風 日 好   ・・・ 今日は日和がよいけれど、明日はそうではないだろう 

     6月                               旧稿一覧

  6月某日 光陰と無精

 おそるべし、光陰。
 朝、出かけようとする寸前に電話があり、大雨洪水警報により休みだという。曇ってはいるが降ってはいない。ネットで調べると注意報は出ているが警報ではない。間違ったのでなければ、ある時刻には警報が出ていて規則に従って決定したのでもあろう。とにかく、そういうわけで急に時間ができたので、気になっていたことをすることにした。銀行へ行ったのである。
 自動車税をようやく払った。納付期限が5月末日だから、用紙は5月はじめには来ていただろう。忘れていたのではない。不如意だったのでもない。時間がなかったのでもない。ただ、面倒だったのである。そういうと、だったら自動振り込みにすればいいのに、といわれたが、それは考えが浅い発言である。そういうアドヴァイスは、振り込み手続き自体が面倒なことを忘れている。まあ私も、人には全く同じことをいうのであるが。
 というわけで銀行へいったのだが、もうひとつ用があった。前にその銀行のカードを紛失したのだが、自らを知る私は取りあえず使用中止だけにしておいたところ、案の定すぐに出てきた。ところがそのまま、使用中止を解除していなかったのである。
 ところで、時代は進んでいる。案内された端末ボックスに入ると、テレビ電話に行員が映り、その場でやりとりしながら、モニタを見たり、指示に従って差し入れ口にカードや免許証を入れたり、スキャナの蓋を開けてもう一度それらを挟んだりしていると、やがて書類が出てくるので署名捺印すると、紙片は再び機械に引き込まれ、それでOK。
 それはいいのだが、途中、いつ頃使用中止にされましたか、と聞かれたので、「1ヶ月前位でしょうか」といったのだが、恥ずかしいことに、記録では5月初めになっていた。不便だけど面倒だなあと思い続けて50日、われながらあきれた無精期間である。
 光陰ではない。おそるべきは当方の性向であった。

  NEW   6月某日 写真結婚

 大量破壊兵器があると言い張ってしゃにむに軍事侵攻して占領したが、そんな証拠は見つからない。そこで今度は、大統領、「証拠が略奪された証拠がある」と言い張っているそうな。次は、「証拠が略奪された証拠が略奪された証拠がある」とでもいうのであろう。・・・いや、今日はそんな話ではない。
 例えば、女性が黒いヴェールで顔や身体を覆っている国がある。全く逆に、女性がほんの僅かの布切れだけの裸身を晒す「自由」をもった国から、戦車や爆撃機がやってきて、黒いヴェールの女性たちの夫や息子を殺し、彼女たちのヴェールをはぎ取ろうとする。「黒いヴェールは、女性抑圧の象徴だ」。なるほどそれは、その通りでもあろう。
 しかし、黒いヴェールも、ある面では、例えば男たちの視線からの「解放」や、様々な格付けからの「自由」を意味しうる。もちろん、そのことを強調しようというのではない。だが、「自由」や「解放」と「抑圧」や「束縛」もまた、当然ながら、一方的で単純な固定軸に配置されているのではない。
 かつて、写真結婚というものがあった。写真だけを頼りに海外の男に嫁いで行ったという女性の話である。今の女性からみれば、それは「自由」や「解放」の対極にある。
 だが、大正のはじめ、ある女性は、こういっている。
 「わたしはそのころから戦争反対で、軍国主義反対の人生を歩もうとしていましたから、そこで決心したのが写真結婚でアメリカへ渡ることでした」。写真で見た相手は、「小男で風采があがらない」男でしたが、そんなことで「男の価値をきめることは絶対にやるまいと考えました」。むしろ、農業労働者から身を起こして農園をもつまでになったということを聞いて、「勤労によって平和な家庭生活の基礎を築いているということを高く評価」し、こちらからも手紙で、「勤労をいとわず平和主義者として人生を貫きたいこと」や「洋裁を教えるような生活がしたい」といった要望を伝え、「どちらもオーケイの返事」をとりました。「だからわたしのは冒険ではない。自分を生かす道はこれより他にはないという決断でアメリカへ行ったのです。」
 ゾルゲ事件の映画が話題になっているが、事件に関与したとされる、北林トモのことばである。

