風 日 好   ・・・ 今日は日和がよいけれど、明日はそうではないだろう 

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  9月某日 月下美人
 
 ある人が、庭に咲いた写真を送ってくれました。ここに置かせて頂きます。(クリックすれば大きくなります。)


  9月某日 3時5分前

 「3時5分前は、何時何分ですか?」
 不意をつかれて、とりあえず、「2時55分のことですが・・」と答えた私に、タイから来た留学生は、重ねて聞いてきた。「なぜ、5分<前>ですか?」。
 おそらく彼らは、<前、後ろ>という、空間的な位置関係を表す日本語を学んだところだったのであろう。
 空間的な指標を時間に持ち込むこと自体は、別段不思議なことではない。そもそも通常の時間は空間的に捉えられた時間だと、フランスの哲学者もいっている。私たちが、5分とか3日とか、時間を量で計ったり表したりしているのも、時間の空間的な取り扱いに他ならない。だから、(タイではそうではないらしいが)時刻表現に空間指標と共通な言葉を用いることは、日本語だけがしていることではないだろう。だがなぜ日本語では、2時55分を3時に対して5分<前>だと表現するのだろうか。
 「川の流れのように」、時は流れる・・・。私たちの大多数にとって、時間を空間イメージ化すると、どうやらそういった風景になるようだ。このようなイメージがグローバルなものかローカルなものかは知らないし、後者であるとすればどのような時代的また地域的な広がりをもっているかも全く知らないが、しかしこのイメージに対しては、もう少し突っ込んで問うてみることができる。「いったい私は、その川のどこでどうしているのか」、と。
 それとなく聞いてみると、ある人は、川面に突き出た杭のように不動の現在にあるのであって、時間の水は私の周りを未来から過去へと流れ去ってゆくのであるが、またある人は、永遠の現在という船に乗って、時間の水と共に過去から未来へと流れてゆきつつあるらしい。
 だが、さしあたり問題なのは、杭か船かといったことではない。また、杭では川上が未来であるが、船では川下が未来であるといった、両者の相違点でもない。杭であれ船であて、時間の流れのうちににある<私>は、未来か過去かそのいずれに顔を向けているのか、どちらが私にとっての<前>なのか、ということである。
 私が高1のときの話だから、昔々のことである。たまたま、「年々歳々花相似/歳々年々人不同」という一句の解釈をするよう指された私は、「毎年毎年咲く花は同じだが、人は毎年毎年成長してゆく」と珍答し、「若い君たちはそういう風に感じるのだろうな・・」と、中年の国語教師を苦笑させてしまった経験がある。もちろん、不良高校生であった私には、授業中に指されて答えられなかったことや間違って答えたことは数え切れない。けれども、この誤答の記憶だけが、伊東という先生の名前やその苦笑の表情までを含めて鮮明に残っているのはなぜか。それはおそらく、その誤答が、単にあることを知らなかったとか間違ったとかいった次元のそれではなかったからであろう。私はそのとき、私の人間観あるいは世界観がいかに青くさく浅薄なものでしかないかということに気づかされて、実に恥ずかしかったのである。もちろん私もいまは、歳々年々過ぎゆく日々をこそ実感している。
 わざわざそんな恥を持ち出さなくてもよかったのであるが、いずれにしても、私たちは、時間という川の流れの中で、誰もがいつも同じ方向を向いているというわけではない。
 例えば<先>ということばをとってみよう。私たちは一方で、<先>月ひさしぶりに祖<先>の墓参りに行きましたなどというとき現在から過去へというベクトルを想定しているが、他方で<先>端科学に関心をもつとき過去から現在へとベクトルを逆転させている。また私たちは、一方でこちらを<先>に、まず今片づけようといったかと思えば、他方では、そちらの方は<先>に延ばそう、次回以降に持ち越そうといったりして、現在未来のベクトルを逆転させもする。
 私たち日本語を使う者が、時間を問題にするとき、一斉にある共通ベクトルをイメージする、といったことはありえない。簡単な事例だけから、日本語に特有なあるいは日本文化に特有な時間イメージなどといったいい加減な話に飛躍する論者たちの轍を踏むつもりは毛頭ない。いま問題にしているのは、2時55分を3時5分前だというその<前>だけである。少なくともそのとき、私たちは「前」ということばで、どういう時間関係を表そうとしているのだろうか。
 例えば英語で<5 to 3>というようにいうのは、「3時へ向かってあと5分」といったところであろう。ここで人は、3時という未来へ向かう姿勢で話している。それに対して、「5分前」という私たちは、3時という未来に背を向けて、55分という過去を顔<前>にしているのだろうか。
 もちろん、さしあたりの答えはある。日本語で「5分前」というときの<前>は、「手前」という意味であって、私たちもまた3時という未来へ向かって、55分をその「手前」にある時間だと表しているのだ、私たちにとっても過去は「振り返る」ものであり未来が前なのだ、と。
 それでも問題は残る。では、「手前」とはどういう意味か。それに例えば、私たちが、結婚したのは10年前かいやもっと前だ、というようにいうときには、その<前>は、少なくとも今の私にとっての「手前」ではない。
 どうやら「前」ということば自体の意味を、確認してみる必要がありそうだ。もともと時間表示に用いられる「前」が空間表示からの転用であることは間違いないとして、ではそもそも、「前」ということばで私たちは、どういった空間関係を表示しようとしているのであろうか。(続く)

