宝篋印塔(ほうきょういんとう)

宝篋印塔は「一切如来心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼経(いっさいにょらいしんひみつぜんしんしゃりほうきょういんだらにきょう)」という長い名前のお経ですが、略して宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)といい、このお経を根拠とした塔で、内部にこのお経を納めることを目的としています。
http://www.siddham.org/yuan1/sutra/sutra_sl_1022b.html
 このお経のなかに「一本の線香や一本の花(一香一華)を供えて礼拝し、供養すれば、八十億年もの極めて長い間の過去におかした重罪もいっぺんに消えてなくなり生きている間は災いから逃れ、死後は極楽に生まれる」と書かれています。参考のために原文の一部を記しておきます。

 若有有情能於此塔。一香一華禮拜供養。八十億劫生死重罪一時消滅。生免災殃死生佛家。

また、宝篋印塔本来の造立の目的から離れて、供養塔や宝篋印塔の形をした墓塔等も作られるようになりました。わが国では鎌倉時代後期から盛んに造立されるようになり、塔形式の石造物としては、五輪塔と肩を並べるほど多く造られています。
 矢切の里の下矢切には、江戸川の矢切の渡しの堤防沿いの畑の一画には、寛永四年(1627)に没した旗本野間重成の宝篋印塔の墓塔がある。

日本廻国六十六部供養塔

「野菊の墓」の文学碑のある西蓮寺の境内には、「日本廻国六十六部供養塔」の宝篋印塔がある。
 
塔身のまわりの四面 には通常金剛界五仏の種子(梵字)、東面 に阿しゅく如来(あしゅくにょらい)の種子ウン、南面に宝生如来(ほうしょうにょらい)の種子タラーク、西面 に阿弥陀如来(あみだにょらい)の種子キリーク、北面に不空成就如来(ふくうじょうじゅうにょらい)の種子アクが彫られます。ただし主尊の大日如来は中央に在すということで大日の種子ヴァンは書かれていません。この下には、まわりに一香一華の散文(詩のように調子の整った文章)が刻されていますが、これは宝篋印陀羅尼経の一部である。
 この西蓮寺の境内に建立されている宝篋印塔は、この塔の塔身の東面には
 元文五年庚申冬日
 日本廻國六十六部成就
      供養者淨運
 十方檀越抜苦與樂
 下総葛飾郡下矢切村西蓮寺
と刻まれている。このことから、この宝篋印塔は廻国成就塔であることがわかる。

 この廻国塔は、法華経を日本国内六十六カ国の霊場に保存する目的で、それを一部ずつ霊場に納める目的で諸国を廻ったことを銘文とした塔です。明治までのわが国は、上総の国、下総の国、武藏の国というように、国と呼ばれる単位が六十六か国にわかれていた。その明冶以前の六十六か国全部を、先祖供養のため、信仰のために巡拝し、日本廻国という大業を果たした記念に造立された廻国成就塔です。この廻国は一国で一寺、別に定められた寺ではありませんが、廻国行者がこの寺へと定めた寺へ、自分が写経した法華経一巻を奉納しなければなりませんでした。

六十六部とは、中世以来諸国を遊行して修行を行った半僧半俗の仏教者のことである。六十六部の「法華経」を書写し、全国六十六箇所の霊場を巡回して奉納した。その因習は室町時代から江戸時代にかけて盛行した。僧侶のほかにも独特な服装をし、鉦を叩いて金銭を乞う者もいた。

 西蓮寺境内の廻国塔の台石には、
 松戸町、上矢切、竹ヶ花等の地名、個人名、戒名等が刻まれていることから、廻国行者に路銀を与えて、納経する霊場で先祖の供養を依頼したものであろう。
 これは廻国行者を助力することが先祖供養であり、それによって功徳が得られるとする考えによるものであろう。
 この塔を建立施工した石工は、
江戸 本所花町 石工 和泉屋 仁右衛門
とされ、建立は
元文五年(1740)庚申である。