風 日 好   ・・・ 今日は日和がよいけれど、明日はそうではないだろう 

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  5月某日 修司忌

 「風薫る」5月は、寺山修司の月である。
   二十才 僕は五月に誕生した
と彼はうたい、もとよりそれは虚構であったが、同じ五月に彼は死んだ。彼でも、死を書き換えることはできなかったらしい。今年は没後20年。「物語は終わっても、海は終わらない」。
 というわけで、突然「天井桟敷全ポスター展」の最終日であることを思い出し、行って来た。それぞれどこかで見たことはあるが、一室に集められてみると、実に錚々たるメンバーである。横尾忠則、宇野亜喜良、粟津潔、林静一、花輪和一、井上洋介・・。これが時代というものだろう。ただ見て、黒ビールを飲んで帰ってきただけなのだが。

  5月某日 入 湯 記

 ちょっと趣向と口調を変えて、入湯記。
 温泉は温泉地にある。長い間、これが真理でした。
 温泉地といえば、草津、別府などなどといった有名なところから誰それの隠し湯なんていうところまで、全国いたる所にありますが、そういった温泉地は全て、地中から温泉が溢れ出ている所であり、人々はそこに風呂を設え旅館を建てて、温泉地としてきたのでした。こうして、温泉が出ているところがつまり温泉地であって、だから、温泉は温泉地にあるというのは、同義反復的な真理だったわけです。
 もちろん、例えば昔、山梨県の石和という農村にも起こったように、ごくまれに温泉地でない所に突如温泉が出ることもありますが、そういうときには、新たにそこが温泉地に加えられることで、「温泉地でもないのに・・」という不思議に蓋がされ、「温泉は温泉地にある」という真理が護られて来たのでした。
 ただ、残念ながら昨今では、古くからの温泉地の多くは、人々から敬遠されつつあるという話です。有名な温泉地の場合には、山峡の旅館でわざわざ刺身を食べ、酒を飲んでピンポンをし、外湯に通った昔の湯治客のふりを守って浴衣に下駄で出歩き、射的をしたり怪しげな小屋に入ったりという伝統儀式を経験できます。あるいはまた、名もなき鄙びた温泉地を尋ねてみると、つげ義春描くような少女などはいなくても、ただの貧しさ侘びしさなら味わうことはできます。だが、昨今では、そういったことこそ温泉行の醍醐味だと思う人が、次第に減ってきているのでしょう。
 一方、少し前から、地質調査技術と掘削技術の発達によって、やたらあちこちに温泉が出るようになりました。いや、出させることが出来るようになりました。いまや温泉は、選ばれた地に自然がもたらす恵みというよりは、ある程度まで技術と資金投下の賜になっているようです。先日ラジオで、地質学の専門家がいっていましたが、現在の掘削技術では、例えば大阪平野などでは一部を除けばどこを掘っても温泉を出すことができるそうです。こうしていまや、癒しと健康のブームを背景にして、普通の市街地のあちこちに、立派な「温泉」施設が開業し、廃業の続く従来型の町内銭湯を後目に、大いに繁盛しているようです。
 もちろん従来の町内銭湯でも、暖簾に「何がし温泉」と記しているような所もあったわけですが、それらはまあ何というか暗黙の了解があってのことだったのではないでしょうか。けれども最近の街中温泉は、脱衣所に「泉質表」などを掲げた、正味の「温泉」のようです。もっとも、先日の新聞には、法律上の「温泉」の定義は成分に言及せずまた「温泉」の衛生上の規制は「公衆浴場」よりゆるいために、中には問題のある街中温泉もなくないと書かれていました。でも、街中の温泉を手軽に利用している人々にとっては、そういったことよりも、場所的に便利で毎日でも通え、ジャグジーだのサウナだのジェットバスだのマッサージ機だのといった施設も充実しているということが、何より重要なのでしょう。
 さてしかし、もうひとつ、昔からの「温泉地の温泉」でもなく、また「街中の温泉」でもない、いわば第三の「温泉」が、最近あちこちに増えてきています。すなわち、景色はよいが若者が住みつかない過疎の村などで、村の資金で温泉を掘り当て入浴施設を建てて人を呼ぶ、という例が、よく見られるようになりました。
 温泉といってもやはりスーパー「銭湯」などと呼ばれたりもする街中の温泉でもなく、また出かける前に旅行代理店とやりとりしなければならない温泉地の温泉とも違い、そういった村営温泉では、ちょっと遠出をして現地に行きさえすれば、僅か数百円で、従来の温泉地の高級旅館にも遜色のない「自然の中での温泉」を、伝統儀式ぬきで愉しむことができます。こうして、昨今の温泉ブームを背景に、休日などには、かなり遠くから、流行の「自然」「癒し」「健康」を求める人々が、そういった村の「温泉」に入りに来ているようです。
 ・・・などと、前置きがやたらのんびりと長くなってしまいましたが、何ということはありません。私もまた先日ある温泉に行ってきた、そのことを書こうとしているだけなのですが(続く)。