   6月某日 写真結婚ののち

 でも、実際はどうだったのか。「自由」と「自立」を求めて写真結婚での渡米を決意したといっても、写真結婚の現実は、やはり「因循」であり「束縛」であったのではないか。そう思われるかもしれない。渡米後の生活のことも、ついでに紹介しておこう。(←山代巴『とらわれの女たち』、径書房
 夫の「芳三郎は嘘の言えない人でしたから、結婚すると早速わたしは農園の中に洋裁教室を開きました」。彼女は、夫と共に日曜には教会に通い、すぐに友達もでき、救済事業にも参加する。
 やがて夫は農園を人に貸し、夫妻はロサンジェルスの街に出て、家をもつ。1階がトモが開いた洋装店と洋裁教室、2階が夫妻の住居であった。トモは昼間は店で働き、夜は美術クラブで絵の勉強を始める。夫は、彼女のデッサンができあがると、本人以上に喜んだという。
 住居にしていた2階には見晴らしのよいロビーがあり、トモの友人たちがしばしば集まっていたが、やがて夫妻は、ある貧しい病身の画家のために、昼間あいているロビーをアトリエとして提供する。  夫も、労働者を尊敬する姿勢をもった画家が大層気に入り、夫妻と画家の親しさが増してゆく。比較的時間にゆとりのある夫は、たびたび食事の支度をしてくれていたが、そのうち画家も夫の夕食作りを手伝い、トモが1階の店から帰るのを二人で待っていてくれたりするようにもなった。
 画家は、トモをみて、日本生まれの女は、食事の仕度や掃除洗濯を男どもが手伝うとひどく恐縮したり女の恥のように思ったりする癖から抜け出せないが、「おばさんにはそれが全くない。心から喜んでくれる」といい、「おばさんは少女のように天真爛漫だ」、と感心する。
 「ほんとに幸福でしたね。自分の選んだ職業に生きて、40すぎてからデッサンの勉強を始めて、家事労働は手のあいた者がやるのを、外から何ともいわれない。日本の生活では考えられませんね」。こうして 夫妻は、自分たちの「幸福税を払うつもりで」、画家がロビーで描いた何枚かの絵を買い取りもした。
 後に、その絵が、彼らの運命を決めるのだが、それはまた別のことである。

   6月某日 山椒魚戦争

 『チャペック兄弟とチェコ・アバンギャルド展』、というのを観て来た。
 カレル・チャペックに始めて出会ったのは、昔、古本屋街に並ぶ店々を、いつものように、次々と覗いて歩いていた時だった。ある店の前に出された「○○円均一」の台で、『山椒魚戦争』という、不思議な題の本を見つけたのである。これが実に面白かった。紙質の悪い本ではあったが、一度ならず読んだと思う。
 とはいえ私のことだから、だからといって、彼の本を探して次々と読む、というようなことは全くしなかった。大体、彼の発明語「ロボット」を有名にした『R.U.R』さえ、文庫本になっているのに未だに読んではいないという、けしからぬ読者である。ましてや、私が最初に全集を買った作家であるフランツ・カフカとちょうど同じ頃、同じ国の同じ街に住んでいたということなのだが、その街プラハに行ってみようなどとも、一度も思ったことがない。むろん、たとえそう思ったところで、簡単に行けるるところではないが。
 だから、チャペックのことは、何も知らない。チャペック兄弟を中心とする特別展を観たといっても、わざわざ出かけて観たのではない。たまたま所用が終わって車で通りかかった際に、そういえば、と思って入ってみたのである。もっとも、その企画が予定に組まれているということは予め知っていて、面白そうだなと思ってはいたのであるが。
 だが、これが、予想以上に面白かった。
 平日ということもあり、おそらくボランティアであろう女性が片隅に音もなく座っているだけの広い各室で、ヨゼフの装幀作品を中心とするそれら展示物をひとつづつ見て行くと、心は次第に、ヨーロッパの中心を少し外れたチェコの街の20年代に入り込む。解放と抑圧、希望と不安が交錯する大戦間時代、様々な美術運動、社会運動の渦に囲まれながら、慎ましくも大胆に、日々の生活や時代の空気を小さな画面や短い文に刻み込んだ、兄弟や同時代の芸術家たちの息づかいが聞こえてくるようだった。

