風 日 好   ・・・ 今日は日和がよいけれど、明日はそうではないだろう 

     2005年1−2月                                 Top Page  過去の「風日好」


   1月某日  新年

 大津波の被害ニュースが次々と報じられ、おめでとうございます、ともいえない年の明けです。
 それでも新年。今年もよろしく。

   1月某日  陽光


 エアコンが壊れた。今年は心なしか陽光まで薄い。

   1月某日  報道

 テレビ。民放はスポンサーの、つまりは大企業の逆鱗に触れることができず、NHKは政府与党の逆鱗に触れることができない。内部告発を新聞が報道すると、別の新聞やメディアが水をかける。今にはじまったことではないが。
 エアコンは、まだ購入2年余りなのだが、修理部品の基板が取り寄せになるとかで、まだ先になるという。普通に考えれば、小さい部品だし、メールで発注し宅急便で送ってもらえばすぐだと思うのだが、といっても修理工の人の責任ではない。
 というより、エアコンがなければないで何とかなっている。小さい電気ヒーターひとつだけなのだが、コンクリートの建物で隙間風がないからなのだろう、「暖かい」とまではゆかないが、夜もそれほど「寒く」はない。昔の石油ストーブかコタツを使うのは面倒だし、といって何か暖房器具を買うと結局後で邪魔になる。せめてしばらく、久しぶりに冬は冬らしく生活してみよう。

   1月某日  冬の日

 と思っていたら、修理に来てくれた人が尽力してくれたらしく、どこかから急いで回してもらった部品をもって、直しに来てくれた。しかも今回は無料。申し訳けないが、ありがたい。応急暖房器具を買わないでよかった。
 ・・・というわけで、「冬らしい冬」体験は終了。まあそれでも、購入店からメーカーサービスへの連絡とかもあり、都合3度来てくれたので、10日程は「冬日」だったことになる。何とかなるものである。新潟仮設住宅の大雪に比べれば、全くどうということはない。

   1月某日  大寒

 大して忙しいということもなかったのに、更新をさぼっているうち、今月も終わりになった。この冬一番の寒波だそうだ。確かに寒い。
 元大阪高検の公安部長に、実刑判決が出た。検察幹部による調査活動費の不正流用を内部告発しようとした矢先の口封じ逮捕。そういえば、去年の今頃は、まだ『噂真』があったわけだ。

   2月某日  北林家写真

 雑事多忙。毎日何をしているのか分からないのですが、何かに追われています。
 北林トモ展から一年たちました。ということはトモの命日ということでもあるのですが、北林家を買い取られた家の方から連絡があり、古い写真が出てきました、とのこと。早速、展示研究を担当した院生2人と一緒に、見せて頂きにゆきました。写っていたのは、南から見た西側半分ですが、ともあれ、トモが住んでいた家の写真は、はじめてです! おそらくこの1枚が、現存する唯一のものでしょう。
 復元図作成を担当したので、不安もあったのですが、少なくとも写っている部分に関しては、まず90%程度?は復元図と合致。安心しました。それもこれも、考え考え数十年も前の記憶を引きだして教えて下さった皆様方のおかげです。感謝!
 とはいえ、まだ写真を詳しく分析していませんので、そのうち検討するつもりです。
 命日の次の日だったので、墓参もしたのですが、お墓はきれいに改築されつつありました。

