矢切の地名

 昭和30年代、路線バスに車掌さんが同乗していて、停留所の案内をしている頃「次はシモヤキレ、シモヤキレ」と案内していたのを思い出しますが、いつの頃からか「シモヤキリ(あるいはシモヤギリ)」とヤキレからヤキリ(あるいはヤギリ)に呼称も変化してきました。
ヤキレの地名の起こりは、ここの地形の「谷切れ」からきたものであろうと考えられている。矢切を中心として4キロのうちに小字で、南谷津が2ヶ所、北谷津が2ヶ所、入谷津、南谷、沖谷津、谷中、谷津と10 ヶ所ほどあるぐらい谷が多いところ。谷の切れた所、谷切れを「ヤキレ」 と呼び習わしたものが「矢切」の字になったものであろう。
  ここの土地の俗説として、北條、里見の永禄7年(1564)の戦いに、里見方が矢を使い尽くして敗戦となったことから、矢が切れたからだと いう話もあるが、その時から100年の市内本土寺過去帳に「妙心尼 文安四(1447)丁卯三月ヤキレ」・・・とあり、永禄九年、小金城主高城氏の古文書にも「矢切」の地名がみえる。また、上矢切神明神社 の石塔に「正徳四年十一月(1714)上矢切」・・・とある。また、下矢切、矢切神社の石塔には、元文五年(1740)下矢喰村・・・とあり、矢喰の文字も使ったことがわかる。 

矢切

 抑本村の沿革たるや、中古里見氏又北条の版図に帰し、後天正十八年八月徳川氏の所領に移ると云ふ。元村名を谷切と云ひ或は八喰とも称し、又矢喰とも記載せり。享保年間(月日不明)旧幕地方吏者(姓名不明)矢喰の文字称号詳かならざるを□慮し旧称により自来矢切と改唱す。徳川氏入国の際其麾下(大将に直接さしずされる部下)の士、野間重成及加藤某、浅羽某ノ三士を以って此地に食ます云。享保年前浅羽某は其地の水患屡(しばしば)なるを以って乞て稟米(江戸時代、幕府や諸大名の蔵に貯えた米)に換へ采地を返還す。加藤某は絶家となる。故に両家の地は徳川氏の直轄となる。就て野間家累氏采地たり。慶応末年に至り徳川氏所領奉還の際野間成束も倶に上知(土地をお上に返納すること)せり。明治元年知県事の支配となる。明治二巳年六月、小菅県の管轄に属す。後に印旛県の所轄となる。仝六酉年六月仝県廃せられ改めて千葉県の管轄となる。仝年七月、十二大区五小区に編入、仝七戌年七月十二大区出張所所管となり、仝八亥年十二月仝大区二小区二編入、仝十一寅年十一月東葛飾郡役所の管理に帰す。仝年十二月上矢切村、中矢切村、下矢切村、栗山村連合聯合し、下矢切村に戸長役場を置かれ之を管し、仝十七年九月松戸駅戸長役場へ合併、明治廿二年四月町村制施行の時茲に新町村を形成し以って今日に至る。

 

栗山
 古より葛飾郡に属し、国府台築城以後里見義弘居城の内となり、后北条氏及徳川氏版図たり。維新に至り明治六年七月第十二大区五小区に編入、仝七月仝大区二小区に編入、仝十一年十一月東葛飾郡役所管轄に帰し、仝年十二月矢切村聯合戸長役場を下矢切村に置き、仝十七年八月市川村外五ケ村聯合となる。往古詳ならず。古人の口碑に云、里見の城内に位置す。仝氏亡て北条氏の版籍しなり、后天正十八年八月徳川氏に帰す。明治維新に至り小菅県の管轄となり后印旛県となり六年七月仝県廃せられ千葉県の所轄となる十一年十一月東葛飾郡役所の管理に帰し廿二年四月町村制施行の時茲に新町村を形成し以って今日に至る。
 (町村制施行下調書による)

江戸川の誕生
 江戸川は、かつて太日河(ふといがわ)と呼ばれ、ほぼ利根川と併行して東京湾に注ぐ渡良瀬川の下流部でした。当時、利根川、渡良瀬川、荒川は乱流を極め、洪水氾濫を繰り返していました。
 そこで徳川幕府は、江戸周辺を水害から守り、舟運をひらき、物資流通の便を図る目的で、利根川を渡良瀬川とともに鬼怒川の下流へと連結させ、鹿島灘へ放流させたのです。そして、渡良瀬川の末流であった太日川は、利根川の派川 となり現在の江戸川のもとになったのです。
 江戸川は、太日河という呼び名のほかに、時代や地域や人により、太井川、布止井河、大井川、文巻川、迦羅鳴起(からめき)の瀬、市川、かがみの瀬、利根川、古利根川、新利根川、中利根川、下総利根、小利根川等々、さまざまな名前で呼ばれたり記録されてきた。