Logo TrainJR全線完乗記2

要想像力の津軽海峡線

 

 

 昭和29年9月青函連絡船洞爺丸が津軽海峡の大浪に飲みこまれた。この千百五十五人の犠牲者を出した大海難事故が,青函海底トンネルという世紀の大事業を着工する直接のきっかけとなった。
 それから30年以上の年月と何兆円という膨大な費用をかけて,約五十三キロに及ぶその当時世界最長のトンネルは完成した。
 私はこのトンネルが開通したときから,この膨大な金と努力の結晶を是非一度通ってみたいと思っていたが,その機会はわりと早く訪れた。平成元年3月に卒業旅行で北海道へ行くことにしたからである。もちろん行きも帰りもこのトンネルを通るようにプランを組み立てた。
 行きはこのトンネル開通のおかげでできた東京・北海道直通寝台特急“北斗星”でくぐった。ところがこのときは青函トンネルを見過ごしてしまった。トンネルをくぐる時間は深夜なので,トンネルに入るより少し前の時刻に目覚ましをセットしたうえで一度眠り,その目覚ましで起きようとしたのである。
 ところが乗車記念に,この北斗星の食堂車グランシャリオでフランス料理のコースを食べ,ワインを飲みまくってしまった私はすっかり舞い上がってしまい,目覚ましをかけ忘れて就寝してしまったのである。
 翌朝車窓にかかるカーテンの脇から漏れてくる光で目覚めた。長万部を通過したあたりだった。「しまった」と思ったが,もう後のまつり。こうなれば帰りの快速海峡号とそれに組み込まれているトンネル内見学にかけるしかない…。
 そしてそれから一週間後,今度は昼間に青函トンネルを抜けることになった。3月13日11時52分,快速海峡8号で函館駅を発つ。前夜も夜行列車だったのでちょっと眠い。でも今度こそ眠気に負けるわけにはいかない。
 列車は海沿いを走るが,海が見えるのは時々である。わりと単調で刺激に欠ける眺めである。今の私なら絶対に居眠りをしてしまうところであるが,その頃はまだ若さと気力が相当あったらしい。耐えに耐えて45分間で木古内駅に到着した。ここまではローカル線である江差線を改良しただけなので,線路などはあまり屈強ではない。そのうえ単線である。ところが木古内を過ぎると新設した部分に入るため,にわかに線路などが立派になる。コンクリート製の高架橋・複線という新幹線装備である。列車のスピードも速くなる。そして木古内を出てから十数分ほどでいよいよ目当ての青函海底トンネルに突入した。なぜ突入したのがわかったのかといえば,車内放送がそのことを告げたからである。別に私の直感が鋭いわけではない。
 トンネルというのは北国だろうが南国だろうが,海沿いだろうが高原だろうが入ってしまえば基本的にどこでも同じである。ひたすら闇・闇・闇…。青函トンネルに入ってから最初こそは「世界最長のトンネルの中にいるんだ」とひとり悦にはいっているが,そのうち闇に飽きてきて(青函トンネルには悪いが)退屈な気分になってきた。そのうち竜飛海底駅に到着し,トンネル内見学をした時も,その気分は全く変わらなかった。一昔前,国鉄のトンネル工事を専門とするある技術幹部がこう言ったそうである。「鉄橋屋さんはいいな。成果をお客さんに見てもらえるから。トンネル屋はそうはいかないもんな」と,ひがみまじりではあるが,この気持ちも少しは分かる気がした。
 ふとそのとき,私の額に一滴の水滴が落ちて来た。別に海底トンネルだからということではないのだろうが,私の頭に「そうだここは海底なんだ」とひらめいた。そして「海底にこれだけのものを作ってしまうのはすごい」と思った。冒頭にこのトンネルの凄さを書いたが,この凄さを実感するためには想像力がいるんだなと感じた。

 

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