風 日 好   ・・・ 今日は日和がよいけれど、明日はそうではないだろう 

     4月                                 Top Page  過去の「風日好」


  4月某日 立たせてみるがよい

 以下の文は、「人質事件」の前に書いたものなのだが、そのまま掲載する。
 入学式の時期である。
 イラクでは、大義なき占領軍のテロに対するレジスタンスが激化しつつある。日本外交官殺害はアメリカ軍の誤射によるものだという疑惑が、国会でも問題になっている。それでも、「旗を出せ Show the flag」と強要されると、強い国に背けないていたらく。
 そして、アメリカに背けない分、アジアに力を誇示し、国民に力を誇示する。ヤの字業界で、力のない乾分に限って空威張りしようとするようなものである。
 旗といえば、最近は、祝日に旗を出す家などまるでない。旗日ということばそのものが、ほとんど死語となっている。だが、やってみればいいが、「旗を出せ」と強制してみても背かれるのは分かっている。さすがにそれは怖くてできないから、権力の縄張り内で、歌と起立を強制し、座ったままだった教員生徒を処分しようとしたりする。
 都知事が若い頃には、酒の席でも校歌や寮歌、応援歌などを手拍子で歌ったりするのは普通のことだった。そう聞くと、今の若い人は目を丸くするだろう。時代が違う。甲子園で校歌と起立を強要してみても、そんなことに、宴会ですら愛校スピリッツを吐露したような昔に戻す力など、これっぽちもない。
 力を誇示したい者らにとって本当に怖いのは、校歌など歌わなくなった時代の流れである。歌や旗どころか、「式」そのものが無化してゆきつつあることである。
 権威者が主役の「式」から、仲間うちの「宴」へ。セレモニーからパーティーへ。結婚については、とっくの昔に式は宴の単なる飾りものになっており、式の権威者である仲人という存在も消滅しつつある。大人の眉をひそめさせる成人式の騒動も、式から宴へという必然的な流れを無視するところから来ている。
 生徒集め競争激化の教育界でも、既に大学では起こっているように、「式」が消滅あるいは形骸化し、実質的にはパーティーやアトラクション集会をする私立中学高校が、今後は増えてゆくに違いない。今はまだ少ないだろうが、必ずそうなる。
 そういえば、今思い出した。私の高校の卒業式のとき、つまらない来賓の話の途中に卒業生が立ち上って「そんな人の話より、むしろ担任から話が聞きたい」と大声で叫び、同調する声があちこちから上がって、騒然となったらしい。らしい、というのは、私は欠席していたからであるが。
 式のつまらなさは、いまに始まったことではない。座っていたい者を立たせてみても、つまらない式がもっとつまらなくなるだけである。そして、旗や歌は、ますますつまらない場の象徴になってゆく。
 結構なことである。卒業式でも入学式でも、立たせたいなら立たせてみるがよい。式の形骸化がますます加速してゆくだけである。いま成人式で、県歌や町歌を立って歌うことを強要すればどういうことが起こるか、想像するまでもない。いずれ入学式でも似たような状況になる時代が来るだろう。権力ある連中は、それが怖い。ところが彼らは、その流れを止めようとして、逆にそれを加速しているのだ。

  4月某日 花雨

 日曜日。気が付けば、音もなく雨が降っている。
 古人のいうように、春眠の季節なら處處啼鳥を聞いたり夜来風雨の聲を聞いたりするのがまっとうな生活というものだろう。だがいかんせん高層コンクリート造りのかなしさ、強風の日を除けば、自然の音はまるで聞こえない。秋の深更などたまに遠い潮騒が届くときもあるが、ふだんは、かなりの雨も、雪のように落ちてゆくばかり。
 満開の桜は、この雨で、どうなっただろうか。

  4月某日 どうか読んでください

 いま、イラクで起こっているのは、どういう事態なのでしょうか。
 普通にテレビを見たり、新聞を読んだりしている人には、つまりは大多数の人には、真実は(というのに語弊があるというなら出来事の全体像は)、ほとんど何も知らされません。人質のことや、アメリカ兵士らが死んだり傷ついたりしたニュースは大きく取り上げられても、逆にアメリカ軍によって日々殺されているイラクの人々のことは、ほとんど無視されているからです。
 例えば、「ファルージャの目撃者より:どうか、読んで下さい」、というページがあります。
 イラクの子どもたちにサーカスを見せようという活動をしている、「Circus2Iraq」という外国人グループのジョー・ワイルディングさんという人が、目撃したことを書いた文です。
 まず、いま起きていることを知ることが、何より大事だと思います。<知らされる>ことを全てだと思ってしまわないように。
 人質となった人々のために、私は全く何もできませんが、彼らが何をしようとしたのかということは知っています。彼らのような人々が、自ら現地に入って見たこと、そして伝えようとしていることの一端を紹介するために、ここにリンクしておきたいと思います。

