風 日 好   ・・・ 今日は日和がよいけれど、明日はそうではないだろう 

     2004年9-10月                                 Top Page  過去の「風日好」


   9月某日  

 猛暑と台風、尋常ではない夏に続き、秋もまた穏やかではない。
 と思ったら、地震である。かなり大きいのが2度も来た。超巨大地震の前触れかもしれないと、専門家は警告している。されても、どうしようもないが。  巨大台風も、なお次々と襲うらしい。  天も揺れ地も揺れる秋。

   9月某日  うさぎ

 電話があってTVを点けた。中村うさぎのインタビュー番組だ。流石、ブランド衣料が散乱する乱雑極まりない室内。
 シャワーを終えた彼女を見て、夫が気味悪がって逃げたという。「オッパイ見て逃げられたのははじめてですよ。それも夫にですよ・・(笑)」。夫は留学生で来ていて滞在を延長する手だてがなく困っていたところ、意気投合したうさぎさんと、結婚すればいいじゃんという話になったのだという。もちろん書類上の結婚ではなく、一緒に住んで支え合っており、彼女にとって夫の存在が大きいことは何度も書いている通りである。ゲイの夫には事実上の夫がいて、時折は3人で食事をしたりするという。
 滞在延長の制限や同性結婚の不許可に抗議したり撤廃運動を起こしたりするのは、お上を変えようというのであるが、彼女はもっと端的に、じゃあこうすればいいじゃんという事実例を作っただけである。抗議運動に加わることは誰にでもできるが、その「だけ」を乗り越えることは、誰にでもできることではない。
 TVを消して、塩漬けキャベツを作った。

  9月某日  揺れる日々

 立て続けに2度の強い台風。その間に3度の強い地震。
 だが日々は、次々と現れる雑事と共に、こともなく過ぎ去ってゆく。諸事、少なくとも後戻りしているのではないが。
 自分より若い人の死を知らされ、改めて、流される日々を想う。
 だからというわけではないが、先週から、新しいことを始めた。

   9月某日  化粧

 1時間ほど電車に乗ったのだが、ボックス席の斜め前に、茶髪タンクトップ破れジーンズの典型的な若い女性が座った。で、座ったとたんに膝のバッグの上に鏡を乗せて、お化粧を始めた。既にきれいな化粧顔だったので、ちょっと手直し程度かと思ったのは認識が淺かった。車中で仕上げの予定だったらしい。まず眉をひくことからはじめ、時折肌を修正しながら、上瞼にアイシャドウをぼかし、細筆で線を描いて疑似二重瞼にする。それからアイライン、マスカラ・・、結局1時間きっかり使って見事に仕上げた。
 もちろん、ごくたまに目をやっただけが、降りる時には、確かに乗った時とは見違えるようになっていて、その技術に感嘆した。
 最近の若い者は人前も憚からずに・・といった雑談の場では、私も適当に相槌を打つ。けれども、少しでも立ち止まる習慣のある者は、かつて、若い母親が車中で隠すこともなく乳房を子に含ませたり、男が人通りのある道で平気な顔で放尿したりしていたことを、直接ではなくとも知っていよう。したり顔で発言する「社会評論家」の類は、その程度の歴史的言及もなしに、「現代」を語って得意になっているのである。評論技術の虚しさと化粧技術の確かさ。

   9月某日  落葉

 夜の方が短い季節が、終わろうとしている。
 ここは地表から高いので、時に潮騒は聞こえても、虫の音は殆ど聞こえない。頼りない秋である。窓から見える空の雲を別にすれば、秋らしいのは、植木からはらはらと落葉する枯葉だけである。  とはいえ、落葉樹ではない。いつの頃からあるのかは忘れたが、元はベンジャミンである。しかし、数ヶ月に一度横に伸びすぎる枝を剪る以外は手入れをしないまま放置して来たので、見かけは全くの雑木となり果てている。雑木と思えば、何日も水やりなどしなくても気にならないのがよい。当木は迷惑だろうが、ここに居着いたのが運命だと、諦めてもらっている。