  5月某日 入 湯 記(2)

 和歌山という県は、紀伊半島の西側半分に広がる県ですが、半島の中心部は山また山で、多くの人々が住む市や町は、山々から流れ出る何本かの川の沿岸と河口に集中しています。それらの川のうち一番北を流れる一番大きい川が、河口平野に和歌山市を擁する紀ノ川ですが、その和歌山市から国道42号線を南下すると、やがてまた大きな川の北岸に出ます。もちろん大阪から和歌山への高速道路を使えば早いのですが、少なくとも乗用車では、よほど注意していないと大きい川を渡るときさえ気が付きません。急ぐ旅ではないので、今日は国道を走っているのです。
 さて42号線はその有田川を真っ直ぐ渡るのですが、ここでも時間を気にせず、橋の手前で左に曲がって、そのまま有田川の北岸沿いに、国道480号線で川を遡ります。しばらくゆくと、やがて人家もまばらになりますが、道はそのまま川に沿って、ゆったりと曲がり曲がりしながらどこまでも続いています。左手に広がるのは、有田蜜柑を作る山々です。右手に時々大きな橋が現れますが、車もあまり通っていません。なかなか趣のある新緑の道です。
 のんびりと車を走らせながらラジオを聞いていると、大西ユカリという歌手が、数年前に自殺した西岡恭蔵というミュージシャンやその周辺の人々との交遊の思い出を話しています。西岡恭蔵は大阪出身の70年代の代表的なフォークシンガーなのですが、やがて彼の代表曲「プカプカ」がかかりました。いい唄です。
    俺のあん娘はタバコが好きで
    いつもプカ プカ プカ
    身体に悪いからやめなっていっても
    いつもプカ プカ プカ
    遠い空から降ってくるっていう
    幸せってやつがあたいに分かるまで
    あたいタバコをやめないわ
    プカ プカ プカ プカ プカ
 和歌山は禁煙運動の「先進県」をもって任じているらしく、公立学校は全面禁煙。国立大学でも、キャンパスを全面禁煙にするかどうかを巡って議論が激しいようです。「健康」に逆らえない雰囲気の中で、「不健康」が、「不健全」が、排除されてゆきます。
 「プカプカ」は、いまのように禁煙が世界的な流れになる以前の歌詞ですが、既に煙草は「身体に悪い」といわれています。それでも、70年代にはまだ、煙草といえば「プカプカ」とのんびり漂う煙だったのですね。喫煙を表すオノマトペが、紙巻をせわしなく吸う「スパスパ」にとって替わられたのは、いつ頃からなのでしょうか。「薫らす」煙草から「吸って捨てる」煙草へ。アメリカ生まれの紙巻シガレットが煙草文化煙草モラルを堕落させた元凶だ、という人もいるようですが、かつてはプカプカと公共空間を漂っていた煙が、スパスパと個人の肺の中に急いで吸い込まれてゆくようになったところに、共同文化から個人嗜好へという煙草の変貌が象徴されています。
 その意味では、共同空間の<容煙>が論外となったいま、<分煙か禁煙か>という対立は、もはや見せかけのものに過ぎません。飛行機や飲食店、キャンパスなどの全面禁煙は喫煙者の排除による空間浄化ですが、分煙もまた喫煙行為の封じ込めによる共同空間の浄化であって、両者の間には、禁煙の時間的空間的な「量的な差」しか残されてはいないからです。
 とはいえ、喫煙者にとっては、その意味での喫煙時空の「量」的確保こそが、いま、死活問題になっており、せっかちで強制的な喫煙排除に対する不満の声も少なくありません。もちろん不満をもつ側にもまだ少し、長い受苦の歴史を持つ非喫煙者への配慮を欠いた、自己中心的な声も含まれていますが、そういった人達ばかりではありません。長い喫煙の歴史に鑑みれば、現に喫煙者である人々が、加速する喫煙排除に対してかなりの抵抗感を持つのも、確かに無理はないでしょう。また、特にキャンパスに関しては、飲食店や映画館などのように限られた時間だけ利用し、全面禁煙室化も問題になりうる特定機能空間ではなく、本質的にトータルな社会生活空間そのものであるべきだ、という主張が当然ありうるでしょう。
 しかしそれはそれとして、長い目で見ればやはり、賢明にも分煙という形で共同空間からの撤退を受け容れた「個人趣味」には、もはやゆとりのある将来は残されていないように思われます。
 夕空に煙を残して通り過ぎる蒸気機関車も、煙に目をしばたかせながら人々が立ち寄る道端の焚火も、とうの昔に消えました。煙を通してスクリーンに届く映画館の光も消え、 改札口で煙草をもみ消す男のコートの襟も消えました。煙の立ちこめた空気が揺れる地下酒場のざわめきすらも、いずれは消えてゆくでしょう。私たちは、「健康」と引き替えに、こういった風景を喪ってゆきます。少なくとも、ガラスやエアカーテンで仕切られた特別室で、スパスパと吸われ、たちまち清浄機に吸い込まれてゆく煙には、プカプカとのんびり漂うゆとりはもはや全くありません。
 そんなことを考えているうちに、道の様子が変わったようです。(続く)