   6月某日 喫煙少女の逆襲

 最近の風潮の中で、男性の喫煙率は低下しているが、女性のそれはむしろ上昇しているという。何事も性差がなくなってゆくのは当然なのだが、今日のニュースによれば、少女たちがファーストフード店などで喫煙している姿が増えている、という。制服を着たままで、禁煙席でもおかまいなしで、店員も注意しない、と、報道記者は、いつもの調子で慨嘆してみせていたが、もちろん確かに、感心したことではない。ファーストフード業界でも、対策を考慮中だとか。
 もっとも、番組がことさら少女に焦点を当てていたのは、人目をひくために敢えてしたいつもの不公平であって、注意したら逆に食ってかかったという場面になると、記者に怒鳴っていたのは男性だった。それにまた、実際に制服少女たちが多いにしても、彼女たちにはそれだけ、最近ストレスが多いのかもしれない。
 思えば、最近の嫌煙シフトに最も強く抵抗しているのは、というより頭からそれを無視しているのは、もしかすると彼女たちなのかもしれない。
 私が感じたのは、ひとつの逆説である。
 例えば、完全嫌煙シフトに抵抗するために、分煙が主張される。しかし、このご時世の中で、規則を重視するような人々は、健康や迷惑のことも考える率が高いだろうし、そうなると、できれば分煙から禁煙に進みたいと思う率も高いだろう。一方、健康や迷惑をあまり考えない喫煙者は、少なくとも前者より、分煙のルールを守ろうとする気持ちが少ないだろう。
 健康や迷惑や規則のことなどまだ気にしない、困った、自由な、少女たちは、煙草会社の味方か敵か。煙草文化の継承を担うべき頼もしい次世代なのか。それとも分煙ルールという停戦協定を破って、嫌煙軍に攻撃の口実を与える困った連中なのか。
 それにしても、いつも、大人たちの押しつける枠組みを超えてゆくのは、少女たちである。但し、どこへ行くのか、ということは全く別の問題であるし、その行く先が、私などには全く分からない場所であることも、改めていうまでもないのであるが。

   6月某日 千字文

 最近ちょっと、つまらぬ長いものばかり書いてしまった。反省。
 自分の経験からいっても、他人のサイトに置かれた文章をザッと読めるのは、スクロールなしに一目で見渡せる程度の長さどまりである。もちろん、内容のあるものや文章に力のあるものは別だが、そういうものはめったにない。
 というわけで、内容なく文章力もない私としては、しばらく、1000字という制限を自らに課すことにした。まだ長すぎるかもしれないが、ひとまずこう決めておくことにする。普段、1行40字で書いているので、25行。
 ところで、「書いている」といったが、もちろんキイ・タイプの意味である。
 昨日、郵便受けに、絵はがきが入っていた。誰のところでも似たようなものだろうが、最近は、郵便受けに手書きの郵便物が入っていることは滅多にない。いうまでもなく、こちらから出さないせいでもある。いや、出さないせいである。大抵のことは、お互い、メールで済ませてしまう。昨日来た絵はがきのように、海外旅行の途中で便りをくれるといったケースでは、まだ手書きが多いが、それでも、少し長期的な滞在の場合は、メールになる。
 もちろん、用件のあるやりとりに関しては、メールと郵便では比べものにならない。遠くにいる誰かと、資料を巡ってやりとりするとか、何かを問い合わせその日のうちに返事をもらうなどという芸当は、メールにしかできない。しかも、その「遠く」が海外であっても、(言葉のことを除けば)問題にならない。それに何より、私のような者には、ポストに投函し忘れるということがないという、何ものにも代え難いメリットがある。
 だが、こうしてたまに手書きの手紙をもらったりすると、筆とまではゆかずとも万年筆位は手にとってみたくなる。どんな便利さにも、必ず引き替えに失うものがあることを、改めて思い出したりするのである。
 ところが、そう思いながらも、返事を書こうとして、ついまた、いつものようにキイボードの前に座っている。これではまるで条件反射、困ったものである。
 これで一応40字25行つまり1000字。しばらくこれで行こうと思う。