   9月某日  欲情する少女たち

 一時流行したフェミ・ハードボルルドというジャンルがもはや存在しないように、かつてのような意味での少女マンガはもはや存在しない。それでも、二ノ宮知子『のだめカンタービレ』というのは、なお一応少女マンガに分類されるのだろう。その最新巻を読んだ。かなりのファンがいるらしいが、このページの読者はごくごく少ないので、最新巻だけで勝手なことを書いても、怒るファンはいないだろう。
 身も蓋もなくいってしまうと、富裕で天才的な才能をもった音大生千秋が世界的レベルの指揮者に成り上がってゆく(らしい)という話が軸になっている。といっても、長年に亘って築き上げられた伝統世界のこと、結局それは、権威ある者に認められ選抜されてゆく、という道である。庶民から見れば、自分たちにの知らない世界を日常としている若者たちの生活には、新鮮な面白さがある。一方しかし、その秩序ヒエラルキーは知っているし、才能ある者が権威者に選抜されてゆくという構図も分かり易い。
 もちろん、普通の取材に基づいているので、業界の暗部は一切描かれないし、また主人公の側にも深刻な事情なく、妨害する悪役もいない。それに何より、千秋自身が徹底的な競争世界を勝ち抜いてゆくことに一切の心的負担を感じないキャラになっており、つまり現実には「やな奴」であるが、漫画家の力でそこがむしろ魅力的に描かれる。
 とはいえ、それだけでは、文字通り身も蓋もないので、そこに<のだめ>という「少女」(この巻では20才を越えているのだが)をヒロインに配して、ちょっと不思議な雰囲気の話にしている。
 ちょっと不思議な雰囲気、というのは、最近流行りともいえる。共同秩序を支えていた日常と非日常の壁が崩れつつある昨今、微妙にズレた日常些事を描くことで、小説やマンガの世界にするという手法である。一般論には広げないが、端的にいってこのマンガも、微妙にズレた日常性の按配で話を面白くしている。ただ、ズレの装置は、高級マンションの部屋にちゃぶ台、可愛い女性の部屋がごみため状態、世界的指揮者が風俗通い、音大理事長ゆきつけのラーメン屋・・などと、いずれも大変分かり易い。
 さて、この巻で顕著なのは「性」である。
 青年漫画とは反対に、このマンガで発情しているのは女たちである。例えばコンクールで最終審査に残った二人の青年指揮者を迎えて、オケの女性演奏者たちの話題は、専ら彼らに感じる「色気むんむん」である。
 もちろん<のだめ>も例外ではない。より関心があるのは、音楽家としての千秋ではなく、欲情の対象としての千秋である。語学レッスンの場面でも千秋にレイプされることを想像し、何かと理由をつけては千秋の部屋を訪れ、ベッドを共にするチャンスを狙う。もちろん、「少女」のだめゆえに、あからさまな誘惑などはしないのであるが。
 一方、男たちは不自然にも欲情しない。千秋は、のだめの心情を充分知りつつ彼女を部屋に入れたりひとつのベッドで寝たりするのだが、そうしながら手を出さない。彼女の方は、眠る千秋の隣で枕を抱えて「生殺しだ・・」と悶々とし、朝を迎えて、「むらむらして眠れなかった」と不機嫌である。
 発情する男と素知らぬフリをする女というのは、余りにも手垢のついた男性マンガの常套構図である。それを逆にし、発情する女と素知らぬフリをする男という設定で、ある種のズレ感を出すというのは、豪華マンションにちゃぶ台程度の、いささか安易なやり方ではある。が、それはそれとして、どうやらその辺りに、現代なお性別意識というものが漂う場所があるらしいことが読みとれる。

   10月某日  サガンの死

 サガンが死んだ。追悼記事が新聞に出た。私が読んだ小池真理子は、かつて<サガンの時代>があった、と書いていた。
 今日、大きな本屋の文庫本コーナーにいたとき、店員に話しかける男の声が聞こえた。「え〜と、この間死んだフランスの人の本どこにありますか」、「え?」、「フランソワ・・何とかですけど・・」、「あ、サガンでしょうか」、「そうそう、その人の本、どこにありますか」、「文庫本ならこちらにございます」。
 ふり返って見ると、まさに<サガンの時代>に青春期を送ったのであろう世代の男である。「これだけですか」、「すみません。買われる方が多くて、今あるのはこれだけです」。男は、新潮文庫の3冊をもって、つぶやいている。「そうか、これだけか・・・」。
 彼は、知らぬ間に通り過ぎてしまった青春時代を、いま取り戻そうとしているのでもあろうか。自らの青春時代が僅か文庫本3冊だけであることに、改めて落胆している風であった。
 レジの場所を教えても立ち去らない男に、女店員は「またすぐ入りますので・・」と声をかけている。「はあ、じゃ、またこの棚へ来てみればいいんですね。・・・そうか、3冊だけか・・・」。

   10月某日  動画

 そういえば、Flash動画をもう1年以上作っていない。短いマイブームだったのかもしれない。
 Flashを作りはじめたのは、Hoogerbrugge のModern Livingを見たからなのだが、長い間訪れない間に、彼の新しい作品もできている。

   10月某日  変?