  4月某日 風景

 いやもう、世の中がいやになりました。マスコミ主導の「人質」パッシング。高橋源一郎じゃないですが、私もいいたいですね。こんな国のことなんか、もう放っておきなさい。
 というわけで、出かけたのですが、国道から少しそれた道で、車が信号で止まったとき、ふと横をみると、店のガラス戸に、いくつか貼り紙がしてありました。
 信号で止まった位ですから、それほどの田舎ではありません。地名も「町」がついています。でも、といっていいかどうか分かりませんが、多分金物雑貨屋さんらしいその店の貼り紙には、こんな手書きの文字が書かれていました。
  「春モーチ、秋モーチ あります」
  「山がらカゴ、入荷しました」
  「イノシシ k トンボ線あります」
  「モーチ」というのは、餅でしょうか「鳥もち」でしょうか、それとも別のものでしょうか。イノシシの「k」とは何でしょうか。トンボ線とは? ・・・次々と疑問がわき、想像力が刺激されます。
 ともかくこの辺りでは、貼り紙を見て、「お、山雀籠が入ったか」、と買いに来る人が何人かいるのでしょうね。
 デジカメを持ってはいたのですが、他人の店先を勝手に撮るのは憚られます。第一、そんな了見のせせこましいことをしては、折角の貼り紙の雰囲気を壊します。
 というわけで、のんびりした気分だけをもらって、更に車を走せてゆくと、今度は道端に、「安い、元気」と手書きした板が立っていました。「安い、新鮮」とかなら分かりますが、「元気」とは何だ? と思ってよく見ると、どうやら友釣り用のオトリ鮎を売っているらしいのです。
 そんなわけで、暗澹たる気分が続いた日常から少し救われた気持ちになれた風景でした。

  4月某日 殺戮意志

 今頃、といわれるだろうが、『ボーリング・フォー・コロンバイン』を見たところ、偶然にも、その日会ったアメリカ人と、その話になった。アメリカでも、たくさんの人が見ているという。もちろん驚くことはない。ムーアは、アカデミー賞をとったのだった。(受賞式挨拶の様子とムーア氏の最近のメッセージは、ここに出ている)。
 改めて紹介するまでもないが、テーマは、軍需産業と癒着して侵攻と戦争が体質となったアメリカ歴代政府のもとで、日々煽られる恐怖への過剰防衛反応として潜在化している、異質な者たちへの日常的な殺戮意志である。
 ムーアはいう。国の中でも国の外でも、恐怖を煽ることで儲ける者ら、恐怖を作り出すことで権力を維持する者らがいる。そして、作られ煽られる恐怖に日々怖れおののく者らが、恐怖にかられて人を殺す。あるいは大量殺戮を支持する。
 しかし、人は、銃で殺そうとするとは限らない。
 昨今、この国で人々の殺戮意志の対象となったのは、イラク「人質」である。ブッシュが戦争をしている国でムーアがアカデミー賞を取ったことに比べても、この国では政府も人々も、いかに非寛容かということが分かる。
 もちろん、バッシングを引き起こしたのは、「反日分子」ということばまでを歴史の闇から持ち出し、そしてまた巧みに選ばれた「自己責任」ということばを投じた、政府の巧妙な情報操作と、いつものようにそれに乗ったマスコミの扇動である。が、確信的主犯人である彼らは、人々の意識の闇に沈殿していたある日常意志を嗅ぎつけ、そこに火を付けたのであった。
 ここでも、恐怖と殺戮意志の構図が、おそらく生きている。
 殺される恐怖に怯える者が他者を殺す、それが怯えから逃れる道であるかのように。突き放された者が他者を突き離そうとする、それが強者の側に組みする道であるかのように。そう信じる他に、彼らは道を知らないのであろう。

