風 日 好   ・・・ 今日は日和がよいけれど、明日はそうではないだろう 

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  9月某日 戦争の大義(2)

 (続き)宮城与徳が、東京拘置所で尋問の途中に書いた二つの手記のうち、4月7日付けの手記を取り上げている。
 もちろん、拘禁と拷問を伴う取調べ中に書かれたものである。書きたいことが書け、書きたくないことは書かずにすむ、というわけでは当然ない。
 先にも触れたが、例えば尾崎が獄中で書いた「反省」はいわゆる「偽装転向」だった、という人々がいる。そういった人々は、先ず獄中での彼のことばを不名誉なものだと判定し、次にその不名誉から尾崎を救おうと、彼のことばは虚言だったと判定する。その二重操作の彼方で、当人のことばは宙に浮かんだままとなる。それだけではない。一般に、その種の判定操作は、政治的な認定権力を引き寄せもする。そのような認定権力によって、ある者は獄中でのことばゆえに転向したと判定されて切り捨てられ、しかしある者は獄中でのことばの方が虚言であったと判定されて救われる。
 ここではそういったことは問題にしない。偽装あるいは戦術的発言であったとしても、問題は、「現在でも共産主義を正しいと信じて居ります」という宮城が、目の前の戦争を支持しその勝利を願うと書く、そのときのことばの回路である。実際、そのような回路は、当時必ずしも特異例ではなかった。
 手記が書かれた前年41年の12月8日、真珠湾の戦果と対米英蘭宣戦布告の報道に接して、かなり多くの知識人たちが、それまで自らの時代に感じていた重苦しさから解放されたように感じたということはよく知られている。この戦争は、以前の対中国戦争からの継続であり帰結であるという点から、ひっくるめて「15年戦争」ともいわれる。しかし、少なくとも当時の<受け止め方>としては、大きな不連続、あるいは転換があった。
 それまでの日中戦争についても、もちろん一方では戦勝報道に歓呼の声をあげる多くの人々がいたのではあるが、しかし他方、中国での戦争状態を、いつの間にか始まり、不拡大の方針にも関わらず遂に泥沼に引きずり込まれた重苦しい「事変」であると受け止める人々も少なくなかった。
 だが、12月8日の対米英開戦は、そういう人々の中にも、多くの支持を生みだした。もちろん、大国を相手にする戦争の無謀さを憂慮する人々もいたし、戦争の推移に伴う困苦に早くも思いを馳せる人々もいたのだが、少なくとも、始まったこの「戦争」は、かなりの人々にとって、それまでの「事変」とは異なり、大義あるものとして受け止められた。こうして、困難ではあるが新しい時代の始まりとして、そこには、ある種の解放感が伴っていたのである。
 宮城もまた、獄中の窓に「聖寿万歳」の声を聞きながら、その思いを共にしている。少なくとも、そう書いている。(続く)

  9月某日   戦争の大義(3)

 (続き)「共産主義者」宮城が、12月8日の開戦に「感慨無量」と書いていることを問題にしている。
 例えば竹内好の『近代の超克』に、高杉一郎という『文芸』編集者の回想が取り上げられている。  彼もまたそれまでの中国への侵略戦争には抵抗感をもっていたのだが、ところが12月8日、「一夜のうちに自己麻痺にでもかかったかのように」興奮状態にとらわれる。
 そこで彼はどうしたか。「戸棚の奥をさがして、モスクワから出版されていた英語版『国際文学』のバック・ナンバーを見つけだした。それは、ソヴェート・ロシアがドイツ軍から攻撃をうけたときの特集号で、Will to Fight ! という見出レのもとに、あらゆるソヴェートの作家たちがファシズムと戦いぬく決意をのべていた。そして、それにつづけて、コサック兵の出陣の風景をえがいたショーロホフの短篇などがのっていた」。「あくる朝、その雑誌をもって出社した私は、『文芸』にそれとまったくおなじ形式の編集を計画し、たくさんの作家たちに『戦いの意志』を書いてくれるように依頼の手紙を書いた。依頼をことわってきた作家はひとりもいなかったし、私自身がその編集プランに小指の先ほどの疑いももってはいなかった」。
 ふり返って彼は、「それ以来、私たちは手を汚しつづけた」、と書くのであるが・・・
 仏印「進駐」と真珠湾「攻撃」によって始まった戦争をソ連の祖国「防衛」戦争になぞらえて受け止め、米英をナチスドイツになぞらえて「戦いの意志」をかきたてる・・・今から見れば理解困難な<なぞらえ>であっても、少なくともそれは、ひとりの編集者の心情だけに起こったドラマではなかったようだ。(続く)

