矢切の里作成日誌
 



H16.10.8

 このバラはブラックティ。母が父からバラ栽培を引き継いだ。今年から、私が引き継いだ。何もかもはじめてだ。昨年は、母の言うままに、消毒等をおこなった。栽培方法を本やインターネット等調べて見ると様々で、頭が混乱してしまう。従来の農薬を使用する消毒はなんとしても止めたいという気持ちがあった。バラ栽培における天敵といわれている黒点病との戦いは何とかさほど被害なくこの夏は無事に終わった。木酢液、ピカコ等々の減農薬による予防策が功を奏したのだろうか。
 わずかなスペースを利用して、好きなバラ苗16本を3ヶ所のナーセリーから通販で取り寄せ、わら堆肥、ピートモス、活性炭、土で植付けの場所の土壌を作り、植付けした。ピートモスをそのまま使用してはいけなく、必ず酸度調整しなければならないらしい。酸度メーターが欲しい。

 

H16.2.7




シャンソン歌手
井関真人氏

(昨年12月矢切の里
野間邸でのシャンソンの夕べ) 
 中・高校同じだったシャンソン歌手(市川市在住の井関真人氏と出逢ったときから、昭和47年、48年ごろのことがらがいやに気になってきた。銀座のコリドー街にいまでもある”蛙たち”というシャンソンバーに足繁く通っていた。そこでは、いろいろな歌手がラジオでは、なかなか流れないようなシャンソンを歌っていた。なかでも同年配と思われる二人の動向が気になった。行くたびに、彼等にリクエストとして歌っていただいた。
 五十嵐顕男さんには、”ユエの流れ”、”屋根のない車にのって”だった。また、渡辺歌子さんには”黒いわし”、”パダン・パダン”だったと思う。五十嵐さんはそのころアフロヘアだった。彼は、現在アテネで演出家として活躍しているという。
 渡辺歌子さんは、いまの言葉で言えば、ストレートのロン毛であった。彼女は現在でも、ときどき”蛙たち”に出演しているという。彼女が歌う”グルジアの歌”という曲がある。これもしっとりとした名曲だ。
 グルジアは黒海の東、コーカサス山脈の南に広がり、1991年に旧ソ連から独立した国で、特産の赤いバラで有名である。ロシア歌謡として日本でも知られ、加藤登紀子さんが歌った「百万本のバラ」は、グルジアの画家ニコ・ピロスマニ(1862〜1918)がモデルだという。一目惚れした女優の家の窓辺にバラを敷き詰めるが、かなわぬ悲恋に終わってしまうという話だ。

H16.1.30

今年も早くも春を告げる福寿草が咲いた。
 元日草、正月花、賀正蘭、福徳草等々いずれもおめでたい別名を持つ福寿草は、正月を祝う花として、また、春の訪れを知らせる春告花として古くから特別の花として愛されてきた。江戸天保年間には120種ほどもあったようだが、現在でも60余種あるという。左の写真は”蓬莱”という種の福寿草である。

H1510.1

矢切の里と分離し、案内人の個人的な内容のものを紹介した「案内人の部屋」を開設した。

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”千の風 残された人へ ”をUPしました。

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 び ょうやなぎが咲いた。この花のまぶしさが好きだ。
鏝絵(コテ絵)
左官職人が漆喰を使ってさまざまな絵柄を鏝で描き、レリーフのような浮き彫り状に仕上げる。 江戸末期の天才左官,入江長八は鏝絵の先駆者といわれている、文化12年(1815)8月15日、長八は伊豆松崎で生まれる。それで伊豆長八と呼ばれその名で世に知られた。明治3年(1870)平民の名字が許されると、始め上田、後に入江の姓を名乗ったという。
長八は鏝絵を描き、「本異日本絵類考」に、「最古の技に長ぜり」「柱などに種種の絵画を泥装するを以て、専門の業となし、また花瓶額縁などに、花卉鳥獣の形を塗る、世人以て絶妙の技となす」と評された人物。
 その伊豆の長八の流れを汲むお弟子さんから技を受けたといわれている高橋左官の2代目の高橋三四郎氏が大正元年に制作したといわれている鏝絵が、今は矢切神社本殿となっている稲荷神社の棟瓦下と鬼瓦台座にあるという。このことは、あまり知られていない。