  9月某日 記録保持者

 9.11である。とはいえ、忘れてはならない日は9.11だけではないし、悲惨な大量殺人があったのはNYだけではない。人にも知られず声も上げられず報復する力もない無数の9.11があったことを、そしたまた、今もありこれからもあるであろうことを、NY9.11と共に忘れないようにしたい。
 といいながら申し訳ないが、わざとではない。超巨大国家が「忘れるな、報復せよ」と叫んでいるこの日に、完全に私的な「忘れる」話である。
 もしも私に、いささかなりとも人に抜きんでた才能があるとすれば、それは、「忘れる」ことである。
 私たちは、過ぎゆく全てを日々忘れてゆく。まことに残念なことである。だが思えば、私たちの日々は、忘れたいこと、忘れるほかないことに満ち満ちている。忘れることで私たちは、ようやく何とか生きてゆくことができるのである。
 けれども、私たちの脳は、悲しみや悩みや悔悟すべきことだけを、都合よく忘れてゆくというようにできてはいない。こうして、少なくとも私は、忘れてはならないことをもまた、というよりむしろ、忘れてはならないことこそを、日々忘れてゆく。
 これは加齢とは関係がない。もしもそういうことばを使うなら、むしろ私は子供の頃から、既にして耄碌していた。以来私は、あれも忘れこれも忘れ、続けて忘れ重ねて忘れてきたのである。
 自分のことは仕方がない。問題は、そのことによって周りの方々にかけた、数多のご迷惑である。借りたものは失くし約束しては忘れる。だったら約束などしなければいいのだが、そうもゆかない。
 昔、東京で学生をしていた頃、Kという友人がいた。二人の住まいは図のような位置関係にあり、電車だと1時間ほどかかるのだが、歩くと3、40分位であった。でまあ、よく行き来していたのだが、Kとの会話はいつも、「明日行くかもしれんぞ」、「そうか、俺もいるかもしれん」、といった具合で甚だ頼りない。必要なら携帯電話で即確認できる現在の学生諸君には信じられないだろうが、実際出かけてみると相手がいないということもしょっちゅうで、そんな時は、また半時間ほどかけて歩いて帰るのである。彼の部屋の隣には弟が住んでいたが、弟がいたとしても、「兄貴いないね」「そうですね、どっか出て行きましたよ」といった具合で、役には立たない。けれども、これまでの人生で、私が約束を忘れるという不安なしに実に気楽に付き合えたのは、Kだけなのである。 (注: ちなみに、芸大の学生であったこの弟は私やKと違ってできがよく、いまは名のある絵本作家として活躍している。)
 とはいえもちろん、こういう関係は、怠惰学生という特殊な境遇だったからこそありえたことであって、社会へ出てからは、思い出すだけで今なお申し訳なく慙愧に耐えないエピソードをいくつももつ身となった。もちろん一方では、例えば、会合に遅れたのが本当にバスの事故によるのだということをどうしても信じてもらえなかったという経験があったりもする。だが、それは自業自得というものであって、人様におかけしたご迷惑に比べると取るに足りない。それにまた他方では、職場で忘れ物を見つけた人が先ず私に連絡してくれたというような有り難い?経験もあって、それも皆様の思いこみあればこそなのだから、文句をいっては罰が当たる。・・・とまあ、そのようにして、振り返れば、実に恥ずかしく申し訳ないことばかりなのである。冒頭で「忘れる」ことが私の才能だなどと書いたが、もちろんそれは修辞であって、恥にはなっても自慢になるようなことでは決してない。
 だがひとつだけ、私がひそかに、私こそ国内記録、あるいはもしかすると世界記録保持者ではないか、と思っていることがある。
 数年前のことだが、運転免許証を失くした。家の中をはじめあちこち探したのだが出てこない。結局再交付してもらう他ないことになって、まず警察署へ行って紛失届けを出し、もらった書類を手に交通センターへ出かけた。で、あれこれ手続きや検査などがあって、いよいよ新しい免許証をもらえることになった。再交付窓口に集まった数人を前に、係官がひとこと。「それではこれから新しい免許証をお渡しします。名前を呼ばれた方から順に受け取ってください。なお、失くした免許証が出てきた場合は、速やかに返却してください」。やがて名前が呼ばれた私は、新しい免許証を受け取った。
 やれやれ、これで数日間の懸案が片付いた。今度こそ失くさないようにしよう。そう思った私は、手にもった新免許証を、上着の左の内ポケットに入れようと、胸の前に右手をまわした。そのとき、右脇に感じるものがある。瞬間、私は悟った。
 何食わぬ顔で窓口を離れて、そのまま駐車場へ行き、車の中で私は、右の内ポケットの中のものを出してみた。予想通り、失くした免許証であった。もちろん、速やかに返却して下さいといわれたばかりだが、ハイありましたなどとはとてもいえない。
 もしも、「免許証の再交付を受けてから失くした免許証が出てきるまでの時間」という項目がギネスブックにあるとすれば、推定1.5秒という私の記録は、間違いなく世界記録として認定されるにちがいない。