  9月某日 残暑

 堅い話ばかりが続かないように、ちょっと休憩。といっても、他に書くこともないのですが。
 そういえば、今年の夏は、旅行もせず一度も泳がずビアガーデンにも行かず。ところが、ここへきて、冷夏のあとの残暑。30度に設定しているエアコンも、結構毎日動いていますし、水やりを忘れがちな朝顔も、毎朝いくつも花を咲かせて、まるで遅れてきた夏です。
 今夜は半月。薄曇りらしく殆ど星が見えない夜空に、折りから大接近中という火星だけが、異様に輝いています。何でも今回の大接近は、実に5万7千年ぶりだそうですね。ありふれた感想ですが、つまらぬことで悩んだりする自分が小さく感じられます。

  9月某日 戦争の大義(4)

 (続き) 宮城に戻る。
 彼は、対米英戦争を、どういう戦争だと見ているか。
 もちろん宮城は、一介の画家に過ぎない。外交史に関する著作があるゾルゲや、評論家あるいはジャーナリストである尾崎に比べて、国際情勢に関する分析力では問題にならない。だがある意味では、より端的なことばが聞ける。
 手記における米英観の第一の特徴は、日本に対する「攻撃」性の強調である。「アメリカの日本に対する態度」は、当初から「日本を叩く」ことにあり、その対日戦略は「徹頭徹尾恫喝」と「徹底的攻撃」にあった。イギリスも、より狡猾ながら基本的に同じである。そして、こうした米英の「攻撃」戦略によって生じた敵対関係が、いまや最終的な「清算を余儀なくされる所に来た」のであって、「今次の日米英の戦争はこの結果発生した」のだ、と手記はいう。
 第二に、米英は、「攻撃」的であるだけでなく、敵として実に手強い国として捉えられる。「今次日本海軍の歴史上空前絶後と云ふべき神速なる行動はただ驚異の外ありません」。しかし、「日、米英戦」は「長期戦(長期経済戦)になるものと考へます」。英米の力は、「決して過少評価さるべきものでない事は注意を要する点と考へます」。
 このように、米英がその手強さと「徹底的攻撃」性において捉えられるということは、それに応じて、今次の戦争は、日本にとっては、やむえをえず直面した厳しい「防衛」戦争であるという色彩を与えられることを意味するだろう。
 その点についていえば、その点について<だけ>いえば、確かにナチス機甲師団の猛攻に直面したソ連の祖国防衛戦争のように、である。
 だが・・・ (続く)

  9月某日 戦争の大義(5)