 中村うさぎの対談集『変?』が文庫本になったので買った。
 それにしても、依存症には限らないが、「症」とは何だろうか。
 対談者の多くは、何らかの依存症の時期をもっており、そして、それを克服したか別の依存症に移行したか、あるいは少なくとも中断しているか安定状態にある。そして、ひどい依存症にあった自己について「語って」いる。
 何らかのモノや人や行動などなどに人並み以上に執着があるとして、ある度合いまでは、それらは単なる趣味と見なされる。かなりマイナーで多くの人には異様な嗜好でも、昨今では許容される、少なくとも許容すべきであると見なされる。では、それはいつ、依存「症」となるのだろうか。
 人は、それが快感慰謝救済忘却などなど、現に生きるのに必要な心的事態をもたらすが故に依存する。 それが何故、脱却すべき「症」、即ち心の病とされるのか。
 例えば買ったり食ったり飲んだりするのは快感であったり救済であったりしても、すぐ後に請求書が来たり嘔吐したり禁断症状になったりするとき、激しく後悔するからか。では、後者の自覚がなければ、あるいは後者が前者に勝ることがなければ、依存は「症」ではないのか。しかし完全な依存耽溺は、むしろ重症ではないのか。
 それとも、法律や医学書の設定する基準などはもちろん無視するとしても、ある行動なり状態なりを「症」とするのは、本人ではなく他者なのか。だが、例えば創造力枯渇への恐怖から逃避するためにクスリに依存しつつ創作するミュージシャンがいたとして、彼は家族や友人知人を煉獄に巻き込みつつも、ファンの人生を救いプロダクションに利益をもたらす。他人とは誰か。
 総じて、病的なのは、あるいはその決め手になるのは、何らかの心的欠落状況なのか、それを依存で埋めようとする心理なのか。また依存がもたらす当人の苦痛なのか、他者関係の破綻なのか。あるいは依存からの脱却意思なのか、にもかかわらず脱却できない心的状況なのか。
 心理学者というロクでもない連中は論外だが、対談者たちの多くもまた、過去の自らについて、いまは他者のように語るだけである。おそらくそれが、克服の成功者というわけなのだろう。

   10月某日  続き

 いつもの通り、読み捨てたままで、いい加減なことを書いたが、本人の「あとがき」を読んでいなかった。
 「依存症とは、何か」、と中村うさぎ自身が最後に書いている。「食べること、飲むこと(略)・・・・・誰もが日常的にやっている行為が、やめられない止まらない状態になり、ついには自分の身を滅ぼしていく、そんな不可思議な心の病である。そこにあるのは、過剰な欲望と恒常的な欲求不満。我々は手当たり次第に貪りながら、いつでも激しい飢えに苦しみ続ける「餓鬼」そのものだ。(略)心で悲鳴をあげながら、しかし我々は、誰にも助けてもらうつもりはない。何故なら我々は、破滅したいからなのだ。(略)破滅の恐怖こそが、中村に痺れるような快感をもたらすのだ。(略)中村に強烈なエクスタシーを与えたもの・・・それはなんと「破滅」であり「死」なのであった。(略)自分を傷つけ、死の間際まで追い詰める行為が、気持ちよくって仕方ないのだ。(略)我々は、性的倒錯と似て非なる「生的倒錯」者だ。(略)私は、自分が彼にも必要とされないという孤独感から抜けられない。誰かに愛してもらえれば、この孤独から救われるのか。いや、違う。(略)誰にも愛されていないなんて、ウソだ。この世でたったひとり、私だけが、私を愛していないのだ。満たされない自己愛が、自分を破滅に追い込もうとする。」。
 ・・・だが、彼女は、救済されようとは思わない。少なくともそういっている。「いいよ、私は破滅を選ぶ!」「これである。これが、中村の得た最終結論なのである。(略)救われたいなんて思わない。これは、私が選んだ私の人生だ。(略)恐怖とエクスタシーがセットになった、史上最強の絶叫マシーン・・。(略)死の恐怖にさらされずして、生の悦楽を味わえようか。」
 もはや、「症」とは何かなどと問うべき次元の話ではない。それにしても、「克服の成功者」とは、では、マシーンの恐怖に耐えられずに途中で降りた者たちだということになるのだろうか。

