風 日 好   ・・・ 今日は日和がよいけれど、明日はそうではないだろう 

次の文に進む Top Page 旧稿一覧
 7月某日 左手で描く

 高野文子の新しい作品集が出たらしい。評判が高く、『ユリイカ』でも特集号を組んだという。本屋で探してみよう。  といっても、私は原則的に文庫本しか買わないし、高野文子もほとんど読んではいない。だから、以下書くことは、おそらく大変見当違いのことだろう。ただ私は、このことを教えてくれた人への返信メールに、「高野文子は、途中から、特には読まなくなった」、と書いたのだが、そう書いたことが、自分でちょっと気にかかっている。
 僭越ないい方になるが、高野文子のすばらしさについては、もちろん文句なく認めている。では、何故なのだろうか。
 唐突だが、例えばピカソには、左手で描いた絵があるに違いない、と私は勝手に想像している。といっても、彼が右利きか左利きかすら知らないので、右利きと仮定してのいい方であるし、また、あるに違いないなどと書いたばかりだが、実際にはそんな絵など多分ないのだろうけれど。
 晩年のピカソの悲劇は、描くべき主題がなくなってしまったことにある。昔、『ピカソ、天才の秘密』とかいうドキュメンタリー映画があったが、そこでも彼は、休みなく描き続けつつ、休みなく次々とそれらを消していった。まるで、消すために描いているように。ピカソの「過剰」は、現実(あるいは主題といってもいいのだが)に密着できないもどかしさによるのだろうか。いってみれば、彼は常に、描きたい世界が描けないもどかしさに、背中を押され続けていたのだろうか。逆ではないかと、私は思う。むしろ「天才」ピカソにとっては、「描けてしまう」自分の手が問題だった。だから、「ゲルニカ」のような描くべき「主題」のある絵を除けば、彼には「作品」がない。というか、描き散らした全てが、彼にとっては作品であって、それらはしかし、「完成すべき」ものとして描かれ見事「完成させられた」絵、といったものではない。
 高野文子の話のつもりが、実にいい加減なピカソの話になってしまったが、もともと彼女の本はあまり読んでいないで書いている。
 表現世界があるとして、そこで技術の最終目的は、表現すべき「もの・こと」つまり世界を、意図通りに、いい換えると過不足なく表現することであろう。「手段」あるいは媒体である技術は、不足と過剰を嫌う。少なくとも普通はそうであろう。こうして、「名手」の手になる作品は、例えば、次のようないい方で賞賛される。「さりげない日常をさりげなく描きながら、これほどまでに豊かな洗練された世界に読者を引き込むことができるのかと、過不足ないことばのもつ力に改めて感嘆する」。「選び抜かれたひとつひとつの音のどれひとつを取り去ることもできず、そこにどんな音も加えることができない、見事な音世界」。まあ、そういった「磨きぬかれた珠玉の絶品」、「技法と主題世界との見事な合致」といった作品が、どんなジャンルにもあるわけである。
 もちろん、いうまでもなく、と重ねて強調するが、そういった作品の素晴らしさ、それを生み出した作家の技法の素晴らしさには、感嘆し敬服する。
 だから、あくまで私の個人的な趣味に過ぎない。のだが、何というか、そういった作品には感嘆し敬服しつつ、申し訳けないが、やがて私には、やや敬して遠ざけるような気分が働いてしまうことがある。
 マンガに戻る。
 どう書いていいか難しいのだが、「ざらざらした感じ」というのがあるのではないだろうか。といっても、昔でいえば、紙も印刷も質のよくない「ざらざらした」雑誌に見る安部慎一やつげ忠夫などを取り上げて、そこで描かれる「ざらざらした日常世界」は、良質のアート紙の上には決して感光しない、差別されるジャンルは「ザラ紙」のページに留まるべきだ・・・などといおうとしているのでは決してない。だから、どういっていいか難しいのだが、つまり、技術(アルス、アート)ということなのである。勝手ないい方をすれば、作品と技術との過不足ない関係は、作家と世界との過不足のない関係と相関関係にある、ように感じてしまう、とでもいっておこうか。
 下手は論外である。乱暴なだけの絵や思わせぶりな絵ももちろん嫌だ。ヘタウマ、ウマヘタも大抵好きではない。うまい描き手を見たい。名手の技には感嘆するし、そういう作品が好みである。だから、どういっていいか困るのだけれど、一方こういうこともある。例えば、逆柱いみりというマンガ家がいるが、そのページには、手抜き絵のようなページと、やたら細密なページとが混在している(注)。あるいは岡崎京子(でなくともよいのだが、回復を切望して)の、隙間だらけの絵の輪郭を常に過剰にはみ出すスクリーントーンや影線、を挙げてもよい。手抜きと描き込み、隙間とはみ出し。「一見さりげなくみえながら、実は磨きぬかれた技法によって丁寧に過不足なく描き上げられた、香り高い見事な作品世界」、というような褒め方はできない。
 寡作ではない作家がいる。描いては消し消しては描くピカソは、描いては消し消しては描くことで完成作品を仕上げてゆこうとしているのではない。彼は、と実に勝手な想像をするのであるが、自分の手に、世界に、苛立っていたのではないか。そして実際・・・世界は、滑らかではない。
 以上、実にいい加減なことを書いてしまった。そしてまた、高野文子を実際に読んでみると、私の予想は全く当たっていない、ということが明らかになるであろう。まあ、そんなわけで、文庫本以外は買わないという禁を破って、私は彼女の新刊を、買って読んでみようと思っている。

