メガドライブの時代をファンの視点から振り返ってみる

201341
竹崎 忠

※本原稿は、CESAから株式会社セガへの「竹崎の記名原稿」依頼に対して会社の承認のもとに執筆し、「2013年CESAゲーム白書」に掲載されたものです。


第1章 その日

1988年10月29日早朝。

当時まだ24歳のヒヨッコ社会人だった筆者は、焦っていた。家電量販店で予約してあったメガドライブが、2日前に突然「入荷できなくなった」との連絡を受け、当日店頭販売分に賭けるしかない状況に追い込まれていたからだ。

「メガドライブは基板不良やソフトのバグでハード、ソフトともに出荷数が激減しました」


その日、いくつもの店を回り、何度も聞かされることになるセリフがこれだった。この内容が事実なのか事実でないのかは、当時いちユーザーだった筆者には知る由もない。(今回、この記事を書くにあたってメガドライブを開発した佐藤秀樹さんに伺ったところ、「そんなことはなかったはず。ただ、垂直立ち上げでハードを製造したので数は足りなかったかもしれないなぁ……。ドリームキャストと同じだよ」と仰っていました。ドリームキャストと同じなら、やはりハードのトラブルで予定数のハードを製造できなかったという意味になるのですが……)

しかし、筆者は運が良かった。朝9時から神戸市内を走り回った果てに、12時45分になんとか1台のメガドライブ本体を手に入れることができたから。

そんなメガドライブとの出会いは、筆者の人生を変えた。いや、筆者だけではない。この日以降メガドライブを手にした、数多くの”メガドライバー”(=メガドライブ所有者。メガドライブファンを意味する)の人生を大きく変えたのだ。


第2章 メガドライブ発表

そもそもメガドライブという新型ゲーム機が発売されるにあたり、ゲームファンにとって一体何が魅力だったのだろうか?

セガが手がける家庭用ゲーム機という流れで捉えれば、メガドライブ以前のセガハードはそれほど多くのユーザーを獲得できていたわけではなく、「セガがマスターシステムの後継機を発売する」と言ったところで正直さほど話題性はなかったと思う。

だが、この1988年10月というタイミングは当時の家庭用ゲーム機の投入時期としては、なかなか絶妙なタイミングだった。というのも、1985年ごろから空前の大ブームとなったファミコンは(ヘビーユーザー視点で見れば)さすがにハードスペック面で限界にきていたし、次世代機となるスーパーファミコンがもうすぐ発表されると噂されていた。また、前年に発売されたPCエンジンは、ファミコンとは一線を画したグラフィックによって家庭用ゲームの新たな可能性をすでに提示していたからだ。

ファミコンしか持っていないゲームファンにとっては、PCエンジンすら超えるというゲーム機が発売されるなら少しは興味がわくところだし、すでにPCエンジンも買ったヘビーゲーマーなら、もっとすごいゲーム機であればぜひ見てみたいと思っただろう。一方のスーパーファミコンは、まだ影も形も見えていない時期だったからね。(とはいえ、1988年といえば『ドラゴンクエストV そして伝説へ…』『ファミコンウォーズ』『ファイナルファンタジーU』などファミコンでまだ話題作が続々と発売されている時期なので、世の大半を占めるライトユーザーにとってはファミコンで十分であり、PCエンジンもメガドライブも正直どうでも良い時代だったのですが……)

このようなタイミングでセガが突如発表したメガドライブは、家庭用ゲーム機としては初の16ビットマシンとしてメインCPUにMC68000を採用。さらに、前世代機のメインCPUだったZ80もサブで搭載するという豪華スペックであった。

特に注目を集めたのがMC68000というCPU。当時のヘビーゲーマーにとってMC68000というCPUは、1987年にシャープから発売されたX68000という40万円程度するホビーパソコンのメインCPUであり、X68000というパソコンは店頭で当時のアーケードゲームをほとんど遜色ない形でデモンストレーションしていた垂涎のマシンだったからである。

