風 日 好   ・・・ 今日は日和がよいけれど、明日はそうではないだろう 

     2004年11月                                 Top Page  過去の「風日好」


  11月某日  椅子の話1

 単行本は、買わない読まない置かないだと繰り返し書いたが、多少の義理でちょっと読んだものがある。といっても精読したわけでは全くないが。
 で、どうせこの雑文「風日好」は誰も読まないので、ここで少し義理を果たしておくことにしようと思う。といっても、一応他の人にも読んでもらえるような書き方で書くつもりだが。

 さて、倫理などというものは、あるいはエトスといってもいいし、さしあたりもっと堅く規範とか黙契とかいっても別にいいのだが、どうせ既成と支配と差別に決まっている。乱暴に聞こえるが、いや実際に乱暴なのだが、どうもそうなのだから仕様がない。もちろん、しかしというかしかもというか、だから無視する従わない、とはならない。それは心身に染みついている。また染みついていなければ倫理でもエトスでもない。いい方を換えれば、互いに染みついた者どうしということで、私たちは日々まあ平穏に世間で暮らしているのである。
 例えば出会って握手するのは既成の慣習儀礼に過ぎないが、その儀礼は私を支配し、手のない人の差別に加担させる。確かに既成、支配、差別ではあるが、だからどうだといわれても、さしあたりはどうにも仕様がないし、問題だといわれても困惑する。
 いやそれ以前に、これは椅子だ。私は、椅子とはこういうものだという既成観念によってそう判断したのである。もし私が既成観念にとらわれずにレストランでテーブルに腰掛けると私は追い出されるのであって、つまり椅子の既成観念は私を支配している。だから例えば、何故椅子は座られねばならないのか、何故私たちは椅子に座らねばならないのか、という岡本太郎の問いは刺激的ではあるが、しかしそれはそれとして、日常生活では、私はもとより椅子を椅子と見て椅子に座る。
 私は、例えば店員の注意を無視してテーブルに腰を下ろそうとする乱暴者や裸で街を歩く頓狂者に眉をひそめるとき、既成観念既成モラルに支配されて彼らを差別するのだが、別にそのことに罪悪感を抱くわけではない。いい換えれば、既成と支配と差別こそが日常性を支えている(続く)

  11月某日  椅子の話2

 さて、問題の本は倫理と性/愛を表題に掲げた真面目な本である。書かれているのはそう簡単なことではないし、通読も精読もしたわけでないので気が引けるが、ともかくしかし続けてみよう。
 心身に染みついた既成の支配的エトスを共にしつつ、私たちは差別を隠して世間で平穏に暮らしていると書いた。
 差異化の視線は差異化の行動に直結している。といっても何ということはない、椅子を椅子と見て座ることである。
 私が椅子を椅子「として」見るとき、それは座るものとしてあり、世間は私に、椅子と机を見分けて椅子には座るが机には座らないという行動規制をかけている。逆にいえば、私たちの日常は、机に腰掛けるといった行動したことを普通はまちがいであり逸脱であると規制することで成り立っている。
 けれどももちろん、時には既成支配から自由であることも必要だ。人が集まって椅子が足りない。そうだ、そのスピーカーBOXにクッションを置いて座ればよい。この程度の柔軟性は誰にでもあるのであって、岡本太郎のようにもっと爆発して座れないものまで椅子だと主張すると、はじめてゲージュツになる。
 それでも、例えば爆発する太郎氏も着ているものは志茂田過激ではなかったし、フェミニズムの会合で講師が穏当なスカート姿でも誰も全く何もいわないのであって、それぞれ自由を目指す分野というのがある。何もかも既成を無視して過激になっては平穏な日々が爆発してしまうことを誰もがわきまえているのである。
 だが問題は椅子ではない。相手が人の場合である。
 椅子さんはいつもお尻に敷かれて可哀相と少女がいったりするのは微笑ましいだけだが、人はモノとは全く違う。少なくともそういうことになっている。
 私は、スピーカーBOXに座ることを思いつかなかったが、しかし、お前の視線は既成支配に囚われていると誰も私を指弾はしない。もちろん時には私も、「として」を離れることがあるのであって、そういえば先日暗闇で何かにぶつかったが、痛みは感じても別に吐き気は感じなかった。
 それは横道冗談だが、ともかくモノとは違って人の場合は、様々な問題が発生するののであって、椅子さんが可哀相という少女とは全く違う口調で、握手という儀礼もまた問題だという人が現れもおかしくはない。(続く)

  11月某日  椅子の話3

 ・・・余りにもありふれたことを「である」調で書いていると、ちょっと嫌味な文になって来た。いや真面目なんですが・・・反省(^_^)
 椅子の場合には、差別し支配する既成の規範に支えられて平穏な日常を送ることも、たまにはそこから自由になることも、別に大したことではない。だが、人の場合には当然そうはゆかない。
 というわけで、本題の、性/愛あるいはフェミニズムである。

 [・・・と、以下、少し長く書いたのだが、削除]

  11月某日  秋から冬へ

 秋から冬へ、ゆっくりと確実に、日差しが薄れてゆきつつある。
 小さくない出来事があった。
 私の時間もまた、ゆっくりとあるいは早く、だが確実に、冬に向かって流れつつある。
 この流れには、再び来る春はない。

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