   2月某日  李さん一家

 見ているブログでとりあげられていたので知ったのですが、先月24日、名古屋市が、公園で野宿していた7人のテントや小屋を、職員ガードマン警察官合わせて実に数百人を動員して強制撤去したというできごとがあったようです。詳しくは「野宿労働者の人権を守る会−名古屋」の資料にありますが、名古屋市の対応は全く不当で不法なものです。
 ただ、困っている人たちをまるでゴミのように強制的に追い出す市のやり口に憤慨しつつ、顧みるといささか忸怩たる点が残ります。
 公園には、芝生にシートを敷いて昼寝をする人もいればピクニック弁当を拡げる人もいるわけですし、アウトドア趣味の人のテントがあってもよいし、もっと切実な人たちのテントがあってもよいじゃないですか。・・・といいながら、(実際にはそんな家には住んでいませんが)もしも私の家に玄関とか庭とかがあるとして、そこにテントができるとすれば、私はきっと「困る」でしょうね。
 ところで・・・今頃ですが、伏見憲明氏らの本を何冊か読みました。確かに、公園でもどこでも、「普通の」家族や恋人たちだけではなく、ジェンダーやセクシャリティに関していろんな組み合わせのいろんな人たちがいるのが当然だし、その方が楽しい社会であると思います。
 そして実際、重い扉をこじ開けた先駆者の方々の努力もあって、「時代は少なからず変わり」つつあるようです。少なくとも本の中で紹介されている人たちは、マイナーな自らの性指向に、実にポジティヴに関わっています。ここでポジティヴというのは、自らの性的個性を自閉せずに、情報を集めたりそれぞれの性指向を解放できる場所や会合に積極的に出向いたり語り合ったりして仲間やパートナーを見出したりしているという意味であり、そして更に、より開いた社会へとカムアウトし発言してゆくという意味です。
 もちろんしかし、まだ沢山の問題領域が残っています。
 例えば、性指向の多様性に関しては非常に多く取り上げられるようになりましたが、性の問題に深く関わるパートナーシップの問題は、かえってポジティヴな発言の影にかくれているように思われます。性的個性がマイナーであろうとメジャーであろうと、自らの性指向の開放にポジティヴになれない/ならないことから、対応するパートナーをもてない/もたない人々もたくさんいます。最近では、性的マイノリティだけでなく、パートナー選択に関する社会的心理的諸条件のマイノリティ、例えば病人や障害者や貧困者や老人やB(BTBの前者のB)や更には心的に自閉的傾向の人々・・などの問題にも、少しづつ目が向けられるようになって来てはいるようですが。
 だが、問題は、それだけではありません。
 例えばハードなサディストの人でも、レイピスト(というのかどうか分かりませんが)的個性の人でさえも、しかるべき場所で、対応するパートナーに出会う僥倖があるかもしれません。ただ、ここまで拡げると、相互容認的なパートナーシップの成立に関しては、かなり限界に近づいてきます。そして更にその外側に、もともと相互容認がありえないカテゴリーも存在します。例えば、幼児へと向かう性指向など。
 もちろん、無限の多様性を認めあい理解しあうという理念はどこまでも大切ではあるでしょうが、もし私に幼い子供がいたとすれば、行動は論外としても、眼差しだけでも許容し難いでしょう。(続く)

   2月某日  李さん一家2

 「姦淫の心をもって」大人の他者を見ることは、程度によっては、セクハラとして排除されますが、パートナーシップが成立する場面では大いにそれを解放できます。しかし例えば、ただ幼児のみに欲情するという人には、許容された解放場面は見つかりません。その人にとっても、幼児の親にとっても、実に困ったことに。
 指向対象の問題とは別のケースもあります。
 伏見氏の本に、「欲情の着ぐるみ理論」という大変分かり易く面白い見方があります。CMなどではパンダの着ぐるみなどをよく見かけますが、私たちが欲情するのもまた、男制/女制という「着ぐるみ」だというのです。
 以前、着ぐるみではありませんが、レッサーパンダの帽子をかぶって、白昼の街中で女子大生を襲った男がいました。佐藤幹夫という人は、殺人事件という最悪の悲劇を引き起こしてしまった青年のパンダ帽について、それは、知的障害という診断名をもった青年にとって、最高のオシャレだったのだろう、といっています。
 性的なパートナーシップが成立するまでには、関係性の高い壁を越えねばなりませんが、その壁を越えるには、そのことにポジティヴであると同時に、文化的社会的な手の込んだ手順を踏まねばなりません。歴史的に絶えず変動する既成の手順を踏まえ、相手の反応をフィードバックしながら自らの行動を微妙に制御しつつ関係性の壁を越えてゆく、というのは、いってみれば高度な社会的行動です。
 前述のように、性的多様性が主としてポジティヴな場面で取り上げられる影に、そのような「社会的行動」に心理的にネガティヴな人々もいると同時に、一方心理的というか意図的にはポジティヴでありつつ手順の理解レベルが低い場合もあるでしょう。
 壁を越える行動は、その最初と最後だけをみれば、例えば「見知らぬ」異性が「性的パートナー」に劇的に変わるということです。青年は、精一杯のオシャレをした上で、その劇的な乗り越えを期待し予想して、白昼の街頭で気に入った女性に声をかけ、そしてナイフを使ってしまったのだ。そう推定する佐藤氏は、「彼らは決して性的異常者なのではない」、と書いています。このいい方には少し問題があるでしょうが、いずれにしても、たとえ「普通の」人からはどうみえようと、個性的な性指向に基づいて、気に入った対象者に個性的な仕方で接近しようとすること自体は、決して「異常」ではありません。
 この不況と貧困な福祉の谷間で、やむを得ず公園で暮らさざるをえない人々を強制排除した行政の[不当、不法]には、強く抗議したいと思いますし、マイナーな性指向をもった人々への差別、排斥、迫害といったマジョリティの[不当、不法]も、当然抗議されねばなりません。
 けれども、できればテントは公園にとどまっていてほしい、できれば幼い娘を怪しい目つきで見ないでほしい、できればナイフを持っては近づかないでほしい。それはやはり<困り>ます。そのこと自体に困るのではなく、そういうことは困る、許容したくない、と思うその自分に<困る>のです。
 もちろん、あらゆる社会的「容認」について、ただひとつ、「パートナーとの相互了解が成立する場合に限り」とか「他者を身体的にも心理的にも社会的には傷つけたりしない限り」といった当然の制限規定をつければいいことであって、それで何も問題はない、といわれるかもしれません。けれども果たして、そう簡単なことでしょうか。伏見氏も佐藤氏も認めているように、まだまだ矛盾は残っているように思われます。佐藤氏は、「性が性であることの矛盾」ということばを使われているのですが。