40万円もするX68000に対し、同じCPUを心臓部とするメガドライブが21000円で買えるというインパクトは、なかなかの衝撃であった。

当時発表されたメガドライブのソフトラインナップは毎度おなじみ、セガのアーケードゲーム移植を中心とした全体的には貧弱なラインナップであったことから、やはり発売前のメガドライブの一番の魅力は、このMC68000というCPUだったのではないかと思う。


第3章 ハードは出たがソフトは出ない

MC68000という優れた16ビットCPUを搭載し、鳴り物入りでデビューしたメガドライブであったが、本体発売からしばらくのソフトラインナップは(ユーザーからすれば)相当ガッカリする内容であった。

最初の半年間に発売されたソフトは8タイトル。ソフトがなかなか出ないから、大いに期待して本体を買った熱心なファンとしては、ジャンルを問わず発売されるソフトを順に買っていくしかない。1作ごとにいろいろ不満もあるが、ハードの特性を活かした良いところを探して自らを盛り上げていく(『スペースハリアーU』の地面が市松模様になっているだとか、『獣王記』の音声合成がきれいだとか)。

しかし、クリスマス商戦に発売されたメガドライブ4本目のタイトル『おそ松くん はちゃめちゃ劇場』においては、その内容もさることながら、フリーズバグまで付いてくるという始末で、メガドライバー達を大いに落胆させた。

その後、翌年3月に『ファンタシースターII 還らざる時の終わりに』、4月に『スーパー大戦略』、6月に初のサードパーティータイトル『サンダーフォースUMD』、8月に『大魔界村』ときて、発売から1年経ったころに『フォゴットンワールズ』『ザ・スーパー忍』『TATSUJIN』『ゴールデンアックス』等が立て続けに発売され、ようやくまともなソフトがそろってメガドライバーは安堵するわけだが、この「本体が優れているはずなのに、なかなかまともなソフトが出ない」という初年度のトラウマはメガドライバーをその後もずっと追い続けることになり、これがメガドライブの文化を作るひとつの重要な要素となったのだと思う。


第4章 熱き戦友

メガドライブの一番の特徴は、開発者やメガドライブファンの”熱さ”だった。ひとつの家庭用ゲーム機に対してあれほどに開発者が語り、ユーザーも負けずに大いに語り、作り手とユーザーが「戦友」ともいえるほどに熱く激しい関係を形成したという意味では、メガドライブを超える家庭用ゲーム機はないであろう。

慢性的なソフト不足によりメガドライバー達は(自分たちがそれぞれの基準で納得できる)”メガドライブらしいソフト"を求めていた。だから、開発者が新しいチャレンジをすることや、新たなサードパーティーが参加することを応援する風潮が形成され、さらに一部コアなファンにおいては「それらを自分たちが買い支えよう」とする献身的なまでの努力が(自分勝手に)なされていた。

「このサードパーティーの参入第1作は本気で取り組んでいるとはとても思えないタイトルだが、これが売れないと次はないから、ここはご祝儀で買っておこう」
「実際の完成度はどうであれ、開発者がこれだけ新しいことにチャレンジした意欲的なゲームだと言うなら買わないわけにはいかない」
そんな具合である。正気の沙汰とは思えない。(だが、筆者はこのようにして結局メガドライブのゲームをすべて買い揃えてしまったのである。困ったものだ。)

最初の半年こそはメガドライブの性能を活かしたソフトがなかなか出なかったが、テクノソフトの『サンダーフォースUMD』あたりから徐々に状況は変化する。開発者が競うようにメガドライブの機能を活かし、あらゆるプログラミング技術を駆使してメガドライブの性能を引き出し、やがては「本来メガドライブではできなかったはずのこと」までを実現し始めたのだ。まさに、「メガドライブ、やればできる子」であり、「メガドライブは優れたハードだ」と信じていたユーザーたちに一筋の光が射したのである。

