風 日 好   ・・・ 今日は日和がよいけれど、明日はそうではないだろう 

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  3月某日 寒い日々

 長い間、何も書かなかった。  こんな所に書いても全く仕方がないが、しかし他のことを書く気にはならなかったからである。・・・・いや実は単に更新を怠けていただけ、ではあるのだが、半分は本当である。もちろん私のそんな心境など、例えば渡辺えり子氏の言葉に並べてみても、全くとるに足らないのではあるが。
 「・・・私はいま戯曲を1行も書けない状態になっている。
 ・・・戦争を止められなかった劇作家は、観客に何を提示することができるのか。戦争を止められなかった観客は、どんな想像力をもち、何を見たいと思っているのか。」
*1
 骨を抜かれた昨今のTVニュースは見ず、新聞の政治面も読まない。しかし、伊達に生きてきたのではない。したり顔の評論家の類などに解説してもらわなくとも(むしろその方が)、国連さえも無視して何が何でも大量破壊兵器で他国に侵攻するのだ攻撃するのだ破壊するのだ殺すのだというブッシュ政権のやり口が理不尽極まりないこと位は分かる。もちろんまた一方では、情報操作の下で「正義の戦争らしい」と信じるあるいはむしろ信じようとする人々や、損得を読むことを「現実政治の視点」などと称して得意がっているような連中もまた世の中に少なくないということも。政治家たちが国家や国益なるもので世界図を描いているとき、当のアメリカを含む世界中の民衆が連絡を取り合って同日デモをしたりする時代でもあるが、しかしどんな時代にも強者の力は、強者に寄り掛かる者たち、利用する者たち、雇われる者たちを生み出すからである。
 「2003年3月20日以降は強者の権利だけが通用している。・・・われわれは動揺し、無力感に襲われながら、また怒りに満ちあふれて、唯一者として支配する世界権力の道徳的な凋落を見守っている」(ギュンター・グラス)*2
 だが、ドイツ人である彼は、こう続けることができる。この「戦争を私の国の大多数の市民が拒否したこと」、また、政府が「戦争に対するノーと平和に対するイエス」について「毅然たる姿勢」を貫いたことが、「私をドイツをいささか誇りに思う気持ちにさせてくれる」、と。われわれはどうか。
 いま起こっていることを、戦争という相互的な語で呼ぶことすら躊躇される。劣化ウラン弾を含む圧倒的な軍事力、破壊力、殺傷力による、一方的な侵攻であり侵略である。だが、侵攻のもたらす限りない悲惨、踏みにじられた国際正義、戦争に荷担する者の勝ち誇ったような表情などなど・・・それらのことだけが私を暗澹たる気持ちにさせるのではない。ホワイトハウスのならず者たちがニホン国半世紀の歴史をいま改めて総括しているかもしれないと想像する時、私は実に表現しがたい気持ちに襲われる。
 「我々はJapanの歴史を繰り返そうとしているのだ。Japanの民衆は、天皇制軍事国家の圧政を自らの手で覆すことができなかった。わがアメリカは、そのような非民主的国家を倒すべく、正義の闘いに立ち上がったのだ。わが軍は南方のJapan軍を蹴散らし、空爆でJapan全土を焦土にし、沖縄戦で多くの人々を殺し、更に原爆でJapanの息の根を止めた。そしてJapanを占領し、Japaneseを解放したのだ。当時の新聞には原爆を「正義の光」と書いていたそうではないか。進駐したわが軍を前衛党までが解放軍として迎えたというではないか。Japaneseたちは、7年間に及ぶ占領期間中レジスタンスのひとつも起こさず、むしろ占領軍の施策に感謝し、われわれの指導の下で新生Japanを何とか作った。だからそれ以後Japaneseは、保守革新を問わず、戦後の「平和と民主主義」はわがアメリカ軍の占領のお陰だという歴史観を共有してきたらしいではないか。こうして今Japanの政府は、大事なことでは必ずわが国の顔色を伺いながら尻尾を振ることになっており、もちろん今回の戦争についても強くわが攻撃を支持している。かつて国際連盟を脱退しアジア「解放」を掲げて他国を軍事占領したJapan、そして、わが軍の空爆、原爆そして占領によってようやく自らを「解放」しえた歴史をもつJapanが、われわれの「正義の解放」戦争をとやかくいえるわけはない・・・・」。
 ・・・・やめよう。こういった言説もまた、賢しらな言葉に過ぎない。
 いま大事なことは、殺されてゆく人々への素直な想像力である。それこそが、操作された情報や賢しらな言説を超えて、事態の本質を見抜くことができる。
 アフガンから帰った藤原紀香氏が20日「開戦」の日に書いたことばを、勝手ながらここに引用させて頂くことにする。
 国連による紛争解決の道が閉ざされてしまいました。
 これからは気に入らない相手には一方的に攻撃を仕掛けて、政権を転覆させて自分たちに都合のいい政府を作ることができる。その蛮行を私たちは黙ってみているしかないのでしょうか?
 ・・・(中略)・・・  もちろんフセイン氏は正しくないと思います。
 でもこの戦争によってなんの罪もない民衆の人々の多くの命が失われようとしています。
 日本も(結果的には)この虐殺に荷担するようなことになるなんて。。。これから行われる殺人を黙って見ているしかないなんて・・・本当に胸が痛くて息が苦しいです・・・
*3
       *1=「非戦叫ぶ柔らかな言葉と体」3/29  *2=「強者の不正−イラク戦争に寄せて」3/26
       *3=藤原紀香:NORIKANESQUE 3/20 より<