 (続き)繰り返すが、書かれたことばだけを読んでいる。
 ちなみに、アメリカは一貫して日本敵視を戦略としていたという箇所で、宮城は、「ペルリー」の「琉球、小笠原諸島の占領計画」や昨今の「排日法の制定」に言及しているが、そこで彼は、故郷沖縄やアメリカでの体験を思い出したりしていたのかもしれない。
 それはともかく、今次の戦争は強大で攻撃的なアメリカが「日本を叩」こうとしてきた結果起こったものであり、日本は厳しい「防衛」戦争に直面しているというのだろうか、今次の「日、米英戦は日本民族興亡の瀬戸際に立つもの」だ、と手記はいう。
 しかし、もしも「危機にある民族の防衛」ということだけでいうなら、それは全ての戦争の口実に使われる常套句であって、ごく最近超強大国ブッシュアメリカが遠く離れた国に一方的に侵攻し占領してしまう際にも、「テロ」からの「防衛」という口実で国民を煽り立てたことは記憶に新しい。もちろん12月8日の『宣戦の詔書』もまた、「帝国存立亦正に危機に瀕せり」とか「今や自存自衛の為蹶然として起って」といったことばで、<危機にある帝国の防衛>を強調している。
 だがもちろん、前述の高杉や宮城は、そのような常套句に単純にイカれたわけではない。少なくともそれだけではない。
 例えば満州建国や以後の中国での戦争もまた、「生命線」の<防衛>という口実を掲げての侵略であったが、前述の高杉はそれには騙されずに、中国での戦争には抵抗感をもっていた。その彼が、12月8日には「一夜のうちに自己麻痺にでもかかったかのよう」になって、始まった戦争を、わざわざソ連の防衛戦争になぞらえようとした。
 宮城与徳は、ソ連のために生命を賭して活動し、獄中でなお共産主義を信じていると自ら認め、自分たちの行動が国益に逆らうことであったと認めさえする。ところがその宮城もまた、対米英戦争を支持し日本の勝利を願う態度をとる。少なくともそう書く。何故か。
 アメリカ共産党の創設者として宮城が名前を挙げている片山潜が既に日露戦争に際してそうしたように、何故宮城は、今次の日米戦争を帝国主義戦争と捉えて冷静に反戦の立場を守り、両国人民の連帯を訴えるといった立場をとらなかったのだろうか。少なくともそう書かなかったのだろうか。
 その鍵は、やはり、「東亜解放」にある。(続く)

  9月某日 ツムジ

 私には、いわゆる観光という趣味がほとんどありません。めったにないことですが海外へ出かけても、同じホテルで数日間のんびり過ごしてそのまま帰るのが身にあっていますし、国内で、何か用があって有名な観光地の近くまで行ったとしても、ついでにそこへ寄ったりも先ずしませんし、お土産を買ったりする習慣もほとんどありません。
 で、そうなると時折、旅先で時間が余ってしまうことがあったりしますが、そういうとき、あたりに大きい本屋とか感じのよさそうな喫茶店とかが見当たらない場合には、時間を費やすために、髪を刈ってもらったりします。  かなり前に松本市で入った店では、コーヒーを出してくれて断りづらい雰囲気だったので、顧客名簿に記入したところ、その後もかなり長い間、「そろそろカットの時期になりました。ご来店をお待ちしています」、という葉書が、遙か松本から届いていました。
 旅先で髪を刈る、といえば、もしかすると、髪をまかせながらその土地の人と会話を楽しむのが趣味だ、などいう方がいるかもしれません。でも、もちろん私の場合は、そういうことはむしろ苦手です。ただただ、時間が余ったから、この際面倒なことをひとつ処理しよう、というだけの無粋な話です。
 でも、あるとき、やはりはじめて入った店で聞いた髪型の話だけは、不思議にいまも覚えています。
 「みなさん、20代のはじめまでは、どんな髪型でも自由にできるのです。でも、どなたでも、だんだんツムジに逆らえなくなります。ところが大抵の方は、ご自分の青春時代に流行った髪型が格好いいと思い込んでおられましてね。例えば50代の方だと、会社でえらくなられても、髪型だけはどこか長髪気分を残したいと思われているようですし、もっと年輩の方で、いつまでもリーゼントにこだわる方なんかもいらっしゃいます。そういった方々の青春は、プレスリーと共にあったのでしょうかね。・・・でも、ツムジのまき方には、いろいろその方の個性がありますから、本当は、どんな方も、ツムジの方向に逆らわない髪型が、一番自然で、また崩れ難いのですけどね」。
 もともと手入れなど全くしない私としては、大いに結構な話ですが、それにしても、「自分のツムジに逆らうな」とは、髪型だけのことではない気がします。