   6月某日 魚と貝と動物園

 有事法制、個人情報、イラク新法、何でも素通りである。結局加担者でしかないマスコミのニュースなど見る気もしない。
 ということもあって、テレビはほとんど見ないのだが、それでもラジオは聞く。車に乗っているときの退屈しのぎにだが。テレビのようにお上や大企業の広告の前で自主規制的に構える風が比較的少なく、生のトーク番組などでも、自由にのびのびとやっているような雰囲気があって、聞いている方も気が楽だ。ただ、生放送というのは、その場で勝手にしゃべるのだから、時には思わぬことも起こる。
 先日、いつものようにラジオを聞いていると、いやはや大変なことに出くわした。記憶による再構成なので、もちろん細部は違っているが、まあ、ざっと、以下のような具合だった。途中から聞いたので、番組名は分からなかったが、後で新聞のラジオ欄で確かめたところ、「ラジオ家庭教師、電話で相談」、というタイトルになっていた。なお番組欄に記載がなく覚えてもいないので、人名は全て勝手につけさせて頂いた。BR>
☆司会のお姉さん「・・もしもし。
●子供「・・はい、もしもし。
「あ、もしもし。お待たせしました。次はあなたですよ。では、お名前と学年をいってください。
「小泉しずか。3年生です。
「はい、分かりました。しずかちゃん、今日は、どういうことを聞きたいのですか?
「えーとねえ。お魚や貝も「動物」なんですか? 動く物だから動物なのかなあ・・生き物だということは分かるんですけど・・・
「あ〜、なるほど。・・しずかちゃんは、動物っていうと、どんなものを思い浮かべるのですか?
「え〜っと。ぞうさんとか、きりんさんとか。あ、犬や猫もそうです・・
「なるほど。そういえば「動物」絵本ていうのには、そういうのが出てるもんね。お魚とか貝はいないよね。・・それで、お魚とか貝とかは、そういう「動物」っていうのとは、ちょっと違うなあ、って思うのね。
「はい。
「はい分かりました。じゃ、先生に聞いてみましょうね。・・短木先生、お願いします。
△先生1「はいはい。しずかさん、こんにちわ。・・しずかさんは、お魚や貝が動物っていうと、ちょっと違うみたいに感じるんですね。
「はい。でも・・
「それなら・・そうだ、カラスとか雀とかいう、鳥はどうですか?
「え〜と、鳥も・・動物?・・あ、鳥類? かな? 分かりません。
「じゃ、トンボとか蝶々なんかはどうですか?
「え〜と、そういうのは昆虫だから・・・・
「昆虫は動物じゃないんですか?
「・・・・
「え?どうなんですか?
「・・・・
「じゃ、魚や貝と一緒に海にいるタコとかくらげとかはどう?
「・・・・
「どうなんですか?タコやくらげは?
「そういうのも・・海にいるから・・
「海にいるから、動物じゃないって思うの? それなら、海にいるアザラシはどうですか?
「・・・・
「え?どうなんですか?
「・・・・
「陸にいるものというのなら、とかげとか蛇とか、蛙とかなめくじとかは?
「・・・・
「あ、そうだ、お腹の中にいる回虫とか、ゴキブリ、・・おお、ばい菌もいるぞ。
「せ、先生。もうその位でやめてください。子供を困らせてどうするんですか。しずかちゃん、ごめんなさいね。
「いや、すまんすまん。ついむきになって。じゃ、別のいい方をしましょう。えーっと。お魚や貝は動物かなあ?っていうのが、しずかさんの質問だったよね。
「はい。
「ところで、チューリップとか桜とかは「動物」じゃないよね。
「はい、「植物」です。
「そうだねえ。じゃ、お魚や貝は、「動物」じゃなかったら、「植物」かな?
「違います。
「じゃ、お魚や貝は、「なにブツ」なんだろ?
「・・・・
「お魚や貝は動物って思えないんでしょ?
