(0) はじめにキンジー・ミルホーン

 この夏(→注1)までに私は、ある作家のシリーズものの読み物を数冊読んだ。その周辺のことについて、少し書いてみようと思う。とはいえ私は、日頃この手の小説類や評論の類を読み漁るような熱心な読者では全くない。以下は、気紛れな読者の、読後雑記に過ぎない。それにしてはいささか大人げない余計な物いいをしていると感じられる部分もあろう。だが、それもまた読書の愉しみの一つである。しばらくお付き合い頂ければ幸いである。

 さて、私が読んだシリーズ本がどういう種類のものであったかは、第一冊目の冒頭を掲げただけですぐわかる。(読んだのは殆ど翻訳文庫本だが、文体を知ってもらうために、ここでは原文を引用する)。

 My name is Kinsey Millhone. I'm a private investigator, licensed by the state of California. I'm tirty-two years old. twice devorced. no kids. The day before yesterday, I killed someone and the fact weighs heavily on my mind.

 訳するまでもないが、一応つけておこう。

 「私の名はキンジー・ミルホーン。カリフォルニア州のライセンスをもつ私立探偵。年は32。2度の離婚歴があり、子供はいない。一昨日、私は人を殺した。その事実が、いまなお心に重い。」

 ぶっきら棒といえる位に簡素な文体で殺人事件を語る独りものの私立探偵。ハメット以来の典型的なハードボイルドである。但し──「わたし」の名が女性であることを除いては。

 注1: 小文は、ちょうど10年程前の旧文である。当時サラ・パレツキーが並んでいた棚をパトリシア・コーンウェルが占めている今、読み返してみるとやはり、いささか古い。僅か10年前とはいえ、今では珍しくも何ともないことが当時は珍しかったりしたわけである。とはいえ、残ったままの問題ももちろんある。あえてそのまま掲載する。
 注2: スー・グラフトンの「キンジー・ミルホーン」シリーズは、題名にアルファベットを用いて、Aから順に出版されている。表題の写真は、うちHからLまでである。





(1) フィリップ・マーロウとタフな男たち

 「狂乱の」20年代、パルプ・マガジンの中から、新しいヒーローを誕生させたのは、ダシール・ハメットであった。ハメットの狙いは、ヴィクトリア朝時代の猟奇事件読み物から発展しつつ遂に知的な遊びに堕してしまったイギリス流の推理小説を拒否し、ヘミングウェイ的な文体によって、アメリカの都会とそこに生きる男の行動がリアルに浮かび上がるような事件小説を書くことにあった。この非情で行動的なヒーロー像は、ハメットを受け継いだレイモンド・チャンドラーの手によって、最も典型的な形に造形された。独りものの私立探偵フィリップ・マーロウである。
 私立探偵マーロウたちが生きて行かねばならぬのは、大戦に挟まれた、繁栄と大不況の交錯するアメリカの大都会、即ち、「ギャング団が民衆はおろか都市までも支配できるような世界」、「市長が資金集めの道具として殺人のもみけしをはかるといった世界」(チャンドラー)である。ハメットやチャンドラーが創造した<非情でタフ(tough)な独りものの私立探偵>というヒーローの設定は、そんな「卑しい街路」を独り生き抜く誇り高き男の象徴として、人々に迎えられた。こうして、ハードボイルドと名付けられたこのジャンルの読み物のうちに、読者は、従来の推理小説や冒険小説の枠を越えて、都会に生きる「男」のウェイ・オヴ・ライフを読み取ろうとしていったのである。


 タフなそのヒーローの行動によって解決され決着が付けられる事件小説ハードボイルドを<読む>ということ、そこには、幾層もの二重性が含まれている。
 この種の小説を読むことによって、読者は、事件の決着に幻想の中で参加するのだが、しかしそのためには、その事件は、虚構世界であればこそようやく参加できるようなスリルに満ちた経過を経て、しかも、あたかもその決着に現実の世界で実際に参加したかのような充実感をもって終わらねばならない。このように、幻想の中で、<ありえない>が<ありうべき>事件とその決着に読者が参加するには、ヒーローは、読者が彼ではありえないような<超俗性>と読者が彼でありうるような<卑俗性>を兼ね備えていなければならないわけだ。
 マーロウは、ある事件のさなかにふと立ち止まる。「事件から手を引こうかとも考えたが、そんなことはできるはずがなかった」。そんなことができるなら、彼は生まれた町に住んで雑貨店で働き、店主の娘と結婚して子供を作り、あれこれのことで妻といい争たり、子供たちに漫画を読んで聞かせたりしているであろう。「そんな生活はだれかにまかせよう。私はよごれた大都会の方が好きなのだ」。ハードボイルド・ヒーローは雇用されても従属せず、恋をしても束縛されない。私立探偵もまた雇用されてはじめて仕事に就けるのだが、一般の雇用関係の場合とは逆に、しばしばかなりの金持ちであったり有名人であったりもする雇用主の方が、厄介な事件を抱えて、しがない独り者の私立探偵の薄汚い事務所を訪れ、のっぴきならない事態の解決を彼に依頼するのであり、そして探偵は、必要な行動を自分で決定し、自分の全能力だけを頼りに事件に決着をつけるのであって、誰の指示も受けず、誰に従属することもない。また、彼のまわりには、事件をめぐって様々な美女が現れ彼とベッドを共にもするが、彼は決して、一人の女に縛られることはない。
 読者の多くは、家庭を背負い、また企業組織の中にきっちりと組み込まれており、彼らには、独りだけで考え行動することは幾重にも禁じられている。自己の信条に固執すること、自己の意志のみに従って行動することは、被雇用者としても家庭人としても、彼らの全生活を崩壊させかねない。マーロウのような、独りものの男という生活形態と自立した私立探偵という職業は、そんな読者たちのウェイ・オブ・ライフとは対照的である。かくて、探偵たちのとらわれない生のうちに、読者たちの、自由への渇望が投影される。シングルのフリーランサーとして生き、しかも、常に波乱に満ちた事件の只中に飛び込みながら、それに非情緒的に決着をつけるというハードボイルドのヒーローたちの生き方は、シングルでもフリーでもなく、家でも職場でも束縛され従属しながらしかも疎外感に満ちた日常性しかもてない都市の男たちの、羨望の的となる。


