風 日 好   ・・・ 今日は日和がよいけれど、明日はそうではないだろう 

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 8月某日 焙煎事始

 今週は肩の凝らない話である。
 私はもともと肩だけでなく、特に凝っているものはない。
 例えばコーヒーは毎日飲んでいるが、それも凝っているなどと人にいえるような代物ではない。電動ミルをやめて手動でガリガリ、という程度のことはしているが、何しろ無精者なので、まあ、適当にやっていただけである。
 それに大体、私の舌も信用できない。これまで私は、どちらかといえば浅煎り粗挽きで酸味傾向を楽しんでいた。つもりであった。ところが、どうも私は、酸化(劣化)した味をコーヒーの味と思っていたふしがある。いや、どうやらそうらしい。・・・私のコーヒーは、実にまあ、その程度のものなのである。
 その私が、コーヒーの焙煎をしようということになったのは、「生豆屋」さん(  ←ここ)という店のページを見たからである。既にして甚だ主体性のない話ではあるが。
 偶々見つけたページを開いたのは、単に「淹れ方」のアドヴァイスをしてもらおうと思ったからであるが、読み進むと、実にいろいろ詳しく、丁寧である。実は、上記の酸化うんぬんについても、このページを見て気付いた感想である。単純手軽に「淹れ方」だけを学べばいいという問題ではないようだ。(注1)
 それにこの店は、基本的な考え方というか姿勢に共感がもてる。私は、そういう点に弱いのである。
 というわけで、焙煎セットというのを注文し、焙煎をしてみようということにした。どうやら私自身の舌にも学び直してもらわねばならないのだから、実に前途遼遠な話であるが。
 しかし、状況は厳しい。まだ、注文品が届かないうちから、早くも挑戦状が来た。
 「おお!?これは、いつのまにか先を越された、というか…… 私は、最近だいぶコーヒーにはこだわっています。豆の選び方(とにかくブランドよりも新しさです)から、挽き方(もちろん手回しミルで煎れる直前に。店で挽いてもらうなどもってのほか。電動ミルは熱で粉が変質するのと微細粉がでるので雑味が出てしまいます)、淹れ方(お湯の温度は熱すぎず、ぬるすぎず、最初むらして、細い湯滴でゆっくりとお湯をそそぎます)云々と、かなりこだわっておりまして、自分で淹れるコーヒーが一番おいしいと自負しております。で、やっぱりここまできたら次は自家焙煎かなあ、でもそこまでやったらやりすぎかなあ、むずかしそうだしなあ、と最後の一線と思っていたところだったのです。じゃあ私もこれを機会に習得しようかなあ。焙煎のコツとかが書いてあるホームページで予習しとこうかな。(中略)お店とのやりとりも、心温まるものですね。(店主の方の)人柄の良さがあらわれているような気がしました。(後略)」
 腕も舌もあやしい私は、今のところ、完全に負けている。(注2)
 さて、予定通り、注文品が届いた。
 早速、助手(?)をパソコンの前に配置して、生豆屋さんの説明ページを開き、手順を逐一読み上げてもらいつつ、やってみることにした。・・・奮闘数刻。結果は・・・まあ、何とかできたのではあるが、何しろ初めてなので、見るからに煎りが浅過ぎるし、十分冷ますのももどかしく挽いて飲んでみたのも当然いけなかった。こうして、第一回焙煎は、助手が下した「失敗宣告」で終ったのである。・・・
 こんな小話を思い出した。(注3)
 
 学生のレポートを読み疲れた教授がコーヒーを淹れて一休みしていると、ドアをノックして、アメフトのヘッドコーチが入ってきた。
 「やあフランク。先週の逆転タッチダウンは素晴らしかったね。コーヒー飲むかい?」
 「ありがとう。・・実は、今日はちょっと頼みがあって来たのだけど。」
 「君が頼みとは珍しいね。何だい。」
 「それが・・その・・ジョンのことなんだけどね。」
 「ジョンて、あのJBのこと?」
 「そう、その彼なんだけど、実はその・・君の単位を・・」
 「ああ、そのことか。NFL入りの決まった選手を落とそうなんて教授は、この大学には一人もいないよ。それに彼は性格はいいし真面目だし。その辺の軟弱な点取り虫よりよほどいい学生だよ。・・・そうだな。答案には・・「私はフットボールとコーヒーが好きです」とでも書いてあればOKにするよ。」
 「いや、文章はちょっと・・」
 「じゃ、coffeeという単語が書ければいいということにしよう。」
 「 f をひとつしか書かないとか、あるかもしれない。」
 「なら、こうしよう。c、o、f、e のどれかの文字を、ひとつでも書いてあれば合格だ。」
 「いくら彼でも、それなら安心だ。ありがとう。」
 数日後、JB君の答案には、次のように書かれていた。 KAPHY

