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  外山家

      寛政重修諸家譜 藤原氏 支流

正成

 

 

 

小作 今の呈譜、正重に作る。

1560

永禄3年

東照宮につかえたてまつり、

1568

永禄11年

濱松合戦のとき首級を得たり。

1572

元亀3年12月22日

三方原の役に石川伯耆守数正が手に属し、小山田、山縣等が備にさきがけし、黒糸の鎧着たる武者と一番に鎗を合わす。渡邊半蔵守綱傍より長鎗をもってこれを突き、軍急にしてしるしをあぐるにいとまあらず。兵を収めらるるのとき乱軍の中に討死す。
年二十九。 榊原康政の家臣 墓所は静岡県浜松市 曹洞宗 宗源院

正勝

 

 

藤左衛門

1607

慶長12年

駿府において東照宮に拝謁し、これより仕えたてまつる。のち
台徳院殿(秀忠)に奉仕し、大坂両度の役に従う。

1637

寛永14年7月15日

死す。年六十七才。法名玄秀。今の呈譜見秋。浅草の法福寺に葬る。のち代々葬地とす。

正吉

 

 

忠三郎 忠兵衛

1612

慶長17年

駿府においてはじめて東照宮にまみえたてまつり、のちに台徳院殿(秀忠)に奉仕し、大坂前後の御陣にしたがひたてまつり、その後御天守番の頭となり、下総國葛西領において采地220石を知行 、

1640

寛永17年4月23日

死す。法名 浄薫

正春

 

 

忠吉 藤左衛門 忠兵衛 母は重久が女

1640

寛永17年

遺跡を継ぐ。のち、御具足奉行をつとめ

1670

寛文10年2月10日

死す。 法名 全白

雅國

 

 

 

 

 

 

 

 

藤左衛門 小作 五郎右衛門

1645

正保2年

生まれ

1657

明暦3年7月3日

はじめて厳有院殿(家綱)に拝謁す。

1667

寛文7年11月21日

大番に列す。

1670

寛文10年7月8日

遺跡を継ぐ。

1685

貞享2年9月5日

御蔵奉行をつとめ、

1695

元禄8年2月15日

御代官に転じる

1711

元禄14年

務を辞し、小普請となる。

1711

正徳元年正月6日

死す。年六十六 法名 松慶

正利

 

 

 

 

忠左衛門 忠四郎 實は正春が二男

1683

天和3年3月朔日

はじめて常憲院殿(綱吉)にまみえたてまつり、

1691

元禄4年12月7日

大番となり、廩米二百俵をたまう。

1700

元禄13年

番を辞し、

1702

元禄15年12月13日

父にさきだちて死す。年三十八。法名別法。

正延

 

 

 

 

 

 

甚之丞

1702

元禄15年12月23日

父が遺跡を継ぐ。

1711

正徳元年3月29日

時に十三歳祖父が遺跡をたまひ、先の廩米は収めらる。

1719

享保4年10月20日

大番に列し、

1723

享保8年

こふて采地を廩米にあらためらる。

1735

享保20年5月3日

大坂の御具足奉行にうつり、

1750

寛延2年10月20日

かの地において死す。年六十。法名 雪操。大坂寺町の鳳林寺に葬る。

正久

 

 

 

 

織部 勝之助 甚之丞

1749

寛延2年12月22日

遺跡を継ぐ。

1750

寛延3年8月10日

大番となる。

1789

宝暦9年12月15日

としごろ怠りなくつとめしにより、黄金一枚をたまう。

1779

安永8年11月4日

死す。年五十六 法名 寒光

正敬

 

 

 

 

 

勝之助 小作

1772

安永元年2月15日

はじめて、浚明院殿(家治)に拝謁し、

1779

安永8年12月26日

遺跡を継ぐ。

1781

天明元年4月25日

大番となる。

1786

天明6年11月13日

番を辞し、

1794

寛政6年3月10日

死す。年四十一 法名 元英

正周

 

作次郎

1794

寛政6年6月3日

遺跡を継ぐ。時に十七歳。廩米二百二十俵
大番となり大坂城もしくは二条城の在番として、上方に上ること8度の多きに及んだ。継嗣がなかったために大番の士大石四郎左衛門義寛の次男忠兵衛正義を養子とする。

正義

忠兵衛

幕臣・神田講武所歩兵指南役
1897 明治30年9月6日 没。法名 亮信院節翁正義居士 享年86歳 谷中墓地 乙3号10側 
正一 捨八

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1848

嘉永元年9月27日

幕臣外山忠兵衛、廉子の長男として江戸小石川柳町に生まれる。
父外山忠兵衛は歩兵差図役

1861

文久元年

蕃書調所で英学を修める。

1863

文久3年

16歳にして開成所教授方に迎えられる。

1866

慶応2年

幕府から中村正直、川路大郎などとともにイギリスに留学を命じられる。

1868

明治元年6月27日

幕府瓦解で帰国

1868

明治元年8月初旬

母君病床に在られたため遠隔地に転ずる訳にいかなかったので単身にて駿府府中に移るご両親は家族一同と共に小石川柳町より大塚辻町に移る

1869

明治2年9月

母君歿せられる。父君を奉じ(親を養うこと)、一家を纏めて、駿河府中の草深に移住。

1869

明治2年

静岡学問所教授となる。

1870

明治3年

外務省弁務少記になり、森有札に随行して随行してアメリカに赴く。

1871

明治4年

外務指大録に昇進

1872

明治5年

勉学の志をたて官を辞し、ミシガン州アンナバーのハイスクールに入る。1年半後、ミシガン大学において哲学と化学を修め

1876

明治9年

化学科を卒業して帰国。東京開成学校5等教授になり、有機化学を教える。

1877

明治10年

同校が東京医学校と合併し東京大学になると唯一人の日本人教授として、英語と心理学を担当。のちには社会学と哲学を講義したが、とくに進化論の鼓吹に力を注ぐ。6月神田北神保町に住宅を購入。

1877

明治10年7月4日

旧幕臣河村帰元君の女房子の君と結婚

1879

明治12年7月

牛込築土前町へ移転

1881

明治14年春

親友である矢田部良吉君とほとんど同時にシェークスピアの「ハムレット」の「ツービー、オア、ノットツービー」の一段を翻訳

1882

明治15年

井上哲治郎やアメリカ留学仲間の矢田部良吉との三人で「新体詩抄」を発表。「ポエトリー」に相当するジャンルをはじめて移入したことで文学史上にも大きな足跡を残す。

1884

明治17年1月27日

「漢字を廃止すべし」という演説

1885

明治18年1月17日

羅馬(ローマ)字会の創設に参加

1888

明治21年5月7日

学位令に基づく最初の文学博士となる。

1889

明治22年2月11日

大日本帝国憲法発布に際して、青山練兵場の観兵式に臨まれる天皇を「万歳三唱」で出迎えた。これがバンザイ三唱の始まりである。

1890

明治23年4月

新体詩を発表

1897

明治30年

東京帝国大学総長

1898

明治31年

文部大臣をつとめる。

1900

明治33年3月7日

勲二等瑞宝章を賜り、本邦最初の東京帝国大学名誉教授になる。

1900

明治33年3月8日

没。享年53歳。谷中墓地 乙3号10側 法名  覚了院殿厳浄正一大居士

岑作

 

1879

明治12年11月

正一の長男。牛込区津久戸町28にて生まれる。

1924

大正13年11月11日

没。谷中墓地 乙3号10側