「・・はい
「でも植物ではないんでしょ?
「はい
「じゃ、一体なにブツなんですか? 
「・・・・
「なにブツなんだね?
「・・・・
「なにブツだって聞いてるんだよ。 え?黙ってちゃ分からんでしょう、君っ。
「・・・・
「せ、先生。やめて下さい。
「な、何故とめるんですか。・・・だいたいね。私にね。魚や貝は動物ですか、なんていうようなね、そんなばかげた質問に答えさせようって言うのが間違いなんだよ。この頃の子供は一体何考えているんだ。動物じゃなければ、一体なんだっていうんだ・・
「ちょっ、ちょっと、すみません。ちょっと待ってください。ごめんね、しずかちゃん。えーっと、ちょっと、先生を交代してもらいますね。・・・・すみません。お聞き苦しいところがあったことをお詫び致します。えーっと、無茶先生、お願いします。
□先生2「はいはいはい。しずかさ〜ん。替わりましたよ。怒っちゃダメですよねえ。あんな大人は気にしないでね〜。え〜っと、しずかちゃんは、お魚や貝は動物かな〜?って思うのね〜?
「はい・・・でも・・
「あのね。そういう疑問をもつっていうのは、と〜っても大事なことなの。お魚は手も足もないし、尻尾もないのに、あ、お魚にも尻尾はありますね。尻尾はあるけど、手足がなくて、歩けないですよね。だから、お魚は動物かな〜ってね、そう思ったのよね〜。あのね。そう思うのは、と〜っても大事がことなんですよ。分かりますか?
「・・・・
「でもね、大抵の人はね。大人になると、そういう大事なこと、忘れっちゃうの。だから、だめなの。いいですか? 忘れちゃいけないんですよ。お魚は動物かな〜っていう疑問をね。30才になっても40才になっても、もっているような人になってください。分かりましたか?
「・・・・
「いろんなものに不思議だなあっていう気持ちをもつことが大事だっていうことですね。しずかちゃんも、分かりましたよね。・・先生、それは分かりましたから、質問の内容に答えてあげてください。
「はいはい。そうそう、お魚は動物かっていう質問だったのよね? そうだよね。しずかちゃん。
「ええ・・・・でも・・
「恥ずかしがらなくてもいいんですよ。すばらしい疑問なんですよ。あなたは、お魚は動物じゃないって思ったのよね〜? あのね。3年生にもなって、そういう疑問をもつっていうのは、すばらしいことなんですよ〜。お友達に笑われても、ぜ〜んぜん気にしないでね〜。でも、どうして、お魚は動物じゃないって思ったの?
「・・もういいです・・
「やっぱり、手や足がないっていうことかな? どうなんだろうねえ。・・あのね、先生はね。しずかちゃんが、3年生にもなって、まだそういう疑問をもったっていうことに、と〜っても興味があるの。分かる?
「・・・・
「あのね。どうしてそういうように思ったの?
「・・・・もういいです。さよなら。
「あ、あ、ちょっと待って・・あ〜、切れちゃった。どうしましょう。すみません。またまたお聞き苦しいとこになりました。どうしましょう。
「いやあ。私でも、最近の子供は分からないですねえ。これは教育の問題ですね。あのね。子供というのはね・・・
「もうそのことはいいですから。でも、質問には答えておかないと、あとでまた、抗議の電話が沢山かかってくるでしょうし・・・おろおろ。
▽先生3「あのう、・・魚や貝のことでしょ?
「はい、そうですけど。
「だから、水族でしょ? 魚や貝は、水族館にいて動物園にはいないから、動物ではなくて水族・・
「え?、いや、それは違うと思います。水族なんてないですよ・・。先生にはあとで、ご専門の竹とんぼの作り方でお願いしますので、ここは他の先生に・・
◇先生4「ったく、しょうがないなあ、じゃ、私からきちっと説明しましょう。