  5月某日 自己責任

 「君の苦境は気の毒だがね。でもね。君がリストラ対象にあげられたのは、ノルマをこなせなかった君の自己責任。逆にリストラしないで倒産すれば、経営者の自己責任。甘えは許されない時代なんだよ。君に手をさしのべるなんてことは、あえてしないよ。
 小泉ファンである君には、百も承知なことだろうがね。終身雇用とか護送船団とか談合とか、そういうことばに象徴される<非競争>の精神こそが日本をダメにしてきた元凶であってね。だから、そういう旧体制にあぐらをかいていた連中をやっつけて、あらゆる場面で競争原理を徹底しようというのが、君も期待する小泉「構造改革」だ。
 もちろん競争だから、敗ける者、落伍する者がつきものだ。倒産企業や失業者の増加はやむをえない。実際、国際的にも、企業間でも、もちろん個人レベルでも、どんどん格差が広がっている。これは厳然たる統計的事実だね。
 しかし、格差が嫌なら競争はない。勝つか負けるかで大きな格差がつくからこそ、全力を尽くすのであってね。勝っても負けても大差ないなんてことなら、真剣な競争にはならないだろ。ともかく、優勝劣敗の厳しい競争に参加して勝ち抜くことこそが、いまの時代に生き残るための、グローバルスタンダードってわけだ。
 そこで大事になるのが、競争結果に対して自己責任をとるという大原則だ。それがないと自由競争とはいえない。競争に負ければ、経営者は倒産という形で自己責任をとる。社員はリストラという形で自己責任をとる、君みたいにね。そうやって、日本経済のリストラが進んで行くわけだ。それが時代の流れなんだよ。
 ただ、問題がひとつある。治安の悪化だ。
 厳しい競争が進んでゆけば、格差が広がり、社会の最底辺に、いわゆる負け組、落後者がどんどん沈殿してゆく。もちろん、社会的救済とか手厚い福祉なんてのは、競争原理に反する。落伍者も自己責任で、自力で這い上がるべきであってね。這い上がる気をなくしてホームレスなんかになってるような連中は、自業自得という他ない。
 しかし、治安は悪くなる。国内の犯罪だけじゃない。国際的なテロなんかも、最近はひどいね。だから、グローバルスタンダードの市場原理でどんどんやってゆくには、国際的にも国内的にも治安対策が必要だ。国際的には、アメリカのような強国がテロ国家を徹底的にやっつけるのに協力する、国内的には、警察の徹底的な取り締まり体制を作ってゆく。そういったことが重要だね。
 しかし、それだけじゃ足りない。危機管理も、国だけにまかせるのじゃなく、自己責任でやらなくちゃ。その点、アメリカなんか、グローバルスタンダードの本場だからね。さすがに自己責任ということが浸透している。どこの家にも銃があるというじゃないか。泥棒なんか来たら、自己責任で、すぐに撃っちゃう。自分の家族や財産は自分で護るってわけだ。バン!バン!ってね。どんどん撃つそうじゃないか。痛快だね。
 危機管理とか自己責任とかいえば、最近、危ないところに勝手に出かけていったくせに、自己責任を棚に上げて、犯人と一緒になって何か要求した連中がいたよな。ああいう連中は最低だね。けしからん。
 私らが不況で資金繰りが大変だといっても、自己責任というわけで、どこも助けてくれない。君らがリストラにあっても、自己責任だから、誰も助けない。ところが、連中の態度は何だ。国で助けるのが当然だという。自分を何様だと思ってるんだ。
 リストラに直面しても、自己責任をわきまえて耐えている君らが、ああいう横柄な連中を見て頭にきている気持ちは、よく分かる。私のような、毎日大変な思いをして日本経済を支えている者から見ても、あれは腹が立つ。ああいう連中のために、高い税金を払ってるんじゃないんだ。あんな連中は抹殺しないとダメだね。
 君や私らは、何のために自己責任で苦況に耐えているのか、日本経済のため、国のためだ。ところが連中は、何だ。勝手にやった行動の自己責任を取ろうとはしないで、救済に何億という税金を使わせて、しかもだ、それが当然というような顔をしている。いやそれどころか、助けてもらった政府を批判したりしている。ということは、小泉政府を支持して国に税金を払っている私や君を批判してることになるわけだ。全くもってけしからん。そうだろう、君。
 君らみたいに、自己責任をとってリストラの苦境に耐えている者こそ、もっと怒らんといかんよ。いや、格差社会、競争社会に怒るんじゃないよ。それは場違いだ。自己責任をとらない連中に、自己責任を取れ、って怒らんとね。
 君も私も、同じ小泉改革支持者だし、自己責任を取らない奴等が共同の敵だということで、肩を組んでいるわけだ。その点でいうならば、君も勝ち組仲間だね。気持だけはね。ハハハ
 負け犬は溺れさせよ、っていう諺なかったかな。格差社会反対なんていってる負け犬連中は、もっとたたかなくちゃあいかん。絶対いかんよ、君。」


  5月某日  梅雨ではない

 早くも梅雨である。
 といってはいけない。
 「梅雨ですねえ」「いや、まだこれは梅雨じゃないらしいですよ。テレビでいってました。」
 気象庁もこれほど頼られてしまうと、「梅雨入り宣言」「梅雨明け宣言」をいつ出すかが大変なようで、実にご苦労なことである。
 しかしもともと、春と夏の間の時期にうっとうしく続く雨のことを「梅雨」といい習わしたのであり、ここ数日の雨をそう呼ぶのに、何の遠慮をすることもない。
 だから、梅雨である。
 のだが、気象庁もお役所であり、まあそんな程度のことでおカミに盾つくつもりはないので、やはり、まだ梅雨ではない。
 ともかく私たちは、「そんな程度のこと」まで、いまではお役所とマスコミに頼って、つまりは管理されて暮らしているのである。
 
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