開発者はゲーム雑誌の誌面でいかに新しい技術で新しい挑戦をしているかを熱く語り、メガドライバーはその言葉に心酔する。そして発売日にゲームを買い、開発者の語った通りによく出来たソフトには大いに称賛の声を送り、出来の悪かったソフトには落胆し、開発者やソフトメーカーをなじる。それは、ソフトメーカー、開発者と消費者(メガドライバー)の、文字通り”共闘関係”であった。

今のように潤沢なハードスペックがない時代。だから、ハードにはそれぞれに限界があった。しかし、一方でハードの限界をプログラム技術で超えようとするチャレンジ精神に限界はなかった。そして、そこに開発者とユーザーが盛り上がる”余地”があった。

思い返せば、ハードの性能が急速に伸びながらも常に一定の限界があったこの時代こそが最もゲーム機について語ることが楽しい時代であり、この時代をリアルタイムで体験できた世代は幸せであったと思う。

この頃、(一般的なゲームファンがファミコンやスーパーファミコンで楽しく遊んでいる裏側で)メガドライバーの熱い話題と言えば、以下のようなものであった。
「回転・拡大・縮小を基本機能に持つスーパーファミコンに対抗して、メガドライブのあのソフトはプログラム技術で回転・拡大・縮小を実現した!」
「メガドライブは64色しか同時発色できないが、このタイトルはインターレスモード(画面の見かけ上の縦の解像度を倍にするモード)と高速パレット書き換え(絵の具のパレットと同じく色をセットしておく場所をパレットといい、このセットする色を高速で入れ替えること)によって128色同時発色に成功!」
「グラフィックでは負けているメガドライブだが、CPUが優れている分、同じシミュレーションゲームの処理速度はメガドライブの方が速い!」
こんな調子である。

勢い余ったメガドライバーの一部は「今後、他社のゲーム機は買わない!」とすべての情熱をメガドライブに傾け、競合他社を敵視するようになったりするわけだが、それもこれもこの時代の独特の空気だったのだと思う。メガドライブは「やればできる子」なのになかなか思うように育ってくれないという思いだったり、すでに製造まで終了して店頭に並ぶ直前になって『テトリス』が版権問題で発売中止になったり、ゲーム業界がまだ若い産業だったゆえに今の時代では想像できないようなドラマティックな事件がいろいろと起ったこともメガドライバーの気持ちに拍車をかけたのであろう。

こうして、メガドライブの熱心なファンにとって、メガドライブは彼らのアイデンティティーの一部になっていったのだ。


第5章 海外で成功したゲーム機

日本ではそれほど成功しなかったメガドライブだが、海外では一時はスーパーファミコンに伍する成功を収めたので、日本よりも海外の方がたくさんのソフトが発売された。また、海外での成功を受けて日本のサードパーティー各社も(日本はさておき)海外市場向けのソフトはそれなりに開発を始めた。

その結果、メガドライブのソフトラインナップは「洋ゲー」(いわゆる海外向けゲーム)が多くを占めることになった。

日本で発売されるゲームに対し質量ともに満足がいかないユーザーが海外で販売されているソフトを買うなんてことを熱心に始めたのもメガドライブが最初ではないだろうか? スーパーファミコンで話題の『ポピュラス』は、日本のメガドライブでは発売されないが、海の向こうではエレクトロニック・アーツから発売されている。なぜ日本で発売されないのかはわからないけど、「発売されないなら海外で売っているゲームを買って遊べばいい!」という無茶な発想である。(輸入版がずいぶん売れた後、セガがライセンスを受けて日本でもメガドライブ版『ポピュラス』が発売された。この契約の流れで『ソード・オブ・ソダン』もたぶん日本発売に至ったのだと思うとある意味、感慨深い。)

でも、この『ポピュラス』の盛り上がりがきっかけになって、東京の秋葉原や大阪の日本橋では北米タイトルが一部店頭で取り扱われるようになったりする。そんなもの買うヤツなんて一握りのトチ狂ったファンだけだったと思うが、こうやって店が扱って利益が出るくらいにお客さんはいたということなのだろう。(ちなみに筆者は、秋葉原のメッセサンオーが実施していた海外ゲームの通信販売の上客でもありました……)

