History of Tadashi Takezaki


生まれた頃は結構まるまるしてた。 1964年夏:
 神戸市中央区(当時は生田区)北野町で生まれる。北野町は、海も山も近くにあって、こじんまりまとまっているけど何でもあって、昔は外国人がたくさん住んでいた関係でモダンな建物も多く街の風景が綺麗で、今でも一番好きな土地です。

1971年春:
 光の丘幼稚園を卒園。幼稚園の途中から小児喘息になってその後小学生まで辛い日々を送る。呼吸が苦しくてのたうちまわっていた時に何故か「河童」のイメージが頭に浮かんで「河童が怖い」とうなされていた(苦笑)。

 幼稚園の頃は、ひとりで絵を描くのが好きな実におとなしい子供でした。

小学校の卒業アルバムから 1971年春:
 神戸市立北野小学校へ入学。小学生時代に関して言えば、喘息→ひょろひょろ→体育苦手…を除けば、基本的に成績の良い子でした。先生や両親の言うとおりに予習・復習をしっかりやってただけなんだけど、当時の小学校の勉強はそれで十分対応可能でした。

 小学5年生の時に”図工が得意だから”という理由だけで学級新聞にマンガを描く役割を与えられ、初めて描いた4コママンガがクラスでかなりの人気を呼んだことが人生の転機に。自分の創作で人を楽しませることができることを知った。

中学校の入学式の写真 1977年春:
 神戸市立生田中学校へ入学。
 中学1年の時、プラモデルに凝る。家の中で塗料を使っていると「シンナー臭い」と言われ、薄暗い夕闇のベランダで戦場ジオラマの細かい塗装をしていたら、数週間で視力が劇的に悪くなる……。以来、近視(苦笑)。

 クラブ活動はせず、学校が終わったら帰宅して、まずは予習・復習と地味に暮らす。

 とにかく学校の勉強はとことんやった(塾は行かず)。そして、気分転換に、学校でやっていた"班日誌"が自分に回ってくると学校での出来事や授業をパロディにしたマンガを描いて、またもやクラスでウケていた。さらにこのマンガが職員室でも評判になり、マンガ描いてるけど成績は良いという絶妙なバランスで、職員室に気軽に遊びに行ける不思議な生徒となった(笑)。「次はいつ描くの?」っておおらかに受け入れてくれた当時の先生方にも感謝。

 文章を書くのが苦手だったので、本田勝一の「日本語の作文技術」という本を買ってきて文章を書く練習を始めたのが中学3年。この時期、この本の内容にそって徹底的に文章を書く練習をしたことが後の自分の基礎力になった。本田勝一さんに感謝。

 中学3年の頃から友達と一緒に同人誌を作り始める。そこではマンガ描いて、ショート・ショート書いて、編集を担当していました。

高校の卒業写真 1980年春:
 兵庫県立神戸高校へ入学。とにかくすごい学校だった。天国から地獄へ急降下!

 今までよりがんばって勉強してるのに、今までのような成績が全くとれずにもがき苦しみ続けた毎日(中学:学年10位→高校:学年300位みたいな)。自分の学力の限界と、世の中には優れた人がたくさんいることを思い知らされた。

 これまで順調にやってきた勉強面で高校時代に叩きのめされた挫折と、そこから這い上がるために懸命にもがいた経験から「人は苦境を乗り越えて成長する」「修羅場を踏んだ数で勝負」という考えの土台が醸成されていった。この高校を体験できたとこは宝であり、誇り。

 ちなみに、3年間ずっと文芸部に所属して「紫陽花」という同人誌を作ってました。並行して、友達数人との同人誌も作り続けていました。編集長。

後ろはお祭りのお化け屋敷 1983春:
 関西大学工学部機械工学科へ入学。高校で1番の苦手が英語だったので、"英語と決別する"ことを決めて理系に進む。国語は得意だったんだけど、英語はねぇ…。