   2月某日  のだめ、再び

 私が使っているBBSが、一部で開けないようです。
 さしあたり、BBSに書き込んだものを、ここに転載しておきます。
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 読みかけたままだった「のだめ」最新巻を読みました。勧めてくれたファンの方へのお礼に、感想を少し。といっても、どうせ大したことは書けないでしょうが。
 これは私の勝手な想像ですが、もともとは音大生の日常モノを・・ということで取材に出かけた作者が、「あ、ドジで面白い子がいるよ」、ということで<リアルのだめ>を紹介されて・・という風こはじまったのではないかと思うのですが、どうでしょうか。いやそうではなくて、きちんとした構想があったのかもしれませんが。
 ともかく、最終ページを見ると、<リアルのだめ>さんは、いまはピアノ教師になっていて、「生徒募集中」だそうですね。ということは、ストーリーは、もはやリアルさんの生活圏を離れているわけです。でも、これは私の個人的感想ですが、願わくば、リアルさんから離れてほしくなかったのですが。
 例えば同じ「古典(クラシック)」世界を描いていても、「テレプシコーラ」では、読者は最初の巻で、「この世界は、才能があるだけじゃ駄目なんだ」という強烈なメッセージに直面します。もちろん、まだ途中なので、今後また逆転ストーリーがあるるのかもしれませんが、ともかく先ず、(少なくとも余程のことがない限り)金あるいは強い庇護者がない者はやってゆけない世界だ、以後のストーリーは、そういう世界での出来事なんだ、という枠が読者に示されます。そしてまた、主人公たちは、怪我とか身体条件といった、どうしようもないマイナスポイントを背負わされます。
 一方「のだめ」は、もともと「ドジ音大生の日常風景」物であって、「テレプシ」のような厳しいストーリー物の筈ではなかったのじゃないか、というのが、私の全く勝手な想像なのですが。もちろん、全く勝手な想像に過ぎません。ともかく、その想像は間違いのようで、ストーリーは、結局、技巧を越えた豊かな音楽性に恵まれた天才ピアニストと天才指揮者の恋愛ものになってしまいそうで、少し残念です。
 いまや「ドジ」なんてことは、大した問題ではなくなりつつあります。結局「才能ある者が必ず勝つ世界」の物語なんですね。馬鹿な、と僻み根性の私なんかは思うのですが。いやそれは、「才能があるだけじゃ駄目な世界の筈だ」、といいたいということではありません。そうではなく、「才能なんてなんぼのモン」でもない日常世界か、才能が全てである非常(非情)の世界か、そのいずれでもない緩さ甘さが、どうもちょっとね、と感じるのです。
 例えば、かつての名脇役だったラーメン屋だか食堂だかの息子なんかは、もう遠くにかすんでいます。彼のバイオリンは、もうケースから出されないままかもしれません。いつか、彼は、のだめと千秋のコンチェルトを椅子に座って鑑賞し、楽屋に訪ねてゆくでしょうが、そういうストーリーはいやだなあ、と私は思うのです。彼らと共にいた日常世界から出ていってしまったのだめ、それは、リアルのだめのリアルな日常性から出ていってしまったのだめに他なりません。
 もちろん、「古典世界」の価値観を無批判になぞりながら描くのですから、それはそれでいいのです。それなりに面白い。
 でも、そうなると、「ドジなんてことは何ぼのもんか」、です。バレリーナにとっての生まれつきの関節の問題などとは全く違います。もはやドジであろうと天然であろうと「なんとかしマス」なんて舌足らずにしゃべろうとフランス語が下手であろうと部屋が汚かろうと料理がすっとこであろうと、そんなことは「何ぼのもんか」。何しろのだめには<才能>!があるのですから。「のだめ」は全く「駄目」ではない。ラーメン屋の息子こそが、もともと「駄目」だったのです。
 でも、「のだめ」って、そういう話だったのか? というのが、私のとまどいなんですが。
 長くなりすぎました。やめマス。

   2月某日  映画

 映画は殆ど見ない。最近見たのはアニメばかり。なのだが、機会あって、立て続けに見た。映画館で、レイ・チャールズのいかにも伝記映画「Ray/レイ」。ビデオで、いかにも教科書風映画「東京原発」、それに崔洋一「刑務所の中」、篠田正浩のATG「心中天網島」。「刑務所の中」は、花輪和一の漫画をどういう風に映画化したのか見たいと思っていたのだが、崔洋一は流石に才能がある。「心中天網島」は古い映画を私が推奨したので、今の眼でみなおしてどうかな、と思っていたが、一緒に見た二人も共に傑作だと賞賛していた。次に、マンチェフスキーの「ビフォア・ザ・レイン」を推奨中。その前に、推奨されている原一男の2本を見たい。
 などと書いているうちに、風邪をひいてしまった。ま、大したことはないが。
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