風 日 好   ・・・ 今日は日和がよいけれど、明日はそうではないだろう 

 Yop Page 旧稿一覧

  10月某日 百年前の夢

 軽い風邪を引いたので、この週末は半起半寝状態で暮らした。風邪だからそうしたのではない。いや、風邪だからそうしたのではあるが、身体の具合によって、そうせざるを得なかったのではない。軽いとはいえ、真っ当に風邪を引き、近所の医者に行って薬ももらってきたのだから、誰に何をいわれることもなく半寝状態でいられる。というわけで、憚ることなく半寝状態で過ごしただけである。もちろん誰も何もいわないのであって、全ては自分の気分の問題に過ぎないのであるが。
 いつもの悪いくせで、もってまわった言い方になったが、書こうとしたのは、風邪のことではない。
 半寝無聊の中、偶々『三十三年の夢』(岩波文庫版)を読んだのだが、滔天の自序の日付を見ると、明治35年8月、つまり1902年であって、奇しくもちょうど百年前である。
 一夕胸襟を開いて大いに論じれば忽ちにして義を結び、鯨飲して共に青楼に登ればその契り兄弟より堅く、義あり侠あれば同志朋友忽ち立って、千丁ほども鉄砲を得れば回天も叶う、などと信じて東奔西走。・・・・世界は爽快なまでに単純である。おそらく滔天ひとりにではなく、かなりの人々に、世界はそう見えていたのであろう。
 以後百年。20世紀は戦争の時代であった。大量殺戮と大規模破壊、爆発的な人口増加と天文学的な格差拡大、蕩尽浪費と大量餓死。もはや人々はあらゆる義を疑い侠を失い、複雑に絡み合った糸の手繰りようもなく、日常世界の片隅に僅かな棲息場所を見つけて汲々と生きることを、せめてもの儚い夢としているに過ぎない。

  10月某日 TVの時代

 もともと、個人の悲劇や家族の悲劇は、国家権力にとっては一顧だにするに値しない。国家とは、権力とは、そのようなものである。時に一方が殺した者に勲章を与え他方が殺された者に勲章を与えることがあったとしても、時と利が変われば、勲章を剥奪して処刑することも辞さない。無視することが国益に叶うとみればあくまでも無視し、取引に使えるとみれば忽ち手駒として利用する。強制連行も人体実験もするし、拉致もすれば拉致をでっち上げもする。
 田嶋議員が脱党した主要な理由のひとつは拉致問題であるという。それをでっちあげとする論文を長く放置し、これまでの政治責任を省みることもない党も党だが、ではそのことを、議員はいつ問題としたのか。金氏が認めたとたんにでっち上げが真実となったかの如くにいま声を挙げ、金氏の党と友党関係にあったことは知らなかったと、党から立候補し党員であったことの責任を切り離す。誠に見事なパフォーマンスによって、T議員の浮上と踏み台になった旧弊党の沈降が、TV画面の中で鮮やかに印象づけられたわけである。

  10月某日 夕景

  mが写真を送ってくれた。拙宅から撮った夕景である。
  毎日見ているはずなのだけれど・・
  稜線の向こうは海である。
   (クリックすれば大きく見えます)

  10月某日 「前」の3

 つまらぬことを続けるのも気がひけるが、先日の話を、もうちょっと続けよう。「前」のことである。
 「前」はすなわち「まへ」であり、先ずそれは、目の方向、目の側であり、次に、進行の方向、進行してゆく側であった。ただし、「後ろを見」たり「後ろに進」んだりすることもあるから、いずれも、<本来の>ということになるが。
 では、目が無く進みもしない物の場合はどうか。
 例えば、「家の前に車がとまった」というとき、それは裏口ではなく、玄関の方を意味している。
 家のような物には、固有の「表」側があり、「おもて」は「面」つまり「顔面」であって、家もまた、ある方を向いている(見ている=見られている)。同義反復的な言い方をすれば、家の「おもて」とは、「おもて」(外の通り)に面した側のことであって、つまり「おもて」から客を迎える玄関のある側が、家の「おもて(面手?)」側ということになる。ただし、ここで問題になっているのは、必ずしも「玄関」という造作のことではなく、あくまで「出る/入る」「見る/見られる」というような外の世界(おもて)に対する開かれた関係性が、どの側に割り振られているか、ということである。昨今では「南向き」といえばむしろベランダの向きであったりもするわけだ。
 こうして、、目あるいは面(顔)の方向・側である「まへ」は、そとの世界に開かれた方向・側を意味している。おそらく、「まど」もまた、そのような意味で、「ま(間)の戸」なのでもあろう。
 さて、こうして、ある種のモノ、つまり人あるいは他のものに「関わる」モノは、その関わりの方向から、「まえ(眼)」とか「おもて(顔)」とかいう「向き」が定まっているということになった。
 なんだ、こう書くと、余りにも当たり前のことであって、面白くも何ともない。素人の与太話にしてはまとまりすぎだ。
 が、まあ、さしあたり、人が家の「前」に立って案内を乞うたり、カメラの「前」に立ってポーズを取ったり、店の「前」に商品を並べたり、ピアノの「前」に座って一曲弾いたりする際の、その「前」は、一応整理ができたことにしよう。
 しかし、そうだとすれば、「まへ」が「おもて」であるとき、それはまた「ま(真)」の方向・側であるのかもしれない。ま木(槇)まな板(真魚板)の「ま」であり、まごころ(真心)まこと(真事)の「ま」であり、まっすぐ(真直)まっ白(真白)の「ま」である。裏口からではなく玄関の前から入るのが「まとも」に訪問することであり、鏡やカメラの前に正対することが「まっすぐ」向くことであるわけだから。
 「5分前」の話から、ちょっと遠くへ来すぎてしまったが、まだ戻る道ははっきり見えない。

