風 日 好   ・・・ 今日は日和がよいけれど、明日はそうではないだろう 

     2004年8月                                 Top Page  過去の「風日好」




   8月某日  

 温暖化かどうか知らないが、やたら暑い夏である。
 といいながら、しかし、エアコンがあるので、実際には暑くはない。
 もちろん室外へ熱を放出しているだけだから、結局気温を上昇させているのだが。
 ともかく、自分はエアコンのある部屋で、暑い夏だ、といっている。
 暑い、というだけでも簡単ではない時代。
 いや、暑くはない、というだけでも、か。
 ・・・中島らもが、階段から落ちて死んだそうだ。
 もちろん、酔っぱらっていなかったわけがない。

   8月某日  騒がしい夏

 猛暑の中を旅に出たりしているうちに、旬日となった。
 しばらく、商業主義&ナショナリズムの祭典で新聞もテレビも五月蠅い。そんなものに頑張って勝ってほしくない。いや何に頑張ろうと勝手だが、ただ便乗するだけで自分もナショナルに勝ったような気になろうと待ちかまえている連中を喜ばせてほしくない。といっても、誰かが負ければ誰かが勝つようになっているのであるが。

   8月某日  機械と帝国主義の時代

 「華氏911」が日本でも公開されたらしいが、見ていない。見てきたのは、「スチームボーイ」。前回見たのは「イノセント」だったので、最近アニメだけしか見ていないことになる。
 宮崎アニメでもそうだが、機械が機械らしい顔をしていた時代の機械を、機械が機械らしさをすっかり失ってしまった時代の技術を使って再現することが、映像技術屋諸氏の仕事になっている。
 確かに、かつて産業革命を牽引した「スチーム」機械は、機械らしい顔をした機械の代表だ。熱を肌で感じ針の振れを目で捉え音を耳で聞きバルブを手で絞りレバーを脚で踏み梃子を引き弁を加減し、シリンダ、ピストン、梃子、歯車、カム、ピストン、ベルトが動き、人が五感と手足で制御する。・・・如何に巨大で複雑であっても、機械のスケールが身体のレベルにあるという意味で「絵」になる機械と技術は、もはやノスタルジーの世界にしかないのだろう。
 ところで、機械が機械らしい顔をしていた時代は、産業革命と帝国主義と万国博覧会の時代でもあり、つまり「大英帝国」が「大英帝国」でありえた時代でもあった。
 評の類は全く知らないが、多分、映像は流石だがストーリーは・・というのが大方の意見で、それほどヒットもしないのではないか。それはそうだが、ある時代へのノスタルジーという意味では、面白く見た。
 しかし、架空状況ではなく帝国主義の時代を前提とすると、巨大機械に関わることは帝国主義に関わることになる。何らかの対立ドラマを作ろうとしてみても、機械に関わる科学者や技術者に割り振られる役はたかが知れている。機械の巨大さに比して主人公たちが悪にせよ善にせよ小さい役でしかなかったことが、残念ながら、映像は流石だがストーリーは・・という評を受けることにつながるだろう。
 次作が予定されているという。主人公たちは、いっそマッド・サイエンティストとなるか「主義者」とならねば、ドラマティックな役を割り振られることは難しいだろう。しかし問題は、スポンサーをどうするかだ。帝国主義時代でなくても、巨大機械を作るのは金であって人ではない。

   8月某日  金子文子

 教えられて気がついたが、今年は金子文子の生誕百年だという。生年すらはっきりしない生い立ちではあるが、生地山梨県牧丘町の碑の前では、先日記念の行事があったとのこと。
 大逆事件で縊り残された大杉栄は関東大震災に際して虐殺されるが、その朝鮮人狩りで朴烈と共に捕らえられ大逆罪に問われた文子は、昂然と叛逆の意思を貫き獄中に縊死する。
 広辞苑で「無政府主義者」と記されているのはひとり大杉だけだと読んで確かめてみたが、もちろん金子文子は名前も載ってはいない。その叛逆の意思において、大杉と共に殺された伊藤野枝すらなお甘く見えてしまうほどの文子は、「権威」ある辞典への掲載など拒否するに違いないが。