 私の焙煎したコーヒーは、まだまだ kaphy である。いつかは coffee を飲むことができるであろうか。

 注1:   ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし  (寺山修司)
 例えば「モカ」は、もはやとうの昔に産地名としても積出港名としても実体を失っているにせよ、なおノスタルジックなイメージとともに通用している。こうして、もしも私が怪しい業者であるなら、例えばこういうことを考えるかもしれない。・・ここに品質が悪くかつ少々劣化(酸化)した安い豆がある。そこで私は、これを粉にして、「モカ・ブレンド」と名付け、袋には「さわやかな酸味が特徴」といったフレーズを載せることにする。モカとして流通している豆を少々混入しておけば、贋表示というわけではない。こうして私の卸した「モカ・ブレンド」が、スーパーの棚に大量に並べられる・・・いや、あくまでこれは、「私」が怪しい業者であるなら「私」のような消費者を騙せるのだが、という単なる仮定の話であって、誠実なる業者と賢明なる諸費者のいる現実世界では、そういうことはない。・・・た・ぶ・ん
 注2:淹れ方だけではない。ここにある「イノキとアリとコーヒー」「ハイチとコーヒー」など、私には書けない話である。
 但し、私が焙煎を始めると知っての反応には、この挑発メール(?)とは別に、「ピーナツとかも炒れるのかな。手焙煎ナッツも食べたい!天津甘栗は?(笑)」といった、けしからぬ(笑)返信メールもあったのではあるが。
 注3:昔どこかで読んだ記憶を基に再現したのであるが、作者がはっきりした話なら作者名を書くのが礼儀であろう。ご存知の方はご教示下さい。
 注追:なお、煎りが浅過ぎ私の失敗については、早速生豆屋さんからアドヴァイスを頂いた。