 けれどもまた、一方、読者は、何ものにも束縛されない探偵たちの生き方、ある世界から切断された探偵たちのわびしさの内に、都市生活者である自らの疎外感を投影しもする。それゆえ、彼らがヒーローのライフスタイルに対して向ける羨望の眼差しの内には、幾分かの安堵の眼差しが内包されているのだ。いい換えれば、汚れた卑しい街を独り行くヒーローたちが、個々の事件において、その都度の命のやりとりやその都度の恋愛の場面で勝利者となることは、彼が、金のない中年の独りものとして都市の片隅に生きているという、生活者としての前もっての敗北を背景として許される。自己の信条を守り切ることと引き換えにしがない独りものであり続ける男をヒーローとすることによって、読者は心的な疎外をもう一度疎外するのである。こうして、読むという行為の内で、読者の観念の旅は一周して現実に戻るのだ。
 ありふれた職業につき、ありふれた結婚をして子供を作り、日曜の朝、小奇麗な居間で、孤狼のような私立探偵たちの事件簿を読む愉しみとは、多くの場合、このようなものであるのだろう。その都度の事件で鮮やかな勝利を収める予めの敗残者の物語を、日々敗北と抑圧を感じつつも総体としては自分の人生はまずまずだと思い込みたい読者たちが読む愉しみ。家庭と職場で幾重にも縛られた身でありながら、またそれを捨てるつもりもないままに、しかし、心情の内で孤狼の如きスタイルで生きることができたかもしれないと思うことだけは、誰にも許されているのである。


 さて、マーロウに代表される独身私立探偵というこの種のヒーローのパターンは、以後、様々なバリエーションを生みつつ受け継がれてゆくが、80年代以降、最も順当な形でそれを踏襲しているのは、R.B.パーカーの造り出した私立探偵、スペンサーであろう。かつて、マーロウが多くの男たちの分身として読まれていったように、いま、多くの読者たちは、スペンサー・シリーズを、男の「ライフスタイル小説」(北上次郎)として読む。読者にとって、「はっきりとこれは一人暮らしの30代の男のためのテキスト」(佐々木譲)なのだ。
 但し、スペンサーは、80年代のライフスタイル・モデルとして、時代のヤッピー的心情を反映し過ぎているかもしれない。彼は、グルメで料理もうまく、健康志向が強くてジョギングをし、音楽の趣味も悪くなく、ブランド志向で、しかも知的な愛人のいる、思想健全な独りものである。勿論、そんな彼の余りの健全さや中流意識が鼻につく読者には、例えば同じ中年独身私立探偵であっても、身体障害者のフレッド・カーヴァーや、アル中破滅型の代表、マット・スカダーらのシリーズも用意されている。
 かつて、マーロウは、料理をしたりジョギングをしたりはしなかったし、また、酒は飲むがアル中ではなかった。だが、主人公が、その時代の「男」のライフスタイルのモデルとして受け取られるという点で、現在のハードボイルド・ヒーローもまた、何らかの意味で、マーロウを受け継いでいるのである。「タフでなければ生きて行けない。やさしくなければ生きている価値がない」というマーロウの言葉は、卑しい街を独り歩かねばならない「男」の意思の現れである。ハードボイルドは、いつの時代も、何より「男」の小説であったのだ。「男」が、自立あるいはむしろ孤立して生きるべき存在であると考えられていた限りにおいて。様々なバリエーションを生み出しつつも、「しがない中年独り者の私立探偵」というモデルが、かくも長い間、ヒーローとして読み継がれてきたことは、シングルのフリーランサーの、非情でタフなライフスタイルが、都会に生きる「男」の変わらぬ心情的モデルとなり続けてきたことを意味している。      ・・・・・続く

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