  5月某日 入 湯 記(3)

 いつの間にか人家が急に増え、道が狭くなっています。金屋口の町に入ったようです。
 そういえばここ金屋口は、有田鉄道という超短線の、終点があったところの筈です。JR紀勢線の藤波という駅との間に2駅、僅か5キロあまりの線路が敷かれていたのですが、確かつい最近、遂に廃線になってしまいました。おそらくやはりまた、何日かだけは、最後の別れを惜しむ地元の人々や集まったマニアたちで、車両は満員となったことでしょう。
 さて、国道480号線は、そのまま東に続くのですが、有田川は、金屋口の辺りで折れて南に遡ります。そこで、鉄製トラスの橋を渡り、480号線から424号線に乗り換えて南へ向かうことにします。するとやがて、再びゆとりを増した道の傍らに、「明恵上人生誕地へようこそ」という大きな看板が立って迎えてくれます。鎌倉時代の高僧明恵(みょうえ)上人ゆかりの土地に入ったのです。
 明恵上人については全く不案内ですが、名僧が輩出した鎌倉時代にあって、彼は、同時代の高名な僧たちのように宗派を興こした人ではないのですが、かといって深く師事する弟子たちが周りにいたようですし、位の高い大寺を権威の支えにしたりするタイプではないのですが、かといって放浪乞食聖などではなく上皇から立派な寺を寄進されていますし、熱心に布教したのではないのですが、かといって説教しなかったわけではなく、仏の前では誰もが平等だと考えていたようですが、かといって上皇や幕府要人と深くつきあったようですし、沢山の歌を詠んだらしいのですが、かといって歌詠みとして優れていたわけでもなく、また、宗教思想史に残る名著を書いたということではないのですが、かといって何も書かなかったわけでもありません。ともかく、宗派にすら拘泥しない、おおらかというか不思議な人物だったようです。深く釈迦に帰依する者として、何事にもとらわれないだけでなく、何事にもとらわれないということにもとらわれない、ということだったのでしょうか。「あかあかや あかあかあかやあかあかや あかあかあかや あかやかや月」、なんていう例の歌を臆面もなく作ったというのですから、やはり尋常の人ではありません。
 上人はまた、茶を広めた人として、そして夢を記し続けた人として知られているようです。確かに、私たちのような者にとってすら、昨日会っただけの友人が今日の夢に出てきたりしますし、ましてや亡くした恋人などは夜ごと枕頭に現れたりします。生涯不犯、わが耳を削ぐような内的抑圧を課して、一心に如来や菩薩を思慕した上人が、夢や白昼夢の中でどういう体験をしたとしても驚きません。もちろんしかし、専心など皆無の私などには、夢のような夢の話です。