 シンセサイザーが欲しくてバイトを始める(YMOの影響)。小学生時代の夢だった「大きくなったら本屋さんになる」を実現して、阪急三ノ宮駅高架下の本屋(サンエー書店)で3年間アルバイト。

 人前で話すのが苦手など、自分の内向的な性格をなんとか克服したくて、改めて60人規模の同人誌サークルを主宰し、みんなの前で喋る練習をしてみたり。そんな時期。

 個人のマンガではさほど評価をされなかったけど、同人誌の企画や編集では外部からもそこそこ評価をいただき、出版社の方とも小さな交流が出来たりした時期。

 中学時代以降は、「自分の苦手なこと」を都度ピックアップし、それを克服するために精一杯努力してみることを繰り返す。それでも英語だけは手を付けなかったんだけど!(苦笑)

CSKの制服を着ている竹崎です。これ、CSKの最終日。 1987年春:
 CSKで働きはじめる。セガに就職したかったのだが就職担当教授を説得できず、一計を案じて当時セガの親会社であったCSKに就職するという展開。実のところ、大学時代までコンピューターを全くと言っていいほど知らなかったので、これもセガに辿り着くための修行だと思って、入社してからコンピューターの勉強をしまくる。

 勉強すればなんとでもなるもんで、入社後半年間の研修でトップ成績をとり、そのまま大手家電メーカーに派遣され、5年半システム・エンジニアとしてたくさんの開発をさせていただくことになる。ときには厳しい上司と仕事のプレッシャーで胃潰瘍になったりもしたけど、良き先輩や良き同僚に恵まれて「社会人」としてのバランスの良いスタートが切れました。

 CSKには当初「資格手当」という制度があって、新入社員が手っ取り早く給料を上げるには資格を取ることが近道だった。…ので、休みは勉強していろんな資格にチャレンジした。このとき、あんなに嫌いな英語まで勉強して「英検2級」を取った自分にはあきれた。(さすがに1級はとれなかった!)

 大学卒業後、すぐにセガに行けなかったことは、結果的に「社会人」としての自分を磨く素晴らしい回り道(経験)となった。CSKや派遣先で学んだことは実に大きく、その後セガで働くようになったときに(当時はセガの方が規模が小さかったので)とても役に立ったのでした。

プログラム可能言語:
 BASIC FORTRAN LISP C C++

アルカトラズでのソニックのゲーム大会にて。隣はリポーターのお姉さん(笑) 1993年春:
 7年越しの念願が叶って憧れのセガで働きはじめる。「信念を持って努力を続ければ夢は叶う!」と思った28歳。

 当時セガになかった「パブリシティ」の専門部隊を立ち上げる。

 1993:マーケティング部PR担当
 1994:宣伝部PR担当
 1995:プロダクトマネジメント部パブリシティチーム
    (この時、チームマネージャー=課長になる)
 1996:CSプロモーション部パブリシティチーム
 1999:営業企画部パブリシティチーム

 仕事は同じなのに、毎年部署名が変わっていた。つまり、毎年組織変更が行われていたってことですね。セガの家庭用ゲーム機「セガサターン」と「ドリームキャスト」の商品広報責任者として徹底的にがんばった時代。テレビやラジオや雑誌にもたくさん出てセガをPRしてました。

 この転職は地味に凄くて3月末日まで大阪でシステムエンジニアをやっていた人間が、あたかもその道のプロみたいな顔をして翌日から東京でパブリシティ担当の仕事をして、しかもそのまんま業界でパブリシティのプロとして受け入れられた。もちろん、バレないように必死に勉強したんだけど。振り返ってみれば、なんでこんなことが出来たのか不思議です…。