 注:逆柱いみりはあまり知られていないので、絵をコピーしておく。但しスキャン+圧縮で細部がつぶれているので、できれば原本をみてほしい。例えば『ケキャール社顛末記』(青林堂)の最終部で、秘書の女性は、非常にあっさりしたこのコマで、社長のおやつを買いに出かけるのだが、出かけた街の風景が、すぐ次のこのコマである。

最初に戻る
 7月某日 残酷で卑しい読者

 というわけで(BBS参照)、高野文子「黄色い本」を読んだ。(『ユリイカ』は図書館で見かけたが、敢えて読んではいない。)
 で、やはり、予想通り、全く私の見当違いがあった。当たり前だ。見ないで書くものではない。恥をかく。
 もちろん筆力については、前言を変えることは何もない。一時期の林静一(1)(2)が好きだった私は、高野文子の作品の、ぎりぎりまで省略されたコマと絵の見事さに感嘆している。
 けれども、う〜ん。ここから先は、全くの個人的領域に入るのだが、私には、こういうのは、やはりちょっと、「素晴らしい作品」過ぎてしまう、ような気がする。のだが。
 とはいえ、もちろん、その「過ぎる」ということは、全くこちら側の個人的気分あるいは個人的趣味の問題に過ぎないのであって、そのことをどう書いていいか分からないだけでなく、そんなことを書くことに意味があるとも思えない。だから、普通なら、これでこの件はおしまいということになるのだが、しかし今回は、情報をもらったことからはじまったので、無意味なことを、もう少しだけ書いてみようかと思う。(他の方には、読む価値がないと思います)。
 まずはじめに注記しておきたいのは、高野に対して「保守的」という評があるらしいことについてである。どういう意味でいわれているのかは全く知らないのだが、もしもそれが普通の用法での「政治的保守性」といった意味だとすると、私の個人的気分は、そのようなこととは関係ない。日常生活がそれ自体観念左翼への批判でありうることは、大昔から正しいのであって、ただし意識的な「批判」の類は大抵、自らもまた生活なり大衆なり日常なり現実なりといった「観念」を梃子に相手の観念性を批判したつもりになっているという程度のものに過ぎないという問題が残っているだけである。革命であれ反革命であれ観念を操る技術は結局は人を動かす/支配することにしか役立たないが、例えば編機を操る技術は生活を支える。私がいう個人的気分とは、そういったこととに直に関係することではない。
 だが、筆力はすばらしい、一見平凡な日常生活を描くことが問題なのでは全くない、のだとすると、残るは何か。う〜ん、私自身にも、よく分からないのではあるが・・・
 例えば先日、自転車を買ってもらった少女を撮ったTV番組をやっていた。「補助輪付きのにしないでお兄ちゃんと同じ自転車で、私、頑張って練習する」・・・と少女はいったらしい。一生懸命、公園で練習している。そして、転んでも転んでも泣かずに頑張っていた少女が、とうとう暗くなってしまった公園で、遂に乗れるようになった・・・というシーンになると、ゲストたちは、一人残らず涙ぐんでいた。多分、この涙ほど、きれいな涙はないだろう。
 ところで、この「きれい」さは、もしも少女の健気な練習が「やらせ」であったなら、おそらく、番組への怒りに転化するような性質のものだろう。少なくとも、やらせと分かっていれば、海千山千のゲストたちがそんなことで涙ぐみはしなかった。