   10月某日  秋・・

 秋である。
 台風も去り、静かな日々が戻った。
 「ひどい雨でしたね」。そう話しかけられて、思わず「そうでしたね」と答えたが、実は双方とも、TV画面の記憶を、現実体験のように思っている。
 デリダが死んだという。読んでいないのにいう資格は全くないが、彼を持ち上げること自体がまた西洋中心主義の一形態になるという構図。少なくともわが言説業界では、そうやって少し目新しい西洋建物群を建てる宅地が、再開発造成されたのであった。
 ジョアン・ジルベルトは73才だそうだが、先日のコンサートでは、途中で40分もの間、黙ったまま座っていた由。その間観客は、ずっと拍手しながら待っていたという。

   10月某日  さすが

 竹中労『芸能人別帳』を読んだ。いつもの通り、もちろん文庫本。うち、「石原裕次郎天下を狙う?」の稿に、「当たるも八卦の戯文」が書かれている。
   198×年 ------- ニッポン国初代大統領石原慎太郎閣は、満十八歳に達して身体健常である国民男子に、軍事訓練を含む二年間の集団生活を義務づけると布告した。いわく「これは"徴兵制度"ではない。日本の若者に、愛国、正義、独立、進取の気概を回復しようとする精神大革命である。」
 そのころ、日本の若い世代は社会秩序からドロップアウトし、勤労意欲を失ってイッピー化しつつあった。資本主義の繁栄は無為徒食の風潮をもたらし、ブラブラ遊んで暮らす連中、野に満ち山に満ち、巷にあふれて、フリー・セックスに狂い、非行、犯罪に走り、・・・深刻、かつ重大な流砂のごとき社会不安を生起した。
 そもそも、八〇年代に大統領制度が採用されたのは、若者ばかりではなく国民の各層に政治に対する無関心と、断絶が蔓延して、総選挙の投票率50%を割ったためであった。すなわち、議会制民主主義は原理的に崩壊し、これに変わるべき"デモクラシー体制維持"の方法が要求されるにいたったのである。

 そして、石原が圧勝。それは、実弟裕次郎の活躍によるものであった。一大プロダクションを興していた裕次郎は、あらゆるマスコミ媒体を使って、『祖国の未来を若者の手に』という大キャンペーンを繰り広げ、「日本の元首は天皇であるべきだとする三島由紀夫を除いて、作家、文化人の多くも慎太郎の応援にはせ参じた」。こうして、「日本政治史上で、かつてないショーアップされた選挙戦の結果、投票率80%を上回り、民主主義は危機を免れたのである」
 ・・・繰り返すが、これは198×年という設定の「妄想」である。竹中労がこれを書いたのは、裕次郎も三島も生きていた1970年2月。昨今を顧みれば、流石に労、ではないか。

   10月某日  台風、地震

 各所に避難した人たちは、いずれも、大変な生活を余儀なくされている。
 ところが、(最近また書き出した「ゴロミ」さんの日記で知ったのだが)、避難している人たちが新しい毛布を支給されていたのをTVで見て腹を立て、「何でそんなに甘やかさねばならないか私はわからない」と、曽野綾子が産経新聞に書いている。新聞紙を床に敷いて寝ればいいのだそうだ。
 こんなことを書いて得意になっている人間に紙面が提供されるなど、何でそんなに甘やかされねばならないのか私にはわからない。おそらく、産経新聞は、床に敷くためのものなのだろう。

   10月某日  イラクでの死

 イラクで、若者が死んだ。むごい死である。
 第一声で「撤退しない!」つまり「見殺しやむなし」と首相がいい、その通り見殺しにされた。
 物好きな若者であろうと誰であろうと、かつて安全に行けた国を、いま「危険な国」にしたのは、ウソの理由を掲げて侵攻し、無数の人々を今も日々殺しつつあるアメリカ軍と同盟国軍以外の何者でもない。
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