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男だって突然あきらめの境地になります


私が開業した理由。いろいろあります。前にも何度か書いています。

昨日、ある先生のブログで「女性の働き方」というタイトルで、「女性が思い通りに行かない組織の壁にぶつかった場合には、それを改善するためにアグレッシブな主張するよりは、事態を受容してじっと我慢し、ある限界点を超えてしまうと一気に冷めて、突然あきらめの境地になり辞めてしまう場合が多いという感じでしょうか?」と書いておられました。

私は前職場では結構頑張ったつもりでした。渋谷周辺には、大病院が多数ある中で、前立腺癌やPSAでヒットするページを作ることによって、2004年には前立腺生検を108例行い、前立腺全摘を19例行いました。仮に「病院の実力2008」なら余裕で載せてもらえる症例数を常勤二人でこなしていたのです。

「東京 結石」でヒットするページも持っていたので、結石破砕も101例行いました。装置の購入費(5年リース?)は2年で取り返せる速度です。

いくら働いても給料は増えません。がんばって業績を上げる目的は泌尿器科常勤医を増やしてもらう事でした。

でも、院長が選んだのは、既存の科のスタッフや設備を充実させることより、外科系の新しい科を新設することでした。400床以下の都内の病院は、どこもジリ貧傾向の時期でした(今もそのようです)。

産婦人科はお産を止めて婦人科のみとなり、小児科も入院は扱わない外来のみの体制になる時期でした。

今になって、産科と小児科が足りないと問題になっていますが、産科当直を置いても、月に数人しかお産がないと大赤字なのです。

少子化で都内の小児病棟は空室ばかりでした。公立病院にも赤字を出すな、というから、産婦人科医と小児科医の職場がなくなったのです。

話がそれてしまいました。明るい未来が描けない400床以下の都内の病院に、それでも明るい未来があるかのように事業計画を作文しなければならない院長は、とにかく新しい科(どれくらい収益をあげられるかわからない)を立ち上げる事にしたのです。

私が辞表をだし開業すると言ったとき、院長は驚かれたようでした。私としてはいろいろ布石はあったのですが、院長からみれば、同じ大学の後輩の、突然の裏切りに見えたかもしれません。

私も50歳を越え、術後管理のために夜中、中目黒まで行く元気がなく、泌尿器科医を3人にしてもらうために頑張っていたのです。

院長は孤独だと思います。一生懸命やっていてくれていて、仲間だと思っていた人が、突然去っていくことはありえます。

その時、その人は良かれと思って、忠告として、今までためていた不満を一気に言うわけですが、その言葉は院長を落ち込ませると思います。

昨日の昼は、NASのあとごはんや港北食堂でした。一番暖かそうなほっけにしました。513円。(この行は、全然関係ない、個人的な日記です。)

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