「あ、江良井先生、助かります。お願いします。
「大体、最初から、専門家である私に、マイクを回してくれていれば良かったんですよ。
「すみません。よろしくお願いします。
「えへん。では、説明します。
 生物分類については、かのリンネが18世紀半ばに確立した分類体系を、いまも基本的に踏襲して今日に至っておるが、その基本は、全生物を、界・門・綱・目・科・属・種という階層分類体系にあてはめてゆくというものである。
「せ、先生・・
「そこでだ。分類学では、全ての生物を先ず、動物界と植物界に大別する。もっとも、これは、基本的な分類体系ということであって、実際に個々の種を分類してゆこうということになると、いろいろな問題が発生する。例えば生物と非生物の間にも、動物と植物の間にも、必ずしも明確判然たる区画線があるというわけではない。
「先生、ちょっと。
「例えばじゃ。いまSARSが騒がれておるが、生物を自己増殖性で定義すればウィルスはもちろん生物であるが、生命体を代謝で定義してウィルスは非生命体すなわち非生物であるという分類も成立しうる。また、動物と植物に関しても、かの博物学の泰斗南方熊楠翁が生涯をかけて研究した粘菌などは、植物相と動物相を交互に示し・・
「せ、先生。ちょっと・・・そういう詳しい説明は結構ですので・・・
「うるさい。静かにしていなさい。分かっておる。時間がないというんだろう。そこでだ。先に進むと、問題になっておる「動物」界は、脊椎の有無によって、二つに大別される。それが、脊椎動物門と非脊椎動物門だ。
「せ、先生。あの、聞いているのは子供なんですけど・・
「何?・・脊椎ということばは子供には難しいか? 背骨じゃ。背中にある骨じゃ。分かるな。
「皆さん、分かりますか。私たちの背中には、頸のところからお尻のところまで続く、大きな骨がありますね。先生、これが背骨なんですよね。
「そうだ。その背骨つまり脊椎なんじゃが、個体発生は進化の過程を繰り返すといわれるように、脊椎はもともと胚の段階では・・・
「ちょっと、先生、ちょっと、もう結構です。分かりました。え〜っと、皆さ〜ん。背骨のことですが、私たちだけじゃなく、犬や猫にも背中のところに大きな骨が通っているんですよ。じゃお魚はどうでしょうか? サンマのようなお魚を食べたあと、どうなってますか? 大きい骨が残りますね。あれが背骨で、だから、お魚も、脊椎動物というわけですね。
「講義の邪魔だ。私にマイクを戻しなさい。
「ちょっ、ちょっと待ってください。それで、お魚も脊椎動物だから、もちろん「動物」です。しずかちゃ〜ん、分かりましたか。え〜っと、それで次に貝のことなんですけど。貝には脊椎どころか、骨がありませんよね。だから無脊椎動物なんですかねえ。でも、貝は動かないから、「動物」じゃないのかな?。でももちろん植物じゃないし・・
「な、何を幼稚なことをいっているんだ。私にマイクをよこし給えっ。
「ちょっ、ちょっと。・・あ、貝も水を吸ったり吐いたり呼吸してるから、やっぱり動物ですね。
「植物も呼吸はしておるっ。説明するから、マイクをよこし給えっ。
「いえ、渡しません。ともかく貝は、植物じゃないから、動物でしょう。皆さん、お魚も貝も、動物なんです。
「そんないい方はあるかっ。マイクをよこせっ。
「み、皆さん、・・今日はお聞き苦しいところがありましたが、では、これで今日のラジオ家庭教師を終わりますっ。
「マイクをっ。
「あのね、そういうね・・
「え、水族じゃないの?・・
「全くけしからんっ。
「ちょっ、ちょっと、先生方、やめてください。ではっ、では皆さんさようなら。また来週・・は、もうないかもしれませんっ・・・