※写真はアルカトラズ島でソニックの世界大会が開催されたときのMCと

雑誌のインタビューを受けている写真 2000年2月:
 人事異動で企画調査チームに異動。当時ふるわなかったネット通販「Dreamcast DIRECT」を何とか立て直すようにという指令をいただく。当時セガのオーナーであった大川功さんの肝いりだったDreamcastと、そのDreamcastを使ったネット通販の立て直しということで、ここにきてついに大川功さんに直接プレゼンする機会を得たりする。とてつもなく緊張したけど、嬉しかったなぁ。

 7年間のパブリシティ活動から初のマーケティング関連業務担当となり、ECサイト「Dreamcast DIRECT」やデータベース,OneToOneマーケティングといった未知の世界に取り組む。関連書籍を買いあさって猛勉強。その後、部署名をマーケティング部eCRMチームに変更しました。

 これも大きな転機でした。自分でやりたかったわけではない未経験の仕事をする、不振事業を立て直すということが初めてで、何をどうすればいいのか最初はまったくわかんなかったけど、とにかく、わかんないことをわかるまで勉強するしかない!って気合で頑張りました(笑)。

2001年3月:
 異動から1年、業績が伸びた「Dreamcast DIRECT」の他に、もともとやっていたパブリシティ関係(元自分のチームに1年で復帰!!)、新たにセガの公式ホームページもまとめて担当することに。3つのユーザー窓口業務をまとめる部署として「カスタマーゲートウェイ部」が組成され、その部長に就任。

2003年2月:
 カスタマーゲートウェイ部はそのままに、CSマーケティング3部の部長を兼任。今度は一部タイトルのマーケティングやプロモーション全般までを見る仕事に。

2003年5月:
 カスタマーゲートウェイ部にサクラ大戦プロジェクトチームが加入し、サクラ大戦のライセンスビジネスや舞台興行(ショウ)の責任者となる。

当時のCSマーケティング3部担当タイトル:
 電脳戦機バーチャロンマーズ/シャイニング・ソウルII
 頭文字D Special Stage/Kunoichi -忍-
 サクラ大戦物語 〜ミステリアス巴里〜/リリパット王国


2004年5月:
 大幅な組織変更に伴い、サクラ大戦プロジェクトマネージャー 兼 シャイニングプロジェクトマネージャー 兼 特販企画部部長 …になりました。「サクラ大戦」シリーズと「シャイニング」シリーズに関しては開発から営業まで全部見なさいというセガでも初めての取り組みでした。特販企画部では、Dreamcast時代に築いた流通網で他社のソフトを売るディストリビューションビジネスの立ち上げを担当。

2005年11月:
 特販企画部を発展的に解消し、「サクラ大戦」「シャイニング」以外もキャラクターもののゲームは何でも担当する役割として「キャラクターマーケティング部」が新設され、その担当に。今にして思えば、このあたりから徐々にキャラクタービジネスの人に変わっていったんですよね……。

 2005年にはLCDゲーム「そだてて!甲虫王者ムシキング」を企画&プロデュース。企画の立ち上げから発売まで自分がすべてに関われた初の商品です。このゲームで桜井政博さんと一緒に仕事できたことはものすごく勉強になりました。桜井さんに感謝!!

2005年12月:
 突然の辞令を受け、「キャラクター部」の部長を兼務することに。ここは、家庭用ゲームのキャラクターものを扱うのではなく、全社的なライセンスビジネスを担当する部署で、またまた未知の世界に挑戦することに……。

 明けて、2006年4月には、「キャラクターマーケティング部」の機能の大半をキャラクター部に移管して、新生キャラクター部を結成。セガに来て以来、13年間お世話になったコンシューマ事業部から出て、キャラクターライセンスビジネスに専念することになりました。

2007年10月:
 キャラクター部、ライセンス部、映像ビジネス部の3部を統合し、「キャラクター・プロデュース部」が誕生。50人規模とかなり大きな部署になり、仕事の範囲も物量もググッと増えて、プレッシャーを感じる日々……。