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 8月某日 だが、私が兄だ

 シュヴァイツァー博士、といえば、おそらく誰もが知っているだろう。優れた神学者でもあり世界的なオルガン奏者でもありノーベル平和賞を受賞した平和活動家でもある。だが、何といっても彼の生涯をかけた仕事は、アフリカでの医療活動である。若い頃、アフリカの人々の救済を志した彼は、医学を学び、それまでの生活を投げ出してアフリカに渡って病院を建て、貧しい人々の医療に献身的に奉仕した。まことに彼は20世紀の聖人と呼ばれるのにふさわしい人物であって、私のような者にとっては、足元に近づくこともできず、ただただ畏敬するだけの人である。
 けれども、こういうことをいう人もいる。彼の献身と奉仕は疑えないが、しかし彼も、所詮は宗主国の人として植民地の人々に対処した。そういう人がよく挙げるのは、彼がいったといわれる次のことばである。「私たちは兄弟だ。だが、私が兄だ」。
 時々私にメールをくれる人の中に、かつて日本の大学に留学していた人がいる。以下の話は、私が間接的に聞いた話である。
 間接的な話なので名前は挙げないが、ある国立大学で、ちょっとしたトラブルが起こっているという。
 外国特にアジアからの留学生のほとんどは大変貧しい。特に大変なのは、国費招待の留学生などとは異なり自分の費用で留学してきた学生である。一番困るのは住居である。家賃として払わねばならない月数万円、入居時に求められる数十万円は、本国の両親の年収を超える場合すらある。それを自分でまかなわねばならない。大学でも、彼らのために、留学生用の宿舎を建てたりしているのだが、まだまだ数が足りない。しかも、いかにも国立の大学らしく(その大学だけのことなのか全国そうなのかは分からないが)、現実よりも原則を優先して、国費で招待した留学生を先に入居させるので、一番困っている私費の留学生は極端に入りにくいのだそうである。
 ところが、その大学では、留学生がなかなか入れない宿舎に、日本人学生を住まわせたのだという。入居するまで、また入居してからも、一切説明がなかったこともあって、留学生たちは当然声を挙げた。聞きたいことはひとつである。「私たちがこれほど困っているのに、なぜ、何のために、日本人学生を入れたのですか。」
 そこでようやく説明会が開かれたそうだが、その席で大学側は、日本人学生を入居させた理由は、留学生の生活を「指導する」ためだ、と答えたというのである。「配られた紙に「指導」ということばが何ヵ所もあり、留学生たちはみな怒っているようです」、とメールにある。
 詳しいことは分からない。具体的な経緯や事情は知らない。大学も考えがあってのことかもしれない。だから私は、ここで、出来事そのものについて意見をいうつもりはない。だが私は、「指導」ということばを聞いて、実に暗澹たる気持ちになった。戦後半世紀は何であったのか。
 かつて、台湾を領土とし朝鮮を併合し中国に満州なる国を建て更にアジアのたくさんの国々を占領して支配下においた大日本帝国は、しかも、自らの行動が目指すのは、解放だ連帯だといい、提携だ協和だと称し、そして共栄だと主張した。
 だが、実際はどうであったか。例えば、
 「半藤:実際のところ、満州にいた日本人は「五族協和」とか「王道楽土」というのを信じていたんですか。
 藤原(てい):満州国の首都新京では大変な差別があったように思います。〜 五族協和なんて大嘘でした。
 なかにし(礼):牡丹江においても、仕事で成功した日本人にとっては「王道楽土」ですよ。僕みたいなほんの子供が中国人の大人を顎で使ってね。」
 大東亜の協和や共栄を掲げたあの戦争は、アジアの人々にとっては侵略であった。事実としては、土地を取り上げ、「顎で使って」いたのである。だがそれなのに、なぜ日本人たちは、日本の侵略を、協和だとか共栄のためだとか言い張ったのであろうか。
 簡単にいえば、その答えの鍵は、ひとつの言葉に集約できる。「指導」、である。
 西洋列強の侵略と支配に直面しつつ、「朝鮮人たちは、中国人たちは、また他のアジアの人々は、自分たちだけでは国を運営できない、だめな人々だ。だから、日本が進出して指導するのであって、進出と指導は、提携のためであり共栄のためである」。こうして、土地を取り上げることなどはもちろん、軍事行動もまた、東亜共栄を目指す日本に従わない反抗分子に対する指導行動として正当化されたのであった。
 そしていま、問題の大学は、いっている。「留学生たちは、自分たちだけでは宿舎を運営できない、だめな連中だ。だから日本人学生が入居して指導するのであって、入居と指導は、交流と友好のためである」。その国立大学には、国際何とか学科とかもあるという。そういう大学が、留学生の宿舎を取り上げて日本人を住まわせるのは、彼らを「指導」するためだと強調している。
 特に歴史を知るアジアからの留学生たちの中には、メールにあるように、思い出したくない、だが忘れてはならない過去が蘇り、再び大事なものが踏みにじられたような思いをもった者がいたであろう。
 私が、戦後半世紀とは何であったのか、と暗澹たる気持ちになったというのは、そういう意味である。
 ところで、関連して私が、「留学生が困っているのなら、日本人学生の入っている寮に入れてもらえないのですか」、と質問すると、相手からすぐに、返信メールが帰ってきた。「あの大学の日本人寮は、上下関係がすごくて、とても入れないのです。徴兵制のある国の学生が、軍舎以上だ、といっています」。真偽のほどは分からない。だが、いずれにせよ日本人寮は自治にまかせつつ、留学生はその能力がないので「日本人の指導」が不可欠だ、というのが大学側の対応であるようだ。
 中国人の研究者はいっている。アジアの連帯、提携を志す大アジア主義は、他のアジア諸国への「侮蔑観」を伴った「大和民族優越論」を介して、「日本盟主論」となり侵略の思想となっていった(趙軍『大アジア主義と中国』)。
 とはいえ、背後にある管理意識はいうまでもないにせよ、「指導」ということばそのものは、おそらく軽く使われたのでもあろう。一大学のことだけではない。私たちの意識には、アジアへの友好や支援また交流等が、そのまま「指導」に転化することに、ほとんどこだわりがない。
 だが、私たちが忘れても、忘れられない人々がいる。否、私たちこそ、忘れてはならない筈ではないか。
 三度書く。戦後半世紀とは、いったい何であったのか。