 もちろんウソである。なんて書くまでもないが。
 ある人から、「魚や貝は動物といっていいのですか、と質問された」、というメールをもらったのだが、たまたま寝本が清水義範氏だったのと、愛読日記サイトで類似番組のことを読んだばかりだったので、メールの返信をふざけて書いているうちに、調子に乗ってしまった。メール相手には呆れられたので、ここに転載することにしたが、もしかすると、清水氏が既に似た題材を取り上げているかもしれない。そのときは、当然はるかに面白くて、こちらは恥ずかしくなるに違いないから、即座に削除する予定である。
 ちなみに、手にした清水本はたまたま本棚で見かけた古い文庫本だったのだが、中にあったインド旅行記を読んで、氏の人柄に改めて敬服した。

   6月某日 ベン・ジョンソン

 ベン・ジョンソンといっても、もう知らない人がいるかもしれませんが、88年ソウル・オリンピックをゆるがした、カナダの短距離選手です。男子100メートル決勝に出場した彼は、宿敵カール・ルイスらをおさえ、9.79秒という驚異的な世界記録でぶっちぎりのテープを切りました。ところがベンは、世界中から寄せられた賞賛の嵐が収まらぬうちに、ドーピング検査にひっかかり、メダルを剥奪され、陸上界を追放されるという運命に見舞われます。
 けれども、IOCや世界陸連が、たとえメダルを取り上げ、世界記録を取り消し、優勝者を取り替えたとしても、ベンが世界で最も速く100メートルを駆け抜けた男であったこと自体を、なかったことにはできません。革命的なインプロヴィゼーションでジャズシーンを駆け抜けたチャーリー・パーカーのフレーズを、彼にそれをもたらしたものが麻薬であったという理由で、なかったことにすることなどできないように。
 ところで私は、医者から、「運動不足ですね」、といわれます。
   医「適度な運動をしてください」
   私「適度な運動、ですか」
   医「そうです。過度はいけません。過酷な運動は健康を害します」
 ・・・ということは、なんですね、オリンピックでやっているような「過酷な」スポーツは、あれはつまり、不健康なんですね。少なくとも普通の人間には。
 確かに、そうでしょう。一般人からは不自然なフリークに見えるまで厳しく鍛えて体格を改造したり、失神寸前まで自分を追い込まねばできないような過酷な練習課題に挑戦したり、人格形成にも影響がでるほどコーチから強く暗示を掛けられたりなどなど・・、そういうことがあっても、ともかく自分の選んだ種目に、人生の全てを賭け、健康や生命までをも賭ける姿は、実にすばらしい。それに、不健康であろうと過酷であろうと、スポーツ選手は、それぞれ好きでそうしているのですし。
 もちろん、そういったことは、スポーツだけのことではありません。世の中には、のんべんだらりとただ平凡に生きているだけの私らのような人間もいれば、不健康だろうが過酷だろうが、何々のためには生命を削ってでも、という人々がいます。入院を断り血を吐きながら作品を仕上げた芸術家、危険を侵して猛火の中から老人を助け出した消防士、入院中のベッドを抜け出して舞台に立った歌手、などなど、似たような場面は、テレビドラマで感動を誘う常套シーンです。寝食を忘れ睡眠を惜しみ家庭を犠牲にしてでも開発に人生を賭けた「プロジェクトX」の技術者、などももちろんそうですね。そういう人たちは大いに賞賛されますし、私もその賞賛に加わることに吝かではありません。
 私らのような健康に小心なのんべんだらり平凡人間は、調教と競争に明け暮れる競走馬のレースを楽しむようになどといえばいい過ぎでしょうが、ともかく、自分らには到底できない過酷で不健康な練習に耐えてきたオリンピック選手たちが繰り広げる見事な競技を楽しみ、惜しみない拍手を送ります。選手たちの方からいっても、過酷な練習と重圧に耐えて優勝の栄冠に輝くことは、この上なく名誉なことです。
 「<ドーピングテストに引っかからないが、服用すると強い副作用があって5年後には死ぬ危険性が高いが、その代わり効果抜群>、という薬物があったとすれば、あなたは服用しますか」。そういうアンケートに対して、一流競技者の半数までもが、「5年後に死ぬとしても、オリンピックで優勝したい」、と答えたそうです。実際にそうするかどうかは別として、少なくともその位の「根性」がないと、オリンピックでの優勝などできないでしょう。
 ところで、一方また、例えば有名なマラソン選手などは、監督以下何人もの専属スタッフでチームを組んで、数ヶ月の長期高地トレーニングをしたりしますが、いうまでもなく、それには巨額の金がかかります。オリンピックでは、そんな巨額の金を出せる国の出せる選手と、そんな金など一生無縁な貧しい国の代表選手が、同じレースに出場します。もちろん、いまどき、そういうことは不公平だなんていう人は誰もいません。
 さて、以上のように、オリンピックほどの超一流スポーツは、普通の次元の「健康」と「公平」などにはとらわれることなく、ただただ世界記録を、ただただ優勝を目指して、私らのような平凡のんべんだらり人間とは全く異質な次元で、速く、美しく、強い、肉体の成果を競うわけです。
 そこで不思議なのが、ベン・ジョンソンのことなのです。
 彼の場合だけではありませんが、世界陸連やIOCがいわゆるドーピング禁止ということにやっきになっている背後には、きっと何か、秘密の理由があるのだろうと、私はにらんでいます。健康と公平こそスポーツの神髄であり薬物は不健康で不公平だから禁止されているのだ、などと書いている新聞記者は、物知らずというものです。一流アスリートは、「不健康」や「不公平」などはものともせずに、ひたすら過酷な練習に励み、勝利のために人生の全てを賭けているのであって、だからこそ私たちは、そんな彼らの繰り広げる素晴らしい競技に、惜しみない拍手を送るのですから。
 健康を第一とし、少しでも不健康なものは法律で禁止してもらってまで、日々だらだらと生活している小心平凡人間である私たちの常識次元を、選ばれた天才は、はるかな先まで越えてゆきます。
 あの日、オリンピックスタジアムのトラックに弾丸スタートで飛び出し、ぐんぐん加速してそのまま腕を突き上げてゴールを駆け抜けていったベン・ジョンソン。
 ジャマイカからの最貧移民の子に唯一許された舞台で、健康を賭けても、選手生命を賭けても、悪魔の力を借りてでも何としても勝ちたい。世界で一番速い男になりたい。そう念じて、かけ離れた改造肉体で、美しくも力強くトラックを駆け抜けたあの男の10秒間を、「プロジェクトX」は、いつの日にか、必ず取り上げるに違いありません。
 
今月最初に戻る