伊藤 左千夫「野菊の墓

 松戸が登場する小説は数多くありますが、全編の大半を舞台としている作品は「野菊の墓」のほかには、その後もほとんど出てきていません。
千葉県成東町出身の歌人・伊藤左千夫が41歳のときに初めて書いた小説「野菊の墓」は、川端康成の「伊豆の踊り子」とともに青春(悲恋)小説の双璧として、映画やテレビ・舞台などに繰り返し登場しています。
「民さんが野菊」「政夫さんはりんどうのような人だ」と、幼い愛の告白した二人が、世間体を気にする親たちのために引き離され、民子は余儀ない結婚をし、産後の肥立ちが悪く死んでしまう哀しい物語。
 その舞台に、なぜ矢切が選ばれたかについては、左千夫の兄の孫にあたる春木千枝子氏が、著書「歌人伊藤左千夫」のなかで、「左千夫はたびたび柴又の帝釈天を訪れ、江戸川を渡って松戸から市川へ出て帰ったが、矢切辺りの景色を大層気に入り、こんな所を舞台に小説を書いたら面白いだろうなと洩らしていた」と、その理由について書いている。
 版画家で地元の左千夫研究家でもある奥山儀八郎氏はその著書「矢切の左千夫」のなかで、次のように述べている。


 左千夫の研究家は、「野菊の墓」は彼の少年時代、成東における幼い恋物語りを単に舞台を矢切村に設定したものだと推定しているが、私はそうは思わない。いや私も最初は右の研究家の推定をそのまま信用していたが、だんだんに矢切村をよく知るようになると、野菊の墓の風景描写が全然成東地方のものではないことに気がついてきた。
作者はこれを書くに当って、矢切村を調査研究したとも信ぜられるが、これは外来者が外から二度や三度やってきてスケッチしたぐらいでは とても、ああは書けるものではなくて、どうしても矢切村に数年居住した人でなくては描写し得ないほど、それは矢切そのものが描写されているからである。地方の風物には、それぞれ郷土色をもっている。
 風景画家である私は、浅間高原の風景と、富士山麓の風景は全然その性格が異っていることを承知している。同じ富士でも山中湖の富士と河口湖の富士では、その性格の異なることは誰が見ても明瞭である。
 小説は文章をもって表現してあっても、それは絵と同じように、その違いは明瞭に書き分けられる筈である。左千夫の他の小説の、成東や九十九里地方を描いたものは、はっきりとその地方の風景を活写していて余すところがない。
 

日下圭介著「野菊の墓」殺人事件

情緒あふれるストーリーと文書で読者を魅了する日下圭介はまた、その凝った設定の中に大胆なトリックを駆使する書き手でもある。」(本のカバー書きから)

伊藤左千夫の「野菊の墓」を話しの展開の柱に使っているが、直接「殺し」にかかわるわけではありません。作者の伊藤左千夫「野菊の墓」に対する研究、見解が、登場人物の新聞記者の語りで述べられている。


 日下圭介著「野菊の墓」殺人事件(抄)

牧田修平と蕗谷江美は、千葉県松戸の矢切にある「野菊の墓」文学碑の前に来ていた。
なだらかな坂を登りつめた西蓮寺という寺の裏手にある。碑の付近にはベンチもあり、年寄り夫婦が休んでいた。植え込まれた野菊の花は、ちょうど盛りで、純白の花の上を赤とんぼが舞う。

(中略)

「あの堤防は、江戸川でしょ」江美はいたずらっぽい笑みを浮かべて、牧田を見上げた。
「江戸川だよ。君の言いたいことは分かっているよ」牧田もにやりとした。
「ああ、変だ。その文学碑には、『利根川は勿論中川までもかすかに見え』とあるよな。それが妙だ」
「それですよ。ここから見えるのは、江戸川で、利根川なんてみえないもの」

(後略)