NEW  10月某日 暗い月曜日

 ますます暗い時代である。
 「もともと、個人の悲劇や家族の悲劇は、国家権力にとっては一顧だにするに値しない。−−無視することが国益に叶うとみればあくまでも無視し、取引に使えるとみれば忽ち手駒として利用する」。−−そう書いた通りに推移している。
 ロシアでは、100人を超える国民が、特殊部隊の手によって毒殺されてしまった。何のために自国の国民を殺すのか。絶対に戦争をやめないぞという国家意思を内外に示すためにである。国家にとっては、殺すことが、最優先の「正義」である。
 あちこちで戦車が発砲し爆弾が炸裂し、無辜の民が殺されてゆく。更に、大規模な戦争が着々と準備されている。
 もしも、自らが始めたい戦争を支持するよう国際世論を誘導することができるなら「テロ事件」をも作り出す。それが国家というものである。もしも「対テロ」という名目で世界を支配できるなら「テロ」をも作り出す。それが国家というものである。少なくとも、これまでの歴史においては、国家とはそういうものであった。

NEW  10月某日 水禽舎にて

 偶々、公園内にある小動物園の傍らを通った。大きな金網のドームがある。水禽舎らしい。鴨や鷺の類が、人工の池に浮かんでいる。天井に渡された太い針金にも、何羽かが止まっている。
 と、思いがけないことが起こった。うち数羽の鴨が、大空に飛び立ったのである。そのまま鳥たちは、半旋回して森の彼方へ飛び去っていった。
 天井は閉じていないのだろうか。一部に金網の破れでもあるのだろうか。そのうち真相が知れた。逆に、数羽の鴨が、彼方から飛来して止まったからである。つまり、見上げているこちらには見分けが付き難いが、金網ドームの天井近くには、ドームの中に渡された針金に止まっている禽たちと、ドームの外から来て金網に止まっている禽たちと、その両方が混じって見えているのであった。
 「ところで」、と私は傍らの友人にいった。「どうだろう。中の禽たちが外の連中を羨んでいるのだろうか。それとも、外の禽たちが中の仲間になりたいと希っているのだろうか」。愚問と思ったらしく、友人は何も答えなかった。
 もちろん、禽たちの自意識がどれほどのものであるのか、否そもそも彼らに自意識といえる程のものがあるのかどうかさえ、我々には分からない。けれども、そもそも外からやってきた禽たちは、池の中の小魚が欲しくて、少なくとも池辺で休みたくてドームへやってきたのであろう。
 金網が水禽たちを阻んでいる。だが、阻まれているのは、大空を自由に羽ばたけない中の禽たちではなく、むしろ池辺の餌と平安を得たい外の禽たちであるかのように見えるのだった。

NEW  10月某日 顧客データ

 ちょっとした物を買った。知り合いの家に送ってもらおうと思って申し出ると、「先ず、お宅様のお電話番号をお願いします」、という。店員の手元を見ると、パソコンの画面に、宅配便の伝票書式が映っている。で、店員が私の電話番号を打ち込むと、私の住所と名前が、しかるべき欄に出現した。
 そういえば前にも何度か似たことがあったが、これまでは、自分では忘れているが顧客カードを作ったことがあったのだろうと思って、特に気にしていなかった。しかし、この店は、明らかにはじめてである。気になったので、聞いてみると、「電話帳からとっているのです」、という。本当かどうか分からないが、確かに、電話帳を全部入力すればできる。もちろん、名簿業者が介在していないとして、入っているデータが、住所と名前だけであるとしての話であるが。
 「プライバシー」というようなことばのなかった昔から、電話局は、電話番号から住所や名前を教えはしない。しかし、これで私は、必要なら、そういう逆知が簡単にできるわけである。例えば、XXという電話番号が「どこどこの誰々」のものか知りたい場合、私はあの店へ行って、ちょっとした物の宅配を注文すればよい。「先ず、お宅さまの電話番号をお願いします」、といわれたときに、XXという番号を店員に告げる。そして、「送り先様のご住所とお名前」を聞かれたときに、自分の住所氏名を告げておけば、求める「どこどこの誰々」から、私宛に品物が届くわけである。
 便利な時代になったものである。宅配料だけで、誰にでも、簡単に他人の名前や住所が分かる。いや、そうではない。送料など払わなくても、電話帳とスキャナとパソコンがあれば、誰にでも無料で検索できるのか。
 店先で、気になってしまった私の方が、時代おくれということなのだろう。
 けれども、例えばダイレクトメールのきめ細かさをみても、一度も行ったことのない店で検索できるデータが、住所と名前だけだという保証はない。
 
10月最初に戻る