   8月某日  夏の終わり

 アメリカ軍用ヘリの墜落現場一帯を米軍が封鎖占拠。戦後69年。基地だけでなく沖縄全体が、いやこの国全てが、なお被占領状態にある。
 ・・エアコンのことを書いたからかどうか、エアコンが不調になった。まだ、このままというわけにはゆかないので、修理を依頼したところ、調子が戻った。これもまた先送り。

   8月某日  疲れただけ

 小旅行をして、前から気にかかっていた所へ行ってきた。荒川修作の反転何とか地である。二通りの予想をしていたのだが、悪い方が当たった。観念的独りよがりなどとはいわないで、こういったものは「作る(作らせる)」のは確かに面白かったであろうけれども・・・というだけに留めておくが。
 現代美術は創造と鑑賞という一方的関係を否定した筈で、もちろんこの見せ物でも何より参加が求められるのではあるが、ところが、ここでこう見ろここでこう感じろなどと、明示的あるいは暗黙のうちに指示される。古いのである。もちろん、そういった関係に甘んじてありがたがる連中もまだいるだろうから、表現者の側だけの問題ではないが。

   8月某日  紅色

 玄関に積んであった文庫新書の類や漫画などを、2度に分けてブックマートへ持って行った。『紅色のトロツキー』をしばし躊躇してから残したのだが、たまたま山室信一『キメラ−満州国の肖像−』の増補版が出たので読んだところ、あとがきに『紅色』が挙げられていた。

   8月某日  ゴミ

 ロイター電によれば、ロンドンにある現代美術館の掃除夫が、館内にあったごみ袋を捨ててしまったという。そんな当然のことが何故ニュースになるかというと、そのごみ袋は、ドイツ出身の芸術家の作品の一部を構成するものだったというのである。複数の英紙が報じたところによれば、掃除夫は、新聞紙やボール紙、他の様々な紙が詰め込まれた透明なごみ袋を、「単なるごみ」と思って「それとは知らず」捨てたとのこと。
 「単なる便器」が陳列されてから80年ほどにもなろうかという昨今、ただのごみ袋を並べてみてもそれだけですぐれて「現代」的な美術作品になるというわけでは決してないが、それでもそれは、「単なるごみ」で<ある>ことで、ようやく「現代美術」として陳列するに足るものとなっていた筈である。つまり、くだんのドイツの美術家は、「単なるごみ」を「それと知って」捨てた掃除夫の職務に忠実な行動によって、はからずも現代美術家としての面目を保ったのである。
 ちなみに、ごみ袋は後で見つけられたものの破けており、ドイツの芸術家は新しい袋と換えたらしいのだが、美術館の広報担当者は、ごみ袋の交換に要した費用については言及していないという。おそらく、その辺りの新聞紙や紙切れをポリ袋に詰め込んだだけの「ごみ袋」の値段を公表することは、日頃巨額の金を払って「芸術作品」を購入している美術館のプライドが許さなかったのであろう。
 美術館の広報担当者はタイムズ紙に対して、「夜はカバーを掛けることにしたので、今後は、あれが持ち去られることはない」、と述べたという。馬鹿な話だ。惜しむらくは、タイムズ紙の記者がこう聞かなかったことである。「今後はあれが持ち去られることはない、といわれましたが、<あれ>って、つまり「単なるごみ袋」のことですか?」。

   8月某日  ドーピング再び

 前にも書いたが、IOCがドーピング禁止にだけやっきになっているのは笑止千万だ。ドーピングでも身体改造でも、やりたい者はやればよい。もともと、心身を全き「不健康」な状態にまで追い込んだ者がメダルを獲る世界、大勢のスタッフを引き連れて海外を連戦したり高地合宿をしたりできる者がメダルを獲る「不公平」な世界ではないか。
 侵略に「平和」の看板が必要なように、世界的規模の金儲けイベントに「健康」と「公平」の看板が必要というだけのことである。もっとも、そんな単純な看板に、ほとんどの者が騙されるのであるが。

   8月某日  台風

 かなり遠い所に上陸したのに、やはり超大型らしく、嵐となった。
 といっても何をするということでもなく、半藤一利氏の『昭和史』講談を、ビール片手に読んだだけ。単行本は買わない読まないのだが、先日つい買ってしまった。天皇に大甘な「為政者」失敗講談だが、その限りでは面白かった。
 ということで16号は通り過ぎたが、はるか南の海上では次の18号が、ほとんど同じコースをたどりながら、不気味に発達しつつある。
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