 さて、そういういい方をすれば、フィクションとは、最初から分かっている「やらせ」である。である以上、少女が自転車に乗れるようになったというだけではドラマにならない。そこで作家たちは、例えば、その自転車は貧しい父親が誕生日のプレゼントに買ってくれた中古自転車だったということにしたり、少女は日曜日にしか会えない父親に乗れるようになったことを見せたくて頑張って練習していたことにしたり、ところが遂に乗れるようになったその夜父親が交通事故で死んでしまうことにしたり、まあ、いろいろ工夫するわけである。もちろん逆に、少女の目的は家出して遠い町にいる母親に自転車で会いに行くことであったとして彼女が結局両親を和解させるというハッピーエンドにしてもいいし、時には自転車が空を飛んでもよい。あるいはまた視聴者の側で、ストーリーは単純な幸せ物語に過ぎないが実は我が子を亡くしている作家の切ない視線が一見ありふれたエピソードのそこここに深い陰影を与えている、とか、実際にも恋人同士である誰々と誰々の演技が見ものであるとか、そういったいわばメタ・ドラマを鑑賞するという手もある。
 いずれにしても、ドラマの涙は、視聴者の、作者の、ドラマを見たい眼に、いわば汚されている。といって誤解があるなら、深みを与えさせられている。ドラマを見たい眼、それは、少女が自転車に乗れるようになったというだけではドラマと認めない、という眼である。その眼が、少女の父親を死なせる。あるいは、作家の子供を死なせる。
 昨今、力のない作り手たちと怠惰な視聴者たちの間で、「ドラマではない感動」の涙と引き換えに、「やらせを疑わない」黙契が成立している理由もそこにあるといえようか。「感動したっ」なんて無意味なことしかいえなくても褒められる時代の貧しさ。そして一方では、ドラマの中で、あるいは外で、やたら人が死ぬのである。
 だがそうか。少女が自転車に乗れるようになったといった単純な日常は、「ドラマではない感動」だけでしか人をひきつけることができないのだろうか。そして一方ドラマでは、少女の父親は、あるいは作者の子供は、どうしても死ななければならないのだろうか。
 もちろん、そうではない。少女の父親もあるいは作家の子供も、元気であってよい。もしも、作家の力量が、稀有な高さにある場合には。そうした作家の手になると、少女が自転車に乗れたとか庭木の蕾がふくらんだとかいうだけの日常が、十分ドラマになりうるわけである。注:
 ただし、そういった作品の愛好家は往々にして自転車に乗れなかったり庭木の手入れなどできなかったりするということもある。つまり、「平凡で些細な日常」こそが非日常であるような人々も、今の世の中には大勢いることは計算に入れておかねばならない。裏返していえば、マルタン・デュガールを読む実地子はともかく、彼女の周辺の人々や、後の短編の登場人物たちは、高野文子なんかを読みはしない。
 さて戻る。事実なら少女が自転車に乗れただけで涙ぐむのに、ドラマだと父親かさもなくば作家の子供を死なせたい眼は貧しくも残酷である、と書いた。けれども、もしかするとそこに、ドラマにとっての、一般に「作品」という形式にとっての、本質的な何かが横たわってはいないだろうか。「作品」をみるとき、私の眼は卑しく残酷である。もちろんいまの場合、これは殆ど個人的な問題であって、高い力量をもった作家の問題ではない。そしてまた、だからこそ、高野文子という稀有な作家とその作品を、私もまた賞賛するに吝かではない。だがその一方で、私という「読者の卑しさ」についても、それはそれで、ちょっと考えてみる余地はあるのではないか。そう思ったりもするのである。
 いかにも中身のない話になったが、まあ今回は、こんなところで勘弁してください。

 注: 高野は浦沢を読めないらしいが、高野を褒める人々は浦沢は褒めないだろう。彼は多くの人々を死なせるからである。
最初に戻る