしまった。。。 そのご、意味もなくプロ無線資格を取ったのは、無線から縁を切りたかったのかもしれない。

 
バイク少年時代
 

スキー青年時代

 スキーをはじめて履いたのは、中二の冬のスキー教室である。好きだろうが嫌いだろうが授業だからしかたがない。でも、はじめてのスキーは、楽しかった記憶がいまでもある。2度目のスキー教室だが、このときの記憶は全くない・・・イヤな思いでだっったんだろうか。
その後は、誘われてみたものの行く機会が無かった。

大学の授業でスキー合宿で単位がもらえるというので、つい申し込んでしまったのがあやまちなのか・・・
横浜の大学では、群馬にすんでるならスキーくらい楽勝だろ!というまわりの目のあり、また日頃女に縁のない工学部うえのスケベ心なのか・・・
文系の学生も合宿にはいっぱい参加するといううわさを聞いたのが災いか・・・
とにかく、群馬県人らしく?スキーくらいできなければならない!をモットーに道具一式を買い込んでしまった。

道具をそろえたからといって、すぐ滑れるわけでもなく、地元の無線仲間の人と菅平に行ったが、とんでもない思いをした。
なにしろ、今でこそ緩斜面に感じるゲレンデが、どうにも言うことを聞かない急斜面に感じてしまうのだ。
ターンしては転け、スピードが出ては転け・・・・ひどい一日でした。

散々な目にあいながらも、道具にかけたお金は元をとったる!という信念?のもとに秘密トレーニングを3日行い、何とか合宿までには、緩斜面なら一応おりてこられるようになったのだ。(直滑降&方向転換滑り)これで、合宿では少しはもてるだろうなんて下心を持ちながら・・・・合宿の日を待つのであった。
やはり、単位をくれる合宿というのもは、遊び気分では許してもらえず毎日がしごきのようでした。膝の筋肉がパンパン、ガクガクで宿に戻っても寝るだけ。
これの合宿をきっかけにこれほどスキーにはまるとはそのころは思いもしなかった。

スキーをなんでするのかというと、ターン時の快感もあるが、やはり人に上手く見られたいのが本音だとおもう。
誰もいないゲレンデで滑っていても全然おもしろくないからだ。いや、そんなことは無いというやつも、この先誰にも自分の滑りを見てもらえないと判ったったら練習するのはバカバカしくなるに違いない。きっと、いつか格好いいところを見せてやるという目標があるから、誰もいないゲレンデで滑っていられるんだろう。
だから、基本的にスキーは野郎同士でくよりは、女連れのほうがいいかっこができるので楽しいのである。
そんなσ(^-^)も例外ではなく、男女たのしいスキーイベントの為に、冬の週末の土日はせっせとゲレンデに出かけてました。それも、全て日帰りで・・・・バカですね。

 
 続く・・・
 
 
 

園芸&盆栽少年時代

 なんで、興味をもったのかいまでもよくわからないが、小さい頃、「これはおまえの」といって鉢植えの植木を渡されたのがきっかけか・・・
なにより、種をまいて大きくなって、花がさいた「あさがお」の実習がきっかけだったのかもしれない。
よく覚えていないのであるが、草花の種をよくまいては、喜んでいたのを見た周りの大人がこの子は、植木が好きなんだろうと勘違い?してやらされていたのかもしれない。
小学校4年のころ、やっと庭のある家に引っ越したのがきっかけで、花壇をつくったり、種をまいたり・・あげくの果てに隣のおじさんがこれを育てて見ろと「盆栽」を渡されたのがトドメとなって盆栽少年になったのでしょう。

当時は、皐の盆栽ブームであちこちで盆栽をやっているひとがいたような気がします。
皐は手入れをちゃんとすれば、毎年きれいな花を咲かせてくれてきれいなものです。手入れといっても簡単で、年一回の植え替え(土の入れ替え)、剪定(枝葉の形をととのえる)、定期的な肥料、毎日の水ていどです。
肥やしを作ったり、選んだりするのも楽しかったですね♪
油粕というものをこねて団子状にかためる。そして、保管、定期的に鉢の上に置く。
鶏糞、腐葉土・・・いろいろ少ない小遣いで買ってきたりしました(^_^)

皐は、挿し木からそだてても良いのですが、大きくなるのに時間がかかるので大抵は、苗木を買ってきて自分なりに手入れをしたものでした。
皐、いや盆栽のおもしろいところは、幹に針金を使って自分のイメージした木の形に整え育てていくことだとおもいます。
くねくねと曲がった幹、ひさしのように飛び出た枝、まっすぐに伸びた幹、根を張る力強さ、それらに絡みつくきれいな苔・・・・
なんだか、自分の世界を育てていく芸術の世界かもしれません。。。(大げさですね)

なんで、やめたか?
それは、秘密ですが全くおしえてもらってもいない親父が、「俺が教えてやったんだ」と人に言いふらしてるの知ってだったと思います。当時、いろいろマネされたうえにそんなことを言われたもので頭にきたんでしょうね。・・・ほんとに、子供です(笑)

そんなこともあって、中学に入ってからほとんどやめてしまいました。

 

カメラ小僧時代