  4月某日 寒い日々

 何度も書くつもりはないが、もう一度だけ。
 たまたま瞬時、宮台某宮崎某両氏の対談の断片を見たが、この両氏がどうなのかは別として、したり顔の評論家諸氏の中に見かける、ある言説パターンがあるようだ。おそらく、いま、こういうことをいう連中がいるのではないか。「戦争はないに越したことはないし、アメリカが真っ当だとももちろん思わない。けれども、これこれこういうことがあるのであって、だから、単純に反米とか戦争反対とかいっているだけではどうしようもない。無意味だと思います」・・。
 「単純に反米とか戦争反対とかいっていればすむものではない」。それはその通りである。同意する。だが、「無意味だ」というのはどういうことか。
 そういう人たちは、(確か耳にしたように)例えば、「アメリカも<単純に>一国利益だけで動いているではないのであって」とか、「自民党員でさえこの戦争の正当性を疑うことなく<単純に>アメリカを支持している人なんていないのであって」というように、現実政治が<単純>なものではないことを強調し、自らもまた今度の戦争やアメリカの姿勢への一定の批判を表明する。そうしながら、しかし「アメリカを孤立させず引き戻すために」「終局的な中東の平和と安定のためには」「狭い選択肢しかない現実を考慮して」などなどといったことばで、政治家、官僚などなど<複雑な>現実政治に相渉る為政者の苦衷に満ちた戦争加担とやらに一定の理解を示し、一方、反戦非戦をいう人々については、現実の複雑さを知らずに「<単純に>反米とか戦争反対とかいうだけでは仕方がない、無意味です」、と続けるのである。
 もちろん「単純な反戦反米」者はいる。単純な利権目的、単純な報復意識だけの戦争支持者がいるのと同様に。「単なる感情的反戦」もある。単なる感情的イスラム嫌いや単なる痛快感だけの戦争賛成者がいるのと同様に。逆に、戦争支持ではないが苦渋の現実的選択としての非-反戦などという複雑で屈折した評論家好みの意見も当然ありうるわけだが、また、アメリカとの同盟が唯一の現実的選択肢であり政府は戦争支持をいわざるをえないが、だからこそその政治的選択をアメリカにできるだけ高く売るために敢えて国民は「反米反戦」を叫ぶべきだ、などといった屈折した意見もありうるだろう。
 たとえブッシュや小泉個人は文字通り単純であったとしても、戦争も政治の一形態である限り、単純なんてものでないことは、余りにも当然なことである。だが、「現実の複雑さを知り苦渋の選択を知る我々は、単純な反戦反米はいわない」などと得意げにいう評論家諸氏は、思わず為政者の目線で、反戦や非戦をいう人々を「単純」だと見、蔑んでいる。
 もちろん、人々は<単純>であって<単純>ではない。自分が何もしないことは罪だとまで感じて何かしらの行動をする人々もいれば、いまさら自分などが何をしてもどうにもならないと感じて何もしない多くの人々もいる。またもちろん、遠くのことにはまるで無関心な人々もいる。複雑な言葉を重ねる機会も術もないまま「単純相」に押し込められた人々は、単純に「いま、その爆撃をやめよ」と叫んだり、単純に無言でいたりすることしかできない。
 しかしそれは、「単純に反米とか反戦とかいうのは無意味だと思います」とか「一方では無関心な人も多いですね」などと軽くいってすますことができるようなものではない。無意味で蔑むべきはむしろ、人々の<単純さ>のもつ意味に鈍感な評論家の感性である。
 もちろん、反戦反米といえばそれで事足りるわけではないと、最初にも書いた。苦渋というなら、どこにもある。「思えば、私たちの内面もまた米英軍に爆撃されているのであり、胸のうちは戦車や軍靴により蹂躙されているのだ。」辺見庸3/22
 むろん、全ての歴史的行為は、従って人々の「単純」にみえる行動もまた(評論家の類の言説ほどではないにせよ)、ある視点からみれば無意味なことかもしれず、それどころか意図とは反対の結果をもたらすかも知れず、反対しているものと通底しているかもしれない。それが歴史というものである。しかし、たとえそうだとしても、このいま、爆弾で千切られ焼かれ銃弾でうち倒される人々を見て、端的に自分たちもまた爆撃され蹂躙されているように感じながら、しかし「いま、その戦争をやめよ!」と<単純に>叫ぶことしかできない人々が、言説の徒から蔑まれるべき筋合いは絶対にない。
 むろんそれは逆に、<単に>無関心に見える人々やまた<単純に>戦争加担を叫ぶ人々をも蔑まないという意味にもなる。通底という文字を既に書いた。いまその底にまで言及するつもりはないが、但しひとつだけ、これまた「単純な」ことをいっておくことはできる。・・・「殺せ」という叫びと「殺すな」という叫びは、歴史の中で同列であったためしはない。

  4月某日 体制護持

 追いつめられた金正日政権が、崖っぷちで要求しているのは、国民の生命や生活の保証などよりも、何より金正日「体制の保証」だそうな。
 敗戦間際、ポツダム宣言を突きつけられて追いつめられた天皇-東条政権が、崖っぷちで要求したのは、国民の生命や生活の保証などよりも、何より「国体護持」つまり天皇制の保証だったという。
 天皇-東条政権は、国体護持という最後の要求にこだわったために核を落とされたのだが、金正日政権は、体制保証という最後の要求のために核を使った賭けに出ている。という違いはあるが。
 いずれにしても、日々餓死したり爆死したりしつつある人々は、いつも、置き去りにされる運命にある。などとわざわざ書くのも恥ずかしいほど当たり前のことであって、もちろんそれは、この二国に限らない。

 
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