 「歓喜寺」という看板が左に見えます。温泉が近いことと結びつけて、よくある怪しげな民俗蒐集館の類を想像するのはとんでもない間違いです。そこにも「明恵上人の生誕地」という但し書きがあるのを見落としてはいけません。再び今度は左側に現れた有田川沿いに進んでゆくにつれ、「明恵上人遺跡」を示す案内板が他にもいくつか現れます。もちろん行ったこともなく、申し訳ないことながら立ち寄るつもりもありません。
 上人はやがて京都の寺に登るのですが、以後も、寺院政争や喧噪を逃れてこの地に帰っては、庵を結んだりしたようです。通って来た有田周辺までを含めて、この辺りで上人が庵を結んだのはいずれも風光明媚な場所だったということですので、ハイキング気分で訪れるのにはよいのかもしれませんが、それはそれで申し訳けないことに思えます。
 この辺りでは、道路標識にまで、「明恵大橋」とか「明恵峡」とかいう名前が見えます。前からそう呼ばれていたのかどうか知りませんが、あるいは、いわゆる「村おこし」のために、上人にお出まし頂いているのでしょうか。
 などと書きましたが、実は目指している温泉も、「かなや明恵峡温泉」というのです。もちろん、古くからの温泉地ではありません。先に書いたような新技術によって、ごく最近、この地に作られた温泉施設です。もちろんはじめての来訪ですが、道は国道ですし、近づくと所々に指示板も出ているので間違うことはありません。ラジオでは、番組が終わりに近づき、今度は大西ユカリが、「プカプカ」を歌っています。
    俺のあん娘はスウィングが好きで
    いつもドゥビドゥビドゥ
    下手くそなスィングやめなっていっても
    いつもドゥビドゥビドゥ
 やがて、右側に大きな案内板があって、国道から右にそれて少し登ってゆくと、急に丘の上に出ます。そこが目指す温泉らしく、土曜日ということもあって、かなりの車が駐車しています。(上の2枚は、クリックすると大きくなります)
 有田川が開いたスペースのせいで、周りは山また山でありながら、むしろ開放感があります。もっとも、ここからは下にある川は見えません。 それにしても、いい季節です。近くの木々も周りの山も、すべて新緑。
 気が付いてみると駐車場の際に蘇鉄らしい木があります。いかにも南国風景ですが、これらは自生していた木なのでしょうか。といっても、これらの木が蘇鉄であるかどうかも知りませんし、蘇鉄と棕櫚とが近親関係にあるのかどうかも全く知らないのですが、そういえば途中通過した海南市(→前の地図)周辺は昔から棕櫚たわしの産地であったなあ、などと関係ないことを思い出しました。
 風呂桶を模したのでしょうか。茶色い色をした、低く太い円柱形の建物が見えます。あれがおそらく目指す温泉施設なのでしょう。(続く、かな?)
 

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