そもそもハードをたたくと面白いことができるメガドライブにおいて、さらに海外の開発者たちが手掛ける独自のテイストと彼らの技術が加味されたソフトは日本のメガドライブユーザーにとって「今まで見たことがないゲーム」という新たな視野を拡げ、のちにそれらのゲームが日本語ローカライズされて正規販売され始めるや(発売されるソフトの本数はともかく内容的には)実にバラエティ豊かで斬新なラインナップが実現した。

こうして、スーパーファミコンユーザーが穏やかに日本独自のメジャータイトルを遊んでいる裏で、海外に特化気味の個性豊かなゲームを遊ぶトンガったメガドライバーという構図が出来上がるのだ。でも、これは決して不幸なことではなく、当時のゲームという文化をとりまくひとつの面白い現象であったと今にして思う。


第6章 そして25年後

かようにメガドライブという家庭用ゲーム機は、もともと本体に備わっていたMC68000というCPUをはじめとする性能に加え、メーカー側として関わった開発者や営業担当者の自由で挑戦的な取り組みや、海外から続々と輸入される異文化タイトルや、それらをすべて愛して飲みこんで「メガドライブというカルチャー」を日本において普及させようと情熱を燃やした熱烈なファンによって、家庭用ゲーム機の歴史の中でもちょっと変わったサブカルチャーとしての立ち位置を確立した。

多くのゲームファンの知る由もない場所で。

出来の良いゲームも、とんでもないゲームも、斬新なゲームもやる気のないゲームも同じくらいあったし、さまざまな技術的挑戦がなされた。テンゲンのマニュアルだとか後期のセガタイトルのパッケージやタイトル名など営業側の人間のユーモアや遊び心も満載だった。

知る人しか知らないが、渦中にいたユーザーにとっては、それも楽しい思い出だ。

結局、日本では、1988年10月のデビューから1996年3月に最後のソフトが発売されるまで7年半の間に約550本のタイトルが発売され、メガドライブ本体は300万台程度が普及した。本当にどうしようもないタイトルも理解不能なタイトルもあったけど、それでも平均すれば年間70本程度のタイトルしかなかったので、熱心なファンはすべてのソフトを十分に追いかけることができた。それだけ(メガドライブという存在の面白さに気がついた)ユーザーにとっては、手が届きやすいゲーム機であった。

あの頃、メガドライブを追い続けたユーザー同士は、今でもお互いに”戦友”のような絆を感じている。

1988年10月29日に神戸市内をかけずりまわってメガドライブを入手した筆者は、1993年4月にセガに転職して家庭用ゲーム機の商品広報チームを立ち上げ、2013年4月1日現在、セガの社長室に勤務している。

当時の熱烈なメガドライバー達と同様、筆者はメガドライブを取り巻くカルチャーが大好きで、「メガドライブは、もっと世間に認められるべきだ」と思っていた一人であり、「メガドライブを自分が世間に知らしめてやる!」という想いを現実にするために自分がセガに入社して広報宣伝を担おうと決意し、実現した。

こうして原稿を書いていても実に奇妙としか言いようがなく、当時の自分達はホントにおかしかったんじゃないか……とも思うが、振り返ってみてもメガドライブという存在の不可思議さ・面白さってやはり、絶対にあるよなぁと思う。

途中で何度も書いたが、世間の大半のゲームファンの知らないところでこんなドンチャン騒ぎが展開していたのですよ。

でも、この文章は、”そっち側”にいた中の”一人”が知っている範囲で書いた物語であり、それぞれのメガドライバーにはそれぞれの物語があるはずです。

そういった物語があった時代を多くの方に知っていただきたくて、今回はあえてひとりのユーザーだった視点からメガドライブという家庭用ゲーム機の一面を切り取ってみました。

当時、メガドライブのユーザーそれぞれが、それぞれの物語を語ってくれたらさぞ面白い文献ができあがるだろうなぁ。

この原稿を、あの時代を一緒に駆け抜けたメガドライバーの皆さまに捧げます。


(C) Tadashi_Takezaki 2019