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 8月某日 犬の幸せ

 時折、自転車で公園へゆく。かなり広い公園なので、時にはかなり遠くまで走る。
 かつて、公園や広場の主役は集団で遊ぶ子供たちであったが、いま、彼らはいない。代わって公園で多く出会うのは、走る人、歩く人、そして、犬を散歩させている人である。
 連れている犬は、例外なくおとなしい。鎖を握る主人に従って、静かに歩いている。主人は、たいてい、手に小さなシャベルをもっている。それをどんな時に使うかは説明するまでもないが、シャベルを使うだけでなく、驚くべきことに、犬の背後に屈み込んでティッシュを使ってやっている人を2度までも見た。もちろん、たいていの犬たちは、カタカナの品種名が書かれた血統書とともに店から買われたのに違いない犬たちである。
 昨今、草木鳥獣また魚昆虫に至るまで、外国種の流入によって、在来種が存亡の危機にさらされ、また生態系が乱されているということで、心ある人々はその心を痛めているらしい。
 思うに、犬たちの世界でもまた、在来種の危機という、同様の事態が進行しつつある。といっても、秋田犬、紀州犬、土佐犬などなどといった犬種のことをいうのではない。ただの「イヌ」のことである。
 かつて、公園や広場やまた路地や空き地の主役が、集団で遊ぶ子供たちであった頃、子供たちのまわりには、必ず「イヌ」がいた。イヌたちは、走り回る子供たちと共に走りまわり、日向ぼっこをする子供たちと共に日向ぼっこをした。もちろん、時にはイヌが子供たちに吠えかかったり、子供たちが子イヌをいじめたりもした。だが、イヌたちは、近所の子供たちの「仲間」であった。
 それらのイヌたちは、もちろん品種名などのない、つまり「雑種」であった。とはいえ、かつて普通にただ「イヌ」と呼ばれていた雑種の犬たちには、共通の特徴があった。だがいま、少なくとも私が公園で出会う犬たちのほとんどは外来品種の犬たちであり、その種のイヌは、皆無とはいわないまでも非常に少ない。
 以前、ある地方都市に住んでいた頃、近所にクロという名のイヌがいた。一応、ある家の庭に小屋があり餌ももらっていたようだが、しかしそこに繋がれていたわけではなく、たいていは公園で子供たちと共に駆け回っていた。
 ある日のこと、近所の子供も入れて数人で散歩に行こうとして、寝そべっているクロの前を通りかかった。いつものように、子供たちがクロに声をかけると、クロは起きあがって、ついてきた。ところが、さてどこへ行こうかと子供たちと話していると、クロが先に立って歩き出した。そこで何となく、クロについて行く形になった。
 クロは、時々立ち止まっては振り返りながら、歩いてゆく。子供の足なら10分ほどの寺の方角である。「あ、クロはお寺へ行きたいんだ」。それなら、時々散歩にゆく場所である。
 ところが、山門を通り、境内の池を通り本堂の前までいっても、クロはなお先へ行こうとする。「クロ、どこかへ連れてゆきたいんだよ」、と子供たち。そのままクロは、本堂の脇を通って、墓山の細い道を登ってゆく。「こんな所、来たことないねえ。どこまで行くんだろう」。相変わらずクロは先に立って登ってゆくのだが、それでも自分だけで行ってしまうのではなく、時折立ち止まっては、子供たちを待っている。
 やがて、登り道の両側に墓がなくなったと思うと木立が切れて、そこは山の頂上だった。「わあ、すごい。こんなとこ来たことないねえ」、と子供たちは驚いている。確かに、広がる町並み、流れる川、そして遠くの山々までが見渡せる。
 クロは、得意そうな顔で、喜ぶ子供たちを見ながら尻尾を振っていたが、やがていつの間にかどこかへ行ってしまった。だが、子供たちは、ずっと後になってからも、あの日のクロのことを思い出しては話すのだった。「きっと、あの眺めを見せたかったんだよ、クロは」。
 いま、シャベルをもった主人と共に散歩する公園の犬たちは、一様におとなしい。公園で出会う私たちに突然じゃれついたり吠えかかったりすることはない。また彼らは勝手な場所で排泄することがないから、公園を汚すこともない。大変ありがたいことである。
 それは彼らが、管理された犬たちだからである。彼らは常に鎖に繋がれ、その一端を主人に握られている。そしてまた、彼らの名前は役所に登録されており、登録番号が首輪に刻まれている。公園の道を鎖に繋がれ静かに歩く犬たちは、人間の完全な管理下にある。
 彼らは、すれ違う他の犬にも、ほとんど関心を示さない。もちろん、鎖に繋がれて喧嘩はできない。しかるべき季節であったとしても、血統書付きの彼らが出会った犬に情を移すことなど、もちろん許されはしない。
 それでも、あるいはむしろそれ故に、主人と歩く犬品卑しからぬ犬たちは、一様に穏やかな表情をしている。幸せそうである。否おそらく実際に、幸せなのだろう。
 だが私は、子供たちを山頂に案内してみせたときに、得意そうに尻尾を振っていたクロの、誇りに満ちた眼の輝きを思い出している。
 さてこのたび、私たちにも、11桁の登録番号が付けられた。私たちもまた、管理された幸せな犬になるのである。
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