左千夫は一度も矢切に行かずに書いたんだろうか?

 作家が小説を書くとき、必ずしも主人公が実在したとか、主人公の在所が実存しているのかということは、何かの事件とか、話とかを契機にしているのは間違いないだろうが、重要なことではない。水上 勉先生も文藝春秋 オール讀物(1997.2)のおしまいのページでというコラムで“嘘八百”という題で、次のように述べている。

 五万分の一の地図というのがあり、山の林相も、火の見ヤグラも、郵便局も、みな表示されていた。その地図を見て旅行した気分になった。私の小説「飢餓海峡」は、はとんど、五万分の一の地図を見て書いたので、北海道の函館も本州最北端といわれる青森県下北半島も地図を見て、主人公を歩かせた。
 中略
また、「越後つついし親不知」という作品も同じように地図を見て書き、嘘八百の小説だけれど、地図に出ていた村の名を書いたため、その地に、碑が立ち、小説の主人公が歩いた道だと書いてあるそうだ。 同じ碑でも、嘘七分事実三分の「五番町夕霧楼」も女主人公の在所を五万分の一の地図で書いた。嘘七分でもひっそり隠れ里の畑にある碑は想像しただけでうれしい気分になる。これは行政が作ったものではない。監督の意志で村の有志が立てたときいた。そんな村々をひとりで歩きたいものである。


 日下圭介著の「野菊の墓」殺人事件のなかで、やはり、小説「野菊の墓」について、左千夫は一度も矢切に行かずに書いたんだろうかと疑問を抱き、そういうこともありうるとして、つぎのように対話している場面がある。

「そんなことって、あるかしら」
「あるらしいよ。田宮虎彦は、現地を見ずに『足摺岬』を書いたというし、水上勉の『飢餓海峡』で下北半島の場面は、地図を見て想像したんだって聞いたことがある」

 あたかも、文学碑に書かれている文面のみを読むと、「僕の家」から利根川は勿論中川までもかすかに見えるようなことに受け取られてしまうかもしれないが、日下圭介氏はその小説のなかで次のように述べている。

たとえば、左千夫の作品の中では「僕の家というのは……矢切と云ってる所」以下「矢切の斎藤と云えば、此界隈の旧家で……」と続いている。そして、「崖の上になってるので」から「上野の森だと云うのもそれらしく見える」の前に、「茄子畑というは、椎森の下から一重の藪を通り抜けて、家より西北に当る裏の前栽畑。」の一文がある。
 つまり、左千夫の作品では、崖の上にあって、利根川や上野の森などが見えるのは、「僕の家」ではなく、「茄子畑」なのだ。
「大した意味はないだろう。ここに建てる碑には、茄子畑からの眺望がふさわしいじゃないか。茄子畑のまんまにしておくと、肝心の主人公である僕が出て来ないからさ。茄子畑だって、家の裏にあるんだから、大きく変えたことにはならないさ」
「そう言えば、そうですよね。碑に刻む文なんて短くなくちゃいけないんだし」


 現実に地元の左千夫研究家たちが、文学碑建設に当たり、物理的なスペース、村はずれの坂の降口にあった大きな銀杏の樹等を考慮して、西蓮寺の境内地に建立することとし、文面はその場所に見合った部分をつぎはぎしたのであろう。
版画家で地元の左千夫研究家でもある奥山儀八郎氏はその著書「矢切の左千夫」のなかで、次のように述べている。

二度や三度やってきてスケッチしたぐらいでは とても、ああは書けるものではなくて、どうしても矢切村に数年居住した人でなくては描写し得ないほど、それは矢切そのものが描写されているからである。地方の風物には、それぞれ郷土色をもっている。

文学碑に刻まれている文面

小説「野菊の墓」の文面

僕の家(イエ)というのは、松戸から二里許(バカ)り下(サガ)って、矢切(ヤギリ)の渡(ワタシ)を東へ渡り、小高い岡の上で矢張り矢切村と云ってる所。矢切の斎藤と云えば、此(コノ)界隈(カイワイ)での旧家で、里見の崩れが二三人茲(ココ)へ落ちて百姓になった内 の一人が斎藤と云ったのだと祖父から聞いて居る。屋敷の西側に一丈五六尺も廻るような椎(シイ)の樹が四五本重なり合って立って居る。
中略
茄子畑というは、椎森の下から一重の薮を通り抜けて、家より西北に当る裏の前栽畑(センザイバタケ)。崖の上になっているので、利根川(トネガワ)は勿論中川までもかすかに見え、武藏(ムサシ)一えんが見渡される。秩父から足柄箱根の山々、富士の高峯(タカネ)も見える。東京の上野の森だと云うのもそれらしく見える。
中略
村はずれの坂の降口(オリグチ)の大きな銀杏(イチョウ)の樹の根で民子のくるのを待った。ここから見おろすと少しの田圃(タンボ)がある。色よく黄ばんだ晩稲(オクテ)に露をおんで、シットリと打伏(ウチフ)した光景は、気のせいか殊に清々(スガスガ)しく、胸のすくような眺めである。