 

H14.5.28

今年は花が早いということで、昨日堀切菖蒲園にいってきた。早咲きのものは咲いていたが
全体の3割程度の品種が咲いていただろう。ついでに、上野池之端の町並み散歩をしてきた。池之端の藪に行って来たけれど、我が地元松戸の、田中屋の蕎麦切りの方が断然旨い。なかなか、調査が進まない、文献がデジタル化していないのだ。つばめの写真をという依頼があったけれど、これがなかなかむづかしい。


 


 

H14.5.21
 矢切というところは、調べれば調べるほど歴史的にみても、文学的にみてもおもしろい所だと思う。今まで半世紀以上にかけて、古文書等を市の学芸員が調査しているけれど、どれだけ、デジタル化されているだろう。文献的には東葛飾郡誌、松戸町誌、松戸市誌ほか、松戸史談会資料とかまとまっているけれど、なかなか紐解くにはやっかいだ。いつか将来、生涯学習会館が建設されたらば、是非とも、これらをCG化して、われらの歴史ある松戸を次の世代に伝えることが出来るだろうに。そうすれば、乱開発など抑制できるだろう。市内には、小金宿、松戸宿等々興味ある歴史的地域がある。ほかにも、坂川、江戸川と・・・・・・
 矢切の里のHPは、まだまだ、UPしたい内容のものがあるが、すこしづつ、充実させていきたい。
矢切の里のサイトに無言館について紹介しているが、訪れてくれる人はあまり興味ないようだ。館主の窪島誠一郎氏も矢切とは縁がある方です。
 ネギのおいしい季節になれば、我が家の特製ネギ料理(これはどうしても矢切ねぎを使わなければできない。)のレシピーをUPしようと思っている。
ねぎぬたをこの上なく好きなのですが、どうしても、九条ねぎか流山ねぎを使ってしまう。
 庭の草花と言えば、ビョウヤナギの花芽がふくらんできている。来週は、堀切か水元へいって花菖蒲を見に行こう。



H14.5.20
 松戸市の市の花(里の花)として、野菊が選定された。
http://www.intership.ne.jp/~mcity/matsudo/infor/kihanatori.htm
はてはて、あまりにも身近すぎて、野菊って正式な名前はなんだろうかから始まった。そういえば、全国からいろいろな人が、これが明治のころ矢切に咲いていた野菊だよと、カントウヨメナやノコンギクを持って来ては文学碑の前に植えて行ったけれど、いつの間にか、訪問客に踏まれてしまい、翌年は花が咲かなくなってしまった。
 4月の終わりに、市の商工観光課のiIさんから電話あって、文学碑の前に野菊を植えたいという申し出が
潟Rーヤマさんからあったので、相談したいということだった。嬉しいことに、その後の野菊等の維持管理もしてくださるということだった。
 相談の結果、今月花壇ができあがるであろうと思う。野菊は、カントウヨメナやノコンギクの2種、それとすすきと政夫に因んで「りんどう」を植える予定。今秋、咲いたらHPにUPできるのが、楽しみである。
 

 ついでというわけでもないけれど、前から気になっていた日下圭介著の「野菊の墓」殺人事件という本を再度読み直した。またまた、新たな発見。小説「野菊の墓」に書かれている「僕の家」について、とか、「民子」さんのモデルにとか、読み流してしまった部分、、
 3,4年前日本テレビで、児玉清が小説「野菊の墓」を取り上げ、文学碑にも立ち寄りたい旨連絡があったのだが、時間の関係で、文学碑には立ち寄らず、政夫の家といわれているお宅を訪ねたようだ。今は、モデルとなった 齋藤家は別なところに移転されてしまっているけれど、大きな椎木は残っている。ところが、その家の近辺には 齋藤家(もちろん当時からある旧家なのだが)が、数軒あるので、あまり、これを克明に説明してしまうと、齋藤さん達に迷惑がかかってしまうので、最低限にとどめよう。