  9月某日 承前=前はどっちだ

 「ならず者国家」つまり世界最大規模の大量破壊兵器をもち友邦の意見も聞かず国連をも無視して他国を攻撃し壊滅させようとしている国が、着々と戦争の準備をしているという報に、肌寒さを感じているうち、今月も残り少なくなった。前文に少しだけ付け足して、お茶を濁しておくことにしよう。
 「前」のことである。
 時間表現における「前」が、空間表現の転用であるとして、では空間的に、「前」とはどこだろうか。あるいは、どちらだろうか。
 もとより素人談義なので、先ずは辞書を開いてみると、「しりへ」の尻に対する「まへ」の「ま」は、「まゆげ、まぶた、まなこ」の「ま」、つまり目である、という。それでは、「目の側、目のあたり、目の方向」とは、どこ、あるいはどちらをいうのだろうか。もしも<現に目で見ている方向>が前なら、人は決して「後ろを見る」ことはできないし、また例えば、目のない電車が<前>に進むこともないだろう。
 もちろん揚げ足取りである。だが、少なくとも単純な話ではないことが分かる。
 一般に辞書には、語源的な記述はあっても少なく、基本的に語義が列記されているだけであるが、「前」についてはたいてい、「目で見ている方向」の次に、「進む方向」といった説明がある。確かに、ボートや蛸ではちょっと迷うが、普通は犬や猫も、目の付いている方、目で見ている方へ進む。つまり<前へ進む>。だから逆に、目がなくて進むものについても<進む方向が前>となったのは理解できる。
 そこでもうひとつ。そのようにして例えば電車の「前」つまり<進む方向>の先を、例えば自動車が横切ったりするのであるが、ところがその電車の「一番前」には運転士が乗っている。「一番前」の先にまだ「前」があるわけだが、もちろんこれは、<位置の前>と<方向の前>があるからだ。つまり、目の<位置>と見ている<方向>である。
 また、「前から2両目」といった順序表現も、<進行方向の前>から<位置の前>が決まり、そこを起点として表現される、ということだろう。
 と、ここまでは、辞書の列記的な記述にも容易に関連を付けられるし、特に問題はない。
 だが、まだ「前」には問題がある。例えば生徒が先生から、「もっと前へ来い」といわれ、「もっと前へ行け」といわれた場合、その「前へ」の方向が、先生に近づくのと先生から遠ざかるのと、逆になっていることもありうる。また、「机の前に座れ」と「机の前に立て」といわれた場合も、机との位置関係で同様な事態が起こりうる。それに大体、目がなく進むわけもない机の「前」とは、何をいうのか。
 「前」とはどこか、どちらか。もう少し考えてみることがあるようだ。(続く。というほどのことでもないのだが)

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