>  9月某日 遠雷

 ・・・今夜もまた時折、遠雷の光が闇を切り裂いています。
 「戦争の大義」は、「東亜解放」ということばが出てきたところで中断します。「再開」があるかどうかはあやしいですが。実はここから、「東亜解放」をネタに、尾崎も会員であった昭和研究会の大東亜共栄圏構想から近衛体制まで、少し追ってみようかと思っていたのですが・・・ 長くなりそうで、本論??の門前で、面倒になりました。
 このHPは、もともと、多分2年位で飽きるだろうと思って始めたのですが、それでゆくと、残り半年。ただ、『噂の真相』や久米宏と重なる(^o^;)のも何なので、まあ多分、もうちょっと続けるでしょうけれど・・・

  9月某日 大きな音

 昨夜半、隣の部屋で、突如大きな音がした。半ばは現、半ばは夢で、何か巨大な黒い柱状のものが倒れた。あるいは落ちた。隣の部屋なのにそう見えたのはおかしいのだが、覚えているのそれだけである。
 狭い家ながら、例えば歯ブラシは、洗面所と風呂場の両方にある。更にもう一本、台所にも置こうかと思っている。無精対策である。難しい本は全く読まないが、読み差しの新書、文庫本の類も、各所に置いてある。適所適材であって、家中で一番狭い部屋にいまあるのは、杉浦日向子『百物語』。江戸の妖怪小話を、毎朝二、三話づつ惜しみながら読んでいる。
 さて、今朝起きると、晴れている。で、格段変わったことのない一日がはじまったのだが、人に会うと、「ゆうべの雷はすごかったねえ」、といわれた。「あ、雷ね。そうだったかな」、というと、「え〜っ、あんなすごい雨と雷だったのに、知らないの? 無神経に寝ていたなんて信じられない」、といわれる。「いやいや、もちろん知っているけど、私の家の辺りはそれほどでもなかったよ」、とごまかす。「そんなことってあるかなあ」「けっこう雷って局地的らしいからね」。
 とまあ、それはそれですんだのであるが、夕刻また別の人から、「いやあ、ゆうべの雷は実にすごかったですねえ。すぐ近くに落ちたようで、家が震えましたが、お宅はどうでしたか」、といわれる。今度は同じ市内の人なので、場所の話は持ち出せない。「いやあ、そうでしたねえ。実にすごかったですよね」、と話を合わせる。
 『百物語』ではないが、確か「冬斉まゐる」という術者の話に、雷の後、降りた龍を見るシーンがある。夕べ、あのとき目が覚めていれば、光る鱗でも拾えたかもしれない。惜しいことをした。
 今夜は一転晴れた夜空。火星を従えた満月が中天にかかっている。仲秋の名月とのことである。

  9月某日   失敗(1)

 失敗した。
 先日、家の中で、K.チャペック『山椒魚戦争』を発見した。自分で買ってあったのを忘れていたという可能性もなくはないが、多分そうではなくて最近誰かが買ったのだろう。訳者や出版社の名は省略するが、立派な単行本である。前に書いたような経緯があったので、読んでみた。やはり面白い。
 ただ、やたら註が多いのが大変気になる。例えば、小さい新聞社で記者が話していると、
 そこへ植字工(活字を拾って版を組み上げる人)がやってくる。
 といった具合にである。「植字工」が分からない読者には、「活字を拾って」というのがどうすることかも多分もはや分からないだろう。註なしの「植字工」を避けたいのなら、例えば「印刷工」としても文脈上の問題が全くないだろうに・・・と、すぼらな私などは思うのだが、律儀な訳者なのだろう。
 つまり浜の真砂(細かい砂のこと)ほどのくそいまいましい島々をです。
というのもある。
 船長がボートに向けてブローニング(アメリカ人のブローニングが発明した自動拳銃)をぶっぱなしたのだ。
というのもある。
 私なら「砂粒」とか「ピストル」とかにでもして註を消すだろうが、忠実かつ文学的な訳を目指したのであろう。もちろん、読みの流れを中断されて五月蠅く感じるのは、単に私個人の好みに過ぎない。
 だがそれだけではない。本文中にやたら註があるだけでなく、ほとんどのページに、長い別註がいくつも付けられている。全て大変親切な註であって、例えば、
 この興味ある大山椒魚が、少なくとも*マニヒキ諸島のラカハンガ島およびトンガレワ島に生息しているにもかかわらず・・・
という箇所にはちゃんと、
 *1 マニヒキ諸島のラカハンガ島およびトンガレワ島=東サモア諸島の東に位置する。ラカハンガ島は4.1平方kmほどの小さな島で、ヤシ、バナナなどの木が茂っている。トレガレワ島はベンリン島ともいわれ、普通はマニヒキ諸島の中には含めない。ココヤシが稔り、真珠が採れる。
という大変詳しい説明があり、ラカハンガ島とやらの広さまで分かるのである。ただし、隣のページには、
 フランス領カタロア、ランギロア、ラロイラの島々を原産地とする・・・
などと書かれているのだが、ありがたいことに、こちらの島々には何故か註はない。
 ・・・などと書いたが、実は、それはいいのである。私個人の趣好など無視してもらって構わない。
 「失敗した」というのは、別のことである。(長くなったので続きとする)