当時関わったアニメ作品:
 『古代王者 恐竜キング Dキッズ・アドベンチャー』企画
 『シャイニング・ティアーズ・クロス・ウィンド』エグゼクティブ・プロデューサー

2008年6月:
 セガ/キャラクター・プロデュース部の業務はそのままに、(セガで上司だった岡村秀樹さんが社長に就任するのに伴い)株式会社トムス・エンタテインメントの社外取締役となる。

 子供の頃に見ていた『荒野の少年イサム』や『オバケのQ太郎』『アタックNo.1』『巨人の星』『ルパン三世』etc.を作った会社でお世話になるとは!!? まさに驚きの急展開。

2009年10月:
 セガサミーグループが一丸となって取り組む『爆丸』プロジェクトの推進母体「有限責任事業組合(LLP)」の設立に参加、職務執行者となる。(〜2011年8月まで)

 2010年7月:
 セガの組織がかつてない大型再編。事業別だった組織が国・エリア別組織に。

 このタイミングで4年半世話になったキャラクター・プロデュース部を離れ、今度は国内3事業(AM機器販売、AM施設、CS)を統合した「国内リージョン」の事業企画部長に異動。同じ会社なのにほとんど顔を見ることもなかったアミューズメント事業の皆さんと初めてお仕事する。これも、とても良い経験でした。セガで家庭用とアーケードの両方を経験できる機会ってほぼなかったから。

当時関わったアニメ作品:
 『古代王者恐竜キングDキッズ・アドベンチャー 翼竜伝説』企画
 『ワールド・デストラクション 世界撲滅の六人』エグゼグティブ・プロデューサー
 『戦場のヴァルキュリア』企画
 『ひめチャン!おとぎちっくアイドル リルぷりっ』製作統括
 …とここまで来たところでの部署異動。またいつか子供向けアニメが作りたいなぁ。


2012年1月:
 突如社長から指示があって、セガ/社長室に異動して秘書室長。その後、春に社長が交代し、新経営体制のサポートおよびSEGA IDプロジェクト、お客様相談室を担当する。

2013年4月:
 セガ/社長室にて新規事業企画開発、SEGA IDを中心とした全社共通ソリューション構築、コーポレートサイト、お客様相談室を担当。

2013年9月:
 50歳を前に自分の最も苦手なものに挑戦しようと決意し、かつて"決別"した(笑)英語に取り組む。2年間にわたり、朝6時過ぎからのアサカツ英会話スクールに通いました。(その2年半後、まさかの海外事業責任者に…)

2014年4月:
 セガ/社長室長となり、会社全体のサポート業務を行う。秋からはセガ構造改革を推進。

(2014年6月〜2015年3月の期間、株式会社ダーツライブの社外取締役を兼務)

2015年4月:
 セガ構造改革でセガの全事業を子会社化し、セガがホールディング会社になったところでセガを退社し、セガホールディングス傘下でアニメーション事業を担当する株式会社トムス・エンタテインメントの 取締役 国内事業本部長 に就任。

 「またいつか子供向けアニメを作りたい」とか言ってたら、なんと『それいけ!アンパンマン』のプロジェクトリーダーに! ビックリ。定年前にセガを退社することになったことにもビックリ!!(←ホントにビックリした。一生をセガに捧げるつもりだったので)

(2015年6月〜2019年3月 株式会社トムス・ミュージック 代表取締役社長 を兼務)

2016年4月:
 トムス・エンタテインメント 常務取締役 事業本部長 となり、国内外すべての事業を統括する役割を拝命。

2019年4月:
 トムス・エンタテインメント 代表取締役社長に就任。

 自分にどこまでの力があるのかわかりませんが、トムス・エンタテインメントならびにセガホールディングス、そしてセガサミーグループ全体に貢献し、世の中をもっと楽しく元気にできるよう、これからも精一杯がんばりたいと思います。

 引き続き、ご指導ご鞭撻の程、よろしくお願いします。