  9月某日 失敗(2)

 (1の続き) で、その註の多い『山椒魚戦争』を読んだのである。
 ご承知のように、この小説は、太平洋の小島の海底で平和に暮らしている山椒魚が発見されるのだが彼らが知能高く人語を話せることに気づいた人間たちが金儲けのためにまた国益のために彼らを利用しようとして世界各地で繁殖させ、遂に人類の何倍にも増えた彼らと人類の間に生存をかけた戦争が始まる、というSFなのだが。
 やはり面白い。
 ところが・・・ どうもおかしい。どこがおかしいとはいえないのだが、何となく、どうもおかしい気がする。
 で、そのまま、とうとう終わってしまった。・・・ところで気が付いた。なかったのである。
 前に読んだのは大昔なので、殆ど忘れてしまっているのだが、覚えている箇所がある。山椒魚についての有名人のコメントが確か新聞の切り抜きという形で挟まれていて、初代ターザン、J.ワイズミュラーのそれもあったと思う。中でもはっきり覚えているのは、<人語を話す山椒魚には人間のように知性があるのだろうか>という問題に対する、ある作家のコメントである。  
 バーナード・ショウ 「もとより山椒魚には知性はない。その点、彼らは人間に似ている。」
 おそらく昔読んだ本には、親切な註などなかったから、読者はその本でショウの生没年などなどを知ることはできなかった。では、ショウの名前を初めて見た読者がいたとして彼には何も分からないままだっただろうか。そんなことはない、はっきり分かった筈である。<バーナード・ショウとは、こういうことをいう人らしい>、ということが。少なくとも私は、いまだに、バーナード・ショウといえばこのコメントを思い出す(間違っていなければ、であるが)。
 ところが、読み終わった『山椒魚戦争』には、私が唯一覚えているこのコメントがなかった・・。つまり、この本は、実は、抄訳本だったのである。
 で、探しました、これが抄訳本であるという「註記」を。・・・ところが、ない。
 表紙にはない。折り返しの小文にもない。帯にもない。前書きや改題はない。中表紙にも目次にも注記はない。後に置かれた訳者の「解説」にもひとこともない。探しに探した結果、ようやく発見。一番最後、関連図書紹介とかの更に後に、小さい文字で、これは抄訳だということが記してある。
 浜の真砂とは「細かい砂」だというような註、ラカハンガ島とやらの広さが「4.1平方km」だというような註も大事ではあろう。だが、もっと大事な<註>は、この本は『山椒魚戦争』という表題になってはいるが、しかし実は『山椒魚戦争』そのものではなくその「抄訳本」に過ぎないという、そのことの注記ではなかろうか。もしかするとこれは子供向けシリーズなのかもしれない。だから、細かい注記は大事だが、抄訳でもよいし、抄訳ということはアピールしなくてよい、しない方がよい。そういう考えなのかもしれない。なるほど、そうでしたか。但し子供時代の私なら、そんな<子供扱い>には怒ったに違いないだろうけれど。
 ま、大人げないことではある。本の責任ではない。私が馬鹿だったに過ぎない。単なる失敗である。
 教訓: 小さな親切の陰には大きな不親切が隠されていることがある。それに気付かないのは子供と馬鹿な大人だけである。

 
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